シニアの時代を……

子育てを終え、ネットでの色々な情報を知り、先行き日本がどうなるか?
心配している一人です。

最後の日本兵死す

2014年01月19日 | 日々のニュース

小野田 寛郎さんがお亡くなりになりました。
フィリピンのルバング島に戦後30年もの間、まだ戦争が
終わってないと思い続けて生きてこられた方です。
上官の解除命令が無ければ、帰る事が出来ないと
当時、上官がフィリピンに出向いて解除命令を出して
やっとの思いで、日本に帰ってこられました。
当時はセンセーショナルの出来事で、私もそんな事が
あるんだとビックリした事を覚えております。

小野田 寛郎さんは浦島太郎の心境だったに違いません。
一緒に行動していた仲間は次々に射殺されて亡くなっていた。
どれだけ孤独だったか、凄い精神力の持ち主だったのですね、
小野田 寛郎さんて方は。
帰国後、平和ボケした日本を見てどれだけガッカリした事でしょう。
また自分が戦争を続けていた事を、戦争ボケだったと述べてもいます。

小野田 寛郎さんはかなり優秀で中国語、英語が堪能だった為に
陸軍中野学校に所属していたそうです。
フィリピンに派遣された時には上官からは、横山静雄陸軍中将から
「玉砕は一切まかりならぬ。
3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。
それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでも
その兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、
重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」の訓示を受けている。
そういったいきさつから、小野田さんはビラを撒かれても、
姉の呼びかけもアメリカの陰謀ととったのだそうです。

日本の冒険家、鈴木紀夫氏が現地を訪れ接触に成功したのがきっかけで
その後、上官が任務解除命令を出して日本に帰国したのです。
その時には小野田さんは、たった一人で孤独だったそうです。
発見時は51歳で、自分の寿命は60歳と決めていて、
あと9年経って60歳になったらレーダー基地に決死の
突入攻撃をして果てる覚悟だったという。

先日の亡くなったニュースでは、帰国した小野田さんの映像が出ていましたが
帽子もボロボロだけれど、きちんと手入れはなされていた所に
さすがだと思いました。
糸で縫われた帽子を見ていると解ります。
反日国の中国やロシアでも小野田さんのニュースが流れた様です。
その記事に対するコメントには
大半が小野田さんを称賛するものでした。

 「この方は、すばらしい日本人だ」、
「敵ではあるが尊敬せずにいられない」、
「29年頑張った老兵。ジャングルを探検する勇者(中略)
これらのひとつひとつが日本の強大さを構成しているのだ」、
「政治や戦争という要素を別にして、これは尊敬するに値する軍人だ。
われわれには、このような人物が欠けている。
日本の武士道精神は本当に、恐るべきものだ」などの書き込みが見られる。その記事へ

またロシアでは「最後の日本兵」小野田氏がなぜロシアで感動を呼ぶのか
という記事を目にしました。

日本の敗戦後、フィリピンのルソン島で30年もパルチザンとして
生活を続けた小野田寛郎(ひろお)さんが91歳で亡くなった。

「小野田さんはおそらく日本人兵士としては世界で一番名の知れた
人物だっただろう。
勇敢さ、兵士としての忍耐強さの手本だった。
この人は百年たっても語り継がれるだろう。」
以下略   ロシアの記事へ

反日国の中国人やロシアの人達にも共感された小野田さんは
任務遂行のために、人生の大半を終戦後も戦争を続けたのが
尊敬と感動をあたえ、敵味方関係なく英雄としてずっと語り継がれるに
違いないです。

帰国後は一部マスコミの虚偽報道やかなり酷い手紙等が届いて
ブラジルに渡り牧場で生活をしていたのでした。
その後、ある事件がきっかけで日本の子供たちが危ないと感じて、日本での自然塾を
開きブラジルと日本を行ったり来たりしていたとのことです。
常に日本の将来を憂いていたのですね。
小野田さんの事は、教科書に載っているのでしょうか?
日本では、ずっと語り継がれてほしいですね。
どうか安らかにお眠りください、小野田さん。
日本の為に本当に有難うございました。


 



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