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史跡ハンター 臥龍

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義風堂々!!漢たちに逢いに行け!~出羽・上杉家&直江兼続&前田慶次編

2014年04月13日 | 日本武尊・源平・戦国史跡めぐり
4月13日(日)
今日は新潟県秋葉区「新津」⑧山形県「米沢」福島県「福島」経由⑨宮城県「白石」「仙台」経由⑩?へと4県の移動だよ。
ホントは昨日「米沢」まで来て宿泊しておきたかったのにさ…でも30分くらい短縮しても、もう列車が無くて「新津」までしか出られなかったんだよ。
昨日「長岡」から「米沢」に出るなら、「長岡」15:27発の信越本線に乗らなきゃ「米沢」には出られなかったからね…その頃まだ「与板」にいたけど、ちょっと「長岡」とその周辺(栃尾・与板)だけとは言え15時上がりはムリだよな~

5:10にネットカフェをチェックアウトし、昨日と同じ道を歩いて5:35ごろ新津駅に着きました。

「SLばんえつ物語」の停車駅でもあるんだね…って、今も現役なの?

6:16「新津」発の羽越本線に乗りました。

そして7:12に「坂町」に着き、7:18発の米坂線でおよそ2時間半…9:56に⑧米沢に着いたよぉ。

この米坂線(米沢-坂町)が約2時間~2時間半掛かるんでさ…だから最終が早くて(坂町18時ごろ発)、昨日みたいに「米沢」入りができなかったりするんだよ。

途中どの辺りか分からないけど…車窓からの景色です。

⑧山形県米沢市「米沢」編
上杉家は初代「上杉謙信」の時代は越後を治めていましたが、「豊臣秀吉」が天下統一を成すと慶長3年(1598年)秀吉の命により、二代「上杉景勝」は会津120万石に加増移封されました。
その年の8月、秀吉が死去すると家老の「直江兼続」が五奉行の「石田三成」と懇意にあった事などの経緯から「徳川家康」と対立します。
慶長5年(1600年)2月になると、「景勝」は夏までに領内諸城の補修を命じます。
4月に「家康」から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出ますがこれを拒否します。
この召還命令は「景勝」を排除するための策だと見られていますが、この際「兼続」による挑発的な返答(直江状)が、「家康」の会津征伐を煽ったとされています。
「家康」は大軍を率いて「景勝」討伐に出陣し、「景勝」は家康軍の対応にあたりますが、7月「家康」の留守中に「三成」らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、「家康」が西上するとなると会津から出兵し、東軍に与した「伊達政宗」や「最上義光」らと戦いました(慶長出羽合戦)。
しかし、9月15日の本戦で「三成」ら西軍が敗れたため、12月に「家康」に降伏することを余儀なくされました。
慶長6年(1601年)2月上旬「家康」は「結城秀康」のとりなしで豊光寺の「西笑承兌」を介して「兼続」に音信させ、「景勝」の上洛陳謝を促しました。
「景勝」が「兼続」と共に上洛、「家康」に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許されましたが、置賜・信夫・伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石)藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の大大名から出羽半国の一大名へと没落したのでした。

「米沢の停車時間は3時間と12分~」…って、けっこうありそうなんだけど、ハントするトコが多すぎて…急いで回らないと13:08発の奥羽本線・福島行きに乗れなくなっちゃうからさ。
これに乗れないと次に行く⑨白石に行けないし、その後の旅程も崩壊するほどなんで…何があろうが時間厳守なんだわさ。
まず、コインロッカーにリュックを預けてから駅レンタカーでレンタサイクルをゲットしました…これ、観光案内所でも借りられるんだけど「上杉神社」にあるから意味が無いんだよ。
だって観光地で足をゲットしても、そこまで行くのに時間が掛かれば、返却した後も駅まで戻る時間が掛かるからさ…だからレンタサイクルは降りた駅(またはバス停)近くで借りられないとダメなんだよ。
そこは2時間¥300と4時間¥500の2コースだったかな?があって、俺は13:00には駅に戻るから3時間満たないくらいと話してたらサービスで¥300で貸してくれちゃったよ。
この「米沢」の史跡ハントは大きく2つのエリア、駅の東口(堂森)と西口(上杉神社・林泉寺・上杉家御廟)に別けられるんだわ。
とりあえず先に反対側の東口方面からハントすることにしました。

