贋・明月記―紅旗征戎非吾事―

中世の歌人藤原定家の日記「明月記」に倣って、身辺の瑣事をぐだぐだと綴る。

流行遅れ

2005-05-30 22:05:58 | Weblog
先週末、中世文学会に出席した。
青山学院大学で行われたのだが、50周年記念の大会で、たいへん盛況であった。
土曜日に5つの研究発表会。
日曜日には、4つのシンポジウム(分科会方式)と、それを承けての全体のシンポジウム。

シンポジウムについては省略。
ただ、国文学という学問の将来について悲観的な話が多かったことだけは書いておく。
学問の将来などというのは、非常に重要な問題だから、あえて、今は深く考えないでおきたい。

「紅旗征戎不吾事」である。

ただ、いささか意気消沈して帰ってきたのは事実。

今回上京して、感じたことの一つは、盛り場にジベタリアンがいなくなっていたこと。
池袋・渋谷・吉祥寺あたりで時間を過ごしたが、目にすることはなかった。
去年あたりだと、あたりかまわず座り込んでいる若者を見かけたような気がするのだが。

これが、名古屋ではまだ見かけるのですね。
私が住んでいる所でも見かける。

どうも見るところ、東京では、地面に座り込むのは流行らなくなっているらしい。
ところが、名古屋や我が土地あたりは、まだまだ地べたに坐るのがイイコト(?)と思われているらしい。
たぶん、あと半年もすると名古屋でジベタリアンはいなくなり、さらに半年くらいすると我が土地でもいなくなるのであろう。
地べたに座り込むのも、一種のファッションであるらしい。

「硝子のハンマー」推理作家協会賞受賞

2005-05-24 21:27:22 | Weblog
前回「硝子のハンマー」の読後感を書いたが、その「硝子のハンマー」が今年度の推理作家協会賞を受賞したというニュースを今日知った。
もちろん偶然です。

あまり良い感想を書かなかったのに、推理作家協会賞を取ってしまって、どうも立場がない。
もっとも、ミステリとしては上質だし、悪意や恐怖がよく書けているということは言っておいたから、まあ、それほど他人様と評価基準がちがうというわけでもないかもしれない。
私の感想は、「後味」が悪かったということだから。

じゃあ、最近読んだミステリで、後味が良くて、すぐれた小説としてはなにがあるか?と尋ねられると、なかなかすぐに作品名が出てこない。

「夜のピクニック」はすごく楽しめたけれど、ミステリとは言いがたいしね。
強いて言うならば、宮部みゆきの「ぼんくら」「日暮らし」2部作かな。
いずれもよく出来た小説だが、世評もすこぶる高いから、これらの書名を挙げるのは当たり前すぎて、ここで書くまでもないなあ。

北村薫が円紫シリーズの新刊を書いてくれるのを待ちたいね。

「硝子のハンマー」

2005-05-20 21:29:58 | Weblog
貴志祐介「硝子のハンマー」を読んだ。
いささか遅ればせの感があるが、やっと読む機会を得ることができた。

お話しの筋には触れない。
密室殺人物のミステリである。

少しネタバレになることを書くので、未読の人は要注意。

今時めずらしい物理的トリックである。
あれが本当に可能なのかどうか、高校時代、物理がまったくわからなかった者としては、なんとも言いようがない。
どれほど物理がわからなかったかを書き出すときりがないので、そちら方面には触れない。

読後感は、あまり良くない。
ミステリとしては上質であるが、いわゆる「後味」が悪いのである。

探偵役の2人の推理合戦はおもしろいのだが、その2人にあまり感情移入できない。
特に、セキュリティコンサルタントの探偵役。
書評類を見ると、なかなか魅力的な探偵役だというような評が多いのだが、そうした見方は疑問。
あの性格は、ちょっと屈折しすぎではなかろうか。

犯人には同情するが、やはり感情移入はできない。

正直言うと、コワイのですね。
探偵(セキュリティコンサルタントの方)も犯人も。
犯人がそうした犯罪を犯さねばならなくなる原因を作る人が、もちろん一番コワイのだが。

読んでいる途中で、自らの「小市民性」を苦く自覚させられる。

「後味」が悪いのは、考えてみれば、当然かも知れない。
貴志祐介というのは、「黒い家」「天使の囀り」「クリムゾンの迷宮」を書いた人だもの。
悪意・恐怖を本当にうまく描く作家である。
その作家が書くミステリだから、名探偵が鮮やかに事件を解決して、「さっぱり」感にあふれるなどということがあるはずはないのだ。

「後味」の悪さは、小説としてはうまくいっているということなのだろう。

今年の講義内容

2005-05-17 22:09:03 | Weblog
昨日の記事のコメントに、どんな講義をしているのかという質問があったので、今年度の講義内容をちょっと書いておきます。
ごくあらましだけです。

「中世文学講義」
テーマは「源平争乱の文学」。前にもちょっと書いたような気がするが、世の流行に便乗したわけではないわけではない。少しそういう気持ちもある。学生が興味を持ってくれるかなという期待。ただし、中世文学全体を見渡すためにも、これは、なかなか効果的な視点であるのも確かなこと。

「中世文学演習」
「増鏡」を精読する。「増鏡」は、いわゆる歴史物語なので、何か材料があって、後世の人がそれを使って歴史を描いていることになる。そこで、材料らしき資料を探してきて、それと「増鏡」本文とを丁寧に読み比べてゆくという演習。

「中世文学講読」
御伽草子(「室町物語」とも言う)の「諏訪の本地」をサクサクと読む。これは、学生が室町時代の辞書(そういうものが残っているのです)を使って言葉の読み方や意味を調べて、現代語訳を作ってみるという授業。

