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私という世界でたった一つの物語

瞑想と祈りについて(エドガー・ケイシー)

2014-11-11 | 祈り



様々な宗教で伝えられている術

瞑想と呼ぶものだけでなく、インドはヨガ、西洋での宗教的な儀式などの祈り、中国は太極拳や気功、日本では禅や古神道にも鎮魂法なるものがあり、その他に呼吸法に体操、イメージングという呼び方を変えてはいるが似たようなものがあります。

神との対話する時間、天使や精霊たちとつながる時間。 

内なる自分との対話

そのようにゆっくりと流れていく時間を楽しむ瞬間です。

それが瞑想タイムです。


ケイシーによれば瞑想というものは創造主のような人間に必要な宇宙的パワーとの調和であるという力強い言葉(精神と肉体を霊的本源に同調させることである。)

人間は神や宇宙(自然)とのつながりを断つことはすなわち「死」であります。

死とは肉体の死ではありますが、魂は永続的に回っており死というものはないと、輪廻転生があるように私も思います。

どこまでも「生」を与えられた人間がどうやって生きるエネルギーをもらっているのでしょうか?
また供給源はどこなのでしょうか?

私は「睡眠」によって、ケイシーのおっしゃるように霊的本源からのパワーをチャージしているのだと思うのです。


私たちは忙しい毎日を送るために1日15分もの時間をとることができないまま、1日が終わります。

それはストレスまみれで休日になれば一気に解消できるかと言えばそうではなく、さらに疲労がましていくだけという。

人間にはとっても大切な時間というものは存在します。その時間を大切に扱うことができる人だけが、充実した人生を手に入れることができるような気もしています。

たった15分だけれども、この時間を聖なる存在とのコンタクトにかけることでやるべき事柄も短縮してできるようになるでしょうし、ストレス耐性も増すことでしょう。


人間というのは必ずこのような時間を持たねばならないようにできています。


もし現在、病気でどうしても治したいと願う人がいるならばまずはこの瞑想する時間を持つことから始めて行くとよいでしょう。

そういう時間を使っている人たちのほうが人生で思うように運ばせるパワーも出てきます。

もし仮にこのような時間をもたなければ人間の言葉は荒れ、言葉が乱れれば行動も乱れ、生活も環境も乱れ放題になり、悪へと向かっていくわけです。

ストレスの解消の仕方がわからないとおっしゃる人は心を清める時間を持つこと。正しい人間の愛や真理に触れる時間を持つことを実行に移すことがよろしいと思われます。


最後にこの瞑想というものは決して自己満足ではありません。もちろんそれも多少あるかもしれませんが、他者のために祈ることそれも瞑想であり、自分の行為に酔っているわけではないのです。

他者貢献のできる方法であり、1日1善という「徳」を授かる、または未来の自分への投資とすることができるわけです。

それではケイシーの瞑想や祈りとはどういうものなのかを見て行きましょう。



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エドガー・ケイシー 祈りと瞑想について

『多くの人は瞑想と祈りの違いについて、ほとんど、あるいは全く認識していない。しかるに、さまざまな研究を通して、瞑想と祈りについて、きわめて明確な考えを持つ人がここに多く集まっている。

瞑想などということがあろうとなかろうと関心を持たず、誰かが自分の考えていることをやってくれるだろうと当てにし、状況のままに任せることで満足している人達もいる。 彼らは、いつか、どこかで、状況や環境が自ずから、彼らの運命に都合の良いように変わるだろうことを望んでいる。

しかし、あなた方のほとんどは何か他の理由があるに違いない。あなた方にこの時間ここに居合わせることを促した何か、何らかの願望があったはずである。 それは、汝に希望を与える何かを、あるいは、汝が現在の運命にもっと満足できるようにさせてくれる何かを、言葉から、行為から得ようと思うからであり、あるいは、汝らが今追い求めている道において自分の正しさを保証してくれる何かを得たいと思っているからだ。

そこで、あなたがた一人一人に、われわれは次の言葉を与えたい。

汝らは誰もが、自分が何処より来たりて、何処に向かうかについて、しばしば混乱してきた。 汝らは、汝自身の目から見て、あるいは汝の隣人の目から見てまったく美しいとは言えない、まったく清浄であるとは言えない、まったく純粋であるとは言えない、そういう体と心を持っている自分に気づいている。 また、自分の心を活動や探求に駆り立てるものよりも、自分の外見の方を気にする人が多くいる。

