北村薫の新聞小説がはじまった。
朝日新聞の夕刊の「ひとがた流し」である。
数日前の紙面には北村薫自身の「前説」が載っていた。
それによると、『月の砂漠をさばさばと』の主人公たち(母子)も、主要人物として登場するらしい。
そんなわけで、『月の砂漠をさばさばと』を本棚から探し出してきて、ちょっと読み返してみた。
いやあ、北村薫は、ほんとうに女性を書かせるとうまいなあ。
どう読んでも、中年のおじさんが書いたものとは思えない。
北村薫の処女作(出世作と言うべきか)の『空飛ぶ馬』が出たときは、読んだ人みんなが、語り手の「私」みたいな女子学生がほんとうに作者だと思いこんだものね。
ボクも例外ではなかった。
願望だったかもしれない。
あんな女子学生がいたら、講義や演習が楽しいだろうな。
いやいや、外見の事じゃないですよ。
学問的やりとりが、ということ。
『スキップ』を読んだときは、作者が「中年のおじさん」だということは知っていた。
しかし、どう読んでも、あれを書いたのは女性だとしか思えなかった。
あの小説は、泣けたねえ(3回泣いた)。
3日ほど前に、同じ作者の『ニッポン硬貨の謎』を読んだ。
エラリイ・クイーンのパスティーシュで、エラリイ・クイーンと日本の女子学生が活躍するミステリである。
ああ、ここでもやっぱり女子学生が出てくるんだ。
ただ、印象としては、エラリイ・クイーンが強いから、あまり、女性らしさは感じなかった。
こちらの内容は、「エラリイ・クイーン」研究みたいな側面が強くて、小説としてのおもしろさにはやや物足りないものを感じた。
「私」と円紫シリーズ(『空飛ぶ馬』に始まるシリーズです)でも、『六の宮の姫君』には、ちょっとそんな「研究」みたいな面が強く出ていて、ボクとしては、いささか不満が残った。
こういう「文学研究」(「小説研究」)みたいなのは、北村薫の重要な特徴のひとつで、そうした類の「詩歌の待ち伏せ」などは、すごくおもしろい。
北村薫について、また、エラリイ・クイーンについては、いろいろ書きたいことがあるけれど、今日はここまでにしておく。
宿題にしたい。
「ひとがた流し」の連載、たのしみである。
朝日新聞の夕刊の「ひとがた流し」である。
数日前の紙面には北村薫自身の「前説」が載っていた。
それによると、『月の砂漠をさばさばと』の主人公たち(母子)も、主要人物として登場するらしい。
そんなわけで、『月の砂漠をさばさばと』を本棚から探し出してきて、ちょっと読み返してみた。
いやあ、北村薫は、ほんとうに女性を書かせるとうまいなあ。
どう読んでも、中年のおじさんが書いたものとは思えない。
北村薫の処女作(出世作と言うべきか)の『空飛ぶ馬』が出たときは、読んだ人みんなが、語り手の「私」みたいな女子学生がほんとうに作者だと思いこんだものね。
ボクも例外ではなかった。
願望だったかもしれない。
あんな女子学生がいたら、講義や演習が楽しいだろうな。
いやいや、外見の事じゃないですよ。
学問的やりとりが、ということ。
『スキップ』を読んだときは、作者が「中年のおじさん」だということは知っていた。
しかし、どう読んでも、あれを書いたのは女性だとしか思えなかった。
あの小説は、泣けたねえ(3回泣いた)。
3日ほど前に、同じ作者の『ニッポン硬貨の謎』を読んだ。
エラリイ・クイーンのパスティーシュで、エラリイ・クイーンと日本の女子学生が活躍するミステリである。
ああ、ここでもやっぱり女子学生が出てくるんだ。
ただ、印象としては、エラリイ・クイーンが強いから、あまり、女性らしさは感じなかった。
こちらの内容は、「エラリイ・クイーン」研究みたいな側面が強くて、小説としてのおもしろさにはやや物足りないものを感じた。
「私」と円紫シリーズ(『空飛ぶ馬』に始まるシリーズです)でも、『六の宮の姫君』には、ちょっとそんな「研究」みたいな面が強く出ていて、ボクとしては、いささか不満が残った。
こういう「文学研究」(「小説研究」)みたいなのは、北村薫の重要な特徴のひとつで、そうした類の「詩歌の待ち伏せ」などは、すごくおもしろい。
北村薫について、また、エラリイ・クイーンについては、いろいろ書きたいことがあるけれど、今日はここまでにしておく。
宿題にしたい。
「ひとがた流し」の連載、たのしみである。