贋・明月記―紅旗征戎非吾事―

中世の歌人藤原定家の日記「明月記」に倣って、身辺の瑣事をぐだぐだと綴る。

『図書館戦争』を読む

2006-07-30 21:34:57 | Weblog
有川浩『図書館戦争』を読んだ。
有川の小説は、『空の中』・『海の中』に次いで、3冊目。
どれも、それなりに楽しめた。
ただし、すごく楽しめたとまでは言いにくい。
理由は、後で。

『図書館戦争』は、公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を取り締まる「メディア良化法」が成立し、図書の検閲がおこなわれるようになり、一方、それに対抗するような形で、「図書館の自由法」が成立した時代(というより、現代日本とそっくりの「パラレルワールド」と言うべきか)の「良化特務機関」と「図書特殊部隊」との戦い(いやあ、驚くことに、本当に火器を用いてドンパチやるのである)を描いた小説。

主人公は、「図書特殊部隊」の初の女性隊員。
この女性隊員の成長を描くというのが、この小説のもう一つのテーマ。

先に「すごく楽しめたとまでは言いにくい」と書いたのは、この女性の成長小説という部分。

急いで付け加えておくと、おもしろくないわけではない。

問題は、前作の「空の中」や「海の中」と、その成長小説の部分や、ライバルや友情の描き方が、あまりにも似ていること。

文章も軽くて、「軽い」ことは良いことなのだが(「軽い」小説は高く評価したい)、その「軽さ」がよくある「軽さ」なのが、イタイ。
パターンが繰り返しなのも、ややイタイ。

シチュエーションがかなりおもしろいので、さらに続編が書かれる可能性は高いと見た。

期待しています。

『鴨川ホルモー』を読む

2006-07-24 21:31:50 | 読んだ本
万城目学『鴨川ホルモー』を読んだ。

初めて読む作家だが、本作が第4回ボイルドエッグズ新人賞の受賞作で、デビュー作だから、はじめて読むのは当然。

「ホルモン」ではなく、「ホルモー」。
なんだか、よくわからない。
中身を読むと、どういう時に用いられる言葉かはわかるが、まあ、「あちめ、おけ」みたいなもの。
あっ、「あちめ、おけ」というのは、神楽歌で、神の降臨を喜ぶ時の発声です。

京都市内の東西南北に位置する4大学対抗のサイキック・バトルみたいな話である。
サイキック・バトルというと、やや血なまぐさい感じもするが、これは、もう少しのんびりしたもの。
もっとも、式神や「オニ」みたいなものを使って戦い、それらは消滅してゆくのだから、よく考えると、なかなか血なまぐさいかもしれない。

ただし、テイストとしては、大学のサークルを舞台にした青春小説である。

ちょっと頼りない男子学生の主人公。
変人の友人。
主人公のライバル。こいつは、サークルのヒーロー的な存在だが、自信満々で、ちょっといやなタイプの男。
サークルのマドンナみたいな女子学生。男主人公があこがれるが、ライバルにとられてしまう。
変な髪型で、めがねをかけた、ぱっとしない女の子。ただし、頭は切れて、サイキック・バトルでは切り札的存在。

以上のような登場人物。
本当に絵に描いたような「よくある登場人物」である。

驚くことに、変な髪型のめがね女子は、最後に髪型を変えて、めがねをとると、びっくりするような美少女になって、この子が、実は主人公を大好きだったという展開となる。

これも、信じられないくらい「よくある話」。

全体に、あまりに「よくある話」だが、読後感は悪くない。

「菅原」「安倍」「芦屋」「高村」(篁か)「早良」「楠木」という登場人物名は、いかにもサイキック・バトルにふさわしいが、これもちょっとやりすぎか。

泣き言

2006-07-21 21:27:25 | Weblog
子どもの頃から猫背で、姿勢が悪かった。
それが、今になって仇をなしている。

頸椎の何番目と何番目だかがつぶれて、その一部がはみ出して、それが神経に悪さをする。
すると、右手がしびれて、それに伴い、右首から肩から背中全般にかけてが凝って、もうパンパン。

なんだか刃先の鈍い槍でぐりぐりされるような感覚がずっと続いている。

そんな症状が初めて出たのが、この3月。
整形外科にかかって、いろいろ治療していたら、6月に入った頃から、嘘のように痛みがとれて、「よしよし」と思っていたのだが。

一昨日から、また再開。

痛みをこらえるのに精一杯で、集中して物事を考えることができない。

もし姿を見かけて、不機嫌そうな様子だったら、それは皆さんに対して悪意を抱いているのではなく、ただ、痛みをこらえているだけなのだと思って、笑って許してください。

時々、「深津はなぜそんなに偉そうに胸を張って歩くのだ」と聞かれることがあるが、あれは、猫背をなんとか矯正しようとして、無理して背筋を伸ばしているのです。
そんな努力も、あまり効果無かったのかな(涙)。

補講

2006-07-18 21:37:06 | 国文学
補講をした。
先週末で春学期の通常講義は終了。
ところが、春学期最終日の15日(土)に国文学史概説の講義があったにもかかわらず、東京で研究発表をしなければいけなかったから、それを休講にしてしまった。
それの補いの講義をした。

