きまぐれ日誌

みどり文庫

トロントの「千夜一夜おはなし会」 

2010-09-19 15:44:06 | みどり文庫

 長い間のご無沙汰をお許しください!記録づくめという日本の猛暑をしのいでこられた日本のみなさん、お元気でしたか?
 私は暑い日本を逃れて、海の向こうにいたのですが、7月下旬に訪れたアメリカ東部とカナダのトロントもやはり暑かったです!
 北海道と同じ北緯45度というトロントも夏真っ盛り。。地下鉄の蒸し暑さと日差しの強さには参りました。それでもカナダでは、短い夏の貴重な暑さとか・・・人々はぎらぎら輝く太陽を、思いっきり楽しんでいるようでした。

トロント島から、トロント市街を眺める

 トロントは地下鉄や公共交通機関が発達しています。乗り物は、初めに3ドル(約240円)払うと、乗り継ぎの地下鉄・市バス・市電はみんな無料です。たとえば、空港から30分バスに乗って、終点駅から地下鉄に乗り継ぎ、さらにバス、そのあと市電に乗っても、最初の3ドルだけです。
降りた駅で、”TRANSFERS" の切符をとれば、一定時間内なら延々と次の乗り物に乗れるシステムです。これは便利でしたねぇ。但し一駅乗っても3ドル。トークンや、一日パスをを買えば、もっと安上がりに動けます。
TTCと呼ばれる地下鉄のあるホームには、柱ごとに巨大なブロンズ像があった。 地下鉄のホームで、地上を走る市電に乗り換えらる所もある。
  
トロントの地下鉄。  降りた駅で "Transfers" の切符をとると、次の電車やバスに無料で乗れる


 以前にトロントを訪れたのは、6年前の夏。初めて着いたその夜、偶然にも「ストーリーテリングの会」があるというので覗きに出掛けました。古い教会の一室に響く朗々とした語りが忘れられず、あの語りにもう一度出会いたいというのが、今度の訪問の一つの目的でした。嬉しいことにその会は、今なお元気に存続していました!場所はダウンタウンにある大学の一角にかわっていましたが、見覚えのある顔が、変わらずそこにありました。確かな信念を持っている会は根強いですね。

 ”1001 Friday Nights of Storytelling”と称するそのお話会は、毎週金曜日の夜、8時から10時まで開かれています。その2時間の間、語りたい人が自由に手を挙げて、次々と語っていくのです。あらかじめプログラムがあるわけでもなく、間に10分間ほどの休憩をはさんで、色とりどりの話をたくさん聞くことができました。1978年から、32年間、毎週欠かさず開かれているというから、すごいですね。元図書会員やストーリーテラーが中心ですが、参加者は老若男女で、職業もさまざま。私の隣に座っていた若い男性はミュージシャンで、2回目の参加だと言っていました。
会の案内にはこう、記されています。

 千夜一夜の会は、誰もが語り手として、聞き手として自由に参加できる。ただし、読み手であってはならない。
 誰もが自由に話し、歌い、詩を唱え、物語を語ってよい。
 ただしそれは、自然に、記憶の底から語られるものでなくてはならず、書かれたものを読むのであってはならない。
 ここに集った人々は、昔話、個人の経験談、文学、創作、詩、バラード、歴史のエピソードを、人の声を通して、聞くことができるだろう。



その夜は、グリムの「かえるの王さま」や一週間のバラードをギターに合わせて歌ったもの、また、ハロウイーンの日の思い出や、こわーい話もありました。圧巻は「ハメルーンの笛吹き」で、語り手の横に座る笛吹きが話にあわせて吹く笛の音色は、たまらなく美しいものでした。感心したのは、言葉の鮮明さと声の張り。身振り手振りはほとんどなく、淡々と語る姿は、リリアン・スミス女史の伝統的な語りを思わせてくれます。
プロとして名を馳せている人もいるのでしょう。学校でのおはなし会も引き受けているようです。



私にも何か語れというので、どうしたものかと思案しました。日本の昔話をいい加減な英語に直して語っても、音としての流れやリズムが感じられません。また日本語で語っても、話の筋を英語であらかじめ説明しておかなければ、どんな話かわかりません。それじゃあ、面白味がまったくないわけです。そこで「ちいちゃいちいちゃい」を日本語で語ることにしました。これなら、誰もが知っている話なので、日本語で聞くとこんな感じになるのだ・・・・ということだけでも伝えられればと思ったのです。
 ところが、いざ英文と照らし合わせてみると、「TEENY-TINY」という言葉は、60ケ所もあるのに、「ちいちゃいちいちゃい」という言葉は45ケ所しかないのです。「ちょっぴり」「ほんのちょっぴり」「前よりもうちょっぴり」ということばに置き換えられているのが12ケ所。それを足しても57個しかなく、3つは割愛されています。英語のTEENY-TINYは形容詞にも副詞にもなるのですが、日本語では「ちいちゃいちいちゃい、疲れました」「ちいちゃいちいちゃい奥まで、隠しました」とは言えません。石井桃子さんの苦肉の策でこうなったのだと考えるよりほかありませんが、そのまま使えると思った「テーブル」という言葉は原文にはなく、「ちいちゃいちいちゃい晩御飯に食べる、ちいちゃいちいちゃいスープができるだろう。」というのが原文だと言うことも気が付きました。
語る前に、TEENY-TINY は、日本語で「ちいちゃいちいちゃい」と「ちょっぴり」に置き換えられている旨を説明しましたが、「TEENY-TINY」の一言で貫かれている英語の原文に比べ、日本語訳はリズムにつまずくと感じたことでした。



 以前、こちらに滞在する日本人が、「かっぱの話」を英語で語ったそうですが。「かっぱ」がどんなものかまったくイメージが湧かないことを案じて、河童の絵を描いて、紙芝居にしてやったそうです。でも聞き手は、「かっぱ」がどんなものか知らないが、絵がないほうがよかった!といったそうです。間違ったイメージだとしても、みんなそれぞれに描くことが大事なのだというのが、この会の姿勢だと感じました。

私たちは、「お話」というと完成された文学を思い浮かべますが、ここに集っている人々は「人が感動したことを聞いて、自分も感動することを喜びとしている人々」なのだと思いました。そしてそれこそが、「お話」の原点じゃあないかと教えられます。
「人には、他人に話したいことが、いつも必ず一つはあるはずだ」と、彼らは言います。
伝承の語りは、ここから始まったに違いない・・・と確信した夜でした。