まさおレポート

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桜木町横浜銀行事務センタ跡を歩いてみた

2015-11-25 | 心の旅路・my life・詫間回想

職場の同窓会風会合が横浜であったのでついでに45年前、電電公社データ通信本部の時代に仕事で通った桜木町横浜銀行事務センタ跡を歩いてみた。すでに街は大きく様変わりしてどのあたりにあったかは検討もつかない。駅前に60才くらいのボランティアガイドさんがいたので尋ねてみたが全く分からないという。いつ頃のことですかと聞かれて45年前ですというとボランティアガイドさんは首をかしげていた。

ようやく弁天橋を思い出しそのまま弁天橋通りを行くと高さ119メートルの横浜アイランドタワーがあり、横に横浜市の歴史建築の銘鈑が埋め込まれてあり、横浜銀行本店別館跡とあるのでこのあたりにあったのだろうと分かった。ビルのロビーに入って海側に抜けると広場があり、このあたりに横浜銀行事務センターがあったと推測した。守衛に身分証を見せてはいると確か4階あたりに事務所があり最上階には食堂があった。

最上階の食堂のテレビで浅間山荘事件の中継をみたことや窓からタンカーが爆発したのを目撃したこと、第二次オイルショック、徹夜でデバッグ作業をして翌朝横浜、渋谷間を寝過ごして何回も往復したことなどが記憶の底から甦る。

すぐ傍にあった横浜正金銀行建物内にある歴史博物館も見学した。横浜正金銀行という名前は聞いたことがあるが永井荷風が行員であり、「あめりか物語」や「ふらんす物語」などはこの横浜正金銀行時代の経験をもとにして書いたものだという。横浜正金銀行は現在の三菱UFJ銀行につながっているとは知らなかった。

桜木町駅構内の壁に明治時代の桜木町駅付近の絵があった。よくみるとレールの終点は今の位置と変わっていない。右手が弁天橋らしい。 

古びた屋根の下がレールの終点位置。日本初の鉄道路線である新橋駅 - 横浜駅(現桜木町駅)間が、明治5年9月12日に開通している。45年前ここから出て通勤したような記憶がある。

45年前の通勤ルート弁天橋を渡る。弁天橋通り

大岡川を渡る

大岡川を渡る

大正元年の横浜(桜木町)駅 汽車の煙が見える

大岡川沿いにある横浜市の展示1

大岡川沿いにある横浜市の展示2

大岡川沿いにある横浜市の展示3

横浜アイランドタワー 横浜銀行本店跡でかつてこの海側に横浜銀行事務センターが隣接していた。

プレートが残っている

往時の建物表面が保存されている 右はプレート

外観の低層部は、1929年(昭和4年)築の歴史主義建築である旧第一銀行横浜支店(1980年以降は横浜銀行本店別館)のバルコニー部分を曳家工法で移築して組み込み、同時にそれ以外の外観部分をファサードで形態復元した。2003年(平成15年)度には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。by wiki

往時の建物表面が曳家工法(曳家(ひきや)とは、建築物をそのままの状態で移動する建築工法)で移築保存されている

事務センター跡地からランドタワーを眺める

事務センター跡地

法務局跡 よく窓から眺めた

以下は横浜正金銀行歴史博物館

横浜正金銀行正面ファサード

歴史博物館水彩画

関東大震災であたりは焼け野原だが横浜正金銀行はびくともしていない。

関西ではバタコと呼ばれたオート三輪車

1976年ごろこのあたりのイベントに出演するピンクレディー 我々はこのころには既にいなかった。

町人道中手形 なぜ箱根関連の遺物があるのかは不明

武家道中手形

小田原城模型

バリ島のアタとそっくりな籐製編み笠

混浴風景

黒船のぺリル

 永井荷風 横浜正金銀行の行員だった

福沢は正金銀行設立に尽力

横浜近郊特有のお盆の風習 南米の祭壇を連想

古い電話機

横浜正金銀行

黒船模型 太平の 眠りをさます じょうきせん たったしはいで よるもねむれず

初期のテレビ 中学のころこんなテレビがあった

初期のミシン SINGER製

黒船のモールス鍵盤と紙テープ 遠いアメリカと通信していたのは考えにくい。黒船同志の通信に利用か

 横浜西口から幸川へ この川も電話帳システム開発事務所への通勤ルートだった

電話帳システム開発事務所のあったNTT横浜西局は工事中だった。このあたりで白いメリーさんとよく出会った。

川沿いにできていたプロムナードから


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