米沢駅を出て10分ちょっとで「堂森善光寺」に着きました。

これは「十王堂」です。

これは「本堂」です。

これは「阿弥陀堂」です。
事前の予約で見学ができるんで、してたんだけど…今日は絶対時間が無いと思い、取り止めたよ。

「阿弥陀堂」と「本堂」の間にある「前田慶次供養塔」です

…そう、ここは傾奇者「前田慶次」が晩年を過ごした地なんだよ…俺が読んでる「義風堂々!!直江兼続」は慶次が語る兼続の物語で、慶次が住む「無苦庵」で語られています。
「慶次」は上杉家が米沢に移封されると、これに従って米沢藩に仕えました。
ちょっと墓地の間を上ってみたんだけど…志駄家墓もどれか分からず、「月見平」を目指して上がるも何も標識が無いんだもん。

頂上に小さな祠がありました…帰ってからよく調べたら、ここが「月見平」でした。
ここは慶次が地域の住民や友人を招き、月見などの遊山を楽しんだ場所なのです。

そのもう少し下から撮った景色です…ここに月が浮かんでたんでしょうかね。
「月見平」から反対側の「無苦庵」方面に下りられるかと思ったら道が無く…行ったん境内に下りました。
一応、本堂に予約してた「阿弥陀堂」をキャンセルすることを話すついでに「慶次清水」や「無苦庵跡」への行き方を聞きました。

これは「慶次の力石」です…慶次が里人との力自慢で持ち上げたと伝わる石です。

「堂森善光寺」を出て、「慶次清水」と「無苦庵跡」を探しに行ったんだけど…こりゃダメだ、何も道案内が無いんだもん。

この辺りが「無苦庵跡」かなぁ?…って帰ってから再度調べたら、そう間違ってもないみたいよ。
「慶次」が余生を送ったとされる屋敷で、庵が存在したとみられる範囲には土塁の一部と堀の跡が残っているそうです。
慶次の友「直江兼続」や「志田修理義秀」らも、庵を訪ねたといわれています…それなら標識立てておいてくれ

近くに建ってた「坂野慶次郎翁碑」です…最初、慶次郎って書いてあるから「前田慶次」の碑かと思ったよ。
この碑が建つ辺りも「無苦庵」の敷地に近い(含む?)みたいなんだけど…坂野慶次郎って誰よ?紛らわしい。
近くには「太郎兵衛屋敷跡」もあるんだよ…これは「慶次」が新築祝いに招かれたとき「満ちれば欠けることに気づけ」と床柱を斧できりつけ、諭したとされる逸話の舞台です。
「義風堂々!!直江兼続 ~前田慶次 酒語り~」の第1巻オープニングでこのエピソードが描かれているよ…でも、ここも案内が無いから辿り着くことはできなかったけどね。
10:50…もう「慶次清水」も諦めて、米沢駅方面に戻ることにしました…って、ちょっと時間押してるよぉ。

11:00すぎ駅から近い「宮坂考古館」に着きました。(入館¥400)

こっちの受付(第一展示場?)で入館料を払います。

これは「前田慶次」と「直江兼続」の甲冑です。

これは「上杉謙信」と「上杉景勝」の甲冑です。

第二展示場の方には…

衣装や槍、

火縄銃などが展示されていました。
とにかくザッと観てすぐ次の史跡ハントに向かわないと時間が…

11:30ごろ「旧米沢高等工業学校本館」に着きました。

明治43年7月竣工のルネサンス様式の建物です…って、改修工事中か?幕で覆われてるじゃんよ。
もう、とにかく先を急げ…

11:35ごろ「春日山林泉寺」に着いたよ。(拝観料¥400)

3月は「雪で4月まで拝観ができない」…ってことで延期して今来てるんだよ。
最初、本堂?でボランティアガイドさん?の説明があったんだけど…もうこれ以上ゆっくり聞いていられないんで断って先に行ったよ。
まぁ他にも観光客がいたんでさ…余裕がある方々はゆっくり聞いてればいいけどね。

左のは「兼続」関連のモノみたいなんだけど…

外に出て…これは「吉江常陸介宗信の墓」です。
「吉江宗信」は上杉謙信・景勝に仕えた勇将で、天正10年(1582年)宗信らは「織田信長」の大軍から魚津城を守り、壮烈な戦死を遂げました…それは「本能寺の変」の1日後でした。

