4月14日(月)1/2
さて…この「志津川」が祖父(父方)の出身地で、曽祖父と祖父、祖父の兄弟らが眠る墓があるという縁で、そのお寺さんに泊めてもらえるという思いがけない展開になったんだよ。
まったく…野宿しようなんてバカなことを考えたモンだよ…できなくはないと思うけど体力的に今日がキツかったろうね。
これで野宿&野グソを回避できた上に暖かい部屋で、暖かい布団で眠れたんだからさ…初日が高速バス車内、その後2日間がネットカフェだったんだから、一番良い環境になっちゃったよ。
⑩志津川編では1999年に両親が初めて「志津川」を訪れたときに撮っていた写真をスキャンしてデータ化したんで、それを掲載して震災前の町並みと対比させてみることにしました。
⑩宮城県南三陸町「志津川」編
今日は日の出とともに行動し、6:31発のBRTで「気仙沼」まで出なきゃならないからね…4:00前に起き、前日買っておいたパンを食べ、5:00にお寺を出ました。
昨日着いたときは真っ暗だったし、車だったんで…ちょっと境内から出てみました。
これは俺が泊めてもらった不動堂です。
こちらの本堂にご家族が住まわれてるのかな?
立派な「楼門」だね…この「大雄寺」はこの地方随一の名殺で寺伝によると鎌倉初期、奥州藤原氏の「本吉高衡」が創建したといわれ、当時は天台宗に属していましたが、元亀年間(1570~73年)に曹洞宗に改めたといわれています。
それで我が家は「曹洞宗」なのか…今回の旅では何の因果か「曹洞宗」の寺院に縁があったんだよ。
①六日町「雲洞庵」、②春日山「林泉寺」、⑤栃尾「常安寺」、栃堀「高徳寺(静御前墓)」、⑦与板「徳昌寺」、⑧米沢「林泉寺」、⑩志津川「大雄寺」とハントした主要な寺院ばかりでしょ。
「楼門」から観た景色です…下の山門前には杉並木があり、南三陸町の文化財に指定されていたんだって。
それが今や何も跡形が無いよ…
津波は「楼門」石段の何段目かまで来たらしいよ。
この山門も新しいもんな…
これが震災前(1999年)の山門だよ…これが津波で流されて新しいのを建てたんだね。
これが山門前に続いてた杉並木だって…これが皆、津波による塩害で伐採されちゃったんだね。
寺へ続く川沿いの道も俺が昨日通って来たときは川しか頼るモノが無く…真っ暗だし、他には何も無かったからね。
境内に戻ったらオバアちゃんが出て来てくれてて、お墓まで案内してもらっちゃいました。
この墓地中腹から海が見えるね…って、帰ってから両親に聞いたら震災前はほとんど海なんて見えなかったってさ。(見てなかっただけ?)
このお墓に眠る方々は子孫らが住む町に津波が迫り来る様を見守るしかなかったんでしょうね…
これが俺の曽祖父や祖父、祖父の兄弟らが眠る墓です…墓参りができるかどうかも分からず旅立っていたんで何も用意して来なかったけど「よく来たね」と言ってもらった気に勝手になって、お墓をあとにしたよ…今度、家の近くの祖父の墓にも報告しないとね。
この眼下には何も無いけど…震災前には多くの民家や商店が立つ町並みが広がってたんだろうね。
この先に見えるのは仮設住宅だって…3年が経ってもまだ仮設住宅に住まざるを得ない方々が大勢いるようです。
オバアちゃんが車に乗せてくれて町中まで連れて行ってくれるって~
ここに志津川駅があったんだって。
上に線路とホームがあったみたいなんだけど…言われなきゃ何も分からないよ。
これが在りし日の志津川駅です。(1999年撮影)
駅前はこんなだったんだよ…信じられないわ。
そして…これが「防災対策庁舎」です。
この「防災対策庁舎」から防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった町職員「遠藤未希さん」(当時24歳)の悲劇は大きく報道されていたよね。
屋上の床上約2メートルの高さまで津波にのまれ…助かった職員はアンテナにつかまることができた人と手すりで必死に耐えられた人たちだけだったといいます。
近くには「公立志津川病院」があったらしいんだけど、もう取り壊されたんだね。
遠くに見える白い建物は「高野会館」という結婚式場で、震災が起きたとき利用客や従業員らを説得して帰さず、屋上に避難させて約330人が助かったそうです。
志津川湾から約300メートルの平地に立つ4階建ての「高野会館」も屋上まで津波が押し寄せましたが、建物の強度に自信を持つ従業員の適切な判断によって多くの命が救われました。
所有者が過酷な被害を伝える「震災遺構」として施設を残す意向を固めたことにより、今もその姿を残しています。
ここ「防災対策庁舎」の隣に町役場があったらしく…今はこの池?の跡を残すのみなんだけど、これは役場の池でいいの?
