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土木の工程と人材成長

土木建設の工程管理や組織運営、そして人材成長の話題や雑学を紹介します

力(武力)か言論かー古代日本の出来事から見えてきたものー

2025-09-08 15:36:55 | 思考
ある意味で、日本の始まりと言える数々の制度等を創っていった50年におよぶ大化の改新は、卑弥呼の時代から約400年後、聖徳太子からは約50年後のできごとであった。

曽我氏が物部氏を武力で倒したり、乙巳の変で、入鹿を殺害したり、意見が合わない者は殺すというのが古代から近代(封建時代からつい先の犬飼毅暗殺などの軍部の暴走)までの日本のやり方だった(ホッブスの「万人による万人の闘争=普遍戦争原理」。ヘーゲルは「主と奴の戦い」と言う)。

現在でも、ロシアがウクライナに侵攻し、イスラエルがガザを壊滅的に破壊し、カンボジア軍が反対派を武力で鎮圧し、中国はイスラム教徒が多いウイグル自治区の人々を強制収容所に入れたりして思想教育を行っている。つまり、意見が異なるものを力で押さえる、古代国家がまだ現代世界にはあるということ。ケン・ウィルバーは、ロシアと中国は、まだ古代国家(歴史の進歩が遅い国)だと言う(ケン・ウィルバー「インテグラル理論」、JAMAM,2019.6.30,PP287-288)。

民主主義(言葉の交換による合意形成)がいかに重要か、ロック(人民主権)とルソー(一般意志)という、人類が到達した優れた考え方(社会原理=哲学)の理解と、それに基づいた政治の実施の大切さがわかる。

欧州も近年の日本も、政党が多数乱立ぎみではあるが、それは個々人が自由に意見を主張できるということ。早急に決められないというのはあたりまえのことであり、国民一人ひとりが成熟していく必要がある。政治家やコメンテーターが、相関をあたかも因果のごとくしゃべっているが、そこを冷静に判断する力が個々人に求められている。

イスラエルのガザ地区への暴挙をどう見るのか

2025-04-16 14:03:23 | 思考
ユダヤ人にはアインシュタインをはじめ、世界を変えリードしてきた人々が沢山いる。

「命と人権教育のNPO ホロコースト教育資料センターKokoro」ホームページでは、「なぜ、ホロコーストは起きたのか」の冒頭で、『第二次世界大戦のとき、ナチ・ドイツおよび占領下のヨーロッパで、「ユダヤ人」という理由で約600万人の人々が殺されました。(中略)あれから70年以上の年月が経ちます。国連は、国や民族の枠を超えてすべての人びとがホロコーストの歴史から人間の差別や偏見、憎しみの恐ろしさを学ばなければならないと訴え、加盟国に対して、教育の場で取り上げようと呼びかけています。』と説明している。

ここでは「ユダヤ人という理由で」とだけの説明で、その背景は説明されていない。

一方、現在イスラエルによるガザ地区の攻撃は熾烈を極めており、眉を顰めざるを得ない。まるで、ホロコーストでヒトラーがユダヤ人に対して行った行為を、ユダヤ人であるイスラエルのネタニアフ首相がパレスティナ人に対して行っていることと、どこが違うのであろうか。

さて、塩野七生「ローマ人の物語Ⅸ―賢帝の世紀―」では、『P311,ユダヤ教は、他の神々をいっさい認めないことによって成り立つ一神教である。P312,自分たちのみが神に選ばれた民族であり、それゆえに正しく優れていると信じきっている信仰厚いユダヤ教徒が何にも増して拒否したことは、他民族の忠告を聴き入れることであった。P313,ハドリアヌス在位117-138年にも、ローマ人との共生を選んだ(ユダヤ教の)人々はいた。ハドリアヌスが嫌悪するようになったのは、共生には不可欠な協力を拒否しつづける、狂信的なユダヤ教徒であったのだ。P330,紀元132年を境に、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、たがいに相手側に対する敵対意識が決定的になる。そしてこれは、20世紀までつづいた。いやもしかしたら、今なお完全には消えていない、悲劇的な敵意に育っていくことになる。P336,タキトゥスは、他者の神をいっさい認めないユダヤ教を、宗教ではなくて迷信にすぎない、とさえ断じている。P337,もしもあなたが、自由の中には選択の自由もあると考えるとしたら、それはあなたがギリシャ・ローマ的な自由の概念をもっているということである。ユダヤ教徒の、そして近代までのキリスト教徒にとっての自由には、選択の自由は入っていない。まず何よりも、神の教えに沿った国家を建設することが、この人々にとっての自由なのである。この自由が認められない状態で、公職や兵役の免除を認められ、土曜や日曜の休息日もOK、だから自由は認めているではないかと言われても、この人々の側に立てば、自由はない、となるのが当然なのだ。』と書かれている。

これらの宗教観および歴史的背景を踏まえて、現在のガザ地区へのイスラエルの攻撃を考えてみると、見えてくるものがあるのではないだろうか。

キリスト教が拡大した要因

2025-04-09 15:32:02 | 思考
塩野七生「ローマ人の物語ⅩⅣ キリスト教の勝利」新潮社、2005.12.30から要約すると、『最初のキリスト教を公認したのは、ローマ皇帝コンシタンティヌスである。ゆえに、「大帝」の称号つきで呼ばれた。それまでローマ人は、ローマのあまたの神々を、各人が好き好きに祀っていたのであるが、紀元313年に公布された「ミラノ勅令」が、ローマ人の宗教観を大きく変えていくきっかけとなった。

「ミラノ勅令」は、表向きは信仰の自由を謳っているのであるが、実質はキリスト教に公式な立場を与えたものである。さらに、コンスタンティヌスの息子のコンタンティウス(ヌとウの一字違いで、まことにややこしい)帝も、父親皇帝と同様キリスト教を保護していった。