これは武田信玄の六男「武田信清の墓」です。

信玄はその臨終に際して、嗣子「勝頼」に対し、「…兵を構えて己が国を亡ぼすこと勿れ、我れの死後天下に頼るべき者は独り謙信あるばかり、宜しく援を請い求め国をば彼に托せよ」と残しました。
天正10年3月「武田勝頼」父子は天目山の戦に破れて自害、勝頼兄弟のうち、武田太郎義信(長男)、同次郎隆宝(二男)、仁科五郎信盛(四男)、暮山十郎言責(五男)も戦死あるいは自害します。
これにより「信清」一人が残り武田の正流となりました…甲州没国の節「信清」は紀州高野山無量光院に隠まわれ、同年越後の景勝公に嫁いでいた姉「菊姫」を頼って来ました。
上杉氏では高家衆の筆頭として優遇(諸役御免)し、三千三百石を陽わります…昔は川中島でさんざん遣り合った「武田信玄」と「上杉謙信」だったけど、お互いを認めてたんだね。
謙信の後継者「景勝」もその意志を継いでいたから信玄の子「勝頼」と和議を結び、妹(菊姫)を娶り縁戚となり、「信清」も受け入れて優遇してるんだよ…これぞ上杉の「義」だよね。

これは侍大将「長尾権四郎家の墓」です。

そして…これが「直江兼続夫婦の墓」です。

左が「直江兼続」、右が妻「お船の方」の墓です…夫婦同サイズってのが、2人の仲を物語っているね。

これは謙信公譜代の臣「鉄孫左衛門泰忠の墓」です。

こちらは「上杉家廟所」です。

この中に眠る有名人は…

左は「鍋島夫人市姫の墓」です…徳川家康の養女で三代「定勝」公に入輿しました。
右は「会津夫人媛姫の墓」です…会津若松城主「保科正之」の娘で四代「綱勝」公と縁組しますが19歳で逝去しました。

これは「鷹山公側室お豊の方の墓」です…米沢藩中興の祖と仰がれる十代「鷹山」公の側室です。

こちらは上杉謙信の姉で上杉景勝の母「仙洞院の墓」です…戦国無双とかでは「綾御前」として登場してるね。

これは「甲州夫人菊姫の墓」です…武田信玄の四女で天正6年二代「上杉景勝」公と縁組されました。

「仙洞院」(姑)と「菊姫」(嫁)の墓は同列にあるね。

これは「上杉駿河守勝周の墓」と、けっこう新しそうな「上杉家墓所」です。
11:50すぎ「春日山林泉寺」を出ました…って、あと1時間で「上杉家御廟」と「上杉神社」をハントできるのか?

12:00すぎ「上杉家御廟」に着きました。(入場¥350)

参道を進んで行くと…

謙信公の「龍」と「毘」の旗の先、真正面に…

初代「謙信」公(輝虎公)の御廟があります。
その右隣から順に紹介しましょう…

三代「定勝」公・五代「綱憲」公・七代「宗憲」公

九代「重定」公・十一代「治廣」公
次は初代「上杉謙信」公(輝虎公)御廟の左隣から順に紹介します。

二代「景勝」公です。

二代「景勝」公と初代「謙信」公

四代「綱勝」公・六代「吉憲」公・八代「宗房」公

十代「治憲」公(鷹山公)・世子「顕孝」公・十二代「斉定」公

こんな感じで並んでいます。

入口付近には「上杉家墓所資料館」があったけど…時間が無かったんでスルーしたよ。

12:15ごろ「上杉家御廟」を出て…これは近くの上杉家菩提寺「法音寺」です。

そして12:20「上杉神社」に着きました…急いでハントせねば
…って、これって位置的にちょうどいい場所に着いてたのかなぁ?探し回ることなく見つけたよ。

これは「上杉謙信公像」です。

これは「天地人 上杉景勝公と直江兼続公 主従像」です。

上がって行くと「上杉謙信公祠堂跡」があります。

…江戸時代「上杉謙信公」の遺骸を安置した御堂が建っていた場所です。

これは「伊達政宗公生誕の地碑」です…政宗は仙台のイメージがあると思うけど、出羽国米沢城で生まれたんだよ。
ちなみに仙台開府は慶長6年(1601年)なんだわさ。

これは「上杉鷹山公の像」と「直江兼続」の塑像です。

「上杉神社」に入ります。

すぐ「稽照殿」に向かいました。(入館料¥400)

謙信公の頭巾と太刀だよ。

この兼続の兜の前立は…バットとボールみたい。

これが「直江兼続」が所用していたといわれている「金小札浅葱糸威二枚胴具足」いわゆる「愛」の前立の甲冑だよ

これは「神門」で、中に入ると…

「拝殿」があります。

これは「松岬神社」です。
もう12:40だぞ…急いで駅に戻らなきゃ

これは途中にあった学校かな?古くはなさそうなんだけどオシャレな感じの造りなんだよね~

これも米沢駅に戻る途中の風景…って、間に合わなくなるぞ

12:50米沢駅に着いたよ~

自転車を返却し、急いで駅のお土産屋で買い物したよ…これは明日使うんでね。

13:08発の福島行には間に合ったけど…ちょっと「米沢」で3時間は短かったなぁ…昨日「米沢」で宿泊できていれば朝からタダ史跡を中心に回れたかも知れないけど…有料史跡3ヶ所(春日山林泉寺・上杉家御廟・稽照殿)が大きく離れてはいないけどバラけてて、それぞれ重要だったからさ。
結局「上杉博物館」や「法泉寺」、「東源寺」には行けなかったもんな~

