まさおレポート

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仏教法話【法華経 如来寿量品】 永遠のいのち(3) 紀野一義

2024-02-28 | 紀野一義 仏教研究含む

仏教法話【法華経 如来寿量品】 永遠のいのち(3) 紀野一義

大人三人ぐらいでやっと届く松の木が広島の本性寺という私の育ったてらにありました。同じような大きさのイチョウの大木もありました。この大木をぽんぽんと叩いては学校から帰ってきたのですが昔のお母さんはこう言うタイミングがすぐにわかるんですね。ガラガラと開けると玄関の入り口に必ず座っているんですね。1日も変わらない。早くくるわけでもなくどういう仕掛けになっているのか子供の頃本当に不思議に思いましたけれどその仲立ちをしていたのがその大木なんですね。

長浜に秀吉が築いたという本丸の前に私が子供の頃叩いていたのとそっくりの松の木が聳えていましてね、いやーこの松私が行くのを待っていたのかなと思いました。この街は西田天光と言う宗教的天才を生み出したところですし集まってくれた若い実業家たちは西田天光にあったこともない人たちですがその精神を受け継いでいる人たちが私の話を聞いてくれまして非常に嬉しい1日をお互いに送ることができました。

とにかくそう言う経験を積み重ねていきますと自分はそう言う目に見えない力をもらっているということを感じます。これを加持力とか冥加とか言うんですね。冥加の冥はちょっと陰気な言葉ですけどこれは目に見えないと言うことで、目に見えない大きな力をいただいているというのを茗荷と言うんですね。昔の日本人は冥加のほどとかよく使いました。

遠藤誠の木の写真の話、御母衣ダムの桜移転と高崎辰之助、桜博士の佐々部慎太郎の話あり。青蓮寺の桜が38トン、光蓮寺の桜が42トンあったが100メートル上に移し替えた。昭和五十年5月になって桜が咲いたので電源開発の社員が辰之助に電報を打った。辰之助は電文を握りしめて涙をこぼしたと言うことですね。この話は人の心を奮い立たせますね。一方で寺では拝観料をとっているってなんなんですかね。人間に如来神通の力を教えてくれるんですかね。教えてくれないと思いますね。仏法の力を教えてくれるのは別にお坊さんであろうとなかろうとそんなことは関係ないんで実際にその大きな力に目を開いたものが教えることができるんじゃないでしょうかね。

さて仏様は 爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり 是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す と。

まあこれちょっと読んだってなかなかわからないですけど、つまりこれはですね自分が教えを説いてきたのはものすごい昔だという。とても考えられないくらい長い長い時間の間娑婆世界にあって常時説法教化している。

幕末から明治にかけて弁栄と言う聖者がいた。無辺光』(山崎弁栄/著 講談社 1969)と言う素晴らしい著作を書いております。この中で一大神霊というものがあってその一大神霊が自己を客観化して世界というものを作った。世界や衆生があり衆生の中に心というものがあり、今度はその主観が世界を見て楽しんでいるという壮大な世界観を表現していらっしゃるんですね。その自然を見ても何を見てもその美しさに感動することができるのだというのが基本的な考え方なんですね。こいつがわからないといくら如来寿量品をやろうがわからないと思うんですよ。一大神霊という言葉にひっかかることなく理解していただきたい。

せかせかした忙しい日本にいたんじゃこういう幽遠な世界というのはなかなかわからないと思いますよ。

 

 

 

 


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