吉松真幸のボランティア報告書

鹿児島在住、吉松真幸(仮)の東日本大震災ボランティアレポート ボランティアから帰っても、他の形の被災地支援を模索中。

4月6日の朝…撤収

2011-04-06 09:22:37 | 活動報告
昨夜も風が強く、テントのフライシートが、夜通しバタバタいっていた。

予定していた活動をすべて終わり、疲れも溜まっていたから、夢さえ見ずに眠り込んでもよかったはずだ。
けれど、寝付けなかった。

まだまだ…いや、これからますます支援の手を必要としている被災地を、離れてしまって良いのかという迷いがあった。

それに、汗かきながら、泥まみれになりながら、被災者の方々に感謝され、僕たちも感謝しながら、決して他では学べない、多くのことを学んだりもした。

けれど、ひとまず撤収する事にした。

強風でテントを畳むのに難儀していた僕を、テントが隣同士という縁で親しくなったKさんが助けてくれた。

テントの事だけでなく、他にも何かとお世話になったお礼に、クラッカー、氷砂糖、ウエットティッシュ、電池、水など、余った食料、消耗品の類を、Kさんに差し上げた。
3か月の長期戦だというKさんからは、とても喜ばれた。

荷物をまとめて、Kさんとボラセンに行った。そろそろみんな集まり始める頃だった。
ケータイのアドレスを交換しあったり、
「今度は災害でないときに、どこかでまた会おう」と言い合ったり、握手を交わしたりした。

そうして僕は、テント村から撤収した。

街のバス停まで歩いた。
早くも、ポカポカ陽気だった。
旧北上川の土手には、来た時にはなかった黄色い花が咲いていた。

今日は住宅地

2011-04-04 17:40:05 | 活動報告
今朝のマッチングは、昨日と比べても、目立ってボランティアの数は少なかった。
テント村にはむしろ、より多くのテントが張られているのに。

昨日までと同じように、
「足のない方、バスに乗ってください」
と、ボラセンのスタッフに案内されて、バスへ。
人数は昨日よりもさらに減り、マイクロバス1台ぶん。

昨日までと同じ、繁華街に行くのかと思ったら、別の地区に行くという。

行った先は、日本製紙の煙突が割と近くに見える住宅地。

家屋の破壊された様子からすると、津波は押し寄せたというより、ひたひたと上がってきたのだろうか。
木造家屋でもほぼ原型をとどめていたが、道に積みあがったがれきや、つぶれた車の量が桁外れに多かった。

依頼者宅に向かおうとしても、がれきで行方を阻まれたりした。
途中にペットショップがあったが、店先には空っぽのケージが積んであるだけだった。
パトカーが止まり、警察官が立ち会ってがれきを撤去しているところがあった。

一軒めに向かった先は、お屋敷だった。
塀の周りには、がれきがうず高く積み上がり、砦のようだった。

そこは、留守。
電話をしても、つながらず。

本部に連絡し、別の班と合流。
そこで庭の泥出し、畳や家財道具の搬出、運搬。

時折、小雪の舞う、真冬のような天気の中、活動を続けた。
午後早い時間に終了した時には、油混じりの泥で汚れた庭はきれいになり、僕の心も清々しい気分となった。

次の依頼者宅へ。

老夫婦ふたり暮らしのお宅で、ボランティアなりなんなり、誰かの手伝いがなければ、絶対に不可能と思われた。
これから高齢化がますます進めば、災害の度に、同じようなケースが増えるだろうと思い、心が痛み、また、不安になった。

今日もまた泥の繁華街へ

2011-04-03 18:42:45 | 活動報告
今朝のマッチングは、だいぶボランティアの姿が少なかった。

「昨日ので、みんな懲りたかな?」
年配のボランティアが、苦笑した。

今日も、昨日と同じ、繁華街へ向かうバスに乗った。
そうしなければ、あの悲惨な地区を見捨てるような気がした。

バスは人数がそろわず、なかなか発車しなかった。
結局、空席を残して、発車した。

昨日と同じように、6列縦隊を作り、グループ分け。
昨日は15班できたが、今日は10班しかできなかった。

午前は、昨日よりも被害のひどい場所にある、インテリアショップへ。
周りは、木造の家屋はほとんど全て倒壊するか、流されていた。
鉄筋のビルでさえ、傾いているものがあった。
路上には、大型の漁船が傾いたまま道を塞いでいた。