これが在りし日の町役場です。(1999年撮影)
付近の町並みだよ。
こんなに民家や商店がフツーにあったんだね。
川の向こう側に祖父の実家があったんだって。
祖父の妹さんは2001年ごろまで健在だったようなんだけど、津波でそのご家族は亡くなられたらしいです。
震災のモニュメントとして「震災遺構」の役割を果たし、庁舎近くの被災建物が次々と撤去される中、「防災庁舎」は撤去されていないけど…解体予定は宙に浮いた状態のままだそうです。
時間は5:30だけど、どこから来たのかレンタカーで小型バスを借りて数名の方々が訪れていたよ…「震災遺構」として残すべきか、それとも遺族の方々に配慮して撤去すべきか…って?俺には何とも言えないよぉ。
その後、オバアちゃんは港の方や高台の方(移転した町役場方面)まで連れて行ってくれました。
この「あさひ幼稚園」は志津川駅のすぐ裏手にあり、津波で流失しましたが、この高台に移り2012年7月28日に落成式が行われました。
園舎は「大雄寺」の参道に植えられていた杉の木が使われているんだって…樹齢300年にもなる杉の大木も津波の被害を受け、塩害で立ち枯れてしまう運命にあったんだけど、杉の木を新しい園舎に使って欲しいという園長先生(大雄寺住職)の思いを聞き、建築家が木のぬくもりのある園舎の設計してこのような立派な幼稚園が建ったそうです。
住職さんて、ここを見せてくれたオバアちゃんの御主人か息子さんなのかな?
これは1999年の志津川の港です…今ようやく市場や加工工場なんかが復興しだしてるみたいだよ。
再び「防災庁舎」付近に戻り、後は歩いてBRT志津川駅まで行けるんでオバアちゃんと別れました。
ホントにありがとうございました…別れ際に「御饅頭」くれたんだけど、俺も昨日「米沢」で買った「御饅頭」を一宿の手土産に持って行ってたんだよ。
「御饅頭」渡して「御饅頭」貰って帰って来るとはね…そういや、お寺さんて檀家さんに配る粗品やらで、こういう茶菓子とかけっこうあるんだよね。
俺も友人の寺に遊びに行くと、いろいろ貰って帰って来るもんな…
これは洗車場とコインランドリーみたい。
「防災庁舎」があったトコは町役場の隣だから、町の中心地だよ…それが全くの更地になっちゃったんだね。
近くに仮設の屋台もありました。
昨日は街灯も無い真っ暗な中を月明かりだけを頼りに歩いて来た道だよ…
このガード?も上には道があったのかなぁ?
まだ「防災庁舎」が見えるよね…震災前だったら絶対に見えることないからね。
「防災庁舎」と「高野会館」…一番右端に見えるのは、もしかして「ホテル観洋」?
