2月10日(木)2/2
さて、11:45ごろ「兵庫」駅に着きました。
「須磨寺」から「須磨駅」まで歩いてる間に、「神戸」に住んでいる教え子と連絡を取り、13時に「三ノ宮」で会うことになったので、ここ「兵庫」でのリミットは1時間だな…
とりあえず、行きたい所は2ヶ所なんで、急いで目的地に向かいました。
これは途中で見つけた「福海寺」で、「足利尊氏」が開いた臨済宗の寺院です。
これが「本堂」です。
これは「平清盛公遺愛時雨の松石碑」です。
これは「蛭子神社」です。
「柳原のえべっさん」という愛称で親しまれているそうです。
ここが目的地①「兵庫大仏」がある「能福寺」です。
「兵庫大仏(胎蔵界大日如来像・毘慮舎那仏)」は伝統「日本三大大佛」の一つで、身丈(像高)11m、重量約60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあります。
「日本三大大佛」とは、奈良の大仏(東大寺・蘆舎那仏) 、鎌倉の大仏(長谷高徳院・阿弥陀如来)と、この「兵庫大仏」になるんだけど…他の2体と比べると見劣りするなぁ。
でも、これで「日本三大大佛」制覇です
こっちの方が重要境内の「平相国廟(平清盛廟)・平清盛公墓処清盛塚」です。
「平清盛」が京都で荼毘にふされたとき、この寺の住職「円実法眼」が「清盛」の遺骨を持ち帰り、寺領内に葬ったと伝えられています。
これが「宝積山能福寺・月輪影殿(本堂)」です。
これは「ジョセフ・ヒコの英文碑」です。
これは、神戸事件の「滝善三郎正信碑」です。
次の目的地を目指します…
ここは「須佐野公園」です。
「和田の笠松」は往事「須佐の入江」の浜に聳え、入港船の目標となり、東西往環の目印の松ともなっていました。
右は「藤原為家の歌碑」です。
ここは「真光寺」で、時宗の開祖「一遍上人」は正応2(1289)年に51歳でこの地の観音堂で亡くなりました。
ようやく目的地②の「清盛塚」に着きました。
兵庫運河に架かる清盛橋の袂にある高さ約8.5mの「清盛塚十三重の塔」と「琵琶塚」です。
その真中にある「平清盛」像です。
さぁ、12:15になりました…その周辺にも「源平史跡」である寺院があるようだったけど、時間が無いので「兵庫駅」に戻りました。
そして12:55、待ち合わせの「三ノ宮駅」に到着~
2人の女子生徒と待ち合わせてたんだけど、1人(Cさん)は2年前にも「神戸」で会っています。
でも、男子と違って女子は変貌するからね…もう1人の子(Sさん)とは3年以上会ってなかった(日本で会うのは初めて)から、もし彼女だけだったら分からなかったかも。
3人とも、まだ朝から何も食べていなかったので、Cさんがバイトしてる「お好み焼き屋」で食事をしました。
やっぱ、こうやって今でも交流がある教え子は、当時クラスの中でも学習に積極的な子達でした。
俺が初めて日本語学校入学から日本留学までフルで教えていたのが彼女達の代からだったんだけど、もう彼女らも来春から4年生か…時が経つのは早いなぁ。
このブログでいえば、2006年夏に入学してきて、2008年春に日本に留学した子達になります。
食事後、15:15ごろ3人で「生田神社」に行きました。
これは「楼門」です。
これは「拝殿」です。
これは「生田の森」です。
これは「折れ鳥居と礎石」です。
次は「南京町(中華街)」に行きました。
もう「春節」の雰囲気は全く無かったです…
そして「三国志グッズ」も特に無く、収穫全く無し。
16:00ごろ「南京町」を出て、マックで休憩しながら他の教え子に電話しても全然出やしない…皆バイトしてたのかなぁ?
