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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

疾走(V)

2009-07-18 21:42:38 | 映画(さ)
評価点:27点/2005年/日本

原作:重松清
監督:SABU

もうすこしなんとかならんかったものか。

シュウジ(手越祐也)は兄のシュウイチが機嫌の悪い時、いつも殴られていることを両親には黙っていた。
両親はシュウイチが有名高校に進学したことを誇りに思っていたからだ。
やがて、シュウジが住む街にリゾート計画の話が持ち上がり、「沖」と呼ばれる干拓地は急速に変化していく。
そんなある日、「沖」の家が放火されるという事件が起こり……。

重松清原作の「疾走」の映画化作品。
重松清ファンの僕としては、絶対に面白くないだろうという理性よりも、とにかく映像化されたものを見てみたいという欲求に勝てずに新作でレンタルしてしまった。
借りる前の予想が裏切られることは、残念ながらなかった。

原作に思い入れがあるか、もしくはキャスティングに惹かれるのでなければ、観るべきではない映画だ。
おそらく、何が何だか分からない映画だろう。
これを観るくらいなら、原作を読んで欲しいと切に願う。
 
▼以下はネタバレあり▼

僕は、この映画単体で語ることはどうしてもできない。
やはり、先に原作を読んでいたので、原作の内容で作品を補完して観ようとしてしまう。
原作と映画とでは全くテクスト空間が違うことは承知しているが、比較してしまうことを許してもらいたい。

まず、この映画について語る前に、どうしても原作についても触れておきたい。

重松清の「疾走」は上下巻で、重松清のなかでも長編の部類に入る。
そして、重松に共通する十代を描いている作品である。
だが、この映画はそのなかでも、おそらく映画化に最も適していない小説ではないだろうか。
なぜなら、説明すべき設定が多すぎるからである。
単に主人公のシュウジの性格や取り巻く家庭環境だけではなく、「沖」と「浜」、時代背景、兄への期待、友人の性格と設定、教会について、茜について……
などなど、物語を支えている設定が細かく、多い。
しかもその前提がなければ、物語として前へ進めないという種類のものばかりだ。
これほど細かい設定をどうやって見せるか。
あるいは、どれだけ「捨てられる」か。
それがこの映画の成否を決めるだろうと、予想できた。

映画の話にもどそう。
この映画は、まさにその部分が全くダメダメだ。
この映画は、あまりに説明的な描写がなさすぎるのだ。
だから、予備知識なしで観てしまうと、おそらく何がなんだか分からない映画になっているだろう。

説明的な描写が多ければ多いほど、映画としては退屈な映画になってしまう。
どれだけ説明されても、やはりそれが観客の感情を揺り動かすものでなければ、設定を知るだけの映画になってしまうからだ。
だからといって、全く設定が読めない映画だと、今度は物語の展開についていけないことになる。
結局は感情移入する余地を与えてもらえない観客としては、最終的に「よくわからない」映画になってしまう。

この映画は、注意深く観れば、実は原作の設定を忠実に描いている。
「リゾートホテル建設中止 バブル崩壊」という新聞を見せたり、細かくナレーションを入れたりすることによって、設定を提供してはいる。
原作を読んでいる僕にとっては、ああ、なるほどね。という印象を受ける。

だが、問題はその見せ方があまりに「さらっと」しているという点だ。
ものすごく重要な展開であるのに、なぜか、ワンシーンや台詞一つで、物語を進展させようとする。
聞き逃してしまうと、物語の次の展開が持つ意味を見いだすことができなくなってしまう。
映画を見慣れた人でも、簡単に見せられてしまっては、それの持つ意味の大きさを理解するまでに時間がかかる。
ざっくり言えば、SABUの手法は、観客に、具体的なシークエンスを見せることによって、その背後にある設定まで読ませる、という手法なのである。

だが、これは非常に高度な演出のテクニックが必要となる。
緩やかなテンポで進む映像の中に、それだけの意味を込めるとなると、読み手の負担と、理解速度などを計算しながらでないと成り立たない。
当然、ワンシーンの重みが大きくなるということは、役者が適切に演じないと、シーンどうしが繋がらないということも起こりうる。
それを、きちっとした演技をしたことがないような、キャスティングでやろうとした理由がつかめない。
あまりに役者にかかる負担が大きすぎるのだ。

特にシュウジ役の手越祐也は完全にキャストミスだ。
彼においては演技の上手・下手という次元ではない。
滑舌が悪い。
もっとはっきり言えば、何を言っているのかわからない。
特にナレーションで、非常に大事な話をしているはずなのに、国語の時間の朗読のような手抜きナレーションのうえに、はっきり子音を発音しないから、聞き取れない。
さらりと言わなければならないシーンでも、本当にさらりと言ってしまったおかげで、何を言っているのかわからない。
それが、その後の展開に大きく影響する台詞であるのに。
彼のヤバイ台詞を聞いて、改めて、役者って実はすごいのだと思った。

ところで、彼の演技によってこの映画が劇中のシュウイチ同様に「壊れた」とは思わない。
やはり問題は彼の演技ではなく、彼の演技に大きな負担を強いた監督の演出、あるいはすべてを丸投げしても映画として成立すると踏んだ楽観的な脚本に根元的な原因がある。
青春ドラマのような、間のあいたテンポ。
喪失感を漂わせる青い空。
疾走感を出すための大きな空間。
それら全てが、この映画の原作の持っているポテンシャルとは、大きくかけ離れている。
この小説は非常に残酷なのである。
温い青春ドラマとはまったく路線が違う。
複雑な社会情勢の上に、ゆがんだ家族の愛。
そして聖書では救えないほどの残酷な出来事。
それでも聖書に答えを見いだそうとする弱い子どもたち。
それら全ては、登場人物達の内面をえぐるためには、丁寧に、緻密に、そして大胆に脚色するべきだと訴えている。

それなのに、安易にジャニーズファンを取り込もうとした商業的な路線で脚色し、キャスティングし、そして撮影してしまった。

手越は試写会で言う。
「この映画は観る人に多くのことを訴えかける映画です。
気軽に観られるような映画ではありませんが、観て下さい」
彼は原作のなんたるかをある程度理解していたのだろう。
だが、SABUはそれを全く理解できていなかったのだろう。

重松清がどういう想いでこの作品を書いたのだろう。
その想いを伝えるための映画としては、あまりに粗悪品であると言わねばならない。

僕が唯一嬉しかったのは、最後の「岡山県警」というパトカーである。
やはり舞台は重松清の出身地・岡山県だったのだ。
重松が原作に「あとがき」を書かなかった想いは、ことのほか重い意味をもつはずだ。
映画と小説とが違う文脈上に存在するとしても、僕はそれが分かっただけでも良かった気がする。

(2006/8/23執筆)

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