両親は「志津川」に行くたびに「ホテル観洋」に泊まってたらしく、「まさか、そこから見えるとは…」と言ってたけど、他にあんな大きな建物は無いからね。
これが昨晩買い物した仮設のファミマです…さすがに24時間営業じゃないんで開店してなかったよ。
6:10ごろ、BRT志津川駅に着きました。
ここにも献花がありました。
ここには「南三陸さんさん商店街」という仮設の飲食店や商店があります。
BRTがやって来ました…って、かなりの中高生が乗って来るんだね、ほぼ満員になっちゃったよ。
まぁ人口は減ったと思うけど、以前は気仙沼線で通学してたんだろうからね…それが今じゃバスだもんね、狭いわな。
昨日も狭いトンネルとか走るんで気づいたんだけど…このBRTって一部一般道も走るけど、ほとんどが線路を埋め立てた道路を走ってるんでしょ?
フツー踏切の遮断機って列車と並行してあるけど、BRTではバスの前後に踏切があるような形だったよ(ね?)。
これはBRT路線に一般車が入って来ないようにするためなんだろうな。
そして8:00ごろ「気仙沼」に着きました…次は9:17発の大船渡線に乗るんで、約1時間ちょっとあるよ。
15分くらい歩いて港の方まで行ってみました…
これは「港町ブルース(森進一)」の碑です。
静かな海だよ…ここ「気仙沼」の津波被害はどうだったんだろう?市役所は少し高台に建っていたんで、そこまで波は来なかったみたいだよ。
この辺りも以前は建物が建っていたんだろうな…いかにも津波で1階部分がやられたっぽいビルもあるね。
8:50ごろ気仙沼駅に戻りました。
そして9:17発の大船渡線に乗り…終点「一ノ関」へは10:36着予定だよ。
これは車窓からの風景です。
今回、初めて被災地を生で見て来たけど、震災後数ヶ月とかだったら、もっと生々しくて見れなかったかも知れないよ。
今じゃ、ほとんど更地でさ、俺は両親みたいに震災前に来ているワケじゃないから違いが全く分からなかったのが幸いだったのかな。
掲載した写真も旅から帰宅した後に見せてもらったんだし、他にネットとかで調べてから行ったワケじゃなかったしね。
だから現地では「?」で良かったんだよ…帰って来てから両親が撮った写真を見たり、ネットで見たりしてショックを受けた方が痛みが和らぐよ。
以前を知ってて現地で現状を見たらショックが大きすぎたと思うからさ…
うまく言えないけど、今もなお地震・津波・原発によって今までの生活に戻れない方々が多くいらっしゃり…関東に住んでて震災直後に少しだけ輪番停電やら節電で日常が変わった程度の俺らは、そのご苦労が分からなすぎるよ。
3.11のとき、俺はまだ「殷」で働いててさ…そのときに辞めてボランティアに行ってりゃ良かったかな?どうせその3ヶ月後には辞めてるし。
戦時中は徴兵制とかあったけどさぁ、こういう国家や都道府県の危機に学生とかをボランティアで被災地動員してもいいんじゃないかね?