「言語表現学概論」
すごい名称だが、実態は論文・レポートの書き方の技法を教える授業。具体的な卒論の書き方は、もちろん各ゼミでたたき込まれるのだが、全体に通ずるような「論文の書き方」について講義する。論文は、まず形式を知って、それに合わせて研究を進めてゆくと、自ずと論理的で説得力を有する良い論文になるものである。それを教えるのである。ろくな論文を書けないお前がそんなことを教えられるのか?といったツッコミはしないでほしい。自分のことは棚にあげるのが、教員である。

まだ、これ以外に4種類あるが、それについては、また次回。

「小説探偵GEDO」

2005-05-16 22:05:13 | Weblog
桐生祐狩「小説探偵GEDO」を読む。
主人公GEDOというのが、小説の中に入り込める能力を有していて…、という短編連作小説なのだが、実際には、むしろ小説の登場人物が現実世界に越境してきて、こちらの現実世界でドタバタ騒ぎを繰り広げるという話が多い。

ジャスパーフォード「文学刑事サーズデイ・ネクスト」とよく似た設定の話である。
あれは長編、こちらは短編連作という違いはある。
また、あちらは「ジェイン・エア」や「大鴉」などといった、いわゆる本格的文学作品が題材だが、こちらは、いわゆるジャンル小説が題材となっているという違いもある。

ジャンル小説というのは、SFとかミステリとか時代小説といった類の小説。
この作品では、やおい小説、伝奇時代小説、スプラッタホラー、ファンタジー小説などが題材となっている。
おおよそのところ、いわゆるノベルスやヤングアダルト系の文庫(「電○文庫」みたいなの)の形で刊行されている小説類である。

それらのジャンル小説の登場人物が現実世界に紛れ込んできて騒ぎを起こすのだから、それは、各ジャンル小説のパロディとなる。
パロディということは、自ずと、それらジャンル小説の批評となるということである。

題材が題材だから、この作品も猥雑な内容になっているが、なかなかよく出来ている。
いわゆる「鬼畜系」の描写にはついていけないが。

参拝見学

2005-05-11 21:12:08 | Weblog
今日は、志摩地方への参拝見学。
「参拝見学」というのは、文字通り、神社を参拝するとともに、伊勢神宮や神道にかかわる事柄を見学してくる行事。
たぶん大学再興以来の伝統行事である。

今日の参拝見学地は、磯部の伊雑宮・国崎の御料鰒調整所・金剛証寺の3箇所。

「御料鰒調整所」というのは、伊勢神宮に奉納するいわゆる「のし鮑」を作っている所。
これは、鰒の身をリンゴの皮を剥くように薄くスライスして、幅2㎝・長さ2mくらいにして、それを干して作る。
国崎というのは、志摩半島の突端にあって、鰒がよく採れる所で、もちろん海女さんが潜って採ってくるのである。
地元の方が、その鰒を調整して伊勢神宮に奉納する。
その調整作業を見学したのである。

今年は、ちょうど時間がうまく合ったのか、多くの海女さんたちが海から帰ってくるところに出会えた。
「海女さん」といってイメージする(三島由紀夫の『潮騒』の影響大)のとは、ちょっと違って、黒のウェットスーツなのだが、その海女さんたちが籠に鰒を何個も入れて、次々に磯から上がってくる光景は、いやあ、なかなかめったに見られない、良い経験であった。

上天気の下の海は、驚くほど透明度が高く、海海苔らしき海藻も繁茂していて、「豊饒の海」といった言葉を思い出した。

こういう「遠足」みたいなのは、机にすわってする勉強とちがって、一見「お遊び」ふうだが、実際の教育効果は、ずいぶん高いように思う。
伊勢神宮を支える信仰・文化を、体の深い所で実感できるのではないかな。

それと、学生諸君の団体行動にも感心した。
さすがに3年生ともなると、集合時間は厳守、人の説明は静かに、しかし熱心に聞いている。
それでいながら、見学場所に向かう道々では楽しい笑い声を響かせている。
きみたちは、いい大人になりつつありますよ。

少し倫理的になれた日

2005-05-03 21:03:57 | Weblog
明日からは、昨日までよりも少し「倫理的」にふるまうことができるかもしれない。

またまた内田樹氏の本の話。
今回は『「おじさん」的思考』から。

今日は、気持ちの良い一日を過ごせた。

夕方は、涼やかな緑の風の中、家人とともに、ゆっくり犬の散歩ができた。
田圃は田植えが終わり、もうイネは根付き始めているように見える。

夕飯は、昼に専門店で買ってきた「セグロイワシ」の干物を一人5匹ずつ食べた。
ホットプレートで焼いて、最後までアツアツのをいただいたが、これは、まことに美味であった。
50匹ほどで千円という値段も、そのうまさをさらに増してくれるような気がする。

つまり、幸せなゴールデンウィークの一日だったのである。

内田樹氏は、「エロスと平等」という文章の中で、こんなことを書いている。

  自分を他人よりも不幸だと思っている人間は倫理的にふるまうことがむずかしいだろう。
  (略)
  だから、とりあえず私は他の人々よりも多くの幸福を享受すべく日夜努力に努力を重ねているのである。

この一節に至るまでに、内田氏はきちっとさまざまな議論をしてきて、その結果のこの文だから、これだけだと、誤解を招きかねないが、まあ、それは許してください。

ともあれ、前記のような一日を過ごした私は、昨日までよりは、今日は少し幸福になって、その分だけ、明日からは倫理的にふるまうことができるかもしれないと思っているわけなのである。