そろりそろりと古代先住民の人たちのことを記していきたいと思います。
どこまで記せるだろうかなあ、わからないけれど自分が再度、理解するためにも整理整頓する。
さて、関西在住の大和の先住民でまず思い浮かぶのは誰でしょうか。
私には、あの方しかおりません。
その名は、長髄彦(ナガスネヒコ)、別名を登美毘古(トミヒコ)、またの名を登美の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)。
登美(トビ)というのは生駒山山麓にある地名で、長髄彦は今の奈良地方を治めていたと考えられてます。
長髄彦という名は、
1. 手長足長の縄文的神で、人間ではない。
2. 生駒山周辺に大きな勢力をもつ集団の首長、またはその地域一帯の呼称。
大きくは、このふたつの解釈がありますが、いまのところ 2 の解釈がしっくりきますよね。
「長」は「ナーガ」蛇からきているという説があります。
奈良、三輪山の御神体は蛇神だといわれていて、長髄彦は三輪山に蛇を祀っていたんでしょうか。
蛇は、水をつかさどる神、脱皮は再生のシンボルなど謂れは他にもありましょうが。
古代人は現代人とちがい五感は格段に冴えていたと思う。
自然、モノに宿る八百万(やおよろず)の神を祀ることは、ひとつからすべては生まれ無意識下では、繋がっていてモノへと創造される変化過程の意識は大切だという祈りのような思いを理解していたのではないのでしょうか。
大自然は神そのもので、豊穣、災害をもたらす畏れおおい神とやらのオモテとウラを古代人は身をもって知っていた。祀るのは神であり鬼でもある大自然そのものだったというのはわかります。
「登美毘古」の登美(トミ)は、登美=富ではないのか、富というと出雲につながります。
長髄彦の出自は出雲族、三輪に蛇神を祀るということは、同じ出雲族でも牛トーテムの一族ではなく龍トーテムの一族なのでしょうか、謎。
さて~、古代、生駒山一帯は瀬戸内から大和への入り口だったとされ、生駒山からは遠方まで見渡せたんだと思います。
今の東大阪、八尾市あたりまでを内海として湖のような河内海があったそうです。
私が暮らしていた東住吉区、住吉区、阿倍野区、平野区は古代から陸としてあったんですね。上町台地も陸地で奈良時代には、上町台地から西へ、いまの御堂筋あたりまで海岸線がきていたということです。
長髄彦のライバルといえば、神武こと神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)。
河内国に上陸した神武軍勢を一旦は、退けられたのも、長髄彦が瀬戸内海に情報網をひろく持っていたというのもあるんだと思います。
神武(イワレヒコ)一行は、紀伊半島(熊野)を大きく迂回しなければならなくなり、熊野の奥深い山々で必然的に山の民、国津神たちと出会うことになるのです。
穴の中に住む、尾がある、昆虫や動物を連想させる呼び名、支配者に忠誠を誓わなかった民は蔑視されて語られることは常で、民たちは砂金や水銀採掘にたずさわるすぐれた技術集団でもあったのです。
いまでも熊野は異界の地。
大和朝廷ができると熊野、吉野の山々に、隠れるようにまつろわぬ民たちが逃れてきて国津神となった。
そして、熊野の山々に大勢封印されたのではないのでしょうか、異界になってしまうのも理解できます。
神武に敗れた長髄彦「東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ(偽書説有り))」によると、兄の安日彦と東北地方へ逃げ落ち、荒吐(アラバキ)王国を作ったと伝えてます。安日彦は阿部、安倍氏の祖であるらしい。
また、長髄彦の墳墓と思われる鍋塚古墳が葛城市に残されてます。
桜前線はいまごろ東北のどのあたりなのでしょうか。
追われて東北にいかざるえなかった民、またそこから西に連れて来られた民、他もろもろの民たちのこと、ゆっくりと記していきたいと思います。
どこまで記せるだろうかなあ、わからないけれど自分が再度、理解するためにも整理整頓する。
さて、関西在住の大和の先住民でまず思い浮かぶのは誰でしょうか。
私には、あの方しかおりません。
その名は、長髄彦(ナガスネヒコ)、別名を登美毘古(トミヒコ)、またの名を登美の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)。
登美(トビ)というのは生駒山山麓にある地名で、長髄彦は今の奈良地方を治めていたと考えられてます。
長髄彦という名は、
1. 手長足長の縄文的神で、人間ではない。
2. 生駒山周辺に大きな勢力をもつ集団の首長、またはその地域一帯の呼称。
大きくは、このふたつの解釈がありますが、いまのところ 2 の解釈がしっくりきますよね。
「長」は「ナーガ」蛇からきているという説があります。
奈良、三輪山の御神体は蛇神だといわれていて、長髄彦は三輪山に蛇を祀っていたんでしょうか。
蛇は、水をつかさどる神、脱皮は再生のシンボルなど謂れは他にもありましょうが。
古代人は現代人とちがい五感は格段に冴えていたと思う。
自然、モノに宿る八百万(やおよろず)の神を祀ることは、ひとつからすべては生まれ無意識下では、繋がっていてモノへと創造される変化過程の意識は大切だという祈りのような思いを理解していたのではないのでしょうか。
大自然は神そのもので、豊穣、災害をもたらす畏れおおい神とやらのオモテとウラを古代人は身をもって知っていた。祀るのは神であり鬼でもある大自然そのものだったというのはわかります。
「登美毘古」の登美(トミ)は、登美=富ではないのか、富というと出雲につながります。
長髄彦の出自は出雲族、三輪に蛇神を祀るということは、同じ出雲族でも牛トーテムの一族ではなく龍トーテムの一族なのでしょうか、謎。
さて~、古代、生駒山一帯は瀬戸内から大和への入り口だったとされ、生駒山からは遠方まで見渡せたんだと思います。
今の東大阪、八尾市あたりまでを内海として湖のような河内海があったそうです。
私が暮らしていた東住吉区、住吉区、阿倍野区、平野区は古代から陸としてあったんですね。上町台地も陸地で奈良時代には、上町台地から西へ、いまの御堂筋あたりまで海岸線がきていたということです。
長髄彦のライバルといえば、神武こと神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)。
河内国に上陸した神武軍勢を一旦は、退けられたのも、長髄彦が瀬戸内海に情報網をひろく持っていたというのもあるんだと思います。
神武(イワレヒコ)一行は、紀伊半島(熊野)を大きく迂回しなければならなくなり、熊野の奥深い山々で必然的に山の民、国津神たちと出会うことになるのです。
穴の中に住む、尾がある、昆虫や動物を連想させる呼び名、支配者に忠誠を誓わなかった民は蔑視されて語られることは常で、民たちは砂金や水銀採掘にたずさわるすぐれた技術集団でもあったのです。
いまでも熊野は異界の地。
大和朝廷ができると熊野、吉野の山々に、隠れるようにまつろわぬ民たちが逃れてきて国津神となった。
そして、熊野の山々に大勢封印されたのではないのでしょうか、異界になってしまうのも理解できます。
神武に敗れた長髄彦「東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ(偽書説有り))」によると、兄の安日彦と東北地方へ逃げ落ち、荒吐(アラバキ)王国を作ったと伝えてます。安日彦は阿部、安倍氏の祖であるらしい。
また、長髄彦の墳墓と思われる鍋塚古墳が葛城市に残されてます。
桜前線はいまごろ東北のどのあたりなのでしょうか。
追われて東北にいかざるえなかった民、またそこから西に連れて来られた民、他もろもろの民たちのこと、ゆっくりと記していきたいと思います。