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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

鋼の錬金術師 シャンバラを往く者

2009-04-19 22:02:31 | 映画(は)
評価点:80点/2005年/日本

監督:水島精二

原作:荒川弘

時代を感じるなぁ~~。

ある兄弟の母親が死に、母親を錬金術でよみがえらそうとして、兄は右腕と左足を、弟は体すべてを失い鎧だけの身になった。
エルリック兄弟は自分の体を取り戻すため、国家錬金術しとなり、等価交換の原則を無視できる賢者の石を探す旅に出た。
しかし、賢者の石は多くの人間の命を原料としていることを知り、兄弟は絶望する。
やがて弟アルフォンスの体に賢者の石が錬成され、紆余曲折を経て、弟は体を取り戻す。
だが、弟は兄エドワードと旅に出た四年間の記憶をなくし、兄はもう一つの世界の「門」の向こう側に行ってしまう。

映画版では、この二つの世界を隔てた二人の兄弟のやりとりを描く。
兄が行ってしまった世界は、1923年のドイツ。
ロケットの技術によって向こう側の世界に戻ろうとするエドワードだが、ドイツでは、「シャンバラ」という伝説の理想郷が、「門」の向こうにあると信じた人々が、アメリストに行こうとする。
アメリストに住むアルフォンスは、師匠の死をきっかけに再び旅に出る。

テレビ版の総集編や、完全オリジナルではなく、テレビ版の続きを描いたのが、この映画版である。
趣は、「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版に似ているのかもしれない。
だから、この映画に、映画としての自立性はない。
テレビ版を見ていない人にとっては、なんのことやらわからないように出来ている。
その意味では、「映画」なのかどうか疑わしいところではある。

僕は当然テレビ版には目を通しているので、興味を持った人は、まずはレンタルしてから映画版を見ることをおすすめする。
全50話もあるので、安易に見ると痛い目に遭うのは間違いない。
おもしろさは保証するが、やはり根本的にアニメ好きでないと、網羅するのは難しいだろう。

▼以下はネタバレあり▼

少しアニメ版にも触れるので、その点はご理解いただきたい。
その前提がなければ、この映画を語るのは難しいからだ。
ただ、原作の漫画との比較はやめておこう。
アニメ単体、映像としてのハガレンのみに言及するにとどめておく。

アニメ版は、「エヴァ」などと同じように、エディプス・コンプレックスが物語の軸になっていることは言うまでもないだろう。
兄のエドワードは、死んだ母親を生き返らせようと体まで失うが、一方、父親に対して、全く無関心であり、もっと言えば憎悪さえ抱いている。
父親を忌み嫌い、母親を求める。
エディプス・コンプレックスの典型である。
また、物語終盤以降、キーワードに「門」が登場する。

門とは、通常、あるところから別のところへの入り口、もしくは出口であり、何かを通過する際に必ず通らなければならない箇所にあたる。
物語的に言えば、別の世界に移行する際に通る通過儀礼にあたるだろう。
「浦島太郎」で言えば、亀が竜宮城(別の世界)に移行する際の「門」にあたるのだ。

よって、この門という考え方も、物語としてはオーソドックスなキーである。
テレビ版までの話を集約してしまうなら、「門」をめぐる物語であり、門 = 通過点という考え方で言うなら、子どもであったエルリック兄弟が、大人へと成長する過程を描いた話ということである。
エディプス・コンプレックスという典型的な要素で人物設定したのも、この話が成長譚であることを表しているのである。

だが、このようなテレビ版までの話を映画では完全に補完される。
つまり、どのような結末に至るのか、を見せることによって、この一連の物語がどのような物語であったのかが、明らかにされるのである。

具体的に言えば、アルとエドの「成長」とはどういう成長であるのか、ということだ。
この映画(一連の物語)は、複数の読みが可能となるような、重層的な物語となっている。
ここではエルリック兄弟(特にエドワード)の成長という観点で読むとどうなるか、まず考えてみよう。

