恨みの強い人に言葉で攻撃されたことを思い出したが、邪気をたくさんもっていることは間違いない。自分より弱そうな人を見つけては攻撃し、批判と怒りを起こす
しかし、それまでの体験が辛かったのだろうと思う。報われない怒りを他人にぶつけるしか能のない人間だが、怒りを手放さなければ同じループにはまるだけだ。
自分のした結果が帰ってくるという自己責任を理解しない限り、永遠の炎に焼かれるだけだ。特に男よりも女のほうが恨みで凝り固まりやすいような気がする。どちらにしても冷たくて陰気な雰囲気と怒りの蓄積には自身も周りも苦しむものだ。
とにかくそういういぢの悪い人間には品がない。華がない。あるのは悪意と過去の復讐心だけなのかもしれん。いぢめぬかれた人間の精神力やハングリー精神は増大する。日本人はそういう根性を鍛えようとする。根性だけが正しいとは私は思わない。叩かれれば折れるものもいるのだ。
アニメには弱い主人公が出てきて鍛えられるパターンがけっこうあるが、初めから強くて完全ならば面白くないわけだ。ピンチになるほどに鍛えられていく真実があるからこそ面白く感じる。
恨みには愛と許ししかない。誰を憎み恨んでいるのかわからいが許します。私が恨み憎む人が幸せになりますように。私の恨み憎む心が解けて消えますように。そのような心を一瞬でも起こさず、起きてもただちに許し愛と祝福を捧げます。といのればいいのだ。
【自動】スイッチを想像してください。そのスイッチをONにしましょう。元気が湧いてきます。
男は強くあるべきだと誰が言ったのか?またそのような常識が出てきたのはいつの時代からなのか。男は強く見せるべきである必要はない。強さを求めるのは肉体ではない。また求めることはなく真実が現れれば内側から湧き上がるものだろう。強さを誇示する必要はない。無理に装うことで争いの火種になる。
自分の弱さを認められず、強さを誇示することは強さではないわけだ。髪を金髪に染めてみたり、口汚く罵ったり、筋肉をつけてみたり、ピアスをやったり、悪いと言われることに挑戦したり、ひげを生やしてみたり、グラサンをかけてみたり、スキンヘッドにしてみたり、洋服を怪しいものに変えてみたり、
骸骨や武器を所持したり、キリがないけれども、強さは外側から得られるものではなく、内側から湧き上がるものだ。見つけるという作業かもしれない。自分の弱さを認めることと、弱さと向き合ってみることが強さになる。ドラマなんかでは女の前で男は弱さを見せる。弱いものや心を開ける人にならという
しかし、それでは酒の力を借りて悪口や自分の悩みを告白しているようなものだ。自分の心の中で対話が繰り広げられている。弱さとの戦い
武具をつけることなく、装飾をほどこすことなく、ただありのままの自分をみせることができればいいのだろうと思う。強さを得るには弱さの中から自分を見つける作業が必要なんだろうと思う。忘れたり、見ないようにしたり、それは違うと否定したりすることもない。
他人の不幸を喜ぶ弱さと他人の幸せを喜べる強さ。すべてが平等であるをモットーにして、僻むことも嫉むこともなく、妬みもない。羨ましいというものもない。あるのはただ「素の自分、裸の自分」だけだ。
何十年も自分のことを他人や環境や思考パターン、過去の記憶、占いを使って分析してきたけれども、情報が集まってくると立体的に自分という人間の特色があらわれてくる。いまだにこんな自分は知らなかったというものがあらわれてくる。
性格というものは変えられるがストレスがかかるだろう。楽していられる自分になることが重要だ。自然のままの姿に戻りたい。