今日はまた落ち着いて素直になって考えたいと思いました。
毎日苦悩して悩んで葛藤する事ってのは客観的にみるとね
本当に味があってうつくしいなって思える余裕がでてきたのです。
なんていうかきれいなことをきれいと素直に結える自分に
そういうときにはまわりの人の苦しみや寂しさを身に染みて感じてしまうからよけいに辛いんだ。
どうしてそんなマイナスなことばかりみるんだろうって不思議に思うけど
まんげつのきれいな晩に見上げると
ものの哀れとかさびしさを感じる(無常です)
ドラマとか映画とかみて、いろんな人の人生ってのを感じて自分の青写真はどんな風に?って風が流れてくるわけです。
どーっとくるんじゃなくて「さらさら~」とまたは「ふーっ」と吹かれるのです。ことばとともに
人の背中を見ても「情」のレコードを読みこんじゃうから辛いけど、しあわせでもありますよ。
この人はこんなに後ろに背負うものがあるって思うし戦っているなと
「守るべき人がいるから」という人を応援したい気分だ。
背中がさびしさで泣いてる人も多い。
強がっているんだね。そんな無理する必要はない。
そして一言
「やりたいようにやれ!思うように感じたままにやってみろ!熱中して人をよせつけないほどに。それで人がついてくる」
この世の苦悩のことは見ないように豊かにあふれる希望を信じたい。
今がどうあろうと関係ない。
未来は明るいことを信じる。
大器晩成であることを信じる。
信じているものを信じる。
泣きたいときは神に祈りて泣くのです。
きっと卑弥呼もそうだったんだと思う。
そうするとどこからか「おーよしよし^-^」とあやすような声を感じる。
気配を感じる。
そして名前を呼ばれる。
「いいのだ」
「いいのだ」
「何も問題はない」
「さびしくはないぞ」
「みているだろう」
「それがわからぬか?」
「空を舞う鳥のようにあるがままがよろこびじゃ」
「心中に敵なしゆるやかなる声に耳をすませよ」
「愛されるべき ふさわしいあなただから愛されているのよ」
いつもの声に励まされ生かされているのです。
愛を感じる瞬間ほど至福に満ちたものはない。
心を穏やかで安らかな流れにおけない人は心が疲れているのです。
がやがやしたうるさい喧騒に身を置くということは「こころが泣いている」
のでしょう。
どうして人はテンションの盛り上がりばかりを期待するのか
もっと静かで愛に満ちた空間を避けていくのか
そういう空間を形作ろうとしないのか
あなたの中にある小さな子供が泣いているからでしょ
向き合ってあやして喜ばせてあげなよ
苦悩に目を向けちゃだめだ。真実に向けなさい。真実を探しなさい。