【他者との関わり 世界との関わり】
まず注目すべきなのは、彼らのすべてのきっかけである。
彼らは世界を救おうと思ったから旅に出たのではない。
母親を生き返らせるという極めて個人的な理由から、錬金術を始める。
そして、人体錬成という禁忌を侵した彼らは、自分の肉体を取り戻すという、さらに個人的な理由から旅に出る。
自分の肉体は、通常なら、誰もが「所有」している一番個人的なものである。
そこには具体的な他者は存在せず、自分とそれを見つめる自分しかいない。
自分の身体を取り戻すための旅は、すなわち、どこまでも自分自身のための旅であるということができる。

逆に言えば、取り戻さなくても誰も困らないような種類のものなのだ。
アニメ・映画版「鋼の錬金術師」において、この事実は極めて重い意味を持っている。

だが、物語が進むにあたって、旅を進めて行くにあたって、彼らは否応なしに他者と関わるようになっていく。
錬金術を学び、国家錬金術師になり、賢者の石を研究するようになり、数多く他者と関わり、時に傷つけ、時に救われながら旅を進めていく。
彼らのために、街一つの命が消えてしまうこともあった。
彼らは自分のためだけに始めた旅によって、彼らの意志とは無関係に、他者と関わるように強いられていくのである。

映画版に話を移そう。
向こう側に行ってしまったエドワードは、ロケット開発に携わる弟に似たアルフォンス・ハイデリヒと出会う。
その世界では、錬金術ではなく化学が人々の生活に役立っていた。
それを知ったエドワードは、それを学び研究することによって、自分の世界に戻ろうとする。
だが、そんなエドワードの姿を見て、ハイデリヒは「エドワードさんはどこか人と関わろうとしないところがあるんです」という。

当然といえば当然である。
自分の世界とは違う世界の人間と深く関わっても仕方がない。
自分の世界に帰る方法を探すのに精一杯のエドワードには、いくら弟に似ているとはいえ、ハイデリヒに深く関わることはしない。

だが、この状態は彼らが旅に出たときの理由と全く同じ状態である。
自分が元に返るために、自分の力だけで努力しているのである。
「彼らにわかるはずがない。俺は俺の力で失ったものを取り戻す」という考えに変わりはないのである。

そこには他者を信用しないというような生やさしいレベルの決心ではなく、自分に与えられた運命に必死に抗おうとする強い意志がある。

物語が進むにつれて、そうしたエドワードに変化が表れる。
それは、ハイデリヒが命を賭けて、エドワードを元の世界に返そうとするシークエンスだ。
「たとえどれだけちっぽけでも、僕も生きていたんだっていう証が欲しいんだ」

エドワードはここで初めて意識する。
「ここで生きている以上、世界と無関係でいることなんてできないんだ」

元の世界に帰ったエドワードが、弟アルフォンスに言う台詞には、自分自身への決心を言葉として表出して確認する意味もあっただろう。
エドワードは、多くの人と出会うことによって、他者と関わらなければ自分が存在できないことに気づいたのである。

だから、物語の最後で、彼は自らこじあけた門を再び閉じようとマスタングとアルフォンスに告げる。
このときのエドワードの行動は、全く無私の目的意識であることは、確認するまでもないだろう。

ここに大きな成長が描かれているのである。
自分たちの肉体を取り戻すための旅であったのに、それが手に入った後、彼は他者を救うためだけに、自分の肉体を再び捨てようとするのである。
自分への意識から、自己犠牲への意識を獲得するのだ。

ハガレンは成長譚であると言ったが、自己から他者へという意識の拡張がその中身だったのである。
もう少し厳密に言えば、家族しか目が届かなかったのに、世界という広い視野で周りを見渡すことが出来るようになった、ということか。

そこには制作陣たちの強いメッセージが込められている。
世界とつながりが全くないような自己。
それでも、世界とつながりを持たずには生きていくことはできないのだ、という警鐘である。
自分という閉じられてた世界では、もはや駄目なのだ。
それは、現在の社会背景を反映させたメッセージだろう。

