secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

3時10分、決断のとき(V)

2009-12-27 08:24:44 | 映画(さ)
評価点:86点/2008年/アメリカ

監督:ジェームズ・マンゴールド

これが、近代合理主義には理解できない、男の世界。

南北戦争が終わってまもなく、ベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)という悪党一味が各地の現金輸送馬車を襲っていた。
そんな世間の噂よりも、ダン・エヴァンズ(クリスチャン・ベイル)は、来週までに借金を返せと脅される日々が続いていた。
彼は南北戦争で負傷した片足と、咳で苦しむ息子がいた。
牧場を経営している彼は、納屋を燃やされますます窮地に立たされていた。
逃げた牛を翌日探しに行くと、現金輸送馬車を襲撃したベンと遭遇してしまう。

西部劇というジャンルがちょっと息を潜めている昨今にあって、この映画はそのなかでも珠玉の映画である。
ラッセル・クロウとクリスチャン・ベイルという二大スターの競演もさることながら、まさにウェスタンというシナリオである。
日本ではおそらく単館上映だったので、あまり知る人は少ないかもしれない。

僕の周りにいる映画好きの人に聞いたので、手にとってみることにした。
もし見に行けたら、おそらくこれが今年(日本2009年公開)の一番だったのではないかと思えるほどだ。
こういう世界観は、もしかしたら日本の侍に似ているのかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

近代人であれば、ラストで部下を皆殺しにしてしまうベンに対して不条理さや非合理性を感じることだろう。
「ここで助けに来た部下を殺す必要はないはずだ!」と憤りさえ感じるかもしれない。
けれども、これが男の世界なのである。

この映画のおもしろさは、近代という時代に設定された非近代主義的な物語であるということだろう。
牧場を営むのダン・エヴァンスと、各地で強盗を繰り返すベン・ウェイドの二人は、お金や土地の権利で翻弄されている。
ウェイドは、一見近代合理主義から一線を画するように見えながら、彼こそ、人の金を奪って自分の金にするという近代的な帝国主義を体現する職業に就いている。
また、ダンも、地代を払えずに糊口をしのぐだけで精一杯の生活をしている。
彼らは、南北戦争後の、近代というアメリカを支配し始めているルールに従って生きるように、否応なしに合理主義を押しつけられた人々である。

その彼らは、ダンにしてみれば自分の人生を考えると全く意味のない護衛を最後まで請け負ったり、ベンにしてみれば逃げることができるのにあえて味方を殺して自ら死刑台行きの列車に乗ったりする。
近代的な合理主義としては理解しがたい行動であるはずだ。
だが、それは「合理的な説明」を可能にする彼らの哲学がある。

それを読み解く一つのキーワードが「俺は頑固者ではない」という最後のダンの台詞である。
「頑固者」とは古い因習にとらわれ動けなくなってしまった者であり、自分の中に軸を持たずに周りに対して耳を閉ざしてしまっている人間に他ならない。
だからダンはそれを否定する。
「子どもが病気なので、乾燥した大地でないと死んでしまうから、あの土地にいるのだ」
彼はただ盲目的に自分の居場所を守り続けていたのではない。
彼は、子どものために生きる場所を積極的に選んだのだ。
たとえ、それが全く選択肢のない中での選択であったとしても、それは「頑固者」とは違うのである。

この映画の邦題は「決断のとき」となっている。
原題は「TO YUMA」となっており、「ユマへ(の列車)」程度の意味である。
何度も何度も危機に見舞われるごとに、ダンは引き返すべきかと難題を突きつけられる。
この映画を見ている人間であれば、この「決断」は芥川の「羅生門」の「下人」と同じような「決断」であると考えてしまう。
現に、この映画は前半、ずっとダンへの内面描写を中心に展開するため、そのように読める。
だが、本当の「決断」は、「ベン・ウェイドの決断」なのである。
そのあたりの転倒が実にうまい。

ベン・ウェイドの決断は、端的に言って、自分の人生を自分で生きること、である。
列車でユマへ連れて行かれる彼は、死刑台しか待っていない。
もしかしたら、この物語で描かれていることが、裁判官などに知られて減刑されることがあるかもしれない。
けれども、それはどうでもいいことである。
大切なのは、自分の足で列車に乗ることを選択することなのである。

ベンの当初の目的は、ダンを自分を逃がすように説得することで、自分を逃がすように仕向けることだった。
興味を示しているように見せて、それは完全な打算の上であることはいうまでもない。
だが、ダンの決断は揺るがない。
ベンはその決断の重さが、「頑固者」であるからではなく、「自らの意志による選択」すなわち「自分の人生を自分で生きること」であると知らされるのである。
彼はそもそも、ぶら下がっていきる人間が大嫌いであった。
人質に取られた仲間をあっさり殺してしまうベンは、一人でも生きられるという自負と自律心があった。
自分を移送しようとしている男を目の前にして、自分もまたぶら下がって生きる人間であることに気づいたわけだ。
仲間を殺したのはなぜだろう。
それは自分がリーダーとはいえ、自分にぶら下がる人間たちであることを悟ったからだ。
それは助けに来てくれたといったありがたさを超える理論である。
今、この瞬間に自分の意志で命を投げ出せるかという、精神力があるかどうかなのだ。
仲間を撃ち殺すという行動そのものが、彼の決断そのものなのである。

それは非合理であるかもしれない。
しかし、だからこそ、この近代というアメリカにおいて、自分が生きることを肯定的に示す行動だったのである。
もっと端的に言うならば、それは近代というシステムへの抵抗であり、近代という時代への自己の刻印とでもいうべき選択である。
だから、おもしろいのだ。
ただ、非合理的な行動を起こしているのではない。
非合理的な選択は、合理的な社会における選択であるからこそ、意味を持つのである。

父親の尊厳を見せるためだけに僕たちは死ねるだろうか。
それが近代への抵抗という重さである。
もちろん、格好いいと僕が素直に思えるゆえんである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ザ・シューター 極大射程(V) | トップ | パブリック・エネミーズ »

コメントを投稿

映画(さ)」カテゴリの最新記事