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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

戦場のピアニスト(V)

2008-11-23 20:16:12 | 映画(さ)
評価点:60点/2002年/ポーランド・フランス映画

監督:ロマン・ポランスキー

アカデミー賞主演男優賞、アカデミー賞監督賞作品。

ユダヤ人でポーランドでも屈指のピアニストである、ウワディク(エイドリアン・ブロディ)は、次第にヒトラーの迫害が厳しくなってくるのを感じていた。
やがてユダヤ人は指定された住居区に強制的に移住させられはじめる。
家族を食べさせていくため、ウワディクは、食堂のピアニストとして働くことにするが。。。

2003年度のアカデミー賞の注目作品の一つ。
というのは、アメリカから追われているロマン・ポランスキー監督が、ほんとうに栄誉あるアカデミー賞の監督賞に選出されるのか、という注目が高まったからである。
ここでアカデミーの選考側が彼を落としたとしたら、それ(亡命)が影響したのではないかとささやかれるから、あえて選出したのでは? と僕などはうがった見方をしてしまう。
ほかのノミネート作品の「めぐりあう時間たち」などと比べても、遜色ない出来であったとは思うが、僕の感想は、「あと一歩」。

▼以下はネタバレあり▼

この主人公は、タイトルにあるように、ピアニストである。
ヨーロッパでは地位が高いといっても、所詮はピアニスト。
「権力」とは無縁のところにいる。
ピアニストであるがゆえに救われたところもあれば、逆にピアニストでなければ苦労はなかっただろう、という面もある。

主人公は、ピアニストであるがゆえに、この戦争に関しては「傍観者」である。
要するに彼は、救われるのも迫害を受けるのも、「される側」であり、全てにおいて受動的なのだ。
実話に基づいているという点で、ドキュメンタリー的な演出になるのは、充分に理解する。
また、そもそもヒトラーのやったことに対して、対立できた人、立ち向かった人などは、殆んどいなかった。
それは大変勇気のいることだったし、立ち向かえなかったとしても、それは仕方がないといえば仕方がない。
彼らを非難することはできない。
だから、このウワディクが立ち向かえなかったとしても、受動的であったとしても、仕方がない面はある。

しかし、「ライフ・イズ・ビューティフル」や「シンドラーのリスト」、「大脱走」などの映画には、力強い「希望」がある。
僕は、個人的に、そういう映画の方が好きなのである。
だから、本作のように、主人公がただただ逃げ惑うという戦争映画は、どうしても感情移入できない。
しかも中盤、彼はこんなことをレジスタンスに言う。
「彼らはよく戦ったわ」(レジスタンスの女性)
「しかし、無駄だった」(彼)
この台詞は、ドイツ軍に反旗を掲げたにもかかわらず、負けてしまったユダヤ人たちに対しての会話のシーンでのものだ。

僕は、ここにどうしても違和感を覚える。
もちろん、レジスタンス行動を行う人々がすばらしいと言いたいのではない。
それができないウワディクが、いけないと言いたいのでもない。
ウワディクがあまりに無責任であると言いたいのである。
彼はレジスタンスらの手を借りて、生き延びているという状況がある。
にもかかわらず、彼らの意志を反故にする台詞を吐くのは、どうしても納得がいかない。

彼の行動原理は、欲求は、「ピアノが弾きたい」というものだ。
それは非常によくわかる。
しかし、彼は本当に「それだけ」なのだ。
それ以上のことを望んでいないし、それだけを渇望している。
それは、人間として自然であるし、非常な状況下であれば、さらにそれが渇望されるということは理解できる。

しかし、戦争という状況下でひたすらそれだけを追う姿を見て、それは一つのエゴではないか、という印象さえもってしまった。
それが、先ほど言った「しかし、無駄だった」という、彼の呟きに表れているような気がしたのである。

もちろん、この映画が非常にリアルに、そして衝撃的に、しかも過剰な演出に頼らないでそれを描ききったという点は評価できる。
戦争を知らない世代で生まれ育った僕には、想像もできない。
そうした極限の中の、人間というものをリアルに描いているのかもしれない。
しかし、やはり彼は「無関心」すぎる。
僕はその彼の態度に対して感情移入ができなかった。

人がごみのように、物のように殺されていくシーンに、この映画では何のイメージも沸かなかった。
それは、この主人公の「無関心」によるものだと思う。
映画は、主人公(視点人物)の眼を通したものが、観客のイメージとなるのである。

また、リアルとか、実話とか、ドキュメンタリーとか、ノンフィクションとかというこの映画の形容を納得しながらも、「音楽が人の心を動かした」というイデオロギーともいえるテーゼが、戦略的に、「仕組まれている」ようにも感じた。

こんな書き方をすると、戦争を肯定しているとか、戦争の悲惨さを知らないからだ、といわれるかもしれない。
確かに、そうした反論は否定しない。
だから、僕はこの文章に関しては、「僕は」という主語を多くしたつもりだ。
しかし、こういう観点も存在しうる、という意味で、この映画を〈読み〉直してほしいと思う。

完成度が低いとは思わない。
逆に高いと思えるから、こうした違和感が生まれたのかもしれない。
また、オスカーをとったということから、過剰に期待してしまったのかもしれない。

戦争映画に「傍観」や「客観」はないのだと、改めて考えさせられた。

(2004/7/10執筆)

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