しかし、それが瞑想と何の関係があるのかと、汝らは問うだろう。そもそも瞑想とは何か。

瞑想は黙想でも白昼夢でもない。 汝らの体は肉体、精神、霊によって成り立っているが、瞑想とは、精神と肉体を霊的本源に同調させることである。

多くの人は、魂を持っているという意識は全くないと言う。しかし、汝らが希望し、より良いものを欲するという事実そのものが、 悲しんだり喜んだりできるという事実そのものが、 その本質において一時的ではない何物か、 臨終の息とともに消え去ることのない何物か、 自分の起源そのものであるところの魂 ――造り主の似姿に造られたもの――それは汝の肉体でもなく――汝の精神でもなく――創造主の似姿であるところの汝の魂に 基づくところの精神活動を示しているのである。

それ故、瞑想とは、造り主との関係を知ろうと求めている汝の肉体的属性と精神的属性を同調させることである。 これこそが真の瞑想である。

あなたはそれをどのようにして実現するか? 汝らは、個人として、どのようにして瞑想を学べば良いのか?

それ故、汝の精神体と汝の肉体の一部を用いて、汝の魂の体、つまり汝の超意識に対して、意識的な接触を持たなければならない。 このような名称は、汝らがそこに有限な枠を設けたことを示しているが、魂に境界はない――それは、多くの方法、手段、仕方によって、あなた方一人一人の心の表現に示されている』
             
    リーディング281-41の前半部分終わり



  281-41後半


『・・・しかし、解剖学者の見出していない、想像力、精神を探求している人々にも見出されていない、肉体的な接点がある。体内には通路があり、導管があり、分泌腺があることが見出されているが、生き、動き、思考する存在の内には、誰もその働きの何たるかを知らないさまざまな活動がある!

多くの人において、そのような働きは眠っている。多くは衰えている。なぜか?

使わずにいるからであり、活動していないからだ! 食欲や自己耽溺などの欲望ばかりがもっともらしく振る舞い、それらの能力をそのような方向に消耗してきたために、優れた活動のために人に与えられてきたそれらの能力を乱用し、誤用する人々の霊的人生においては、いわば、たんなる廃棄物になるのである。

それ故、瞑想しようとするのであれば、汝の精神を清めよ。如何にしてか? それは汝が清めに対してどのような概念を持っているかによる。汝にとってそれは他の様々な事柄を混ぜ合わせることを意味するのだろうか。それとも、自我を脇にやること、水で洗うこと、火によって清めること、そういうことだろうか?

汝の概念がどのようであれ、内なる自己に真実であれ。汝が選択したところを生きよ。実行せよ! 語るだけではなく、実行することだ!


汝の体を清めよ。汝自身をこの世の煩いから遮断せよ。神と対面しようとするなら自分が何を為すか考えよ。「なるほど。しかし、多くの人は神に語りかけることはできない」と汝は言うだろう。 多くの人は恐れている、と言うだろう。何故にか?

恵み深い神に近づくことができないほど汝らは遠くに逸脱してしまったのだろうか。

神は、汝の欲するもの、汝の必要としているものをご存じである。だが、汝らが自分自身の内にて実行するところの目的に応じてのみ、お与えになることができるのである。

それ故、汝の体を肉体的に清めよ。汝の体を聖別せよ。なぜなら、古(いにしえ)に与えられた律法にあるように、主は、父がその子らに語りかけるように、明日にでも汝と共に語られるであろうから。神が変わられたのだろうか? 汝らは、それほどまでにさ迷い離れてしまったのだろうか? 主は「汝ら我が民となるならば、我、汝らの神とならん」「たとえ汝らが遠くさ迷うとも、汝らが呼ばわるなら、我はその声を聞く」と与えられたのを知らないのか。

汝らの中に「なるほどそうだ。しかし、それは昔の人に語られた言葉であり、私たちには関係のないことだ」と言う者があるとするなら、まことに、汝らには関わりのないことだ。

神を知ろうと望むなら、自分自身の魂を知ろうと望むなら、如何にして瞑想し、神に語りかけるべきか知ろうと望むなら、神がおわすことを信じなければならない。神は神の誡めを知り、それを実行しようと求める人々を報い給うことを信じなければならない!

汝らが内なる自己の中から神を呼びさえするなら、神が古に与えられたことは、人が神との関係や神のご意志を初めて知ろうとした時と同じほど、今日も新しい。 汝の体は生ける神の神殿であることを知れ。そこにおいて神は汝と会うことを約束されたのだ!

汝らは恐れているのか? 恥じているのか? 汝自身の幕屋の中にて汝の神に会っていただくことを恥じるほどに、汝は機会をないがしろにし、自らの体と心を卑しめてきたのか?

