5月9日
この日、「中国大使館」にビザ申請後、都内の幕末史跡をめぐって来ました
もともと「日本史」は好きな科目だったんですが、中でも「幕末」が大好きなんです。
18時に友達と「蒲田」で会う約束があったのもあり、それまでの時間つぶしに思いついた企画です。
ちなみに好きな幕末偉人を挙げるならば…第5位:吉田松陰 第4位:勝海舟 第3位:土方歳三 第2位:高杉晋作…
そして第1位は…やっぱり坂本竜馬ですね~。
まぁ、ちょっとベタな順位でしょうか。
まず12時20分ごろ、申請を終えて「領事部」を出ます。
すると、そこから「六本木駅」方向へ徒歩1分くらいのところに『専称寺』という寺があります。
そこには、新撰組一番隊組長『沖田総司』の墓があります
ネットで調べてみると、年に一度の『総司忌』の時だけ入れる…みたいな事が書いてあったのと、ちょっと寺に入りづらそうな雰囲気があって…断念。
また12日にビザを取りに行くとき、寺の前を通るので覗いてみようかな…。
次は、大江戸線「六本木」から「大門」で浅草線に乗り換えて「三田」へ行きます。
駅から徒歩2~3分のところにある『勝海舟・西郷隆盛会見之地碑』です。
江戸開城をめぐる「勝・西郷会談」が行われたのは、慶応4年(1868)3月13、14日(江戸開城は同年4月11日)。13日が高輪の「薩摩藩下屋敷」、14日がここ、芝の「薩摩藩蔵屋敷」で、この蔵屋敷跡にこの記念碑が建てられたのです。
次は「三田」から浅草線で「人形町」→日比谷線に乗り換えて「小伝馬町」に行きます。
駅から徒歩1~2分で『十思公園』に着きます。
2箇所入口がありましたが、この入口は趣がありますな。
この公園内にあるのは、『吉田松陰』に関する石碑です。
真中の大きい石碑は後ほど説明するとしまして、写真左側(木で見づらいですが)は、「吉田松陰」についての説明が記されています。
右側の石碑には『吉田松陰終焉之地』と刻まれています。
そして、これが真中の一番大きな碑に刻まれている言葉です。
『身はたとえ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂』
これは松陰の「辞世の句」です。
「松陰」はこの地で処刑(斬首)されました。享年満29歳…
「黒船」来航で混沌とした日本の行く末を憂い、自らの主張を訴え続けた「吉田松陰先生」…無念であったでしょうが、多くの弟子たちが意志を継いで維新に活躍しました。
この公園の向かいに石碑がありますが、この一帯は『伝馬町牢屋敷跡』なんです。
その説明によると、「規模は広大で、面積2600坪あり、敷地は四方に堀をめぐらし、獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢、女郎部屋に分かれ明暦三年(1657年)の収容囚人は130人あり、『安政の大獄』(1859年)には「吉田松陰」ら90余名収容」とあります。
幕末史跡とは特に関係ありませんが、この「十思公園」内には『石町の時の鐘』があります。
お江戸の庶民に時を知らせていた“時報”ですね。
お次は「小伝馬町」から日比谷線で「上野」へ。
『上野公園』に来ました。
よく知られてる人ですね。『西郷隆盛』の銅像です。
実際はこんな顔じゃなかった…とも言われてますが…。
その「西郷隆盛の銅像」の近くにあるのが、『彰義隊』の墓です。
説明は省きます…。
この公園、正式には「上野恩賜公園」って言うんですね。
次は「上野」から山手線で「池袋」埼京線に乗り換えて「板橋」で下車します。
東口を出て、左側に歩くとすぐに見えてきます。
『寿徳寺境外墓地』です。
『新撰組』局長『近藤勇』が処刑された、ここ「板橋」の地にこの史跡があります。
入って真正面にあるのが、『近藤勇』と『土方歳三』の名が刻まれた墓碑です。両側面にも小さく『沖田総司』や『山南敬助』、その他大勢の隊士の名も刻まれており、まさに『新撰組慰霊塔』です。
