吉松真幸のボランティア報告書

鹿児島在住、吉松真幸(仮)の東日本大震災ボランティアレポート ボランティアから帰っても、他の形の被災地支援を模索中。

明日で3年

2014-03-10 20:51:55 | 日記
明日で、東日本大震災から3年になる。

それまでの日本と、その後の日本の間には、大きな断層ができてしまった、そんな感じがする。

今の日本は、3.11以前の日本とは全く別物のような。

表向きは変わっていないようでいて、いろんなものやことが変わってしまった。

社会、制度から、人の心まで。

僕自身も、変わってしまった。
遠く鹿児島に住む私も地震がなければ、転職なんて考えずに、酒造会社で酒造りを続けていたかもしれない。

あれから3年。

もう3年、まだ3年。

ちょうど地震が起きたとき、僕は会社でこんな絵を描いていた。

地震さえなければ、春のキャンペーン向けに2万通のダイレクトメールの封筒を飾るはずだった絵。

遠藤未希さんをはじめ、殉職された方々の魂を悼む

2011-05-02 21:51:13 | 日記
宮城県南三陸町で、震災直後、町を津波が襲う中、防災無線で住民に避難を呼びかけ続けた町職員、遠藤未希さんが震災から50日を過ぎて、遺体で発見されたという。

改めてテレビで見たが、津波が町に流れ込み、家や車が流されている中、「津波が襲来しています、高いところへ避難して下さい」と呼びかけ続けていた。

遠藤さんがいた建物は、津波を受けて鉄骨の骨組みだけになってしまった。
津波が襲ってくる前に放送室から避難したという記事もあるが、実際には放送室に津波が流れ込んできていよいよ危険が迫ってから逃げたのではないか。

ご両親を心配させたくないと故郷の役場に就職し、そしてまだ結婚したばかり。

まだご遺体が見つかる前、ご両親は放送局のスタッフに、津波が来た時の映像を見せてほしいと頼んだ。
映像の中では、町が津波に飲まれながらも、避難を呼びかける放送を続ける娘さんの声が、こだましていた。
嗚咽を漏らしながら画面に見入るご両親。
それを僕はテレビ越しに見ながら、とてもいたたまれなくなり、涙が出てきた。

遠藤さんだけではない。

今回の震災では、大勢の市役所・役場の職員や、警察官、消防士、消防団、自衛隊、そして一般の方々が、自らの命を犠牲にしてでも住民の命を守ろうと駆け回り、声を枯らし、そして津波に飲まれていった。

遠藤さんのような方は、一人でなく、数多くいたのだ。
心からその尊い魂を悼みたい。

僕が初めて被災地に入ってから1か月

2011-04-29 22:10:38 | 日記
ちょうど1か月前の今日、僕は石巻に入った。

あれからもう1か月たつのか・・・という気持ちと、まだ1か月しか経っていないのか・・・という気持ちとが合わさった、複雑な気分だ。

仙台からの高速バスが石巻の市街地に入ると、津波の痕の残る家や建物や道路が目に飛び込んできた。
バスを降りると、海から遠いはずなのに、海の匂いがして、そして何かが腐ったようなヘドロの臭いがした。
バスの終点から、ボランティアセンターのある石巻専修大学までの道のりで見た、津波の痕、そして河川敷にそのままになったがれき。
それだけで心が痛んだのに、その後のボランティア活動では、もっと心に刺さる光景を見た。

普通の、日常生活を営んでいた街、そしてそこに住む人が、それまでの生活を奪われ、泥とがれきに埋もれた姿を。
全国チェーンのファストフードやコンビニ、ショッピングモールでさえ、例外なく地震と津波に襲われ、惨めな姿を晒していた。

それは、この災害が、決して他人事ではない事を教えてくれた。

ボランティア活動を通して、人と人とが助け合う事の大切さや、人と人との絆というものの強さを、とても深く心に刻んだ。
絆というものがある限り、この日本という国は大丈夫だという確信を得た。

僕個人としても、たった9日間(実働7日間)という短い期間だったが、得がたい体験をした。
ちょうど1か月前から始まったボランティア活動は、僕に一生の糧を与えてくれた。

なにより、他人のために奉仕するという精神。

そして、1か月が過ぎた。
大型連休の初日の今日、東北新幹線が全線で運転を再開した。
松島では、観光船が運航を再開した。

がれきと泥の除去は遅々として進まないようだけど、その一方で、復興の動きも、着実に進んでいる。

東北の明日に光がありますように・・・。

ストリートビューで被災地の震災前の姿を見た

2011-04-24 20:26:03 | 日記
僕は震災前の石巻を見ていない。
だから僕にとっての石巻のイメージは、泥とがれきに埋もれた、泥色の街だった。

昨日、ふとグーグルのストリートビューで、石巻を見てみた。
画面には、震災と津波に襲われる前の、石巻の姿が現れた。

ある日、繁華街で泥やがれきの撤去をしていた僕たちは、ある通りを移動した。
歩道には、泥を詰めた土のう袋や、がれきや、使えなくなった家財道具が積み上げられていた。
車道だけが、車がやっと離合できるだけの幅が確保されていたが、路面は乾いた泥で暗い灰色をしていた。
普通のアスファルト舗装の道路だと思っていたら、実は、歩道も車道もカラーブロックが敷き詰められた、おしゃれな通りだった。

