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日々のこと記してます。

象徴界を統合する。

2021年04月01日 | ラカン

 

タケチンが噛み噛みして涙。

 

野暮用で香芝市まで行って帰る。収穫はなし。

 

帰りは、天王寺から歩いた。

 

 

夕暮れ、いい風が吹いていて、心がなじむ。

一期は夢だからただ面白おかしく遊び暮らせという歌がありました。

 

 

夕暮れに染まるサクラの花びら。

 

 

「生き延びるためのラカン」斎藤環 著、読んでます。

 

精神病(統合失調症)とはどんな事態なのか。

人間の心というのはひとつのまとまりに統合したがるという傾向を持ってます。その統合が失調してしまうわけです。

 

ひとつのまとまりへの志向が消えると大変な混乱に陥ってしまって、自分の考え、行動が自分のものであるという感覚が壊れてしまう。境界がわからなくなってしまう。

自明性の喪失。

例えば言葉の意味は知っていても文脈がわからなければ言葉も機能しない。

ひとまとまりの「世界の意味」を認識するには、言葉と文脈の統合がかかせない。

 

 

ところで、輪郭もない。中心もない。ただ統合だけがある。ってありうるのか。

 

 

象徴界はシニファインとして構造化されている。そこにはある種の秩序や計算式のように、抽象的なルールに基づいてなりたっている構造で、心を統合する構造とは象徴界のことなのですか。

象徴界が故障すると自分を支える支点がなくなって統合の失調をもたらすことになる。

 

神経症、私はおそらく神経症なのでしょう。

これだと象徴界は正常に機能はしてると思われます。主体は外の世界を象徴として言葉を通じて体験し、象徴として記憶され、ときには無意識に抑圧されたりもする。

だけども自己の内と外の区別はしっかりと保たれるから、不安や恐怖を感じたとしても簡単に幻覚や妄想が起こったりはしない。それは象徴界にしっかりと支えられ、保護されているからで、言葉がバリアーとなって危険な現実から主体を保護してくれているからだということです。

統合というのはこのバリアーのことでもあると。

 

ところで、会社のロゴって、会社を統合的に象徴してないですか。ロゴのエネルギーって大事だと思います。きっとそこにはある種の秩序や計算式のような(黄金比とか)抽象的なルールに基づいたエネルギーの構造が象徴的に表現されているのだと思われます。

 

心を統合するということは、いい周波数のロゴのカタチをどうするのかしら、身体を整えることは大事ですよね。

 

いやー、象徴界を整えてください。


性関係は存在しない。

2021年03月30日 | ラカン

 

はやいなあ、もう四月になろうとしている。

 

ここのマンションの管理人さんは穏やかでときどき、ボーッと空を眺めていたりする。お掃除のバケツを手に持ったままで。春だなあ、春はそういう空をしているんだね。

雨が降ってきそう。

 

 

ラカンの続き。「生き延びるためのラカン」から、

 

ラカンの言葉で有名な「女は存在しない」と、「性関係はない」というのがある。

享楽」。

享楽って、快感とか快楽を越えた強烈な体験のことを指しているんだとか、そこには激しい苦痛も含まれている。ラカンによれば、快楽原則は享楽を抑圧するための規則ということになる。

 

どういうこと?

 

ラカンによれば、快楽を越えた享楽に向かおうとする傾向を快楽のレベルでストップさせてしまおうというわけです。

人間が言葉によって切り離された存在そのものともう一度、合体するような強烈な体験、それは不可能な次元の経験ともいえるんだけど、人の欲望はそこから多大な影響を受けてしまう。

 

享楽」には三種類ある。

1 ファルス的享楽(射精のイメージ)

2 剰余享楽(心のなかに放出されないまま溜まっているエネルギー)

3 他者の享楽(これこそが、究極の享楽であり、すべての緊張が完全に放出されるに至った理想的な状態)、他者の享楽は男性原理では理解できない領域であり、オーガズムのように長く受け身で深いレベルに届く。

 

「性関係は存在しない」とは、女性が存在しないことが一つの答えでもある。存在しないものと関係を持つことはできない。

男女は相手を求め結合しているようにみえてもそれは相手に投影された幻想、だから男と女は、本当の意味で関係を持つことができない。

 

ラカンは、人間は性的なレベルにおいてすら、本能をなくしてしまった動物と考える。

だから性は象徴的なものでしかなく生殖や繁殖は性とはなんの関係もない。ゆえに保証などなく性関係を土台として成り立つ「家族」というもの自体が人工的で不自然なものであり、「愛」だって調和的な男女関係が存在しないことを埋め合わせるだけの幻想に過ぎないと。

男性にとっての女性は、生きた女性の全体ではなく、その一部を幻想的なものとして愛するのだ。

 

ラカン曰く、

このとき女性は「対象a」としての男性の欲望の原因となっている。

女性は男性の症状である。と。

 

