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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

キング・コング

2008-04-02 18:32:44 | 映画(か)
評価点:82点/2005年/アメリカ

監督:ピーター・ジャクソン

この映画のみどころは、監督のキング・コングに対する愛そのもの。

1930年代、ニューヨーク。
人々は世界恐慌のあおりをうけ、植えと寒さに苦しんでいた。
役者を目指すアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)も同様に、大きな舞台を夢見るが、現実は芝居小屋の主が夜逃げ、仕事を失う。
紹介されたストリップ劇場の前で立っているのを、映画プロデューサーのカール・デナム(ジャック・ブラック)が目をつけ、言葉たくみに自分が企画した冒険ものの海外ロケに誘う。
映画会社から止められていたにもかかわらず、脱出するように船を出す。
目指すは海図にも乗っていない「ドクロ島」。
船乗り達も不安に駆られながら、進んでいくと、いきなり霧に包まれ、巨大な壁が現れる。
おそるおそる上陸すると、そこは未知の生物が棲息する恐ろしい島だった。

三十年もの間、ずっと温め、メガホンをとることを熱望していたというピーター・ジャクソン。
その夢が遂に叶った、というわけである。
映画の中でもその心意気は随所に見ることができる。
あれだけの大作であるが故に、「ロード・オブ・ザ・リング」だけの一発屋だと、思われがちだが、そうではない、とみんなに示したことは間違いない。

「ジュラシック・パーク」を映画館で見たときに、大きな興奮を覚えたが、それと同等の衝撃を感じることができるだろう。迷っている暇はない。
この映画は、すぐにでも見るべきだ。
平成18年のお正月映画は、この映画で決まりである。

▼以下はネタバレあり▼

誠に申し訳ない。
オリジナル版を見ていないので、僕はこの「キング・コング」単体でしか語ることができない。
「キング・コング」とは、という問いについて、それまでの作品群の時系列の中で語ることができない点を、まず了承していただきたい。

この映画のテーマは、徹頭徹尾、コングの美女への愛である。
映画の中で、そのテーマがぶれることはない。
単純で、非常にわかりやすく、ともすれば陳腐なものだが、三時間という長丁場を、この一本だけで描ききったということは、評価できるのではないか。
そして、何より、その美女への愛をきっちりと、完全なる造形物であるコングに演じさせて、しかも、観客が感情移入できるようにまで仕上げたことは、すごいの一言に尽きる。

CGの技術は、本物とCGとの区別がつかないほど完成されている。
ブラウン管ではどうなるか、家庭用の液晶画面でどうなるかは、
定かではないが、少なくとも映画館で見る限りにおいて、「不自然さで観る気がそがれる」というようなことは、一切無かったはずだ。

これは、単にCGの技術が向上しただけではないだろう。
ミニチュアで撮るべき所、完全にCGで作り上げる所、現実の絵と重ね合わせて見せる所、などというように、どういうシーンを、どういう技術で撮るべきか、スタッフ達が心得ていたからだろう。
どこかの国の特撮映画のように、何十年も前から同じような着ぐるみとミニチュアで撮影をしている、制作チームとは心意気が全く違うのである。

もちろん、そういった撮影技術だけでは、「観客をコングに感情移入させる」ということは実現できない。
コングの動き、表情、造形など、全ての「生き物」としての条件を満たすことで、はじめて観客は、彼を「人物」として認識するのである。
一見すると、ああ、すごくなったね~と安易に考えてしまいがちだけれど、この映画の「リアルである」、という説得力は、映画として非常に重要なファクターとなっている。

ストーリーは、序盤から中盤、終盤にかけてスピードアップしていき、オーソドックスで安定感あるテンポを保っている。
序盤に丁寧に時代背景、人物設定をみせることによって、観客がその世界観にすんなりとけ込めるようになっている。
多少、冗長ぎみではあるが、重厚な世界観が、コング登場を期待させる。

正直、街の造形に関しては、違和感が大きい。
しかし、それも許せない範囲ではないだろう。

島に着いた後の展開は非常にスピーディーになる。
原住民とのやりとりがあるが、これはばっさりいっても良かっただろう。
というのは、コングにナオミ・ワッツをささげたあと、ぱったりと彼らが登場しなくなる。
あれだけの船員を殺すなら、原住民にその「大役」を果たさせるなりして、もうすこし存在感を出して欲しかった。
あの程度の役回りなら、無人島という設定にした方が良かっただろう。

だが気になるのはその程度で、この島での出来事は、非常にエキサイティングだ。
恐竜がトラフィック・アクシデントを起こしたり、コングとTレックスの争いや、人間対コング、人間対ムシ、コング、人間、コウモリの三つどもえなど、あらゆるシチュエーションで僕たちを楽しませてくれる。

特に圧巻だったのが、谷底に落ちた後の蟲との戦い。
これは終末的な絶望感があり、そしてなによりリアルだ。
あの島なら、あれくらいの蟲がいてもおかしくない、と思わせるほどの動き、質感、量だ。
風の谷のナウシカ」を実写にするなら、おそらく腐海はああいう感じなのだろうとか、「ベルセルク」の“蝕”はあのような雰囲気なのだろうとか、想像してしまった。
それを助けに来るのが、原住民の時と同じようにまた船長達、というのは、やはり工夫が欲しかったけれども。

船員が殺され、何としてでもおみやげが必要だ、と考える過程も無理がない。
なるほど、キングコングを持って帰ろうというプロデューサーの思惑は十分に理解できる。
ただ、あれからどうやって船に運び、帰国したのか、クロロフォルムであのばかでかい猿をどれだけ眠らせることができるのか、疑問点ではある。

ニューヨークに帰っても、エキサイティングさは変わらない。
この映画のすごいところは、「ジュラシック・パーク」の時代とは違い、単に「コングが大暴れする」という状況ではないという点だ。
つまり、真冬の雪が舞うニューヨークであったり、狭い通路に大きな恐竜がひしめいたり、といった特殊で現実的な状況に、「大物」が登場する点だ。
だから、説得力があり、なるほど、こういう状況もあるのかといった驚きや、キング・コングや恐竜を「遊び尽くす」という満足感が得られるのだ。

氷で滑りながら車を追ったり、人間を振り回す姿は、圧巻の一言だろう。

ラスト、キングコングは死んでしまう。
だが、ピーター・ジャクソンは、「人間が自然を破壊したのだ」といった、お説教くさい台詞は与えない。
人間が当時作った最高の兵器である、戦闘機によって倒れるという社会的な視座を与えながらも、ラストの台詞はこうなのだ。
「野獣は飛行機に負けたのではない。美女に負けたのだ」

くさっ。

でも、敢えてラストの、映画的に大きな意味をもつシーンで、この台詞を、ジャック・ブラックに言わせたことは、監督の意志の表れだ。

――俺はお説教くさい映画を撮りたいのではなく、「キング・コング」そのものを撮りたいのだ。

即座に、「おいおいおい、一番の当事者が何無責任なこといってんだよ!」とつっこんだわけだが、それでも、その熱い想いは伝わった。

全編を通して、完成度の高さが目立つような作品ではない。
むしろ、つっこみどころ満載の映画ではある。
だが、すばらしいコングの造形と、そのコングへの強い気持ちが伝わってくる、
非常に感動的な映画であると言えるだろう。

ロード・オブ・ザ・リング」のときもそうだったが、CGという「冷たい」媒体に、監督の熱い気持ちを込めるのが上手い監督である。

(2005/12/29執筆)

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