昔は一度や二度の休講は、「まあ、それはそれで」ということで、特別に補講をすることもなかった。
たぶん、十年くらい前までは、全国たいていの大学でそんな風潮だったと思う。
しかし、今は、授業時間数の確保ということが厳密に言われるようになってきましたね。

今回の補講は、そういう意味だけじゃなくて、予定の話がちょうど一回分だけ残ってしまったので、どうしてもやる必要があったのである。

テーマは「西鶴―近世小説―」というもの。
この講義(国文学史概説)では、国文学史上重要な作品(「万葉集」とか)か、著名な作家(「芭蕉」とか)をメインテーマに掲げ、その作品とそれに代表されるジャンルの他作品を取り上げて、ごくごく基本的なお話をしている。

ただ、半年間13コマで、「古事記」から「春色梅児誉美」まで話さなければならないから、もうほんとうに基本的なことしか話せない。
しかし、作品名を黒板に書き出してゆくだけではこちらもつまらないし、学生諸君も当然つまらない。
だから、ちょっとだけ、取り上げる作品の中から記憶に残るような場面を紹介することにしている。

たとえば、御伽草子の説明をする時なら、「浦島太郎」の最後はどんな場面で終わるかをみんなに問いかけてみる。
玉手箱を開けて、太郎がおじいさんになってしまうところまでは、もちろんみんな知っている。
問題は、その後。

太郎は、亀と夫婦になるんですね。

そして、夫婦の神様となってこの世に現れる。

この話をすると、たいていの学生は、「えーっ」と驚く。
それが楽しみで話すのだが。

今日は、黄表紙の説明で「親敵討腹鼓」の話が微妙なウケ方をした。
あれは、かちかち山の後日談なのだが、泥船に乗っておぼれ死んだ狸の子どもがウサギを親の敵として仇討ちをする話。
これも最後の場面。

子狸が兎(ウサギ)の胴をまっぷたつに切ると、ウサギは、真っ黒な「鵜(ウ)」と真っ白な「鷺(サギ)」とになって、空に飛んでいった(チャンチャン)。

というのだが、これで、笑いが起きない。
いや、おもしろがってくれなくてもいいのだ。
「失笑」というのが、まあ、こちらの期待する反応。

ところが、しーんとしたままで、一生懸命ノートをとっている。
あわてて、

いや、「ウサギ」を切ったら、「ウ」と「サギ」になってね、えーっと、飛んでいったのですよ。

などと説明していたら、全体の2割くらいが笑い出した。

残りの8割くらいの人は、どうしたのだろう?
(1)あまりのばかばかしさに、反応のしようがなかった。
(2)わざわざ説明し直す深津の間抜けさに、しらけた。
(3)結局、何がおかしいのか、わからなかった。

まさか、(3)ではないのだろうが。

再開できるかな?

2006-07-17 20:30:52 | Weblog
書き込みが長らく滞っている。
ぼつぼつ再開したいと思うのだが、さて、再開はしても、それが続くかどうかがいささか心配。
あまり、気張らずに、そろりと再開しよう。

ここ一週間ほどの間に、二人の方から、「ブログを読んでいたのに、最近更新しないのが残念」という連絡をいただいた。
こんなブログでも読んでくれる方がいるのはまことにありがたいことなので、なんとか再開しようと決心した次第。

一昨日(15日)は東京で研究発表、その続きで、昨日は東京で大学のクラス会。
その行き来の電車の中で読んだ本は、2冊。

一冊は、内田樹『子どもは判ってくれない』(文春文庫)。
私が内田本にはまるきっかけになった『ためらいの倫理学』と同じで、内田氏のブログを本にしたもの。
おもしろかった。
論理の組み立て方などは、おなじみのものであるが、やはりおもしろい。

実を言うと、このブログを書き始めようと思ったのは、内田氏のこれらの本と、その元になっているブログに影響されてのことである。(このことは既に書いたかな?)
しかし、なかなか内田氏のようなわけにはいかない。

まあ、そのことはいい。

さて、『子どもは判ってくれない』で、「えっ、そうなの」と思ったのは、内田氏が自ら、

 私は業界内的には「ネオソフト・ナショナリスト」に分類されているが

と書いていたこと。
ふーむ、そうですか。
今となっては、20年以上前の「左」「右」の区別は意味をなさないのはわかっているけれど、いやあ、そうなのか。

もう一冊は、米澤穂信『春期限定いちごタルト事件』(創元推理文庫)。
いかにもライトノベルという感じの表紙なので、ちょっと敬遠していたのだが、一部の本屋さんで山積みになっていたので、気になって、読んでみた。

念のために言うと、山積みになっている本は、原則的には「買わない」ことにしている。
特に100万部以上売れたような本は、3年後くらいに読むことにしている。
勢いで読んでしまうのが、なんだかもったいない気がするからだ。

それが、今回は、なんとなく心が動いてしまった。
「勘」というやつでしょうか。
いやあ、おもったより良かった。
これなどは、手軽に手にとって、すっと読むのが一番。

主人公二人の性格の悪さが利いている。
しかも本人達が、それを自覚していて、矯正しようと努力しているわけで、それがこの小説の独特の世界を作り上げている。
高校生時代の「自意識過剰」というのは懐かしい。