⑨宮城県白石市「白石」編

福島で14:11発の東北本線に乗り換えて、14:47宮城県「白石」に着きました。

駅の観光案内所に行き、レンタサイクル(無料)を借りようとしたら「今月から有料(¥300)になりました」って、なら「リュックを預かってもらえないか」お願いしたんだけど「できません」…ってチャリ有料にしたんなら少しくらい融通利かせろよな。
「え~白石の停車時間は1時間と50分~」多分ここは余裕があるんじゃないかな。

これは「専念寺」です…初代「片倉景綱(小十郎)に重用された寺です。

これは「延命寺」です。

この山門は「白石城」の厩口門を移築しています。

次は「片倉小十郎御廟所」に行きます。

「片倉家歴代廟所」に着きました。

中央が「片倉景綱(小十郎)」で…

一番左から順に十代「宗景」、九代「景貞」、五代「村休」、四代「村長」、二代「重長」、初代「景綱」

続いて、三代「景長」、六代「村定」、七代「村廉」、伊達吉村公息女、八代「村典」←一番右

これは「殉死者の墓」と「惣家中の碑」です。

いい景観の街並みだね。

武家屋敷「旧小関家」です。

有料だったんで見学しなかったけどね。

「神明社」の鳥居から「白石城」に向かいます…って、ここにさっきハントした「延命寺」の山門があったんだね。

「白石城」は片倉家18,000石の居城です。

「大手門」から入ると…

「本丸御殿跡」があるけど…桜も満開だし、天気も良いし…花見日和だねぇ。

「白石城」は入城¥300だよ。

記念撮影場?

右の甲冑は「真田」だね。

天守閣からの景色です。

また「本丸御殿跡」に戻りました…これは、ゴン太くん?

「神明社」にも行ってみました。

参道を抜けると…

これは「拝殿」です。

次は「常林寺」に行きました…この「竜宮城」みたいな門が変わってるね。

これは「清林寺」です。

真田家ゆかりの寺で、「幸村」の遺児たちを慕って白石に移住した真田家家臣により建立したと伝えられています。

「大阪夏の陣」の際、豊臣方の「真田幸村」は落城直前に徳川方の伊達家重臣「片倉重長(小十郎の子)」に女児(阿梅)を託しました。
重長はその後、幸村遺児「阿菖蒲」「おかね」「大八」と遺臣をも引き受け、白石城下に住まわせたのです。

最後に「傑山寺」に行きました…もう16:15だから、あと20分くらいしか無いじゃん。
ここにも「片倉小十郎の墓」があるらしいんだけど…探せそうになければ、すぐ引き返すつもりで境内の左脇の方に行ってみました。

これは「佐藤孝郷の墓」(誰?)で、方向は間違ってなかったぞ。

これが「片倉小十郎の墓」墓標の一本杉です。

根元の方には墓石もあるね。
「片倉景綱」(1557-1615)は天正3年(1575年)に政宗の近侍となり、のち重臣として重用されるようになります。
小田原征伐に際しては「豊臣秀吉」方へ参陣するよう述べ、「伊達政宗」に小田原参陣を決意させました。

⑩宮城県南三陸町「志津川」編
さて…何とか16:37発(6分くらい遅れて発車したけど)の仙台行に乗り、仙台(17:33着)へ。
今日は「仙台」をスルーし、仙台(17:42発)小牛田(18:27着)

小牛田(18:51発)前谷地(19:06着)