それ故、汝の家を整えないならば、汝に災いが臨む。既に述べたように、汝自身の体の内に、汝自身の魂と精神との肉体的な接点があるからだ。汝らは、針に触れば痛みを感じるということを、誰かから教えてもらわなければならないのか?

そのような認識は、脳との間で神経系を通して行き来する意識の活動であると汝らは教えられる。それと同じように、永遠なるものとの接点が汝の肉体の内にあるのだ。 そこには、いつの日か砕かれる鉢があり、いつの日か汝の肉体から断ち切られる紐があるのだ。そして、体から去るということは神の御前に出るということなのである。

汝の神とは何か? 汝の願いは、明日食べられるだろうか、何を着ればよいのだろうか、ということだけに置かれているのだろうか?そのようなことを汝自身の意識の一大事にしてしまうとは、なんと信仰薄き者、希望薄き者であろうか!

汝らは、神のものであることを知らぬのか? 汝らは、神によって造られたるものなのだ。神は、汝が滅びないことを望んでこられた。しかし、汝らが神との関係に目覚めるかどうかということすら、汝らに任されてこられた。

汝自身の家、汝自身の体に、近づく手段がある――それは、何よりもまず神を知ろうと欲することによってである。

そして、他の誰かが言うからではなく、汝自身がその妨げになると知っているもの、そのように感じられるものすらを、汝の体と心から掃き清めることで、その願望を実行することによってである。 それは誰か他の人に言ってもらうものではない!

かつてモーゼが言ったように、汝らにメッセージをもたらすものは、天から降りてくる者でも、海の果てから来る者でもない。しかし見よ、汝らが瞑想し、心と精神を開きさえするなら、汝らは汝自身の心の内に、汝自身の意識の内に、神を見出すのである!

汝らが、神にしていただきたいと求めることを汝ら自身が行えるよう、汝の体と心を水路となさしめよ! そうすることで、汝らは神を知るようになる。

あなたが兄弟に対して行おうとしないことを、自分には神からしてもらおうと求めているのだろうか? もしそうなら、あなたは利己的であり、神を知ることはできない。 なぜなら、汝のもっとも小さき兄弟に為すことを、汝は自らの造り主に対して為すからだ。

これは単なる言葉ではない。汝らがいくらかでも神を知ろうとするならば、それは汝らの経験するところとなる。なぜなら、神はもはや見出せなくなった存在ではない。

汝らが神を知ろうとするなら、神に心を合わせよ。向き直り、見上げ、望み、神が汝と顔を合わせて会ってくださることを期待するように行動せよ。 造り主との関係を知ろうと求める人々のもとに来られた時、主は「恐れるな、私だ」と言われた。

夜の闇の中、主が水の上を歩いて来られたとき、彼らは恐れた。そうだ、あなた方の多くもまた、汝らが聞くところの事柄のために恐れるようになる。

なぜなら、汝らは「私には理解できません。わかりません! 」と言う。なぜか。 汝らは、汝自身の意識において造り主を知るという機会を無効にしてしまうほど、汝の体と心と意識を卑しめてしまったのか?

そうであるなら、あなた方すべてに告ぐ。

汝の体、汝の心を清めよ。祈りによって自らを聖別せよ。しかし「私が他の者のようでないことを感謝します」と祈った者のようであってはならない。むしろ、(イエスが対比して語られたところのあの貧しき者が持っていた)あの謙虚さが汝の心になければならない。

なぜなら、汝らが神を知ろうと思うなら、汝らは自らをゆずらなければならないからだ。そして、心を開き、求め、罪を悔いる心を持って、汝に道が示されることを願うことだ。

汝に道が示されたなら、他の道に顔を向けてはならない。汝に示された幻視(ビジョン)に忠実であれ。そうすれば主が語り給う。なぜなら、主の約束は昔も今も「汝らが呼ばわるなら、私は聞き、速やかに答えん」であるからだ。

主が語られるとき、汝のものであるところの機会と栄光に汝の心と精神を開け。

それらの機会と栄光は、瞑想によって汝の意識、汝の願望を生ける神に同調させて受け入れさえするなら、汝のものであるからだ。そして、かつて主が与えられた「他の人々はするままに任せておこう。しかし、私は、礼拝する。そう、私は生ける神に仕える」という言葉を自らの内に語り聞かせ、それを生きよ。

主は汝から遠からじ!主は汝の右手よりなお近し。主は汝の心の戸口に立ち給う!
汝は主を招き入れるや? それとも、主を立ち去らせるだろうか?』



ありがとうございます 合掌



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