インテリアショップも、中にあった商品も什器もほとんどなくなり、10センチくらいに積もった泥が床を埋めていた。
そして、流れてきた車が、真ん中に居座っていた。

泥やごみを外に出し、車を店の入り口まで移動した。

昼食をはさんで午後は、大通り沿いにあるテナントビルへ。
旅行代理店と、洋品店が入居している。
ここも、店内には泥が10センチくらい堆積していた。
床には、横倒しになったり、天地が逆になったりした陳列棚が、泥に埋もれていた。
旅行代理店では、航空会社のロゴの入った航空券発券端末も、泥まみれになり、店先に出されていた。
泥を漁ると、預かりものらしい、パスポートが出てきたりした。

旅行代理店の店先の泥をかき出しながら、泥に汚れ、ぐしゃぐしゃになったパンフレットが目に入った。

「ビジネスクラスで行くパリ」
「女子旅 グアム」
「地上の楽園パラオ」

地上の楽園なんて、そんなもの本当に存在するのだろうか?
そんな疑問が一瞬、頭をよぎった。

夕方まで活動し、集合場所のお寺に戻った。
冬型の気圧配置が強まったせいで、真冬のように冷たい風が吹いていた。

震えながら、かじかんだ指先で携帯を操作し、自宅のある鹿児島の町の現在気温を見てみた。
14.7℃だった。

(暖かいだろうな…)

ふと、何の変哲もない日常生活を送っていたあの町が、本当の楽園のように……日常生活こそが本当の幸せのように……日常生活を奪われた街で、そんな事を思った。

心が痛むを通り越し…

2011-04-02 19:31:45 | 活動報告
今日は繁華街にある料理店の、泥出し、畳出し、ごみ出しで一日が終わった。

昨日までの活動でも、変わり果てた街の様子に、ショックを受けた。
しかし、それらすら忘れてしまいそうな、心が粉々に吹き飛んでしまいそうな、激しい衝撃を受けた。

料理店は、大通りから入った路地にあった。
路地の向こうはがれきで埋まり、そのがれきの上に、大きな船が乗り上げていた(写真では分かり難いかもしれないが)。

建物の中にたまった泥は、どんなにかき出しても、一向に減らなかった。

店の前には、向かいの家から倒れてきたブロック塀が、十数メートルにわたって道を塞いでいた。
店から出した泥は、一輪車に積んで、大通りに近い広場に運んだ。
倒れたブロック塀の上を、一輪車を押したり、畳を運んだりした。

誰かが、
「この塀の下に、人が埋まっているんじゃないか」
と、真顔で言った。

一瞬、そんなバカな、と思った。
けど、塀を上げて調べた形跡は、ぱっと見た感じでは見られなかったから、あながちあり得ない話でもないと気付き、すこし背筋が冷たくなった。

あらゆるものが、泥にまみれていた。
しかも、重油を含んで真っ黒い泥だ。
宮城県第二の都市、石巻の中心部は、震災前には見せていただろう華やかさは、少しも見せていなかった。

