北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

堀越峠をドライブ

2007-06-08 01:15:04 | 山・峠・街道


標高600mから800mの山が連なる若丹国境尾根にあり、頭巾山と八ヶ峰のほぼ中間点にある標高511mの鞍部にあるのが「堀越峠」.昭和26年にこの峠を越える車道が完成したそうな.昭和49年にはこの峠の下に堀越トンネルが完成した、鶴ヶ岡から名田庄へと結んでいる.車道の完成からトンネルが完成するまでの23年間、この道には国鉄バスが走っていた.昭和30年代の初め、山国小学校の海水浴で高浜へ行った、小学生の頃親爺に小浜の蘇洞門と船釣りに連れてもらったのは覚えているが、この峠をバスで越えたかどうか我が記憶は定かでない.

堀越トンネルの約1km強手前に右に折れる道がある.林道の風景である.少し進むと、水上勉の「飢餓海峡」に「大汲」という名で登場する廃村「大及」があるはずだが車道からは分からない.次の課題に残してそのまま進む.道は広いが舗装されてなくゆっくりと登っていく.途中ミヤコワスレが崖に咲いていた.先日通った時に咲きほこっていたタニウツギの花は無し.

トップの写真が美山から峠へ登る道の風景です.





峠に近くなるカーブ左側にお地蔵さんがある.国鉄バスがここから転落、死傷者が出た事故があったそうな.道はかなり広いので、どうして?とも思うが道が広いが故にスピードが出てカーブを曲がりきれなかったのか?このお地蔵さんのあるところからほんの少し行くと、左側は堀越トンネルへ下る道標、右は棚野坂へ登る道標がある.先日棚野坂から坂尻へと歩いたときはここから登っていった.左は大きく育った植林された杉の林、右は自然林で濃くなり始めた緑が素晴らしい.ここから数百メートル行くと「堀越峠」である.車が数台駐車できるくらいのスペースがある.

峠を下り始めて少し進むとNTTのマイクロウエーブへの道が右に分かれている.下りは左は植林されているが谷が急に落ち込んでいる.道はトラックが通れるくらい広いけれど、角張った石がごろごろ.街中を走るマーチで走ったのでタイヤをやられないよう、また道中にあるちょっと大きめの石を避けながらゆっくりと走る.

今の状況ではここをバスが走ったとは、とも思うが昔はそれなりに整備されていたのであろう.今は林道の姿そのものである.次の写真は峠から名田庄方面への下りの一画面.






タイヤを傷つけないようゆっくり走ったので思いの外時間が掛かってしまったが、左に今の国道が姿を見せ始め無事162に合流し、少し下ると名田庄である.

美山から峠までの方が走りやすかったかな?道は十分広いがそれでも左の谷へ落ちたら、と少しスリルはあった峠越えでありました.この道を走るにはやはりそれなりのタイヤを履き、座高の高い車でないと、と思いました.

この峠越え、車道が出来るまでは若狭と京を結ぶ幹線道であったようです.車道が出来る前の旧道はわからないようですが、ということは旧道を拡幅して車道にしたのでしょうか?

昔この峠を夜越えるとオオカミがでたそうですが、「送り狼の権佐さん」は塩をきかしたにぎりめしでうまくオオカミをやりすごしたという話もあるそうな.


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2 コメント

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あの日の広河原。 (道草)
2007-06-08 08:59:13
「京は遠ても十八里」という言葉については、昔、荷物を運んだ人々が使っていた掛け声のようなものだとの説もあります。1里を1時間として、18里ならぶっ通しで歩いて18時間。昼前に小浜を発てば、翌朝早くに京都に到着するという計算になります。1里の距離を1時間で歩くのは、私達も馬ケ背峠を越えて通学していたので、これは十分可能です。「夏山や通ひなれたる若狭人(蕪村)」。しかし、若狭から京都へは山また山の険しい道が続き、更に重い荷物を持って歩き通すのは大変なことだったと思います。まして、積雪の多い季節ではいっそう難儀だったことが予想されます。ですから、実際には途中で一泊するのが、通例であったとも言われています。どうしても魚を早く運びたい時には琵琶湖の今津に出て、そこから船で大津まで運ぶ手段もあったようです。
それにしても、新緑の鯖街道は様々な感慨を篭めて、素晴らしい旅になったことでしょう。前回に出てきます広河原は、私にとっても忘れられない土地です。小学校(国民学校ですが)へ入学した直後の初夏に、父の仕事で広河原へ連れて行かれたことがあります。農家と変わらない商人宿があって、そこの一部屋を借りて父が施療のため一泊しました。細い清流で地元の子供らが遊んでいたので、近くへ寄ったものの仲間になるのは憚れたので黙って見ていました。その宿には私と同じ年頃の男の子が居て、宿のお婆さんから蓬餅を貰い二人で囲炉裏端で食べました。その頃の市内は米の配給も跡絶え勝ちで、大根の葉や薩摩芋の蔓が入ったお粥ばかり。おやつは生臭い豆粕でした。あの時の美味しかった餡入りの蓬餅の味は、生涯忘れることはありません。後年になり、広河原から一人越境して周中へ来ていた同級生の話から、その商人宿の男の子も同級生だと分かりました。その後、数年前の同窓会で知ったのですが、その同級生だった男性は壮年期に自殺したと聞きました。
広河原へは廃村の八丁へ行く折りの登山口(ダンノ坂)で、学生時代に出町柳から朝早くバスに乗って何度か行きました。終点で降りて少し向うにあの商人宿を見遣りながら、私はその時の男の子に会うことは二度とありませんでした。もちろん、mfujinoさんに教えてもらうまで、広河原が鯖街道の道中にあることも知りませんでした。望むべくは、広河原の写真を掲載してくだされば嬉しいのですが・・・。
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広河原や佐々里の写真 (mfujino)
2007-06-08 20:22:13
道草様、 写真の件了解です.広河原や佐々里は時々気分転換に行くところです.写真を撮ってアップします.それまでは、昨年の3/2 6/2 11/23 今年の 4/22 の記事にありますのでそれで我慢してください( ^_')
廃村八丁へバスで行かれたのなら停留所は「菅原」で下りられたのでは?大堰川源流の清流や茅葺き家屋の風景はまさに原風景ですね.写真の在庫もありますがもっともっと撮りたくなりました.
18里を歩くことは驚くに値しないですよね.道草さんも昔は馬が背を越えての徒歩通学だったそうですし、私自身、東海自然歩道や熊野古道を歩いたとき、40~50kmは歩きました.距離として長かったのは熊野古道を和歌山の御坊から田辺まで山や海岸を道に迷いながら歩きました.後で時刻表で測るとJRの線路の距離は御坊~田辺間40km強、歩いたのは山へ入り峠を越え海へ出て歩きましたので50kmは下らないでしょう.ただ、峠はいくつか越えましたけど若丹国境尾根や城丹国境尾根ほどには厳しくなかったことと、背中の荷物の差、それと夜には歩いていなかったことですね.だからえらそうには言えませんけど、、.
鯖街道のルートについては近々書こうと準備中であります.
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