
心の底で追いかけているからか「春の雪」のこの謎の言葉に時折遭遇することになる。
「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やら人違いでっしゃろ」
「しかし、御門跡は、もと綾倉聡子さんと仰言いましたでしょう」
「はい。俗名はそう申しました。・・・私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?」
「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば・・・それなら勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。』
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
「それも心々ですさかい」
以下後々に考える材料としてのメモです。
御門跡のお話は、むかしの唐の世の元暁という男についてだった。名山高岳に仏道をたずねて歩くうち、たまたま日が暮れて、塚のあいだに野宿をした。夜中に目をさましたところ、ひどく咽喉が渇いていたので、手をさしのべて、かたわらの穴の中の水を掬んで飲んだ。こんなに清らかで、冷たくて、甘い水はなかった。又寝込んで、麻になって目がさめたとき、あけぼのの光が、夜中に飲んだ水の在処を照らし出した。それは思いがけなくも、髑髏の中に溜まった水だったので、元暁は嘔気を催して、吐してしまった。しかしそこで彼が悟ったことは、心が生ずれば則ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二なり、という真理だった。
「何のことかわかりませんけれど・・・・・・」
飯沼はそういう真剣な祈りの最中に、体が熱してくるにつれて、凛とした朝風をはらむ袴のなかで、急に股間が勃然とするのを感じることがあった。彼は社の床下から箒を取り出し、狂気のようにそこらを掃いて回った。
「髪を上げたらな、もう清顯さんには會へへんが、それでよろしいか」「後悔はいたしません。 この世ではもうあの人とは、二度と會ひません。お別れも存分にしてま ありました。ですから、どうぞ......」
髪の一束一束が落ちるにつれ、頭部には聰子が生れてこのかた一度も知らない澄みやかな冷たさがしみ入った。自分と宇宙との間を隔ててみたあの熱い、煩惱の鬱氣に充ちた黒髪が剃り取られるにつれて、頭蓋のまはりには、誰も指一つ觸れたことのない、新鮮で冷たい清浄の世界がひらけた。
われわれは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に、第七識たる末那識、すなはち自我の意識を持つてゐるが、そのさらに奥に、阿頼耶識があり、「唯識三十頌」に、 「恆にすること暴流のごとし」と書かれてあるやうに、水の激流するごとく、つねに相續轉起して絶えることがない。
唯識説は現在の一刹那だけ 諸法(それは実は識に他ならない)は存在して、 一刹那をすぎれば滅して無となると考へてゐる
この一刹那をすぎれば雙方共に無になるが、次の刹那にはまた阿頼耶識と染汚法とが新たに生じ、それが更互に因となり果となる。 存在者(阿頼耶識と染汚法)が 刹那毎に滅することによって、時間がここに成立してゐる。
「今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きっと会ふ。瀧の下で」 歸京して二日のちに、松枝清顕は二十歳で死んだ。