goo blog サービス終了のお知らせ 

不眠閑話

政治、経済、教育、文化、社会、時事など。殆どは旧ブログからのコピペ・転載です。

【再掲】手嶌葵「Aoi Works」

2022-06-25 19:00:14 | 文学
【再掲】手嶌葵の「Aoi Works」
    
ダウンロード購入が出来なかったので、直接CDを買って来た。最近、毎日聞いているが、かなりオススメ。特に「テルーの唄」。泣ける…(´;ω;`)
              

「テルーの唄(歌詞)」
夕闇迫る雲の上 いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう 
音も途絶えた風の中 空を掴んだその翼 
休めることはできなくて
心を何にたとえよう 鷹のようなこの心
心を何にたとえよう 空を舞うよな悲しさを
      
    
※ちなみに、この詩は萩原朔太郎の「こころ」(「愛憐詩篇」)がモチーフになっているのでは、と思う。




【自作詩】三島由紀夫

2022-06-23 12:32:13 | 文学
三島由紀夫

誰よりも革命を求めた君は
誰よりも保守的な君だ。
     
誰よりも理想に燃えた君は、
誰よりも現実を知っていた君だ。
     
誰よりも形式を重んじた君は、
誰よりも形式を破った君だ。

君は僕らの日本が生んだ
ドン・キホーテの顔をした関の孫六だ。

※芥川龍之介「レニン第三」を参考にした自作詩




【再掲】自然主義的リアリズム」から「ゲーム的リアリズム」へ

2022-06-22 16:38:11 | 文学
「自然主義的リアリズム」から「ゲーム的リアリズム」へ。
    
  
1980年代以降の――特に、ポストモダンといわれる現代の日本文学は、どうなっているのか? というと、私の理解の範囲でいえば、小説がサブカルチャー化して来ている、といえる。(純文学のぞく)
       
  
「小説がサブカルチャー化してきている」というのは、たとえば「マンガのような小説」とか「ゲームのような小説」が増えてきている、という事である。
      
  
こういう現象の背景にあるものは、小説が「現実の世界」を、再現の対象にするのではなく、「マンガやゲームの世界」を再現の対象にし始めた事にもよる。
    
  
いわば「自然主義的リアリズム」から「マンガ・ゲーム的リアリズム」への転換である。
   
   
大塚英志によると、そういう傾向は早くからあり、たとえば、それは新井素子が、70年代後半「『ルパン三世』の活字版を書きたかった」と述べている事などに象徴的に表れているという。(『サブカルチャー文学論』参照)
    
   
もっとも、こうした大塚の主張は、その後、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』に引き継がれ、より細詳な分析が加えられていく。   
     
   
東によると、たとえば「All You Need Is Kill」というライトノベルでは、主人公のキリヤが、ギタイとの戦いに勝利するまで、何度も同じ毎日がループされる世界に、タイムスリップしてしまう話が描かれているが、このように「何度も話がリセットされる」という設定は、ゲーム的な世界観(ゲーム的リアリズム)に由来するのだとしている。
   
  
もちろん、この作品だけではない。
      
  
他にも、話がセーブされたり、リセットされたり、選択肢が登場したりする、RPGのようなゲーム的世界観をベースにしたような小説――または、マンガのような世界観を備えた小説は、80年代以降、増えてきているという。
     
  
今、文学が根本から変わりつつある。
      
   
近代文学が、私達の住む三次元の世界を再現する「自然主義リアリズム」をメインにして展開してきたとすれば、今の時代の文学は、二次元の世界を再現する「ゲーム的リアリズム」をメインにしたサブカルチャーとなりつつある。
      
   
それを良いとか悪いというのではなく、まずはそういう現実を確認したい。
   
   
※   ※   ※
柄谷行人『近代文学の終り』(インスクリプト 2005年11月)より
      
   
「中上健次の死(1992年)は総体としての近代文学の死を象徴するものであった。それはもはや別の可能性があるというようなものではない。たんに終わりなのである。もちろん、文学は続くだろうが、それは私が関心をもつような文学ではない」(31ページ)
     
   
「近代小説が終ったら、日本の歴史的文脈でいえば、「読本」や「人情本」になるのが当然です。それでよいではないか。せいぜいうまく書いて、世界的商品を作りなさい。マンガがそうであるように。」(60ページ)