大学生なんかは融通が利くし、社会人になる前にこういう経験させるのもいいんじゃないか…と思うよ、韓国や台湾みたいに軍に入れとまでは言わないからさ。
社会人でも育児休暇みたいに会社に申請して誰でもボランティアに行き易いような制度を作ってくれれば、俺も「殷」に申請して被災地に行ってただろうな。
今回「志津川」に行き、被災地を見て、先祖の墓参りをし…「志津川」で生まれた祖父が太平洋戦争で亡くなる間際に横須賀で父と叔父を残し、そして今の俺がいるのに、俺は何も成せず独身のまま安定した職にも就けず果てていくのだろうか…震災によって亡くなられた方々にも十人十色の人生があっただろうけど、一瞬のうちに波に飲み込まれて終わった方もいれば、窮地を脱して生き延びた方もいるんだよ。
人生って何なんでしょう?…って考えてしまうと、壊れてしまうかも知れないんで何も考えないことにしますわ。
では、字数上⑩志津川編は独立させたけど、続きは「義風堂々!!漢たちに逢いに行け!~陸奥・伊達政宗編」でお楽しみください。
さて…この「志津川」が祖父(父方)の出身地で、曽祖父と祖父、祖父の兄弟らが眠る墓があるという縁で、そのお寺さんに泊めてもらえるという思いがけない展開になったんだよ。
まったく…野宿しようなんてバカなことを考えたモンだよ…できなくはないと思うけど体力的に今日がキツかったろうね。
これで野宿&野グソを回避できた上に暖かい部屋で、暖かい布団で眠れたんだからさ…初日が高速バス車内、その後2日間がネットカフェだったんだから、一番良い環境になっちゃったよ。
⑩志津川編では1999年に両親が初めて「志津川」を訪れたときに撮っていた写真をスキャンしてデータ化したんで、それを掲載して震災前の町並みと対比させてみることにしました。
⑩宮城県南三陸町「志津川」編
今日は日の出とともに行動し、6:31発のBRTで「気仙沼」まで出なきゃならないからね…4:00前に起き、前日買っておいたパンを食べ、5:00にお寺を出ました。
昨日着いたときは真っ暗だったし、車だったんで…ちょっと境内から出てみました。
これは俺が泊めてもらった不動堂です。
こちらの本堂にご家族が住まわれてるのかな?
立派な「楼門」だね…この「大雄寺」はこの地方随一の名殺で寺伝によると鎌倉初期、奥州藤原氏の「本吉高衡」が創建したといわれ、当時は天台宗に属していましたが、元亀年間(1570~73年)に曹洞宗に改めたといわれています。
それで我が家は「曹洞宗」なのか…今回の旅では何の因果か「曹洞宗」の寺院に縁があったんだよ。
①六日町「雲洞庵」、②春日山「林泉寺」、⑤栃尾「常安寺」、栃堀「高徳寺(静御前墓)」、⑦与板「徳昌寺」、⑧米沢「林泉寺」、⑩志津川「大雄寺」とハントした主要な寺院ばかりでしょ。
「楼門」から観た景色です…下の山門前には杉並木があり、南三陸町の文化財に指定されていたんだって。
それが今や何も跡形が無いよ…
津波は「楼門」石段の何段目かまで来たらしいよ。
この山門も新しいもんな…
これが震災前(1999年)の山門だよ…これが津波で流されて新しいのを建てたんだね。
これが山門前に続いてた杉並木だって…これが皆、津波による塩害で伐採されちゃったんだね。
寺へ続く川沿いの道も俺が昨日通って来たときは川しか頼るモノが無く…真っ暗だし、他には何も無かったからね。
境内に戻ったらオバアちゃんが出て来てくれてて、お墓まで案内してもらっちゃいました。
この墓地中腹から海が見えるね…って、帰ってから両親に聞いたら震災前はほとんど海なんて見えなかったってさ。(見てなかっただけ?)
このお墓に眠る方々は子孫らが住む町に津波が迫り来る様を見守るしかなかったんでしょうね…
これが俺の曽祖父や祖父、祖父の兄弟らが眠る墓です…墓参りができるかどうかも分からず旅立っていたんで何も用意して来なかったけど「よく来たね」と言ってもらった気に勝手になって、お墓をあとにしたよ…今度、家の近くの祖父の墓にも報告しないとね。
この眼下には何も無いけど…震災前には多くの民家や商店が立つ町並みが広がってたんだろうね。
この先に見えるのは仮設住宅だって…3年が経ってもまだ仮設住宅に住まざるを得ない方々が大勢いるようです。
オバアちゃんが車に乗せてくれて町中まで連れて行ってくれるって~
ここに志津川駅があったんだって。
上に線路とホームがあったみたいなんだけど…言われなきゃ何も分からないよ。
これが在りし日の志津川駅です。(1999年撮影)
駅前はこんなだったんだよ…信じられないわ。
そして…これが「防災対策庁舎」です。
この「防災対策庁舎」から防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった町職員「遠藤未希さん」(当時24歳)の悲劇は大きく報道されていたよね。
屋上の床上約2メートルの高さまで津波にのまれ…助かった職員はアンテナにつかまることができた人と手すりで必死に耐えられた人たちだけだったといいます。
近くには「公立志津川病院」があったらしいんだけど、もう取り壊されたんだね。
遠くに見える白い建物は「高野会館」という結婚式場で、震災が起きたとき利用客や従業員らを説得して帰さず、屋上に避難させて約330人が助かったそうです。
志津川湾から約300メートルの平地に立つ4階建ての「高野会館」も屋上まで津波が押し寄せましたが、建物の強度に自信を持つ従業員の適切な判断によって多くの命が救われました。
所有者が過酷な被害を伝える「震災遺構」として施設を残す意向を固めたことにより、今もその姿を残しています。
ここ「防災対策庁舎」の隣に町役場があったらしく…今はこの池?の跡を残すのみなんだけど、これは役場の池でいいの?