キリスト教は聖職者を持つ宗教であった。そして、聖職者は聖なる任務に携わるわけだから免税となった。すると、資産家は税逃れのため、宗教心はなくとも改宗へなびいていった。さらに、ローマ神の偶像崇拝禁止令に違反すれば、死罪に処すとの禁令が出されると、ローマの神々のいる場所はなくなった。この時、彫像の多くが壊されたり、河に投げ込まれたりした。

さらに、本音は脱税にあるのだが、聖職者は免税とされたため、地方自治体の有力者層が、雪雪崩をうってキリスト教化していった。

とはいうものの、キリスト教内では、教義解釈の違いからアリウス派とアタナシウス派にわかれ、相手を互いに異端として排斥し争ってもいた(誠に一神教の寛容のなさは、嘆かわしいと言わざるを得ない)。

その後の皇帝ユリアヌスは、宗教が現世をも支配することに反対の声をあげており、塩野七生は、「古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか、と思う」と書いている。

しかし、ミラノ司教のアンブロシウスという希代の論客が出て、皇帝を羊のように従えていった(皇帝の権威は、キリスト教の神がさずけるとしたので)。首都長官のシンマスクが、キリスト教偏重はおかしいではないかと、皇帝にあてた書簡で司教のアンブロシウスに論戦を挑んだのであるが退場するしかなく、キリスト教が勝利したのであった』

米国大統領も就任時に、聖書に手をおいて宣誓する。はた目にもキリスト教の教えとされるものとは相いれないのではないかと思われる大統領もである。選挙で選ばれたのであるから、権威の所在は国民にある。だから、国民に対して宣誓すればいいではないか。ルソーが言うように、国民の「一般意思」で政治を行うのが大統領なのだから。

宗教と政治が結びつくと、強大な力を持つ。それが一神教となると、他は排斥しなければ気が済まないのであるから、目も当てられない惨状を呈することがある。「寛容」こそ、宗教を信じる前に、人間として堅持しなければならない資質だと思うのだが・・・

日本司法の後進性を憂う

2025-03-16 17:04:26 | 思考
これまで、多くの大企業経営者の責任を問う裁判で、背後に政治性が少しでもからんでいると、最高裁では経営者の責任を問わない判決が常態化しているのではないかと疑念を覚える。

先の東京電力福島第一原発でも、旧経営陣の元副社長二人の無罪が確定した。判決理由として、「国の地震予測の長期評価の最大15.7mの津波到来の試算は、信頼度が低かった」とし、予見可能性を否定した。

しかし、過去このクラスの津波は到来しており、各地に津波が到達したとする碑などが現実にあり、この碑も過去のもので信頼できないとの判断を裁判官がしたことになる。つまり、国の試算である科学的な知見および歴史事実をも否定しているのである。

この専門家の科学的判断と歴史的事実を否定した裁判官の思考は疑問というよりも、最初から大企業の経営者の責任は問わないとの前提のもと、判決を下したとしか思えない。

これらの裁判を見るかぎり、日本はロシアや中国の専制主義国における裁判となんら変わりがなく、後進性の体たらくは情けない。

事実として、当時福島第一原発の吉田所長は、津波対策が必要だとして、報告書を本社にあげていたが、東電は柏崎原発事故の対策費の支出があり、福島第一の津波対策費は後回しにしたと、NHKでは報道している。最高裁は、NHKの取材も全否定していることになる。

歴史碑の事実、科学者の知見、中立的とされるジャーナリスト、全てを否定できる日本の裁判官の良心はどこにあるのだろうか。日本の後進的な最高裁の闇が押し寄せてくる思いがし、暗澹たる思いがするのは私だけだろうか。この判決によって、今後も経営責任を問われないとし、国民の生命が脅かされるであろう国策がらみの大企業における経営判断が継続すると思うと恐ろしい。

専制国家体質の一部を見せつつある米国を憂う

2025-03-05 12:29:00 | 思考
2024年12月PHP総研の日本の対外戦略研究会が「2050年の国際秩序と日本の座標軸 提言報告書」をまとめている。
https://thinktank.php.co.jp/wp-content/uploads/2024/12/pdf_2050_241205.pdf

図4で、国民国家と専制国家の特徴を図示しているが、専制国家の中の「商業主義」や「威圧」は、トランプ大統領が用いている手法であり、米国は専制国家の要素を取り入れつつあると思った。さらに図9で、米国は、これまでの国際協調主義・自由・民主主義の位置から、国家主義的・自国中心主義の枠に移行するだろうとしており、専制・権威主義度も上昇するであろうとしている。

これまでも、米国はCIAを使い、専制国家主義的行動をしてきており、国家体質として専制要素は保有していたので、この点では明るみに出てきたと言ってもいいだろう。図6には、ダリオによる米国の成長と衰退が示されており、米国は衰退期に入っていると分析している。図8では、2050年の軍事費予測が示されており、依然として米国が一位であり、中国、インドと続く。この図によれば、ロシアは米国の六分の一程度であり、プーチンの空威張りが見えてくる。しかし、空威張りが故に、無茶な行動をし続ける恐れがあり、引き続き警戒の手を緩めてはならないだろう。

2050年の経済(GDP)は、中国22%、インド15%、米国15%であり、日本とロシアは同程度となる。2075年には、日本12位、ロシア13位と肩を並べると予測している。これを見ると、北方領土問題解決の難しさが浮かびあがってくるようでもある。

中国とロシア、さらにインドや他の経済発展著しい諸国の民主化を願わざるを得ないが、果たしてどうなるであろうか。平和と環境保護を堅持しなければならないのだが、現今の世界情勢から言って道のりはまだまだ遠い。