史跡ハンター 臥龍

 ★戦国・幕末&中国に関する史跡を中心に紹介しています★

 ご意見・ご感想・ご質問など、気軽にメッセージください!

バガボンド史跡ハント~姫路編&源平史跡・須磨編

2011年02月10日 | バガボンド史跡めぐり
2月10日(木)1/2
さて、9日の22:10ごろ出発した「高速(夜行)バス」ですが、山梨県と三重県でトイレ休憩があり、三ノ宮(兵庫県)を経由し、6:15ごろ「姫路」に到着しました。
今回、なぜ「姫路」に来たか?と言うと、当初「姫路」に住んでいる(東京から移った)教え子に会うためだったんです。
でも、春節で中国に帰ってしまって会えないので、ついでに調べておいた“史跡ハント”をするために「姫路」まで来たんです。
…とは言ってもハントする史跡は「姫路」ではなく、その先の「網干」という駅から歩いて行きます。
とりあえず「姫路」で降りて「網干」に行く時刻表を見ると6:26にあったんだけど、まだ駅のコンビニが開いていない…
実は「姫路」で「宮本武蔵キューピー」が買いたくてさ…帰りは「姫路」をスルーして「神戸」方面に行ってしまうのでね。
次の電車は6:32…開店が6:30なので、すぐ探せれば間に合うかも…って売って無いじゃん。
買ってすぐ電車に乗ろうと思って、改札入った中のコンビニで探したけど無い…どうせもう6:32にも乗れないので、駅員に言って一度改札を出て別のコンビニで見たり、さらには新幹線ホームに向かう所のコンビニでも探したけど無い。
次は7:03の電車だけど、もう周りに店が無いから(知らないから)諦めざるを得なくなってしまいました。
生産中止になったのか、生産が間に合わないのか、単にどの店も発注を出してないのか…それは分からないけど、去年の福井県で「佐々木小次郎キューピー」が無かったのと同じ結果になってしまったよ…奇しくも「武蔵」と「小次郎」で。

そのせいで30分もロスしてしまい、「網干」に7:15ごろ着きました。
駅からは大体の地図しか無く、とりあえず近くまで行けば分かるだろう…って感じだったんだけど、これがかなり遠い。

それも分かっちゃいたけど、自分の足で行くしか手段が無いんだもん…
やっと案内標識が出てき始めました。

何とか7:55ごろ「宮本公園」に着きました。

公園の奥にある「宮本武蔵生誕之地碑」です。

「宮本武蔵」の生誕地には「播州高砂」「播州太子」「作州大原」の3つが有力な生誕地説となっています。
俺は2009年2月7日のブログで「岡山県美作市大原町(作州大原)」の“バガボンド史跡”(宮本武蔵故里)を紹介しましたね。
ただ、その時のブログを見てもらえれば分かるように、「岡山県美作市」の方は町を挙げてPRしてるけど、こっちは何も無いからね。
だって「岡山県美作市」は駅名が「宮本武蔵」だったもん。
…そうなるとやっぱ出生地は「美作市」の方になっちゃうよね…
負けるな「兵庫県揖保郡太子町宮本」

これが「石海神社」で、境内には椋の木「逆さ椋」があります。

ここが「宮本武蔵の生家跡」です。

その中にある「武蔵の産湯井戸」です。

最後に公園内にあったモノを紹介します。

これは「力石」です。
「ちからいし」ですよ…「力石(りきいし)徹」じゃないよ~
昔の若者が力試しに抱え上げていた石らしいです。
これで68Kg?意外と重いんだね。

これは「飯事(ままごと)」で、この石を「まな板」のように子供が使ってたらしいです。

こんな風に公園の脇に放置されています…

8:05ごろ「宮本公園」を出ました。
また「網干」駅まで戻るのか…

8:30ごろ「網干」駅に着き、次は途中の「塩屋」で山陽電鉄に乗り換え…

10:05ごろ「須磨浦公園」駅で降りました。

駅を背に右側に歩いて行くと「敦盛塚」があります。

これが「敦盛塚」です。
駅方面に戻り、今度は逆側を歩いて行くと…

これは「みどりの塔」(昭和59年、天皇・皇后両陛下のご来神記念)で、

これは「戦の濱」碑です。
この周辺は「源平一ノ谷合戦場」でした。
平安時代後期「平清盛」が京都から福原(現在の兵庫区)に都を移しますが、源氏に追われ「一ノ谷合戦」で「源義経」に破れるなど、神戸は源平の物語の舞台となりました。

この辺りも昔は浜辺だったのかなぁ?

