ヘルムート・フォン・モルトケ将軍です。今手元に資料がないので、~全部、東京の自宅にあるので~、詳しいことは帰国後となりますが、1916年、友人の葬儀で、弔辞を述べている最中に、モルトケ将軍は急死しました。その後、最も親しい弟子のひとりであったモルトケ将軍の夫人の依頼で、シュタイナーはかなり長い間、モルトケ将軍と「霊界通信」をしていました。
シュタイナーは、霊界でモルトケ将軍が話した内容を、すべて手書きで記し、その「手紙」を夫人に手渡していました。本にして、200ページ位にはなる内容です。
実は、1990年代にケルンの集会で働いていた頃、私はモルトケ将軍の孫娘と知り合いました。当時既にかなりのご高齢でしたが、キリスト者共同体の成員になって下さったのです。その際、「モルトケ家では、毎年将軍の命日に親族が集まり、この霊界からの手紙を厳粛な気持ちで読むのです」と聞いたことが忘れられません。
モルトケ将軍は、1914年9月の「マルヌの戦い」に敗北し、その後、病のため辞任しますが、西部戦線で最も重要なマルヌ川の戦いでドイツ軍が敗退したことは、第一次世界大戦のドイツ敗北の大きな原因とされています。
モルトケ将軍は、この「マルヌの戦い」前に、ライン川の町、コーブレンツでシュタイナーとあって、話しをしています。この事実が、今でもシュタイナーの敵対者達によって曲解され、「ドイツが第一次世界大戦で敗北した背景にはシュタイナーの陰謀がある」とまことしやかに伝えられています。詳しくは帰国後に。
私は、モルトケ将軍自筆の手紙を二通所有していますが、その中に、「戦争は自然の摂理である。しかし、本当の戦争は最も難しいものだ、それは、己との戦いである」と素晴らしい筆跡で記されています。ビスマルクの片腕だった叔父のモルトケ将軍は、大モルトケ、そしてこの甥のモルトケ将軍は、小モルトケと、日本では呼ばれていますが、武勲は別として、我らがモルトケ将軍は、この手紙から見ても分かる通り、徒者ではありません。
モルトケ将軍の死は、シュタイナーに大打撃を与え、その落ち込み様は大変なものだったと伝えられています。将軍の死によって、ヒトラーにまで繋がる悲劇開始のスイッチが入った、と私は思っています。その後、シュタイナーのイニシアティブによって、モルトケ将軍の伝記や遺稿を収録した本が出版されています。第二刷まで出たようですので、結構読まれたのでしょう。今でも時々古書店で見かけます。
これは、第一次世界大戦開戦直後に発売された、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の絵葉書です。「最早、予は党派というものを知らない。予はドイツ人のみを知る。1914年8月4日」と記されています。今は、考えの違いなどどうでもよい、ドイツ人は一致団結せよ、という意味でしょう。当時の若者は、開戦と聞いて大喜びし、秋までには戦争は終わると確信して志願兵として戦場に向かいました。パウル・クレーとカンディンスキーと共に現代美術の源とされる「青騎士」を創設した画家フランツ・マルクやアウグスト・マッケも志願兵として出兵、有名なヴェルダンの戦いで戦死しました。こんな素晴らしい理想主義者で個体主義者の彼らを熱狂させた第一次世界大戦とは、一体何だったのでしょうか。
21世紀の今でもなくならない戦争、多くの原因は第一次世界大戦の中にあります。これからも、資料を公開していきます。
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小林直生
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