これが在りし日の町役場です。(1999年撮影)
付近の町並みだよ。
こんなに民家や商店がフツーにあったんだね。
川の向こう側に祖父の実家があったんだって。
祖父の妹さんは2001年ごろまで健在だったようなんだけど、津波でそのご家族は亡くなられたらしいです。
震災のモニュメントとして「震災遺構」の役割を果たし、庁舎近くの被災建物が次々と撤去される中、「防災庁舎」は撤去されていないけど…解体予定は宙に浮いた状態のままだそうです。
時間は5:30だけど、どこから来たのかレンタカーで小型バスを借りて数名の方々が訪れていたよ…「震災遺構」として残すべきか、それとも遺族の方々に配慮して撤去すべきか…って?俺には何とも言えないよぉ。
その後、オバアちゃんは港の方や高台の方(移転した町役場方面)まで連れて行ってくれました。
この「あさひ幼稚園」は志津川駅のすぐ裏手にあり、津波で流失しましたが、この高台に移り2012年7月28日に落成式が行われました。
園舎は「大雄寺」の参道に植えられていた杉の木が使われているんだって…樹齢300年にもなる杉の大木も津波の被害を受け、塩害で立ち枯れてしまう運命にあったんだけど、杉の木を新しい園舎に使って欲しいという園長先生(大雄寺住職)の思いを聞き、建築家が木のぬくもりのある園舎の設計してこのような立派な幼稚園が建ったそうです。
住職さんて、ここを見せてくれたオバアちゃんの御主人か息子さんなのかな?
これは1999年の志津川の港です…今ようやく市場や加工工場なんかが復興しだしてるみたいだよ。
再び「防災庁舎」付近に戻り、後は歩いてBRT志津川駅まで行けるんでオバアちゃんと別れました。
ホントにありがとうございました…別れ際に「御饅頭」くれたんだけど、俺も昨日「米沢」で買った「御饅頭」を一宿の手土産に持って行ってたんだよ。
「御饅頭」渡して「御饅頭」貰って帰って来るとはね…そういや、お寺さんて檀家さんに配る粗品やらで、こういう茶菓子とかけっこうあるんだよね。
俺も友人の寺に遊びに行くと、いろいろ貰って帰って来るもんな…
これは洗車場とコインランドリーみたい。
「防災庁舎」があったトコは町役場の隣だから、町の中心地だよ…それが全くの更地になっちゃったんだね。
近くに仮設の屋台もありました。
昨日は街灯も無い真っ暗な中を月明かりだけを頼りに歩いて来た道だよ…
このガード?も上には道があったのかなぁ?
まだ「防災庁舎」が見えるよね…震災前だったら絶対に見えることないからね。
「防災庁舎」と「高野会館」…一番右端に見えるのは、もしかして「ホテル観洋」?
