2月17日(火)2/4
では続きで~す。
10:20『南洲神社』に着きました。
これは『勝海舟歌碑』と『常夜燈』です。
この『歌碑』は『勝海舟』が『西郷隆盛』のために詠んだ歌です。
明治6年(1873年)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った『西郷隆盛』は「鹿児島」にもどり、青年の教育のため『私学校』を設立しました。
ところが、明治10年この『私学校』の生徒が、『西郷』の意思に反して暴走し、ついには『西南戦争』を引き起こしたのです。
この歌は幕末以来『西郷』と親交の深かった『勝海舟』が、愛する『私学校』生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
隣に立つ『常夜燈』は、『西郷』と『勝海舟』との会談により「江戸城が無血開城」され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の「東京市」によって建立されたものです。
『歌碑』はこの『常夜燈』と同じ「花棚石」で出来ています。
これは『岩村県令記念碑』です。
「岩村道俊(1840-1915)」は明治10年「鹿児島県令」となり『西南戦争』処理に努めました。
『西南戦争』が終わると「岩村」は、『西郷隆盛』ら薩軍の遺体を丁寧に埋葬しました。
『南洲墓地』に並ぶ…
『桐野利秋墓』『西郷隆盛墓』
『村田新八墓』『別府晋介景長墓』です。
明治10年9月24日早朝「岩崎谷口」に向かい突進中、銃弾を受けた『西郷隆盛』の命により、その介錯をつとめたのが『別府晋介』です。
これが神社だったかな?
中には「猪木」のような『西郷隆盛像』がありました。
これも『西南之役戦没者慰霊塔』です。
それから『西郷南洲顕彰館』に入りました。(入場料¥100)
「ジオラマ」を使って『西郷隆盛』の生涯が紹介されていました。
そして11:00『南洲神社』を出ました。
11:10すぎ着いたのが…
『薩摩義士碑』です。
そして11:20『西郷隆盛洞窟』に着きました。
明治10年9月24日午前4時「政府軍城山総攻撃」が始まりました。
城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余でした。
これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数4万…死を決した『西郷』は、夜明けを待って5日間過ごしたこの洞窟を出ました。
ゆっくりと「岩崎谷」を下りて行った時、流れ弾が『西郷』の腰に命中し、『別府』の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。
近くにも『西郷隆盛像』がありました。
お土産屋「せごどん」脇にも『西郷隆盛像』がありました。
『西郷像』脇の洞窟の中には「目で見る西南戦争始末記 三十六景展示場」がありました。
そして11:30ごろ『西郷隆盛洞窟』を出ました。
それから少し道を戻る形になりますが、11:35『西郷隆盛終焉之地』に着きました。
「城山洞窟」を出て、わずか300m…2発の銃弾が『西郷隆盛』の腰を撃ち抜きました。
「晋どん、もうここらでよか」…そして『別府晋介』の介錯により太刀が振り下ろされました。
11:40すぎ『私学校跡記念碑』に着きました。
近くの石垣に残る『西南戦争銃弾の跡』です。
これは『鹿児島城(鶴丸城)跡』です。
これは「中央公園」前にある『西郷隆盛像』です。
これは「中央公民館」ですね。(遺構でしょうか?)
これは『小松帯刀像』です。
『小松帯刀(1835-1870)』は「薩摩藩の重臣」で、1862年には「薩摩藩家老」になりました。
つまり『西郷隆盛』や『大久保利通』の上司だったワケですよ。
1867年には『薩長同盟』にも奔走し、『坂本龍馬』『お龍』を伴い「薩摩」に帰国しました。
でも明治維新後(明治3年)、36歳で病没しました。
12:00ごろ「中央公園」周辺を発ちました。
まだまだ続く「鹿児島編」…では“Part.3”へ。
では続きで~す。
10:20『南洲神社』に着きました。
これは『勝海舟歌碑』と『常夜燈』です。
この『歌碑』は『勝海舟』が『西郷隆盛』のために詠んだ歌です。
明治6年(1873年)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った『西郷隆盛』は「鹿児島」にもどり、青年の教育のため『私学校』を設立しました。
ところが、明治10年この『私学校』の生徒が、『西郷』の意思に反して暴走し、ついには『西南戦争』を引き起こしたのです。
この歌は幕末以来『西郷』と親交の深かった『勝海舟』が、愛する『私学校』生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
隣に立つ『常夜燈』は、『西郷』と『勝海舟』との会談により「江戸城が無血開城」され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の「東京市」によって建立されたものです。
『歌碑』はこの『常夜燈』と同じ「花棚石」で出来ています。
これは『岩村県令記念碑』です。
「岩村道俊(1840-1915)」は明治10年「鹿児島県令」となり『西南戦争』処理に努めました。
『西南戦争』が終わると「岩村」は、『西郷隆盛』ら薩軍の遺体を丁寧に埋葬しました。
『南洲墓地』に並ぶ…
『桐野利秋墓』『西郷隆盛墓』
『村田新八墓』『別府晋介景長墓』です。
明治10年9月24日早朝「岩崎谷口」に向かい突進中、銃弾を受けた『西郷隆盛』の命により、その介錯をつとめたのが『別府晋介』です。
これが神社だったかな?
中には「猪木」のような『西郷隆盛像』がありました。
これも『西南之役戦没者慰霊塔』です。
それから『西郷南洲顕彰館』に入りました。(入場料¥100)
「ジオラマ」を使って『西郷隆盛』の生涯が紹介されていました。
そして11:00『南洲神社』を出ました。
11:10すぎ着いたのが…
『薩摩義士碑』です。
そして11:20『西郷隆盛洞窟』に着きました。
明治10年9月24日午前4時「政府軍城山総攻撃」が始まりました。
城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余でした。
これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数4万…死を決した『西郷』は、夜明けを待って5日間過ごしたこの洞窟を出ました。
ゆっくりと「岩崎谷」を下りて行った時、流れ弾が『西郷』の腰に命中し、『別府』の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。
近くにも『西郷隆盛像』がありました。
お土産屋「せごどん」脇にも『西郷隆盛像』がありました。
『西郷像』脇の洞窟の中には「目で見る西南戦争始末記 三十六景展示場」がありました。
そして11:30ごろ『西郷隆盛洞窟』を出ました。
それから少し道を戻る形になりますが、11:35『西郷隆盛終焉之地』に着きました。
「城山洞窟」を出て、わずか300m…2発の銃弾が『西郷隆盛』の腰を撃ち抜きました。
「晋どん、もうここらでよか」…そして『別府晋介』の介錯により太刀が振り下ろされました。
11:40すぎ『私学校跡記念碑』に着きました。
近くの石垣に残る『西南戦争銃弾の跡』です。
これは『鹿児島城(鶴丸城)跡』です。
これは「中央公園」前にある『西郷隆盛像』です。
これは「中央公民館」ですね。(遺構でしょうか?)
これは『小松帯刀像』です。
『小松帯刀(1835-1870)』は「薩摩藩の重臣」で、1862年には「薩摩藩家老」になりました。
つまり『西郷隆盛』や『大久保利通』の上司だったワケですよ。
1867年には『薩長同盟』にも奔走し、『坂本龍馬』『お龍』を伴い「薩摩」に帰国しました。
でも明治維新後(明治3年)、36歳で病没しました。
12:00ごろ「中央公園」周辺を発ちました。
まだまだ続く「鹿児島編」…では“Part.3”へ。
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