別の大通りは、僕が実際に見た時には、両側につぶれた木造家屋や廃墟になったビルが連なり、その前には破壊された乗用車が転がり、その間を、泥まみれになった緊急車両がまばらに通り過ぎる、という光景だった。
ストリートビューで見ると、きれいな商店が並び、小ざっぱりした人たちが歩道を行き交い、ピカピカの乗用車が列を作っていた。

ある住宅街は、つぶれたり傾いたり、原形を保っていても戸や窓がどっかに行き、中にあったものもなくなった住宅が並んでいた。
聞こえるのは重機の音とカラスの声ばかり。
ストリートビューの中では、平和な、新興住宅地だった。
日の光がさんさんと降り注ぎ、外で遊ぶ子供の声が聞こえてきそうな、のどかな光景だった。

どの光景を見ても、小ぎれいで、清潔な、日本のどこにでもあるような地方都市だった。
僕が実際に見た、泥とがれきばかりの街ではなかった。

心が締め付けられるように痛み、悲しくなった。
そして、僕たちがいま暮らしている日常が、儚く、もろいものだという怖さを感じた。

被災地での交通インフラ復旧について思うこと

2011-04-19 20:25:00 | 日記
東北新幹線が、4月中には全線で復旧しそうな見通しだ。

これだけの大動脈が息を吹き返せば、被災地とそれ以外の地域との間で人の行き来が、活発になるだろう。
復旧・復興に携わる技術者だけでなく、ボランティアも現地に行きやすくなる。
それに、またひとつ、震災前の状況に戻ったことで、東北の人たちが元気を取り戻せるかもしれない。

東北新幹線だけでなく、交通インフラの復旧は、心理面でもとても重要な意味を持つだろう。

交通インフラの復旧について、個人的に感じたこと、そしていま思うことを、石巻の例を挙げてみる。

震災直後、石巻は完全に陸の孤島と化した。
高速道路は通行止め。
鉄道は仙台との間を結ぶ仙石線、東北線の小牛田との間を結ぶ石巻線ともに不通。
仙台との間を結ぶバスも無し。

人の流れも、物流も、ほぼ閉ざされた。

それからしばらくして、仙台と石巻を結ぶ高速バスが運行を始めた。
最初は1日8往復だっただろうか。その後、22往復まで増便された。
このバスがあったから、僕は石巻までボランティア活動に行けた。
そのバスを使って、石巻から仙台まで買出しに出かける人たちも大勢見かけた。
バスが通る三陸道は、完全に復旧しておらず、道はでこぼこ、バスも速度を落として走ったが、確実になくてはならない補給線として機能していた。

僕がボランティアに入った翌日だったろうか。バスも含めた緊急車両の通行に限られていた三陸道が、一般車の通行も可能になった。
それを境に、車で石巻のボランティアセンターに入ってくるボランティアさんが増えてきた。

それから、僕が石巻を離れるまでの間に、通行止めになっていた道がどんどん開かれ、緊急車両優先だったガソリンスタンドが一般車も給油可能になり、そして市内の路線バスが、本数は限られていたものの、運行を再開した。

しかし、道は大渋滞するようになった。
自衛隊や警察の緊急車両、物資を積んだトラック、ボランティアの乗った車も、渋滞に巻き込まれてしまった。
救急車も、前に進めなかった。
営業を再開したイオンショッピングセンターに行く路線バスも。

道路の復旧は、おそらくすべての交通インフラの復旧よりも急がれるべきだろうし、道路の復旧によって、被災地全体の復興が急速に進むだろう。
けれども、道路が完全に復旧していない場合、復旧した道路に車が集中し、逆に機能しなくなるというのを、見せ付けられた。

このままでは、道は復旧しても、街は復旧しない! そう感じた。

やはり初めのうちは、緊急車両や路線バス、物資運搬、ボランティアも含めた復興関連の車両など、必要最小限の車に限って通行証を発行するか、給油制限を課すなどして、車がスムーズに流れるような施策が必要だと思わされた。

その代わり、ショッピングセンターや市街地中心部と、住宅地との間を結ぶバスを、路線もダイヤもきめ細かく設定して、住民の利便を図らなければならないだろう。
場合によっては、住民のために自治体がバスをチャーターするか、バス会社が運賃を安く設定し、自治体が補助を行なうなどの方策も、あって良いだろう。

街全体の復旧・復興のスピードを速め、同時に住民の移動に対する要求を満たすためには、他にどのような方法があるのだろうか?

