週末ということもあり、ボラセンの受付には、大勢のボランティアが並んでいた。
また、被災者の方々からの依頼は、千件を超えたという。
もう社会福祉協議会のボラセンの処理能力を、大幅に超えてしまったようで、マッチングでは混乱した。
大勢のボランティアが、マッチング場所の広場に人垣を作り、ボラセンの担当者が、依頼リストを読み上げた。
しかしなかなかマッチングは進まない。
いや、進んでいたのかもしれないが、集まったボランティアの人数に対して、決まっていくペースが遅すぎた。
そこへ、スタッフから、
「50人ほど、集まってください」
という声がかかった。
グループ分けもなく、当然リーダーも決まらないまま、2台のマイクロバスに乗れるだけ乗せられた。
そして出発したわけだけど、行った先は、テレビやネットだけでしか被災状況を知らなかった僕と、そしておそらくは、一緒にバスに乗った大部分のボランティアにとって、想像を絶する惨状だった。
そこは駅前から海にかけて広がる繁華街だけど、大通りはがれきと、つぶれた車と、ごみが積み重なり、泥に埋もれていた。
建物は多くが原形をとどめていたが、内部は破壊し尽くされていた。
電柱や信号は傾いたり折れたりしていた。
街灯には、石巻出身の漫画家、石森章太郎のキャラクターをあしらった旗が、無残に風に揺れていた。
厳戒態勢が敷かれているのか、自衛隊の車両や警察のパトカーが、絶えず行き来していた。
運ばれた先は、大きなお寺だった。
そこでは、日本財団のスタッフの方々が待っていた。
ただ、昨日出会ったような完全装備の指揮官、といったふうでなく、割合ラフな身なりの方々だった。
そして今日はボラセンと連絡が取れているようで、僕たちにてきぱきと指示を出した。
僕たちはまず、6列縦隊を作るように指示された。
そして、横6人が1グループを作るように、そして、いちばん右の者がリーダーとなるよう、指示された。
リーダーには依頼書(ニーズ票、という)と地図が渡された。
それぞれのグループは、トラックに積まれた資材を受け取り、それぞれの活動場所へ向かった。
そして向かった先では、とてもハードな活動が待ち受けていた。
また、被災者の方々からの依頼は、千件を超えたという。
もう社会福祉協議会のボラセンの処理能力を、大幅に超えてしまったようで、マッチングでは混乱した。
大勢のボランティアが、マッチング場所の広場に人垣を作り、ボラセンの担当者が、依頼リストを読み上げた。
しかしなかなかマッチングは進まない。
いや、進んでいたのかもしれないが、集まったボランティアの人数に対して、決まっていくペースが遅すぎた。
そこへ、スタッフから、
「50人ほど、集まってください」
という声がかかった。
グループ分けもなく、当然リーダーも決まらないまま、2台のマイクロバスに乗れるだけ乗せられた。
そして出発したわけだけど、行った先は、テレビやネットだけでしか被災状況を知らなかった僕と、そしておそらくは、一緒にバスに乗った大部分のボランティアにとって、想像を絶する惨状だった。
そこは駅前から海にかけて広がる繁華街だけど、大通りはがれきと、つぶれた車と、ごみが積み重なり、泥に埋もれていた。
建物は多くが原形をとどめていたが、内部は破壊し尽くされていた。
電柱や信号は傾いたり折れたりしていた。
街灯には、石巻出身の漫画家、石森章太郎のキャラクターをあしらった旗が、無残に風に揺れていた。
厳戒態勢が敷かれているのか、自衛隊の車両や警察のパトカーが、絶えず行き来していた。
運ばれた先は、大きなお寺だった。
そこでは、日本財団のスタッフの方々が待っていた。
ただ、昨日出会ったような完全装備の指揮官、といったふうでなく、割合ラフな身なりの方々だった。
そして今日はボラセンと連絡が取れているようで、僕たちにてきぱきと指示を出した。
僕たちはまず、6列縦隊を作るように指示された。
そして、横6人が1グループを作るように、そして、いちばん右の者がリーダーとなるよう、指示された。
リーダーには依頼書(ニーズ票、という)と地図が渡された。
それぞれのグループは、トラックに積まれた資材を受け取り、それぞれの活動場所へ向かった。
そして向かった先では、とてもハードな活動が待ち受けていた。
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