最近またひとつの気づきを自分なりに書いてみようと思います。
もうすでに分かっているひともいるかもしれませんが、お付き合いください。
ではその気づきってやつですがね。
それはひとはほとんど中途半端な意識状態で暮らしているってことです。
通常モードがそんな状態で、自動車でいうとニュートラル、アイドルモードです。
遊び半分で、なんかやってます。
願望に対してはいつもそれで失敗していました。
ほんとうに欲しいくせに、手に入らないものなんだと思い込んでしまうループにはまってしまいます。
そうじゃない。自分はほんとうにそれを手にしたいのか? 手にしたら自分はどう変わるんだ
というように何も分からないままやっていたんです。
どうして、なぜわたしたちは欲しいものがあるのに、なかなか叶わないのだろうかと考えました。
するとわかったことは「ほんとうにほしいものがあるくせに、それを真剣に望んでいない」
本気100%でそれに向かっていないところがあるということです。
できればいいなあ。という状態になっているように思ったんです。
私もいつもそんな感じです。やる気があるんだかないんだか分からない。
そんな風に見えていたらきっとひとはどう見えるのかってことですが、信用なくしますね。
誰もそんなひとに応援しようなんて思いませんし、辛いとこですが仕方がありません。
てことで自分がどう変われば他人からの見る目が変わり応援してくれるようになるのか?
見た目的にでもやる気100%状態にすることですが、なかなか簡単にはいきません。
願望というものも同じでその願望だけを焦点に100% 意識をかけていますか?ってことを指摘されてもやはり、100%なんてかけていませんでした。60%ぐらいで、最悪なことに時間が立って忘れてしまったりしているぐらいになってしまいます。
成功している人たち、自分の思い通り望むままに暮らしているひとたちは集中力が半端ないってことですね。これだ!ってものがあったら徹底的にやるんです。その情熱力はたぶんテニスの修造クラスの方々でしょうね。
それに長いことずっとひとつのことばかりやっていると、そのことに対する情熱が上がってきて活躍しやすくなるわけですね。
ということで情熱力(意識をかけ続けられる)があるかないかというものはひじょうに重要ですね。
情熱があればあるほどに、嫌なことも克服できるようになる。
そのほかのことが気になって成功できない場合も情熱が強ければ邪気なんて近づけなくなるわけですし、人間から発する熱というものはオーラとなって発し続けるわけですからね。
輝いているひとを応援するのは人間だけじゃなくて、霊的な方々も同じでしょうし。
情熱力で痛みも苦しみも恐怖も不安も全部吹っ飛んだ状態で恍惚としてしまっていたらものすごいですし、その状態がゾーンでもフローでも禅定でも空でも悟りの光明でも神の域でもなんとでも言えるでしょうけれども同じことです。
一時期ですが、私もそれに当てはまらないかもしれないが近い状態を体験したことがありました。
プラスではなくマイナスに対する対処法にもなります。
ほんの短い状況でしたが、その日は足に激痛を抱えていました。しかし、どうしてもいかねばならなかったので、仕方がなくテーピングでぐるぐる巻にして固定していきました。
柔らかい素材のスニーカーならばよかったのですが、革靴という固くて衝撃も強いものを履かねばならなかったので、仕方がなく履いていきました。
始めの頃は痛いので骨が折れてる人みたいに一歩ずつ慎重に歩いていましたが、慣れてきてスピードが上がってきました。
駅の階段で心配して声を掛けてくるひともいました。
そして1日のやることに集中し終えて帰宅する頃にはすっかり治っていました。
よくわからないのですが、どうしても痛みがあろうともやらねばならないという自分の意志をほんきでぶつけていくと治ってしまうという現象が起きるということでした。
集中する力ですか熱ですね。そういうものが病変を修復していったようです。祈りのようなものかもしれないとも思います。
こういう不思議な話で難病を治してしまったり、治療困難な病気を克服してしまったひとの話も知っていますが、同じように集中した状態で起きるものです。
痛い痛いと泣いてるときには決して治るものではなく、立ち向かって痛みに向かって一喝しているぐらいでちょうどよいのでしょう。
難病などの不治の病になったらば命をかけて死ぬ気で立ち向かっていくならば奇跡は起こせるでしょう。
その他に
ポリープがレントゲンで発覚したときがありまして、次の切除する日までにこりゃやばいと自分の念で消してしまったりしたことがありました。切除しようと機械を入れても何もなかったのです。
戦場の兵士にも言えることですが、刀で切られても立ち上がるひとや致命傷の銃撃でも立ち上がる精神力です。
誰にでもその力はあるということです。そのひとがもしほんきになってぶつかるならばすべては解決してしまうものなのではないかと思います。
そういう状態になればうまくいかないわけがない状態です。
誰もがひれ伏してしまうような光明の輝きです。
時間をかけて一歩ずつ歩んでいくうちに成功や失敗を何回も体験し、恥ずかしいという感情を乗り越えてひとは進んでいくわけです。
成功しかできないくらいに失敗を体験し続け、学び続けたら人間としては完成しているのだろう。
どうしても臆病になることを選び、逃げることを選び、うまくいかないことで時間を持て余す。
自分のいる場所のなかでできる努力ほど大切なことはない。
もし、ほんきでいられたら、そのひとはあきらめないでしょうし、何度も失敗を乗り越えるために恐れずに繰り返すことでしょう。
そうゆうところをもしかすると見られているのかもしれません。
神様として願望を叶えてもいいくらいに努力しているからということで与える。
その情熱はオーラに現れるから霊的なひとが見れば一目瞭然だろうし、
最近はひとも鋭くなっていますから、なんとなく明るい雰囲気というかまぶしさをそのひとから感じられる状況や暗い雰囲気に飲み込まれたり苦しみが伝わってくるそういうもので理解することもあるかもしれません。
とにかく、成功には「熱」が必要ということが基本なんだろうと思いました。
どうしてもどうしても欲しいならばいかなることがあってもほんきで向かっていけるのかということです。
はっきりいってそこに能力や才能はさほど関係ないように思います。
情熱はその境目(レベル)を越えてしまうような、自分の次元界を上げてしまうのではないか
人間は無限な存在です。
聖書にもあるように神の遺伝子を誰もが持っているわけですから。
すべては活かすも殺すも自分次第ですね。
ただし、それがほしいとほんきになれない場合には自分には必要がないことなのかもしれないとも言えます。
まだ、そのときではないとも言えます。もっと学ぶ必要があることがあるのかもしれません。
別の道や別のシナリオがある可能性もあります。
どの場所で得られるのか、どこの時点で与えられるのか、それは誰にもわかりません。