目の前の海には…何があるんだろう?
10:25ごろ「須磨浦公園」駅に戻り、

次は「須磨寺」駅で下車しました。

「智慧の道」という商店街?があります。

「知慧の輪くぐり」だって~

10:45「須磨寺」に着きました。
これは「仁王門」です。

門の「仁王」像です。

門を出ると左手に「源平の庭」があります。

左側が「平敦盛」で、

右側が「熊谷直実」です。
「平敦盛」は「平清盛」の弟「経盛」の末子で、「一ノ谷合戦」の西城戸(にしきど)の戦いで破れました。
合戦が終わろうとする中、源氏の武将は何とか功名を立てようと、死に物狂いで名だたる平家の武将を探していました。
「熊谷次郎直実」もその中におり、平家の名のある武将を探していたのです。
一方、平家の武将たちはこの頃、岸から少し沖にはなれた船へと皆で向かっていました。
「平敦盛」も馬を海に入れ、沖の船を目指していました。
その時、背後から呼び止める者がいました―「熊谷直実」です。
「熊谷」は「敵に後ろを見せて逃げるのは卑怯、戻れ」と「敦盛」に言いました。
その言葉を聞いた「敦盛」は馬首を返し、「熊谷」との一騎打ちに応じたのです。
しかし若干16歳の「敦盛」は「熊谷」にあっという間にねじ伏せられます。
「熊谷」は首を切ろうとして、兜を上げてみるとその顔は自分の息子と同じくらい…
「敦盛」は名を名乗らず「唯首をとれ、自分は名のある公達だ、首をとって手柄にせよ」の一点張りでした。
「敦盛」の気品のある立ち振る舞いに、この少年は名のある若殿かと思いを巡らせました。
そして「熊谷」は「一人を逃しても戦局には関係あるまい、子のある自分にはこの公達の父の悲しさも分かるから」と、逃がそうとしました。
まさにその時、土肥・梶原の軍勢が来てしまったのです。
もはやこれまでと思った「熊谷」は自分が今討ち取ったほうが弔いも出来るし、他の者の手にかかるのならと泣く泣くその公達の首を取りました。
その後、「熊谷」が首を包もうとしたとき、一本の笛を見つけました。
合戦の前日にも心にしみいる横笛の音色が響いていたことを思い出し、昨夜の笛の音はこの少年であったか…と感心しました。
「熊谷」が本陣に戻ってこの首を見せると、居合わせた人々はこれが「平敦盛」であると涙ぐみました。
「熊谷」は「敦盛」を弔うために、後に法然上人の下で出家するのでした…。

「唐門」をくぐって右手に「弁慶の鐘」があります。

これが「本堂」です。

これは「義経腰掛の松」です。

頭を触ると動く猿の置物です。

これは「あつもり首塚」です。
さっき「須磨浦公園」で見たのは「胴塚」って事になるのかな?

これは「シベリヤ満蒙戦没者慰霊碑」です。
白クマが可愛らしいんだけど。

「きんほとん童子」と「三重塔」です。

戻って「宝物館」へ。

「弁慶鐘」と「敦盛の鎧」?

境内には変わったモノがいろいろあります。

11:10ごろ「須磨寺」を出て、歩いてJR「須磨」駅に行きました。
11:30ごろ「須磨」駅に着き、11:45ごろJR「兵庫」駅で降りました。

では、続きは「源平史跡~兵庫・神戸編」にて。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ハンター始動! | トップ | 源平史跡ハント~兵庫・神戸編 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

バガボンド史跡めぐり」カテゴリの最新記事