享楽の主体をどこにおくか。ということで男女の非対称があらわれてくると著者はいう(斎藤環氏)。

一般的に、男性は自分の立ち位置をしっかりと定めてからでないと安心して享楽することができない。男性全般にそういう傾向がある、まず、大切なのは自分の立場。男性の享楽(ファルス的享楽)は、主体の立場を定めたうえでの享楽で、これに対して、他者の享楽は、主体の立場を完全に抹殺してはじめて享楽可能になるのではないのかと著者は解釈している。

 

相手が生身の人間であろうと、アニメや漫画のキャラクターであろうと性愛の構造はまったく同じで、どちらも幻想の構造であるけれども、虚構のキャラを相手にした恋愛は幻想の構造もシンプルに浮き上がってくると。

 

そうそう、

私は以前、ある人を何年かぶりに久しぶりに好きになったことあった。いま思えば、彼は自分を好きでいてくれる女性がいる、という自分を好きなだけなのではないかと、つまりは好きでいてくれる人ががたくさんいる己が好きなのである。


女性は存在しない。

2021年03月25日 | ラカン

 

綺麗なビルの7階で適性テストを受けてきた。

ただの原稿を照らし合わせての校正だと思っていたら校閲という作業で、意味と文字を読むということはなかなか難しく50点くらいしか採れなかった。

 

不採用であった。

 

だけど、いい感じの職場環境で丁寧な対応だったわ、ああいう環境で働きたいなあ。

本町からJR難波まで歩く。小さな公園にあるソメイヨシノが咲き始めていて週末には満開になりそう。

 

 

ラカンを読んでます。

ヒステリー症状というのがあります。症状は多彩で典型的症状はなく、わたしの喉の症状もそうなのかもしれない。

漢方医学では「血の道」といってストレスが原因で気が停滞することから起こると考えられている。日本では憑依現象、イタコや巫女もヒステリーといっていいのだろうか。

 

ラカンは、それは性をめぐる問いかけなのだと、「自分は男なのか女なのか」「女とは何なのか」という問いかけ、性別への問いかけ、ヒステリーのイメージは女性のイメージと深い関係にあって、ラカンの箴言には女性は存在しないというのがある。

 

女性を言葉で明確に定義づけることはできない。

女性は謎、言葉では語り尽くせない。

 

男性とはファルスで象徴的なペニスと持つ存在、ラカンによれば性は象徴的にしか決定されない。言葉の世界である象徴界はファルス優位のシステム、去勢されることでペニスの代わりにファルスを獲得する象徴界は男性原理的な領域で、そのなかでは女性を積極的に指し示すような言葉、シニフィアンは存在しない。

 

象徴界において男性は、ファルスを中心として閉じた集合をつくっているが、女性の集合は具体的には閉じていない。閉じていないことは女性一般なるものは存在しないことになる。ラカンはこれを女性は存在しないと表現しているのです。

 

女性というのは謎で神秘的な存在なのですね。

 

つづく。


フェティシズム

2021年03月22日 | ラカン

 

タケチン、今日は午前三時から元気で大運動会を繰り広げていた。

 

いたしかたなく起きていていろんなことを思っていた。

あのとき、大阪と大津と岡山、その後、豊中に学びに行っていた。

ここに生き物系が入ってくると、月、いくらになるのか、涙。それにべつにいいではないか。興味もなかったしで、あの関係者の講義はすべて行かなければならなかったってことはない。大津などは、「あの人とはどういう関係ですか」と強く聞いてきたどっかのセンコウがいて萎えた。

 

 

「生き延びるためのラカン」斎藤環 著、読みやすいです。

 

フェティシズム(性的倒錯)です。

去勢を経験、そして異性愛を刷り込まれるって、そうなの? それって人類最古のイデオロギーのようなものなのですか。

 

性別は染色体が決める。

社会的(心理的)な性別、ジェンダーというのは後天的に他者から受け入れる属性である。

フェチの多くは女性をモノとしてあつかうことから快感を得るという、例えば風船フェチは女性が巨大な風船と戯れているのを眺めて楽しむ。

 

好きなものは好きなので、三度のメシより好きなのだろう。なら、そういうの形を変えてそこいらで仲間をつのり工夫を凝らして愛好の輪を広げているのではないのか。

 

遺伝子フェチの存在を遺伝子学では説明できないし、脳内フェチだってしようとすれば「説明の説明」という無限循環に陥ってしまう。って、そうなの?