活動を続けながらも、切なくて、つらくて、どうしようもなかった。

体力的にもだけど、それ以上に、精神的にこたえた、今日の活動だった。

それは僕だけではなかったようだ。
帰りのバスの中、
「俺、やっぱりもう帰るわ」
そんな声を聞いた。

午後の活動

2011-04-01 18:21:12 | 活動報告
午後は、午前とは別の地区で、畳や家具、家電製品の搬出と運搬。

ある家で、活動が終わった後、そこの女性が「ありがとうございました」と何遍も、泣きながら僕たちに頭を下げた。

僕たちはほとんど言葉にならいまま、頭を下げた。
僕も、涙があふれそうになった。
僕以外にも、泣いているメンバーがいた。

今日で地震から3週間。
その日が想像もできないくらい、日差しが降り注ぎ、春らしく暖かい午後だった。

本当に切ない思いで、胸がつぶれそうだ。

午前の活動終了、しかし…

2011-04-01 12:27:04 | 活動報告
昨日までの活動場所だった保育園は、あと1日で終わりそうな気配だった。

ところが昨日、僕たちが撤収した後、隣の敷地で活動していた、韓国の宗教団体がやって来て、残りを済ませてしまったという。

というわけで、今日はまた新しいところで活動。

今日の午前中は、市街地の住宅街で活動。
数人のグループに分かれて個人宅を回って、水に浸かった畳を外に出して、不要品と一緒に指定場所まで運ぶ、というものだった。

水を吸った畳は重く、しかも膨らんでいるから、まずはバールでこじりだして、4、5人がかりで運び出した。

津波がやってくるまでは、ごく当たり前の生活の中にあった家具や雑貨が、ゴミの山になっていた。

ただただショック。

畳を運ぶ途中に通りかかったある家の前で、猫のイラストの入ったエプロンをした年配の女性が、泥掃除をしていた。
僕は思わず、実家で独り暮らす母親を、その女性に重ね合わせてしまった。

実家がこんな大災害に見舞われたとき、実家と母親は、どうなってしまうのだろう?

少し涙が出そうになった。

昼前、ボラセンから迎えのバスがきた。

その後、予想外の事態が発生した。

ボランティア活動の方法、ということについて考えさせられる出来事だったが、もう昼休憩は終わり。
また夕方戻ってきてから書いてみる。

本日の作業

2011-03-31 17:29:11 | 活動報告
今日も昨日に引き続き、保育園中庭のヘドロ除去。

マッチングの時、昨日に引き続きこの現場を希望すると手を挙げたのが、僕を含めて10人ほど。

「リーダーは誰にしますかぁ?」
ボラセンのスタッフさんの呼びかけに、みんな
「Tさんでしょう」
というわけで、全員の意見が一致し、昨日に続いてTさんがリーダーに決定。
皆の間に笑いが起こった。
実は当のTさんは、息子さんを残して、トイレに行っていて、その場にいなかったのだ。

すぐに戻ってきたTさんは、
「ええ?また俺のいない間に」
と言いながら、笑っていた。

(大丈夫、任せろ)
と言っているように僕には見えたし、実際、グループのメンバーから信頼されていた。

さらに今日からボランティアを始めるという方々4人がさらに加わり、15人のメンバーでマイクロバスに乗り、現場へ。

朝から雨がちで、現場ではヘドロも再び水を吸って重くなっていた。

この現場は今日で3日目(僕は2日目)で、昨日よりも皆無口になって、ヘドロを土嚢袋に詰めていった。

しかし休憩時間や昼食時には和気あいあいと談笑した。
もう互いに気心が知れていた。

保育士さんたち職員の方々も、教室内や玄関の泥汚れを洗い流していた。

夕方近くなり、作業終了。
あと1日でなんとか終わりそうなめどがついた。

今日のボランティア派遣先

2011-03-30 17:17:26 | 活動報告
ほぼ即製された、僕たちのグループが向かったのは、市街地にある保育園。

早く保育園が再開して、保護者の方々が子供を預けられるようになると、地域の復旧、復興のスピードが上げられる、ということだった。

その保育園のある一帯は、大人の背丈を超えるくらいの津波がやってきた。
道路には、まだ撤去できないがれきやごみ、車が積み重なり、道の両側をふさいでいた。
乗用車が3台重なったままになったところもあった。

作業内容は、保育園の庭に溜まったヘドロの除去作業。
シャベルでヘドロをすくって、土嚢袋に詰め、庭の片隅に積んでいく。
ヘドロの厚さは平均して10センチくらい。
表面だけは乾いているが、中は水分をタップリ含んでいて、しかも重油を含んでいて、重かった。

ヘドロの上には、大小さまざまな魚が死んで、腐っていた。
ヘドロの中には、どこかから流れてきた衣類や靴、雑貨のようなものも埋まっていた。
ヘドロ特有の臭いと重油の匂いが混ざって、鼻を突いた。

とにかく重労働。
初めはみんな話をしながら作業していたが、だんだんと誰も無口になっていった。
ばててしまってはいけないので、適宜休憩が挟まれた。
「それじゃ休憩しましょうか~」
というリーダーの声を、「天の声」と表現した方がいたが、まさにそうだった。