この『慰霊塔』の向かって右隣にあったのが、小さな「近藤勇像」です。
ちょっと小さすぎて迫力に欠けるな…
台座の方が大きいんだもん…
これは墓地に入って左側です。
写真の左側は「近藤勇」の石碑で、右側が新撰組二番隊組長『永倉新八』の墓碑です。
『永倉新八』は明治維新後も生き延びた数少ない新撰組幹部の一人で、この『慰霊塔』を建てたのも『永倉新八』です。
さて、もうすぐ15時半。
次に向かうは今日最後の目的地です。
「板橋」から埼京線で「赤羽」→京浜東北線で「蒲田」へ。
「蒲田」から東急池上線で「洗足池」に行きます。
駅を出て道路を横断すれば、もう『洗足池』があります。
駅を背に見て右側から回り、民家の間の道を進みます。
そこにあるのが『勝海舟別邸跡』です。
そこから更に進むと『洗足池公園』の入口があり、池の畔の公園内にあるのが…
『勝海舟』夫妻の墓です。
また、その近くには『西郷隆盛隆留魂詩碑』があります。
これは『西郷隆盛』が昔から読んでた漢詩です。
この『西郷隆盛隆留魂詩碑』がある場所の入口?の祀は『留魂祀』といい、西郷の死後、『勝海舟』が『西郷』を偲んで「葛飾薬妙寺」に建てたものですが、大正二年(1913)薬妙寺の移転に伴い『勝海舟』所縁のこの地に移されたものだそうです。
今日の「幕末史跡めぐり」第1弾はいかがだったでしょうか?
題名に「江戸編①」とあるように、12日にビザを取りに行った帰りも、またどこか探して行くつもりです。
最後に『洗足池』の風景を
はぁ…このページ作るだけで何時間使ったやら。
ちょっと今、過去のページもフォントを1段階大きく直して、このぺージのように見やすく改良中です。
そしたら、また過去のページも読み返して欲しいな~。
この「幕末史跡めぐり」、実は第6弾くらいまで企画中です。
「もうすぐ中国行きじゃん」って思ってるでしょ?
フフフ…その秘密は、次回(翌日更新分だけどね)の第2弾でお話しましょう。
この日、「中国大使館」にビザ申請後、都内の幕末史跡をめぐって来ました
もともと「日本史」は好きな科目だったんですが、中でも「幕末」が大好きなんです。
18時に友達と「蒲田」で会う約束があったのもあり、それまでの時間つぶしに思いついた企画です。
ちなみに好きな幕末偉人を挙げるならば…第5位:吉田松陰 第4位:勝海舟 第3位:土方歳三 第2位:高杉晋作…
そして第1位は…やっぱり坂本竜馬ですね~。
まぁ、ちょっとベタな順位でしょうか。
まず12時20分ごろ、申請を終えて「領事部」を出ます。
すると、そこから「六本木駅」方向へ徒歩1分くらいのところに『専称寺』という寺があります。
そこには、新撰組一番隊組長『沖田総司』の墓があります
ネットで調べてみると、年に一度の『総司忌』の時だけ入れる…みたいな事が書いてあったのと、ちょっと寺に入りづらそうな雰囲気があって…断念。
また12日にビザを取りに行くとき、寺の前を通るので覗いてみようかな…。
次は、大江戸線「六本木」から「大門」で浅草線に乗り換えて「三田」へ行きます。
駅から徒歩2~3分のところにある『勝海舟・西郷隆盛会見之地碑』です。
江戸開城をめぐる「勝・西郷会談」が行われたのは、慶応4年(1868)3月13、14日(江戸開城は同年4月11日)。13日が高輪の「薩摩藩下屋敷」、14日がここ、芝の「薩摩藩蔵屋敷」で、この蔵屋敷跡にこの記念碑が建てられたのです。
次は「三田」から浅草線で「人形町」→日比谷線に乗り換えて「小伝馬町」に行きます。
駅から徒歩1~2分で『十思公園』に着きます。
2箇所入口がありましたが、この入口は趣がありますな。
この公園内にあるのは、『吉田松陰』に関する石碑です。
真中の大きい石碑は後ほど説明するとしまして、写真左側(木で見づらいですが)は、「吉田松陰」についての説明が記されています。
右側の石碑には『吉田松陰終焉之地』と刻まれています。
そして、これが真中の一番大きな碑に刻まれている言葉です。
