贋・明月記―紅旗征戎非吾事―

中世の歌人藤原定家の日記「明月記」に倣って、身辺の瑣事をぐだぐだと綴る。

北村薫「ひとがた流し」連載はじまる

2005-08-20 21:59:15 | Weblog
北村薫の新聞小説がはじまった。
朝日新聞の夕刊の「ひとがた流し」である。

数日前の紙面には北村薫自身の「前説」が載っていた。
それによると、『月の砂漠をさばさばと』の主人公たち(母子)も、主要人物として登場するらしい。
そんなわけで、『月の砂漠をさばさばと』を本棚から探し出してきて、ちょっと読み返してみた。

いやあ、北村薫は、ほんとうに女性を書かせるとうまいなあ。
どう読んでも、中年のおじさんが書いたものとは思えない。

北村薫の処女作(出世作と言うべきか)の『空飛ぶ馬』が出たときは、読んだ人みんなが、語り手の「私」みたいな女子学生がほんとうに作者だと思いこんだものね。
ボクも例外ではなかった。
願望だったかもしれない。
あんな女子学生がいたら、講義や演習が楽しいだろうな。
いやいや、外見の事じゃないですよ。
学問的やりとりが、ということ。

『スキップ』を読んだときは、作者が「中年のおじさん」だということは知っていた。
しかし、どう読んでも、あれを書いたのは女性だとしか思えなかった。
あの小説は、泣けたねえ(3回泣いた)。

3日ほど前に、同じ作者の『ニッポン硬貨の謎』を読んだ。
エラリイ・クイーンのパスティーシュで、エラリイ・クイーンと日本の女子学生が活躍するミステリである。
ああ、ここでもやっぱり女子学生が出てくるんだ。
ただ、印象としては、エラリイ・クイーンが強いから、あまり、女性らしさは感じなかった。
こちらの内容は、「エラリイ・クイーン」研究みたいな側面が強くて、小説としてのおもしろさにはやや物足りないものを感じた。

「私」と円紫シリーズ(『空飛ぶ馬』に始まるシリーズです)でも、『六の宮の姫君』には、ちょっとそんな「研究」みたいな面が強く出ていて、ボクとしては、いささか不満が残った。

こういう「文学研究」(「小説研究」)みたいなのは、北村薫の重要な特徴のひとつで、そうした類の「詩歌の待ち伏せ」などは、すごくおもしろい。


北村薫について、また、エラリイ・クイーンについては、いろいろ書きたいことがあるけれど、今日はここまでにしておく。
宿題にしたい。

「ひとがた流し」の連載、たのしみである。

STAR WARS エピソード3

2005-08-07 21:27:48 | Weblog
ようやく「STAR WARS エピソード3」を見た。
評判どおり、エピソード1・2に比べるとおもしろかった。
話もわかりやすかった。

エピソード1・2を見たときは、いずれも同じような感想をもった。
つまり、次のような感想。

なんという才能の浪費。
なんという時間の浪費。
なんというお金の浪費。

これは、必ずしもマイナスの評価ではない。
壮大なムダの心地よさのようなものがあって、あれはあれで良かったと思う。
ただし、物語としてのおもしろさという点では、あまり感心しなかった。
それが、エピソード3では、物語のおもしろさが前面に出ていたように思う。

物語のおもしろさと、それを支える映像の魅力ということですね。

「ダース・ベイダー物語」も、これでおしまいかと思うと、最後はちょっと泣けそうになった。
第一作からすると、もう30年近くつき合ってきたものね。

それはそうと、今後は、はじめて「STAR WARS」6部作を見る人は、実際に作成された順番ではなくて、エピソード1から6までを順番に見るようになるかもしれないね。
その可能性は高いと思う。
このことは、源氏物語の読み方や成立論の問題を考える際にヒントを与えてくれるのではないかな。
源氏物語が、「桐壺」巻から執筆されたのではないだろうということは、研究者の間では、ある程度共通認識ができていると思うが、一読者としては、「桐壺」巻から読むのが普通である。
それは、「STAR WARS」6部作を「エピソード1」から見るのと同じことである。

われわれが最初に「STAR WARS」を見たときは、これが「ダース・ベイダー」物語だなんて、まったく思わなかった。
しかし、これから初めて見る人は、「ダース・ベイダー」物語として見ることになる。
源氏物語を同時代の物語として読んだ人も、今のわれわれとはずいぶん違った物語として、当初は読んでいたかもしれない。
うーん。

夏休みに入ったとたんに、ブログの更新が滞ってしまった。
忙しくしている時に、時間をなんとかひねり出すから、こういうものは書くことができるのだということを、改めて実感。