両親は「志津川」に行くたびに「ホテル観洋」に泊まってたらしく、「まさか、そこから見えるとは…」と言ってたけど、他にあんな大きな建物は無いからね。
これが昨晩買い物した仮設のファミマです…さすがに24時間営業じゃないんで開店してなかったよ。
6:10ごろ、BRT志津川駅に着きました。
ここにも献花がありました。
ここには「南三陸さんさん商店街」という仮設の飲食店や商店があります。
BRTがやって来ました…って、かなりの中高生が乗って来るんだね、ほぼ満員になっちゃったよ。
まぁ人口は減ったと思うけど、以前は気仙沼線で通学してたんだろうからね…それが今じゃバスだもんね、狭いわな。
昨日も狭いトンネルとか走るんで気づいたんだけど…このBRTって一部一般道も走るけど、ほとんどが線路を埋め立てた道路を走ってるんでしょ?
フツー踏切の遮断機って列車と並行してあるけど、BRTではバスの前後に踏切があるような形だったよ(ね?)。
これはBRT路線に一般車が入って来ないようにするためなんだろうな。
そして8:00ごろ「気仙沼」に着きました…次は9:17発の大船渡線に乗るんで、約1時間ちょっとあるよ。
15分くらい歩いて港の方まで行ってみました…
これは「港町ブルース(森進一)」の碑です。
静かな海だよ…ここ「気仙沼」の津波被害はどうだったんだろう?市役所は少し高台に建っていたんで、そこまで波は来なかったみたいだよ。
この辺りも以前は建物が建っていたんだろうな…いかにも津波で1階部分がやられたっぽいビルもあるね。
8:50ごろ気仙沼駅に戻りました。
そして9:17発の大船渡線に乗り…終点「一ノ関」へは10:36着予定だよ。
これは車窓からの風景です。
今回、初めて被災地を生で見て来たけど、震災後数ヶ月とかだったら、もっと生々しくて見れなかったかも知れないよ。
今じゃ、ほとんど更地でさ、俺は両親みたいに震災前に来ているワケじゃないから違いが全く分からなかったのが幸いだったのかな。
掲載した写真も旅から帰宅した後に見せてもらったんだし、他にネットとかで調べてから行ったワケじゃなかったしね。
だから現地では「?」で良かったんだよ…帰って来てから両親が撮った写真を見たり、ネットで見たりしてショックを受けた方が痛みが和らぐよ。
以前を知ってて現地で現状を見たらショックが大きすぎたと思うからさ…
うまく言えないけど、今もなお地震・津波・原発によって今までの生活に戻れない方々が多くいらっしゃり…関東に住んでて震災直後に少しだけ輪番停電やら節電で日常が変わった程度の俺らは、そのご苦労が分からなすぎるよ。
3.11のとき、俺はまだ「殷」で働いててさ…そのときに辞めてボランティアに行ってりゃ良かったかな?どうせその3ヶ月後には辞めてるし。
戦時中は徴兵制とかあったけどさぁ、こういう国家や都道府県の危機に学生とかをボランティアで被災地動員してもいいんじゃないかね?
大学生なんかは融通が利くし、社会人になる前にこういう経験させるのもいいんじゃないか…と思うよ、韓国や台湾みたいに軍に入れとまでは言わないからさ。
社会人でも育児休暇みたいに会社に申請して誰でもボランティアに行き易いような制度を作ってくれれば、俺も「殷」に申請して被災地に行ってただろうな。
今回「志津川」に行き、被災地を見て、先祖の墓参りをし…「志津川」で生まれた祖父が太平洋戦争で亡くなる間際に横須賀で父と叔父を残し、そして今の俺がいるのに、俺は何も成せず独身のまま安定した職にも就けず果てていくのだろうか…震災によって亡くなられた方々にも十人十色の人生があっただろうけど、一瞬のうちに波に飲み込まれて終わった方もいれば、窮地を脱して生き延びた方もいるんだよ。
人生って何なんでしょう?…って考えてしまうと、壊れてしまうかも知れないんで何も考えないことにしますわ。
では、字数上⑩志津川編は独立させたけど、続きは「義風堂々!!漢たちに逢いに行け!~陸奥・伊達政宗編」でお楽しみください。
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