精神分析フェチの存在を説明できる精神分析でしか解明できないことになるのだそうだ。

 

グルグルするね。

 

本来、フェティシズムとは未開人があがめる「神の宿った呪物」を指している。

資本主義社会においては、あらゆる物が交換可能な使用価値を帯びる。ただの紙切れにすぎない紙幣にも一定の価値が備わっているかのような錯覚が生まれてくる。この感覚がフェティシズムなのだそうです。

 

フロイドは考えた、それは去勢に対するおそれからだと。

ラカンは去勢の段階を卒業しないと少なくとも人間になれないと考えた。でも去勢は怖いのでなかったことにしたい。で、なかったことにする態度をフロイドは否認と呼んでフェティシズムはこの否認から生まれたと考えたのだそうです。

否認はあくまでもイメージの否認でしかない。

去勢を受け入れながらも、一方ではそれを否認したいという無意識的な分裂、この分裂こそが性倒錯の原因だとフロイドは考えたのです。

 

オタクまで話を広げると、フェティシズムの範囲もぐっと広がる。圧倒的に男性が多い。

 

男性は去勢された事実を受け入れつつも、本心では認めたくないという分裂を抱えているという去勢不安から逃げられず、フェティシズムという母のペニスの代用品を求め続ける。

女性の場合は、ペニス羨望を持つようになるんだって、母を軽蔑し父に愛情を向けはじめる。母にペニスがないとしてもそれが直接不安につながることはなく分裂も生じにくい。女性のブランド、装飾品好きはその背後に関係性をみて、他人に披露する瞬間にこそ喜びを感じるそれはマニアの所有の喜びとはちょっと違う。

 

フェティシズムは、母親にペニスがないことをペニスの身代わりで埋め合わせようとするが、ホモセクシャルは自分自身がペニスそのものになりきろう(母親との一体化)とするのだという。

でもロリコンとかまではうまく説明できないみたい。

 

じゃあ、マザコンはどうなのか、精神分析は基本的に「すべての男性はマザコンである」という視点から人間を理解するのだそうです。


「対象a(アー)」

2021年03月19日 | ラカン

 

今日も消防点検関係でマンションの共有部分の工事を朝から夕方までしていて騒音が響いている。

タケチンは午後から寝てはいるけれど今日も大変な一日となっていると思う。

 

 

ああ、春が近づいてきて桜も咲くね。

なかなか希望に添うようなパートがなくどこかで妥協してもいままでやってきた職種は年齢の関係で厳しいと思われる。わたくしは喉に持病があるので職種は幅広くは選べないにしてもネット検索をしていると職種を選ばなければ働き先はたくさんある。

お金の数字だけは巡り巡って、その人の身の丈に合った生活費だけが引き出されあとは数字が記載されているだけで実はないのかもしれない。

 

 

「生き延びるためのラカン」斎藤環 著

 

どこまで読んでいたのか、そう、想像界の鏡像段階のとこでした。

愛と憎しみの想像界なのです。

そういわれてみればそうですよね、想像界は自己愛と深く結びついているとうはわかります。閉じているのでしょうか。鏡像(似ていること)は攻撃性や愛情にも繋がるし敵意というのも生まれやすいものです。

妄想をいだく憧れの対象は、自分とはなんなのか何を欲しているのかという問いの答えを与えてくれるので、そのイメージに魅入られているかぎりは調和と統一性を与えてくれる。だけど愛情ゆえに同一化してしまい支配欲が生まれ、それゆえに攻撃性がもたらされると、愛と攻撃性の一体化という鏡像関係が生まれてしまう。

そうすると鏡像に自己イメージを理想を含めて投影して同一化して不安や被害感も高まっていく。ラカンはこの関係を「主人と奴隷の弁証法」と呼んでいたんだとか。

ここには母子関係に父が介入してきたように第三者の介入が必要なのだそうです。

わかるような気がする。

 

ラカンを語る上で、はずせない言葉に「対象a(アーと読む)」という欲望の原因というのがある。

 

人間は本当の欲望の対象をつかむことができないということ。

人間が欲望を持つときそこには必ず、対象aの作用が働いている。それはこの世の実在物ではない。それはこの世に客観的には存在していないことによって、わたしらの欲望に作用する。

 

これって、すごくわかるよね。うん、そうだよね。感動するわ。

 

人間は去勢されることによって主体に欠如をもたらす。そしてこの欠如から欲望が生じてくる。

対象aは、現実とも幻想ともつかない曖昧さをがあり、それでいて人間の生き方に大きな影響を及ぼす。

 

対象aは、自我と密接に結びついていて入れ替わったりもする。乳房、糞便、声、まなざし、「お金、自己犠牲、永遠の幸福、自分は特別(本当の自分)」、去勢から生じた欲望は、いつも対象aの周りをぐるぐると回りながら、けっして対象aそのものにたどり着くことはない。

 

対象aは、神経症者にとっては隠避されており、性的倒錯者に取っては客観的に示されており、精神病者にとっては実体化されることになる。

 

想像界の平面、この平面の鏡には象徴界の作用は間接的にしかあらわれない。平面にぶつかって騙されてしまうということなのだろうか、自我は想像的なもの。ラカンによると自我とか意識はニセモノの認識ってことになるんだそうだ。

 

幸せの青い鳥の青い鳥の位置は、対象aの位置になる。

シンプルにいえば、手に入れたければ探したり求めたりしてはいけないということなのだろう。まじか。

 

だけど、パートは探さないといけないけど対象aの位置ではないかあ。