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新型コロナ「発症者続出の船内に閉じ込める措置」で社会防衛できるか
こうした 歴史的観点からの 議論も あるんですね
新型コロナ「発症者続出の船内に閉じ込める措置」で社会防衛できるか(美馬 達哉) @gendai_biz
新型肺炎と検疫の神話
新型肺炎と差別
私は、この1〜2月にはヨーロッパ各地の大学や研究所に滞在していたのだが、その間、テレビのニュースは、トランプ大統領弾劾、英国のEU離脱、そして武漢の新型肺炎の三つの話題で持ちきりだった。
ちょうどそこに居た若い日本人学生に新型肺炎をどう思うか尋ねてみると、「夜中に飲んだ帰りに『コロナ』とからかわれたので睨みつけてやりました」との答えが返ってきた。
それを聞いて、その学生のことを少し見なおした。
実際、日本人が欧米で海外暮らしをする上では、自分たちは「アジア」の一員とみなされていることを自覚し、とっさの人種差別・アジア人差別にひるまないことは大事なことである。
人種差別される体験をするのはリアルな国際交流で、日本国内での「日本は素晴らしい」との自画自賛テレビ番組を見るのとはひと味違う経験だ。
こうした差別の背後にあるメカニズムは、好ましくない状態としての病気のイメージが見慣れない人びとや「外国人」と結びつけられること(「外国人嫌悪」)にある
さらに、そこには清潔で健康で文明的な「先進国」と、野生動物など変な食べ物を食べたり未知の病気が蔓延したりしている「後進国」という紋切り型のイメージが重なり合う。
たとえば、香港で、中国との境界封鎖を訴える医療従事者ストが起きたりするのも、野生動物を食べる文化など「遅れた」中国本土への優越感が背景にあるだろう。このあたりを念頭に置いて「検疫」を見なおすと、医学処置にとどまらない検疫の政治性が見えてくる。
検疫という政治
「主権国家の検疫権」という言葉があるのはご存じだろうか。
いま日本でのクルーズ船の入港を巡って議論されている国境での検疫は、出入国管理という国家主権に直結している。だから、あまりうまくいっていないと不満があったとしても、他国は、内政干渉にならないように、正面切って批判することはあまりない。
そして、日本という国が検疫できるようになったのは、明治時代の開国から遅れること約30年後のことだった。
開国したときの欧米列強との「不平等条約」では、法律制度も未発達で十分な医師がおらず近代的病院の整備の遅れている日本の代わりに、「欧米列強が検疫をしてあげる」という規定になっていた。
だが、欧米側とすれば、「後進国」である日本国内での病気流行にはあまり関心が無かった。
手間と時間のかかる検疫は、貿易船による通商を遅らせたり、海軍の作戦の妨げになったりするので、日本が要求しても欧米列強が認めるわけはない。
そのため、不平等条約のもとでの検疫は治外法権となっており、検疫のできなかった日本政府は、19世紀末に繰り返された世界的なコレラ流行による被害を水際で防ぐことに失敗した。
その不平等条約が改正されたのは日本が日清戦争で勝利した直後だが、検疫と政治をめぐってはもう少し続きがある。
アヘン戦争で弱体化していた中国清朝も同様の理由で検疫権をもっていなかったのだが、折悪しく19世紀末にペストが中国国内で流行し始めた。
当時、中国での検疫権をもっていた日本やロシアは満洲の開港場の外国人居留地をペストから守るためとして軍医団を派遣し、それが満洲進出の足がかりとなる。弱肉強食の帝国主義が支配する国際社会を象徴するできごとだ。
検疫は誰のためか
隔離検疫を一言で表現すると社会防衛のための医療となる。
通常の医療では、医者-患者関係のなかで、主治医は患者個人のベストになる診療を行うことが求められる。
これに対して、社会防衛の医療では、公衆衛生的な集団目標を達成するのが主眼なので、ある集団の健康を守るサービスのためには個人をコントロールしてその人権を制限する措置もやむを得ないと見なされる。
つまり、厳しい状況となれば、誰かを助けるためには、別の誰かに犠牲になってもらわなければならない場合も出てくるわけだ。
たとえばクルーズ船の入港拒否の場合であれば、自国民の集団としての健康を守るためには、「外国人」や海外帰りの自国民には不自由を堪え忍んでもらう、という国家の集団レベルでの計算がある。
私が医師としてみると、正直いって、次々と発症者のでる密室状態の船内に人びとを閉じ込めておくのは、目の前の患者にベストを尽くすという意味での医療倫理とは大きくずれていると思う。
だが、言いたいのは、隔離検疫は人権侵害になるから良くない、という単純なことではない。
隔離検疫のような特殊な社会防衛の医療がほんとうに「有効」なのは、どんな場合かを理解した上で、さらに道徳的な側面も考慮して判断する必要性があるということだ。
検疫がうまくいく条件
隔離検疫とワクチン接種で感染症を駆逐したことで知られているのは天然痘撲滅だ。
感染症をコントロールしようとする世界の公衆衛生政策にとっての「成功体験」だったといえるだろう。
1966年に世界保健機関WHOが天然痘撲滅のプログラムを開始して約10年で、患者数がゼロとなった。
ただし、この「成功体験」と同じパターンはさまざまな感染症に対して展開されてきたものの、それ以降同じようにうまく撲滅に成功した例はない。
ということは、天然痘撲滅の成功体験は、天然痘ウイルスにはきわめて効果的だったが、ほかの疾患には適用しづらい特殊ケースだった可能性が高いといえる。
そして、以下にあげるように、新型コロナウイルス感染症は、隔離検疫が有効だった天然痘とはその性質が大きく異なる。
→新型コロナウイルス感染症の症状は発熱や咳であって、ウイルス検査しない限り風邪やインフルエンザと区別することはできないので、誰を隔離すべきか決定困難である。
●症状のない人の身体内にはウイルスが存在しない(人に感染させない)(×)
→感染しても無症状の人が多数存在し、発症前の潜伏期間でも人に感染させることができる。しかも、そうした人びとは検疫をすり抜けることになる。
●人間のみに感染するウイルスで、人間をコントロールすれば感染症もコントロールできる(×)
→人獣共通感染症のため、人間での感染がコントロールできても、コウモリなどの動物のなかにウイルスが生き延びていて、再燃することがある。
●遺伝子の突然変異が少なく、ワクチン等の対策が立てやすい(×)
→人から人に感染しやすいタイプに突然変異した可能性が高い。しかも、いまのところ有効なワクチンはない。
2月も半ばを過ぎ、日本では、新型コロナウイルスの国内での感染拡大や院内感染が懸念されるのが現状だ。
そろそろ、「隔離検疫による封じ込め」という過去の成功体験を冷静に再評価して、長い目で見れば人類とコロナウイルスとの共存も視野にいれるべき時期が来ているかもしれない。
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「私が医師としてみると、正直いって、次々と発症者のでる密室状態の船内に人びとを閉じ込めておくのは、目の前の患者にベストを尽くすという意味での医療倫理とは大きくずれていると思う。」
という発言はその通りだと思います。
諸外国から非難を受けて当然です。
先の大震災の対応も含め、日本という国がこんなに遅れた国だったことに本当にショックです。
アメリカのCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の対応が先進国としてあるべき姿だと思います。