被災地を離れて1週間になった

2011-04-12 07:44:17 | 日記
ちょうど1週間前の朝、僕は石巻のボランティアセンターを離れた。

到着日と出発日を含めて9日間滞在し、うち7日間、泥かき、がれきの撤去、畳や家財道具の搬出をした。

いまでも頻繁に夢に見る。

昨夜というか今朝も、泥の中にいくつも丸太が転がり、それをどかしながらの泥かきをする、という夢を見た。

地震や洪水(津波?)、火山の噴火などの夢で、夜中にハッと飛び起きたりする。

日中も、平和な日常の光景を見て、不意に不安な気持ちになる事もある。

ボランティア活動初日に、街の様子を見て
「これはトラウマになりそうだ」
と思ったが、その後も活動を続けられた。
自分の強さを錯覚して、感心したりした。

しかし、帰ってきてから、この有様だ。
被災地の光景は、それだけ深く心に刻み付けられているのだ。

一生、忘れる事はないだろう。

同じ光景が、再び現実のものにならないように、何ができるか・・・僕なりに考え続けて行きたい。

震災から1か月の朝

2011-04-11 08:06:09 | 日記
あの大震災と津波から、1か月目の朝を迎えた。

あの日、被災地では、いつもと変わらない朝を迎えていたはずだ。

昨日までに死者13,013名。
そして行方不明となった14,608名の方々は、いったいどこに行ってしまったのか。

3万人近い方々の、それぞれの平和で幸せな毎日が、失われてしまった。

被災地では、がれきの撤去さえままならない地域もある。
生活再建のため、泥出しや家財道具の搬出に追われる地域もある。
1か月もたつのに。

膨大ながれきと泥に埋もれた街、そして、頑張りすぎるくらい頑張っている被災者の方々の姿を思うと、「一日も早い復興を!」とか、「がんばって!」とか軽々しい言葉は、とても言えない。

けれど、全国みんなで手助けすることはできる。

ボランティアでも、ボランティアができなければ募金でも。

復興への道のりははるかに遠いけれど、一歩一歩、みんなで歩いていくしかない。

鹿児島に帰って3回目の朝

2011-04-10 08:19:17 | 日記
鹿児島に帰ってから、3晩とも夢見が悪い。
夢の中で、激しい地震に遭ったり、火山が噴火したり。

昨夜は、泥かきの夢を見た。
いくらがれきを取り除き、泥をかいても、泥はいっこうに減らない。
泥をかいた跡に、がれきが泥と一緒に流れ込んでくる繰り返し。
もう時間切れ、というところで目が覚めた。

朝5時といえば、石巻では東の空がだんだんと明るくなってくる頃だけど、鹿児島ではまだ真っ暗。

落ち着かないまま新聞を読み、続いて歴史の本を読んだ。

朝6時半、ラジオ体操。その後、そのまま散歩。
散歩の途中で、県議選の投票所へ。
投票所一番乗りだったから、投票所係員の指示により、投票箱の中に何もない事を確認してから、投票。

今日は統一地方選挙だけど、被災地では投票を延期している自治体も多い。
被災地では選挙どころではない。

帰ってから朝食を取っていると、やや強い空震を感じた。
窓の外を見ると、桜島がもくもくと噴煙を高く上げていた。

震災以降、全国20火山で地震活動が活発化、というけれど、気象庁が監視している活火山は105山。
逆に地震活動が沈静化した火山の数も一緒に公表されなければ、何とも言えない。

ただ、東日本大震災の直前に、霧島連山の新燃岳が噴火を繰り返し、震災前後にトカラ列島で地震が頻発し、震災直後に富士山の下で強い地震があったことは、不気味だ。

やはり、連動しているのだろうか。

被災された方々から受けた親切

2011-04-09 16:21:54 | 日記
ボランティア活動をしていて、忘れられない出来事があった。

ボランティアのニーズがあるお宅などに行って、泥を出したり、畳を上げたり、家財道具を運んだりして、そういう活動が終わって帰る時、お礼をされた。

お礼のついでに、ペットボトル入りの飲み物や、お菓子などを渡される事もあった。

いくら汚れ仕事やきつい仕事をしても、本来、ボランティアは無償で奉仕するものだ。
無償が原則のボランティアに、飲み物や食べ物など出す必要は、全然ないのだ。
ましてや被災地は、商店やスーパーなどが営業再開しないところが多く、営業しても品揃えが少なかったり、営業時間が制限が制限されていた。
そのため、まだまだ食料や飲み物が不足しているのに、どこのご家庭でも、どうやってそういう飲み物や食べ物を調達したのだろう?

無理して調達した家庭も多かったのではないか?

それが分かっているから、いつも、リーダーは断ってきた。
けれど、被災者の方々は、「どうしても」と引かず、その厚意を無にするわけにもいかず、結局はありがたく受け取った。

また、ある地区で何班にも分かれて集中的に活動を行い、夕方、ボラセンからの迎えのバスを待っていた僕たちに、そこの町内会の方々が、温かい野菜のスープを作って、出してくださった事もあった。
寒い日だった。
スープの温かさは、身体の芯まで行き渡った。

すでに悲惨な目に遭っているはずの被災者の方々の、親切さ、優しさは、心に強烈に残った。

人が本来持っている優しさ、というものについて、改めて認識した。