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こころの探求

こころに関する情報

神様に好かれる人

2020-08-16 10:59:14 | 日記
砂澤たまゑ先生の『霊能一代』に、神様に好かれる人、嫌われる人のことが書いてあります。とても参考になるので引用します。

一番大切なのは「素直な心」と「感謝」ですね。
243ページ、244ページから引用。

信仰とは自分がお願いをしたらまかせ切ることです。そうしていれば奇跡も起こるのです。

ただ無理なお願いはしてはいけません。
宝くじで1000万円当てたいとかそういった類のことには当然のことですが応えてくださいません。それは単なる欲に過ぎないからです。 

神様事は迷ってはいけません。「本当かな」と言ったり「できるかな」と言ったりしていると、聞いてくださいません。

素直に従うことが大切です。

するとできないんじゃないかと思っていたことでも実現してしまうのです。

神様にも好き嫌いはあります。 

素直でない人、感謝のできない人、欲の強い人、信じない人にはそっぽを向いてしまわれます。はっきり嫌いだとおっしゃいます。ですから、私はそんな人にはお帰りくださいとはっきり申し上げます。

あるとき、ある方の紹介で、ホテルの経営者が黒塗りの車で来られました。指にいくつもダイヤの指輪などをした、見るからにいやらしい人でした。

身内の相続争いで来られたことはすぐにわかったので、お話をうかがわずに即座にお帰りいただきました。

逆に、素直で神様のおっしゃることをよく聞く人、感謝の心を持っている人は好かれます。そういう人には神様が憑かれます。

そうなりますと、いいほうへいいほうへ人生が向かうようになります。





餓鬼はどこにやってくるのか?

2020-08-14 18:02:02 | 日記
次のような質問を頂きましたので許可を頂いた上でご紹介します。

質問

質問があります。とある霊能者が施餓鬼を頼むとそこら辺にいる浮浪者などを家に入れるような物だから危険だからしない方がいいと聞きました。
私はそれを聞いてお寺に施餓鬼を頼んだら餓鬼は寺の施餓鬼壇に行くのじゃないのかな?何を言ってるのだろうこの人はと思いました。
けれど、よくよく考えてみると実際の所はどうなっているのかな?と疑問に思いました。
実際は施餓鬼を頼んだら餓鬼はどこに行くのでしょうか?私の家にも来るのですかね?



なかなか面白い質問ですね。

はじめに当道場で行う施餓鬼は、大日如来からの嫡々相承の密教の修法でありますので、世間の方にはうかがい知れないと思います。

餓鬼は私が施餓鬼作法する所にきます。

それは施餓鬼作法の中で、あまねく餓鬼を招き寄せる作法があるからです。

施餓鬼作法の基本的な構成は

1、法界中の餓鬼を集めます。
2、餓鬼のノドを開きます。
3、飲食を3種の印と真言で加持して、餓鬼が食べれるようにします。
4、五如来の名号をとなえて加持し、餓鬼が苦しみから離れるようにします。
5、餓鬼がお腹がいっぱいになったところで、密教の教えを授けるために、先に発菩提心と三摩耶戒の真言を続けます。
6、滅罪のための様々な陀羅尼や真言を唱えて供養します。
5、餓鬼としての業が消滅したので、それぞれに縁のある浄土か天に送ります。


それでは皆さんがお家で拝むのは何かと言うと、これは追善供養をしているのです。

拝むことで功徳を積んで、その功徳を回向しているので、霊を招き寄せてるわけではありません。

ちなみにご先祖などの供養は、特に餓鬼に生まれているからということではなく、施餓鬼した功徳を回向しているのです。



信仰は杖である

2020-08-09 16:10:00 | 日記

霊能一代 https://www.amazon.co.jp/dp/4902674009/ref=cm_sw_r_other_apa_i_JS5lFbAD9QCBC

Amazonの霊能一代の レビューに書かれている、砂澤たまゑ師の信者さんのレビューが参考になるの一部引用したいと思う。


今は亡き著者の先生とは、祖母の時代から4代のお付き合いをしてきました。

いろいろとアドバイスを頂き、わかった事は、人の幸不幸は結局自分が決めているという事!

神様は、今の苦難を乗り越えるために『うそ』の助言もしますし、人間みたいに思い通りにならないと導くためとはいえ『いじわる(言葉は適切ではないかも知れませんが)』もします。

結局わかった事は、苦難を乗り越えるためにどうすべきか、神とはどういう存在を言うのか。という事です。

イエスキリストの様な理想的(私の勝手なイメージですが)な神様の話ではなく、日本昔話に出てくるような人間味のある神様のお話です。』



この方の言うとおり、結局、私たちの幸不幸というのは自分たちが決めるのだということ。そして、これはどんな信仰にも通じることである。

ご祈祷や供養、あるいは御神示でなんでもかんでも自分の身に起こることが解決するのではなく、それを頼りにしつつ、あくまでも自分が選択して行動していかねばならない。

それは本に紹介される砂澤師の人生でも理解できる。

稲荷山のあるお茶屋さんも「先生は神様に一生を捧げて普通の女性の幸せというのは無かった」と言っていた。人を指導する立場ゆえ、並々ならぬ苦労を重ねてきたことであろう。


信仰は自分が苦難の道を歩むための杖である。そして、歩むのは自分自身である。



原爆犠牲者の回向

2020-08-06 20:09:47 | 日記
本日のお施餓鬼で原爆犠牲者の回向をさせていただきました。

私は以前、広島のあるお寺で客僧をしていました。

原爆投下の時間になると広島のお寺は一斉に鐘を鳴らします。私のいたお寺は半鐘しかなかったのでそれを叩いていました。

そのお寺の信者さんで被爆経験者のかたがいらっしゃいましたが、信仰しているお陰で高齢になっても被曝による健康被害が全くないと言ってました。

この方にとって、大変な経験をしたにも関わらず健康でいられるということは、信仰の功徳と感じているのでしょう。

順境逆境、全てにおいて、そのひと相応に受け入れることが信仰なのだと思います。

ちなみにそのお寺の本尊はかなり大きくて戦争中は穴を掘ってそこに避難させていたそうです。

戦争が終わった後なかなか出せないでいたら、住職に「今日出る」とお告げがあり、その日は人手が少なかったにも関わらずらくらくと穴から出すことができたとのこと。

不思議なことに御本尊を出した途端に穴が崩れてしまったそうです。


お知らせ

2020-08-05 14:12:47 | 日記
予定より早いのですが、日曜日からのお施餓鬼の供養法を施主各位に送りました。

もしも届いていない方はお手数ですが当方までメールをください。
よろしくお願いします。



写真は文章とは関係ありませんが伏見稲荷の根上りの松です。