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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

座頭市

2008-05-06 17:30:40 | 映画(さ)
評価点:80点/2003年/日本

監督:北野武

勝新太郎の有名映画のリメイク。もはやリメイクのレベルではない!

按摩の座頭市(北野武)は、流れ着いた宿場町でたまたま出会ったおうめ(大楠道代)の家に泊めてもらった。
一方、病気の妻を持つ浪人・服部源五郎(浅野忠信)も、妻の治療のための金を稼ぐため、同じ宿場町へとやってきた。
そして、二人の旅芸者、おきぬ(大家由祐子)と、おせい(橘大五郎)も宿場町へとやってきた。
座頭市は、賭博で知り合ったおうめの甥の新吉(ガダルカナル・タカ)とともに博打で勝った金を手に、遊郭へ遊びに行く。
そこで出会ったおきぬと、おせいの不振な動きに気づいた盲目の市は、かつては米問屋だった彼女たちが、一家を陥れた一味への復讐のために旅芸者をしていることを知る。
そのころ、服部源五郎は、宿場町を仕切っているヤクザの銀蔵に売り込み用心棒になる。
そして、座頭市と新吉は、銀蔵の縄張りで賭博に勝ち続けたため、トラブルを招いてしまう。

本来なら、勝新太郎の「座頭市」を観てから観にいくべきだったのだが、近所のレンタル・ショップでは、品揃えが悪く、置いていなかった。
結果、勝新のものは観ていないで、こちらの方を先に見てしまった。
だから、比較はできない。その点はご了承願いたい。
できるだけ早く機会を作って見るつもりでいる。
(と言いながら、今でもまだ観ていない。すんません。)

▼以下はネタバレあり▼

前評判がかなり高く、ヴェネチア国際映画祭でも、準グランプリをとったこともあり、あまり観にいく気はなかったのだが、観にいくことにした。
そもそも、武の映画はあまり好きじゃない。
もっと具体的に言うなら、北野武が出ている映画はあまり好きじゃない。
なぜなら、スクリーンの中の彼は演技に見えないから。
どうしてもバラエティ番組に出ているビート・たけしのイメージがこびりついてしまい、
演技力があるとは思えない。
だから、監督北野武の作品は、実は全く観ていない。
これからも、積極的に観ていくことはないと思う。

盲目で、謎。そして何より天下無双の男、座頭市。
僕の知識ではこの程度しかない。
親の話では、勝新の「座頭市」は、全体に暗いということだったので、本作はそのイメージを一新していることは確かだろう。
前評判からいわれているとおり、タップ・ダンスなどの手法、金髪の座頭市、
そしてたけし軍団の面子を加えることによって、相当にイメージ・チェンジしている。
ゆえに、昔の「座頭市」を知っている人なら、その変化に戸惑うかもしれない。
しかし、その反面、少なくとも20代、30代の人にとっては、「享受しやすい」映画になっている。
明らかにターゲット(狙った客層)は、若い世代だ。

そのための手法が巧みに仕組まれている。
例えば、音。
なにかとタップ・ダンスが注目される本作だが、ラストのタップ・ダンスへつなげるための布石は、最初から既にある。
軽快なリズムの音楽と、農民が奏でる鍬のリズムがそれだ。
「盲目の座頭市」という設定ゆえに、音は非常に重要な意味合いがある。
そういう意味でも、北野が目指したかったものがひとつ見える。

次に、カメラの位置だ。
これにも気づいた人は多かったと思われる。
通常、テレビの時代劇にしても、大河ドラマにしても、もちろん、時代劇の映画にしても、二人の人物を、横一列に配することが多い。
殺陣のシーンではそれが顕著に現れ、主人公と敵(かたき)との距離を見せるため、横一列に配して、カメラは両者の真横から取る。
本作では、そういった真横からのシーンは非常に少ない。
皆無に近い。
二人の人物は、縦の関係で、遠近で撮るのだ。