『身はたとえ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂』
これは松陰の「辞世の句」です。
「松陰」はこの地で処刑(斬首)されました。享年満29歳…
「黒船」来航で混沌とした日本の行く末を憂い、自らの主張を訴え続けた「吉田松陰先生」…無念であったでしょうが、多くの弟子たちが意志を継いで維新に活躍しました。
この公園の向かいに石碑がありますが、この一帯は『伝馬町牢屋敷跡』なんです。
その説明によると、「規模は広大で、面積2600坪あり、敷地は四方に堀をめぐらし、獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢、女郎部屋に分かれ明暦三年(1657年)の収容囚人は130人あり、『安政の大獄』(1859年)には「吉田松陰」ら90余名収容」とあります。
幕末史跡とは特に関係ありませんが、この「十思公園」内には『石町の時の鐘』があります。
お江戸の庶民に時を知らせていた“時報”ですね。
お次は「小伝馬町」から日比谷線で「上野」へ。
『上野公園』に来ました。
よく知られてる人ですね。『西郷隆盛』の銅像です。
実際はこんな顔じゃなかった…とも言われてますが…。
その「西郷隆盛の銅像」の近くにあるのが、『彰義隊』の墓です。
説明は省きます…。
この公園、正式には「上野恩賜公園」って言うんですね。
次は「上野」から山手線で「池袋」埼京線に乗り換えて「板橋」で下車します。
東口を出て、左側に歩くとすぐに見えてきます。
『寿徳寺境外墓地』です。
『新撰組』局長『近藤勇』が処刑された、ここ「板橋」の地にこの史跡があります。
入って真正面にあるのが、『近藤勇』と『土方歳三』の名が刻まれた墓碑です。両側面にも小さく『沖田総司』や『山南敬助』、その他大勢の隊士の名も刻まれており、まさに『新撰組慰霊塔』です。
この『慰霊塔』の向かって右隣にあったのが、小さな「近藤勇像」です。
ちょっと小さすぎて迫力に欠けるな…
台座の方が大きいんだもん…
これは墓地に入って左側です。
写真の左側は「近藤勇」の石碑で、右側が新撰組二番隊組長『永倉新八』の墓碑です。
『永倉新八』は明治維新後も生き延びた数少ない新撰組幹部の一人で、この『慰霊塔』を建てたのも『永倉新八』です。
さて、もうすぐ15時半。
次に向かうは今日最後の目的地です。
「板橋」から埼京線で「赤羽」→京浜東北線で「蒲田」へ。
「蒲田」から東急池上線で「洗足池」に行きます。
駅を出て道路を横断すれば、もう『洗足池』があります。
駅を背に見て右側から回り、民家の間の道を進みます。
そこにあるのが『勝海舟別邸跡』です。
そこから更に進むと『洗足池公園』の入口があり、池の畔の公園内にあるのが…
『勝海舟』夫妻の墓です。
また、その近くには『西郷隆盛隆留魂詩碑』があります。
これは『西郷隆盛』が昔から読んでた漢詩です。
この『西郷隆盛隆留魂詩碑』がある場所の入口?の祀は『留魂祀』といい、西郷の死後、『勝海舟』が『西郷』を偲んで「葛飾薬妙寺」に建てたものですが、大正二年(1913)薬妙寺の移転に伴い『勝海舟』所縁のこの地に移されたものだそうです。
今日の「幕末史跡めぐり」第1弾はいかがだったでしょうか?
題名に「江戸編①」とあるように、12日にビザを取りに行った帰りも、またどこか探して行くつもりです。
最後に『洗足池』の風景を
はぁ…このページ作るだけで何時間使ったやら。
ちょっと今、過去のページもフォントを1段階大きく直して、このぺージのように見やすく改良中です。
そしたら、また過去のページも読み返して欲しいな~。
この「幕末史跡めぐり」、実は第6弾くらいまで企画中です。
「もうすぐ中国行きじゃん」って思ってるでしょ?
フフフ…その秘密は、次回(翌日更新分だけどね)の第2弾でお話しましょう。
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