女子2人もこの後は他に用事があったので、17:00ごろマックを出ました。
そしたら1人の男子生徒(T君)から電話が来て、ちょうどバイトが終わって家に帰る途中だったので会えることになりました。
ウマ(賢弟)が講義が終わるの19時ごろって言ってたから、それまでどう時間を潰そうか…って思ってたんで、ちょうど良かったです。
T君とも2年前に会ってるんだけど、ウマが戻って来るまで彼の部屋で休ませてもらいました。
T君とは2006年12月31日に一緒に「泰山」に登っています。
彼は今でも交流のある唯一の「済南校」の生徒です。
そして20:00ごろ、ウマが講義を終えて迎えに来てくれて2人で居酒屋で夕飯を食べました。
ウマとも2年ぶりですね…今回「姫路」や「神戸」に来た目的は「ビジネス」についてだったんだけどね。
「姫路」の教え子とは会えずだったので、ウマの部屋に着いてから少し打ち合わせをして寝ました。
明日は寒くなるらしいんだけど…天気が悪くなければ「六甲山」に行く予定です。
さて、11:45ごろ「兵庫」駅に着きました。
「須磨寺」から「須磨駅」まで歩いてる間に、「神戸」に住んでいる教え子と連絡を取り、13時に「三ノ宮」で会うことになったので、ここ「兵庫」でのリミットは1時間だな…
とりあえず、行きたい所は2ヶ所なんで、急いで目的地に向かいました。
これは途中で見つけた「福海寺」で、「足利尊氏」が開いた臨済宗の寺院です。
これが「本堂」です。
これは「平清盛公遺愛時雨の松石碑」です。
これは「蛭子神社」です。
「柳原のえべっさん」という愛称で親しまれているそうです。
ここが目的地①「兵庫大仏」がある「能福寺」です。
「兵庫大仏(胎蔵界大日如来像・毘慮舎那仏)」は伝統「日本三大大佛」の一つで、身丈(像高)11m、重量約60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあります。
「日本三大大佛」とは、奈良の大仏(東大寺・蘆舎那仏) 、鎌倉の大仏(長谷高徳院・阿弥陀如来)と、この「兵庫大仏」になるんだけど…他の2体と比べると見劣りするなぁ。
でも、これで「日本三大大佛」制覇です
こっちの方が重要境内の「平相国廟(平清盛廟)・平清盛公墓処清盛塚」です。
「平清盛」が京都で荼毘にふされたとき、この寺の住職「円実法眼」が「清盛」の遺骨を持ち帰り、寺領内に葬ったと伝えられています。
これが「宝積山能福寺・月輪影殿(本堂)」です。
これは「ジョセフ・ヒコの英文碑」です。
これは、神戸事件の「滝善三郎正信碑」です。
次の目的地を目指します…
ここは「須佐野公園」です。
「和田の笠松」は往事「須佐の入江」の浜に聳え、入港船の目標となり、東西往環の目印の松ともなっていました。
右は「藤原為家の歌碑」です。
ここは「真光寺」で、時宗の開祖「一遍上人」は正応2(1289)年に51歳でこの地の観音堂で亡くなりました。
ようやく目的地②の「清盛塚」に着きました。
兵庫運河に架かる清盛橋の袂にある高さ約8.5mの「清盛塚十三重の塔」と「琵琶塚」です。
その真中にある「平清盛」像です。
さぁ、12:15になりました…その周辺にも「源平史跡」である寺院があるようだったけど、時間が無いので「兵庫駅」に戻りました。
そして12:55、待ち合わせの「三ノ宮駅」に到着~
2人の女子生徒と待ち合わせてたんだけど、1人(Cさん)は2年前にも「神戸」で会っています。
でも、男子と違って女子は変貌するからね…もう1人の子(Sさん)とは3年以上会ってなかった(日本で会うのは初めて)から、もし彼女だけだったら分からなかったかも。
3人とも、まだ朝から何も食べていなかったので、Cさんがバイトしてる「お好み焼き屋」で食事をしました。
やっぱ、こうやって今でも交流がある教え子は、当時クラスの中でも学習に積極的な子達でした。
俺が初めて日本語学校入学から日本留学までフルで教えていたのが彼女達の代からだったんだけど、もう彼女らも来春から4年生か…時が経つのは早いなぁ。
このブログでいえば、2006年夏に入学してきて、2008年春に日本に留学した子達になります。
食事後、15:15ごろ3人で「生田神社」に行きました。
これは「楼門」です。
これは「拝殿」です。
これは「生田の森」です。
これは「折れ鳥居と礎石」です。
次は「南京町(中華街)」に行きました。
もう「春節」の雰囲気は全く無かったです…
そして「三国志グッズ」も特に無く、収穫全く無し。
16:00ごろ「南京町」を出て、マックで休憩しながら他の教え子に電話しても全然出やしない…皆バイトしてたのかなぁ?
女子2人もこの後は他に用事があったので、17:00ごろマックを出ました。
そしたら1人の男子生徒(T君)から電話が来て、ちょうどバイトが終わって家に帰る途中だったので会えることになりました。
ウマ(賢弟)が講義が終わるの19時ごろって言ってたから、それまでどう時間を潰そうか…って思ってたんで、ちょうど良かったです。
T君とも2年前に会ってるんだけど、ウマが戻って来るまで彼の部屋で休ませてもらいました。
T君とは2006年12月31日に一緒に「泰山」に登っています。
彼は今でも交流のある唯一の「済南校」の生徒です。
そして20:00ごろ、ウマが講義を終えて迎えに来てくれて2人で居酒屋で夕飯を食べました。
ウマとも2年ぶりですね…今回「姫路」や「神戸」に来た目的は「ビジネス」についてだったんだけどね。
「姫路」の教え子とは会えずだったので、ウマの部屋に着いてから少し打ち合わせをして寝ました。
明日は寒くなるらしいんだけど…天気が悪くなければ「六甲山」に行く予定です。
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