それは何も殺陣のシーンだけではない。
芸者が客に踊るシーンもそうだし、誰かと誰かが二人で話すときも殆んどが、“遠”と“近”で撮る。
それが明らかに意識的にとっていることが判るシーンのひとつは、おきねとおせいの回想のシーン。
二人が食事をしているとき、雇い主らしき女が、おきねの茶碗をはたく。
そのまま、おせいだけが彼女に連れられて、「男色」させられるシーンへと続く場面だ。
ここで一人取り残されたおきぬは、はたかれた茶碗を拾い、片付ける。
このときカメラは襖(だったと思う)を一番手前に置き、その奥におきぬ、そして外の背景と、立体的に撮る。
その画では、おきぬが片付けている食器の辺りに光が差し込み、全体として暗い部屋に明るい箇所ができる。
これによってスクリーンとしては、暗-明-暗-明となる。
この光のコントラストで、まさに立体的に見せることに成功している。

この立体的な空間の演出は、江戸時代(たぶんそうだろう)という古い時代設定の世界を、観客のいる奥行きのある現代の観客に、臨場感を持たせることができる。
平べったい、絵空事としての物語ではなく、立体的な、もっと身近なものとして伝わってくるのだ。

この映画を全体に貫いているのは、まさにこの「現代性」だ。
僕個人としては、時代劇映画「梟の城」と横並びの「時代劇」ではなく、「マトリックス」と横並びの「スタイリッシュ」な映画だと思う。
マトリックス」でも、言ったことだが、この映画も、「デジタル」なのである。
平たく言えば、生活臭がないのだ。
もちろん、登場する人々は飯を食い、血を流す。
しかし、映像には生活臭がない。
鮮明で大量に流れる血にも、何を食べているかわからないアングルからの居酒屋にも、生活臭がなく、人間的な「感情」がすっぽりと抜け落ちている。
復讐に燃えるおきぬとおせいも、いたって冷静に過去を話す。
主人公の座頭市は、一味に立ち向かうが、その動機が感情的なものであることは一切明かさない。
「人間の心がわかるんだよ」という台詞以外、彼の哲学を推しはかることができないのだ。
背景の家も、使いこなされているような黒い色であっても、そこに生活臭はない。

同じような、旅人がそこにいる人々を救うような時代劇を思い出してみれば、その差が決定的であることがわかる。
「水戸黄門」では、「なんとむごい。そんな悪い商人がいるのか。そんな者は人であって人ではない!」というような感情的な台詞のオンパレードだ。
だから「成敗してくれよう!」となるのである。

一方、本作はそんなことは一切言わない。
観客の心情に訴えることはしないのだ。
ある意味では、感情の表出を良しとしなかった江戸時代の武士にあっているのかもしれないが、今まで脈々と受け継がれていた「時代劇」という枠を完全に壊している。
いや、そんなものはなかったのだといわんばかりに、枠を無視している。
もちろん、それが言いか悪いかはそれぞれの観客が判断することだ。
しかし、間違いなく「現代性」がこの映画では核となっている。

モティーフ(題材)は江戸時代で、「座頭市」。
しかし手法は、まさに北野監督のものであり、現代的だ。
タップダンスが違和感なく挿入されるのは、そういう理由だ。

その現代化のために、捨ててしまったこともいくつかある。
例えば、盲目にとっての「音」だ。
冒頭で子どもが刀を盗んだり、「試し切り」と称して林の中から手下に襲わせたりするシーンでは、明らかに座頭市にとって「聞こえる距離」にいるはずの「音」が、聞こえないものになってしまっている。
殺陣でも座頭市にとっての音は殆んど意味を成さず、観客は彼の強さを見るだけになっている。
映画的に、感情を廃するために、敢えてそう撮ったとも言えるが、これにより、タップまでに見せた「音」のこだわりが徹底されていない。
少し残念だ。

出来は、かなり良いといってもいいだろう。
しかし、感情に訴える「時代劇」も結構好きな僕にとっては、「良くも悪くも現代風」だな、と思う。
時代ものを扱った作品としては、興味深い手法をみせてくれたことは確かだ。

(2003/10/25執筆)

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