数日、あんなに暖かかったが、今年もやはり3月11日は寒い。
2年前の今ごろ入居者が居室に戻るのを見届け、わたしは帰途につき途中まで同僚の車に揺られていた。
電車は動かず、バスに乗り継ぎ、そこからタクシー乗り場へ。
なんとか自宅にたどり着いたのは、深夜の2時過ぎ。
冷え切ってはいたけれど、待つ間、トイレを探すこともなくたっていられた。
20時くらいからはメールがやり取りでき、友人たちの安否もわかって安心。
子どもたちは、それぞれ会社で一晩を明かすと連絡があった。
誰も事故なく、それだけで気持ちが楽になったのを覚えている。
それぞれが、それぞれの居場所で、まわりを守らなくてはならなくなるので、誰かを頼ることはできなくなる。
もともと1人だけれど、そのときは痛切にそれを感じた。
頼れるのは、自分と自分の傍にいる他人。
タクシーで声掛け合って相乗りしたのは、見知らぬ他人同士だった。(女性だけど)
このとき、会社を出るとき持って出ればよかったのが、
携帯カイロ。
引き出しに置いてあったのに・・・
持っていてよかったのが、
お結び、あめ、チョコレート。
わたしがなぜいつもチョコレートを持っているか!これが、その理由。
辛い2年間を送られている被災者の方々、自宅に戻れない避難している方々、
津波に流されてしまわれた多くの方々、
わたしは、ただこうして祈ることしかできませんが、
この災害を忘れないでいようと思います。
山形の従兄は、今も石巻へ手伝いに出かけるらしい。
「復興?そんなもの、何にもかわっない。」と、嘆く。
互いの利害が出てきて話し合いも進まないと聞いた。
綺麗事ではない現実がある。
わたしの父方は山形河北町、母方は会津若松、生まれたのはいわき市。
2年前の今ごろ入居者が居室に戻るのを見届け、わたしは帰途につき途中まで同僚の車に揺られていた。
電車は動かず、バスに乗り継ぎ、そこからタクシー乗り場へ。
なんとか自宅にたどり着いたのは、深夜の2時過ぎ。
冷え切ってはいたけれど、待つ間、トイレを探すこともなくたっていられた。
20時くらいからはメールがやり取りでき、友人たちの安否もわかって安心。
子どもたちは、それぞれ会社で一晩を明かすと連絡があった。
誰も事故なく、それだけで気持ちが楽になったのを覚えている。
それぞれが、それぞれの居場所で、まわりを守らなくてはならなくなるので、誰かを頼ることはできなくなる。
もともと1人だけれど、そのときは痛切にそれを感じた。
頼れるのは、自分と自分の傍にいる他人。
タクシーで声掛け合って相乗りしたのは、見知らぬ他人同士だった。(女性だけど)
このとき、会社を出るとき持って出ればよかったのが、
携帯カイロ。
引き出しに置いてあったのに・・・
持っていてよかったのが、
お結び、あめ、チョコレート。
わたしがなぜいつもチョコレートを持っているか!これが、その理由。
辛い2年間を送られている被災者の方々、自宅に戻れない避難している方々、
津波に流されてしまわれた多くの方々、
わたしは、ただこうして祈ることしかできませんが、
この災害を忘れないでいようと思います。
山形の従兄は、今も石巻へ手伝いに出かけるらしい。
「復興?そんなもの、何にもかわっない。」と、嘆く。
互いの利害が出てきて話し合いも進まないと聞いた。
綺麗事ではない現実がある。
わたしの父方は山形河北町、母方は会津若松、生まれたのはいわき市。