自分の体を取り戻すための旅が、世界を救うための戦いまで拡張されたのだ。
自分のためだけを考えていたつもりが、いつのまにか世界までつながっていたのだ。
アルとエドが得た答えは、僕たちへの問いかけであることは言うまでもない。

エドは最後にウランを破壊させるために旅を続けることを告げる。
彼らはもはや自分の為だけに生きたりはしないだろう。
彼らの前に、世界への門は開かれたのである。

【隣の世界は楽園】
この映画のもう一つのテーマは、「楽園」だろう。
それは監督に、hydeがエンディング曲を書く際に言われたことでもあるそうだ。
この世界には二つの世界が存在し、それぞれが門によってつながっている。
ドイツのエッカルトは、それをシャンバラと呼び楽園だとした。
錬金術師たちは、その門の向こう側から力を得て、その力で物質を錬成した。
お互いもう一つの世界を神秘的だと思い、そこに永遠の楽園を見出す。
争いのない世界、戦争のない世界、絶対的な力が隠された世界……。
だが、実際にはどこの世界でも争いは起こり、人は死んでいく。
ここではないどこかを求めても、きっとそこには同じことが繰り返されているのだ。
そういった教訓めいたメッセージもここには隠されている。

それを知ったエドは、どちらの世界で生きていくことになったとしても、その世界と関わり合いながら、その世界のために生きていくことにしたのだ。
彼らの結論は、とてもガキっぽいが、それが単なるガキの答えではないのは、それまで多くの苦難を乗り越えたことを観客は理解しているからだろう。


【最後にマイナス点】
これだけ言ってきたが、手放しで喜べるほどの出来とは言い難い。
全体的に都合が良すぎることが多いのだ。

何十メートルも上空から落ちても無傷だったり、いきなり北方にいたマスタングが現れたり、キャラクターが全体的にめちゃくちゃ素直だったり。

自分がシャンバラに行きたかったきっかけをペラペラ話す
エッカルトは、あまりに素直でびっくりする。
さらに、ラースがいきなり素直に門のために餌食になるのは、唐突で不自然だ。
テレビからの流れで理解は出来るが、映画中には全く説明がないので、違和感が残る。

話を時間内に強引にもっていこうといているため、どうしても不自然さが目立ってしまうのだ。
門がたびたび開いてしまうのもちょっと解せない。
テレビ版でやっとその全貌が明らかになったというのに、映画ではそれがたびたび開いてしまう。
さすがにあれだけ頻繁に開いてしまうと、開く意味が軽くなってしまい、物語に緊迫感が薄らいでしまう。
「なんだ、けっこうあっけなく通ることが出来るんだ」と思えてしまうのだ。

【余談:感慨深く思うこと】
長くなっていることを承知で付け加える。
この映画を見ていて思ったことは、以上のようなことだ。
だが、それだけではない。
一番深く思ったのは、僕が生きてきた時間だ。
ちょうど十年ほど前、「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメが流行った。
おそらくハガレンよりももっと熱狂的に、一部(?)の人に流行った。

そのときのテーマは、「自分自身の心のありようで、世界はいくらでも変貌する。
重要なのは自身の気の持ちようだ」というようなものだったと思う。
それから十年。

今時代に求められているのは、
「どんな個人も、世界と無関係ではいられない。もっと他者に積極的に関わるべきだ」
というメッセージであるようだ。

この十年、何も変化がなかったように思えていたが、実は時は流れていたのだ。
そんなことを考えると、十年はやはり十年だったのだろう。

今、このアニメを見るこどもたちは、どのような印象を持つのだろうか。

(2005/8/7執筆)

テレビが今度は原作漫画に忠実にアニメ化するというコンセプトの元に、放映している。
比較するなというほうが、無理なこの企画。
アニメ化で大成功を収めた前シリーズだけに、新シリーズで成功することは難しいような気がする。
本当に一部のマニアだけが喜ぶ企画だとしたら、前シリーズ、新シリーズ、そして原作漫画にとっても何もメリットもないような……。
それでもアニメ化にこだわったのは、TBSの焦燥感の表れだろうな。

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