みかえる族の漫遊記 ~小林直生ブログ~

ヘルマン・ヘッセ終焉の地・Montagnola

 8月17日から18日にかけて、南スイスはテッシーン地方、ルガーノの近くにある小さな村、モンタニョーラへ、ヘルマン・ヘッセを偲びに行って来ました。

 この村にヘッセは、1919年から他界する1962年まで住んでいました。

       

 早朝、まだ涼しいうちに、まずはヘッセの墓参りをいたしました。

       

 朝日がルガーノ湖を照らしています。この地方は、イタリア語を話す地域です。気候はもう地中海的、時々小さなサソリがいますので注意が必要です。

       

       

ヘッセの埋葬された墓地のある教会です。糸杉というのでしょうか、とてもシュールレアリスティックな光景です。

 

 ここが墓地です。

       

       

 ヘッセの墓碑です。いろいろあってヘッセは三度結婚していましたが、三番目の妻の墓碑も右下にあります。ヘッセの墓碑の上には小石が積んでありましたが、こういうことをするのは日本だけかと思っていました。ヨーロッパの人も石を積むのですね。

 

 ダダイストで有名な、フーゴ・バルの墓碑です。バルはヘッセの親友でした。バルの書いたヘッセの伝記は有名ですね。彼は、秘教的キリスト教にも関心を持ち、ディオニッソス・アレオパギータの文献を紹介したことでも有名です。一説によると、ダダイズムの、DADAは、Dionysius Areopagita の頭文字 D と A から名付けられたと言うことです。

 ただ、ヘッセとは違って、バルの墓はあまり手入れが良くなく、墓碑が半分、植木で覆われていました。

       

 そして、何と! 指揮者としてカラヤンと並ぶ、ブルーノ・ヴァルターの墓碑も発見しました! ヴァルターは、晩年ルドルフ・シュタイナーの人智学に出逢い、感銘を受け人智学徒となりました。また、キリスト者共同体にも大きな関心を抱き、エミール・ボックと親密な関係にあり、多くの往復書簡が残されています。

 ヘッセの墓参りの際、バルとヴァルターの墓に出逢えるとは、思ってもいなかったので、喜びはひとしおであります。

       

       

 ヘルマン・ヘッセの愛したモンタニョーラから見た、テッシーンの風景です。この光景は、ヘッセ関係の文献でよく見かけますね。でも、実際、本当に美しい眺めです。

 

 ヘッセが、1919年にモンタニョーラに来て、最初に住んだ家です。Casa Camuzziと言います。ここの二階に、ヘッセは住んでいました。失望のどん底にいたヘッセにとって、ここモンタニョーラは、彼に多くの慰めと希望を与えてくれたのです。

 この、家のすぐ横にある、ヘッセ・ミュージアムへ。

       

 ここが、ヘッセ・ミュージアムの入り口です。朝10時の開館と同時に入場しました。

 

 ヘッセが、イタリアの「ノミの市」で購入した、なんと、16世紀の油絵。こういうものが、当時はまだノミの市で買えたのですね。羨ましいです。なかなか良い作品ですね。

       

 ヘッセ愛用のパナマ帽です。ちなみに私もパナマ帽愛用者です。パナマ帽は、本物であれば、一回買えば一生使えます。

 

 ヘッセが使ったタイプライター。ここから、多くの素晴らしい作品が生まれました。

       

 40歳を過ぎてから描き始めた水彩画。かなりたくさんの作品が残されています。

 

       

 ヘッセの絵道具です。

 

 これが、「世界文学」を納めた書庫です。ヘッセは、自分で人類を代表する作品を選び、それを世界文学と名付けました。

       

 ミュージアムから見た、Casa Camuzziの中庭です。

 これで、ヘッセの生まれたカルフと、終焉の地モンタニョーラを、今年、訪問することが出来ました。

 多くの、ドイツ人芸術家が憧れた、南スイスのテッシーン地方、来てみると、なぜなのかよく分かります。あの「真理の山」のあるアスコナは、ここから車で一時間くらいのところにあります。

 ヘルマン・ヘッセ、今度じっくりと読んでみたいものです。


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