この無人駅で約1時間待つことになってしまい…前谷地(20:12発)柳津(20:34着)
柳津から気仙沼までは、まだ気仙沼線が復旧してなくて…代替えで運行してるBRT(バス)に乗り換えました。
柳津(20:45発)志津川(21:14着)
今回の旅で唯一史跡ハントじゃないのが、この⑩志津川・気仙沼で…今までシークレットにしてた目的地だね。
出発前の記事に⑩はネットカフェも無いだろうから野宿になるだろう…って覚悟してたトコだよ。
この史跡ハントの旅で仙台→平泉は旅程にあって、当初3月に行く計画を立ててたときは、横浜(高速夜行バス)→仙台(朝着いてすぐ)→平泉(史跡ハント)→仙台(史跡ハント)→白石(史跡ハント)→米沢泊(以降新潟方面へ)なんて無茶苦茶なスケジュールを組んでたんだよ。
この旅では逆回りして新潟方面から「米沢」を抜けて「仙台」まで来たんだけど、「仙台」から「平泉(一ノ関)」の間をうまく移動して沿岸部に出られないだろうか…?ということで調べてたら「仙台」から「気仙沼」まで石巻線や気仙沼線があり、「気仙沼」からは「一ノ関」までは大船渡線があるじゃないか。
じゃあ、沿岸部のどこに行ってみるか?と考えたときに…「防災庁舎」が残る「志津川」が沿線だったんで旅程に組み込んでみたんだわ。
そしたら、またハードでさぁ…夜、何とか「志津川」に辿り着くけど、その時間じゃ何も見れない…でも翌日も予定はギッシリだから朝一番で発たなきゃならない…と、いつも通り?のハードさでさ。
それで、日の出までの7~8時間だから野宿してればいいか…って思ってたんだわさ。(実際、旅館なんてあるかも分からないし、あっても数時間しか滞在しないのにもったいないじゃん)
それと今回「志津川」行きにしたのは被災地を生で見てみたかったのと、もう一つ…ここは俺のルーツでもあるんだよ。
俺の父方の祖父は戦争で亡くなっているんだけど出身が「志津川」でさ…そこには曽祖父の墓もあることを以前父からも聞いてたんで「志津川」に行こうと決めたんだわ。
そして、ここではサプライズがあって…前日ネットカフェにチェックインした後、墓がある寺に墓の場所を尋ねてたのね。
寺の墓地は広く、両親も99年と震災の4~5年前に行っただけなんで説明できない…ってんだわ。(まぁ両親も寺の人に案内してもらって行ったみたいだし)
それで寺に確認して「見取図」でも描いて貰ってポストにでも入れておいてもらって、翌朝それを頼りに墓参りでもできたらな…って思って電話してたんだけど…電話に出られたオバアちゃんは、数年前俺の両親が訪ねたことは覚えていなかったけど墓に眠る祖父の兄のことはご存知のようでね。
俺がその縁者であることを話し、翌日(今日)の晩着いて翌々日、陽が昇ったら墓参りして帰りたい旨を伝えたら…どうやって来るの?どこに泊まるの?など訊かれたんで「朝までどっかで(野宿して)時間ツブしてます」って言ったら「ウチにいらっしゃい」と。
いくら檀家の縁者であるとはいえ、得体の知れないヤツを泊めてくれるなんて…「田舎に泊まろう」なんて番組も前にあったけど、そこが被災地ってこともあるからか困ってる人に手を差し伸べてくれる温かさがあるんだね~

21:15ごろBRTが「志津川」(商店街)に着いたんだけど、乗ってた4人全員そこで降りたよ。
でもタクシーもいないね…ってことで歩いて寺まで向かうことにしちゃったよ。
歩いて少しのところに仮設みたいなファミマがあってさ…明日の分(或いは今晩)のパンを買っておき、一応店員に自分が向かってる方向や寺への行き方について確認しておいたわ。
その後も途中でタクシーの運チャンに「こんな時間にどこ行くんだ?」って訊かれ…乗ろうか迷ったけど、道を訊いたら分かり易く説明してくれたんで、そのまま歩いちゃった。
しかし街灯も無いから月明かりを頼りに歩いてるようなモンだよ…

そしたら…これって明日、見てみようと思ってた「防災庁舎」じゃんよ…確かに俺がプリントアウトした地図では寺に行く途中にあったんだけどさ。
さっきファミマで「暗いから分かり易い大きな道を歩いた方が良いですよ」って教えてもらってたんで…俺も迷うよか遠回りした方がマシってことで、ここまで来ちゃったんだよ。
ここは明日また紹介するんでね…大体の道が理解できたんで寺に電話して「タクシーがいなかったんで歩いて向かっている」ことを伝え、あと少しかな…ってトコで前から来た車が止まり「今日みえられる方?」って訊かれてさ。
まぁそこをその時間歩いてるヤツなんて俺以外にいないからさ…車に乗せてもらって22:00ごろ寺に入りました。
実は寺に泊まるのは慣れてる…ってか、友人に住職がいて大学時代は何度か泊まり、最近でも1年半くらい前に同じ仲間の結婚式が終わった後、泊めてもらっちゃってるからね。
温かい汁物もごちそうになり…今日は布団で寝れるぞ~



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