まさおレポート

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仏教法話 法華経如来寿量品 永遠のいのち 紀野一義 書き起こし①

2024-02-27 | 紀野一義 仏教研究含む

仏教法話 法華経如来寿量品    永遠のいのち   紀野一義 書き起こし①

如来寿量品という章に入ることになります。まあこの章だけが大切だというわけではないんですけど昔からの人たちが如来寿量品という章が法華経の最高峰だと考えているわけで、大勢の人がそう考えるにはそれなりの理由があると思いますので私なりにそういう理由について近づいていってみたいと思います。

この章は私子供の時からお経を読むわけですが 爾時仏告 諸菩薩及 一切大衆 と読んでいたんですね。ですから他の章よりもはるかに懐かしいんですけど、その一番最初のところに 如来誠諦之語 復告大衆 汝等当信解 如来誠諦之語 又復告諸大衆 汝等当信解 如来誠諦語。

諸々の善男子まさに如来誠諦之語、汝等当に信解すべしという言葉が出て参ります。誠諦という言葉がおもしろいですけど誠という字に諦めるという言葉ですね。これを誠諦と読むんですけども如来の誠諦の語を信解すべし これを一度や2度でなくて3度言われるわけでこれに対して一切の大衆がただ願わくばこれを説きたまえ我はまさに仏の号身受したまえりと答えます。

誠諦之語は真実の言葉でそれを信解すべしというのはあまり簡単な言葉ではないわけで、普通に言えば信じ理解しなさいということですけれど、相手の話すことを聞いてそれを聞いて理解するというようなアンダスタンドという意味では全くないわけで、そうじゃなくて全く無条件に信解しなさいという時にこの信解すべしという言葉がくるわけですね。同時に即座に信じなさいということも出てくるわけです。

考えてはダメなんで考えないですぐに信解しなさいという時にこの信解という言葉が出てくるわけです。考えるとどうしてダメかと申しますと、そこに知識というものが働くわけですね。人間の識というのは迷いの元であります。もっとも商売をやるにしてもよく考えよく考えて行動しうまくいったこともあるでしょうし、いくら考えて行動してもうまくいかなかったということもあると思います。ですからね考えて識が働いてできるかというとなかなかそうはいかないと思うんですよね。

また理解したからといってそれだけですむ問題でもないわけで、ここでは考えたらダメだから考えずに即信じなさいということを要求しているわけです。一念信解と申しますけれども薬草喩品で申し上げたかと思いますが信解というのは早いんですね。正法眼蔵の29巻で恁麼に出てきたわけですね。

恁麼というのは不思議な言葉で何々のようなという中国語が恁麼でインドの言葉ではカタール、日本語では如、如しですね。つまりズバリと説明できないわけでだから何々のような何々のようなと比喩的に説明する他はない。そういうものを恁麼と言ってるわけですね。その恁麼の巻に智あるものはすなわち信解せんと言う言葉が出てくるわけです。

これは禅宗6番目の祖である慧能が出家した時に慧能は貧乏な木こりでございまして年取ったお母さんを養っていたわけです。あるときその薪を背負っていきますと因縁が熟しましてある男が薪を買ってくれる。その代金を払って俺が今止まっているところに届けろと言う。そこへいくと別の全く関係のなかった男がいてお経を読んでいる。これが金剛般若経という素晴らしく美しいお経でこれを聞いて六祖が動けなくなった。

今までお経を聞いたことがなん度もあると思いますがこれを聞いて動けなくなったというのが因縁ですね。最後まで聞いてその男をつかまえて、そのお経はなんというお経ですかと聞いたわけですね。そうすると金剛般若経というお経だと男が答える。誰に教わりましたか弘忍(ぐにん)という中国禅宗の五祖からだ。

その弘忍というお方はどこにいらっしゃいますかと聞くと黄梅にいらっしゃると。そこまで聞き終えると彼は出家して黄梅で修行したいと考えたが年取った母の面倒が見れなくなる、それが一瞬彼の表情に現れたのを第三の男が観察していた。お前どうしたんだと聞いた。お前話を聞く前と聞いた後で顔の表情が違ったと言う。

実は金剛般若経を聞いて出家したいと思ったが年取った母がいて出家できないと話すとその第三の男は前世からの因縁で銀十両を投げ出すようになっていたと言う。六祖壇経に書いてあるんですがね。お前はこのお金をお母さんに渡して出家しなさいと言った。こういう話がいっぱいあるといいんですけどそうはいかないんですね。この三人の男が異常接近したんですね。こう言うことは人生にあると思いますね。

人生にそう言うことがあると感じられる人とそうでない人がいるんでしょう。ハツカネズミが同じ運動をしているのと同じことを普通のサラリーマンは繰り返しているんでしょうね。月給が上がったとか、そんなものは関係ない。それがある時背中をバーンと押されるんですね。そうすると次の軌道を描いて歩き始める。道元さんはそれを即納信解の道理なりと書いていらっしゃる。

鎌倉時代は日蓮も親鸞もこのような書き換えをよくなさっていたが則納信解を即を強調するためにあえて即納信解と書いたんだと思いますね。実に信解の本質をよく表していると思います。頭がいいとか理解力があるとかそんなもんではないですね。大きな動きがその男を捕まえたという意味なんですね。

六祖はそれに捕まえられたんですよ。今の若い人は即行動すると言いますがあれは面白い言い方ですね。大きな動きに捉えられていない人が即行動というと多分身を滅ぼすことになりますね。

 

 

 

 

 

 

 


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