「自然主義的リアリズム」から「ゲーム的リアリズム」へ。
1980年代以降の――特に、ポストモダンといわれる現代の日本文学は、どうなっているのか? というと、私の理解の範囲でいえば、小説がサブカルチャー化して来ている、といえる。(純文学のぞく)
「小説がサブカルチャー化してきている」というのは、たとえば「マンガのような小説」とか「ゲームのような小説」が増えてきている、という事である。
こういう現象の背景にあるものは、小説が「現実の世界」を、再現の対象にするのではなく、「マンガやゲームの世界」を再現の対象にし始めた事にもよる。
いわば「自然主義的リアリズム」から「マンガ・ゲーム的リアリズム」への転換である。
大塚英志によると、そういう傾向は早くからあり、たとえば、それは新井素子が、70年代後半「『ルパン三世』の活字版を書きたかった」と述べている事などに象徴的に表れているという。(『サブカルチャー文学論』参照)
もっとも、こうした大塚の主張は、その後、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』に引き継がれ、より細詳な分析が加えられていく。
東によると、たとえば「All You Need Is Kill」というライトノベルでは、主人公のキリヤが、ギタイとの戦いに勝利するまで、何度も同じ毎日がループされる世界に、タイムスリップしてしまう話が描かれているが、このように「何度も話がリセットされる」という設定は、ゲーム的な世界観(ゲーム的リアリズム)に由来するのだとしている。
もちろん、この作品だけではない。
他にも、話がセーブされたり、リセットされたり、選択肢が登場したりする、RPGのようなゲーム的世界観をベースにしたような小説――または、マンガのような世界観を備えた小説は、80年代以降、増えてきているという。
今、文学が根本から変わりつつある。
近代文学が、私達の住む三次元の世界を再現する「自然主義リアリズム」をメインにして展開してきたとすれば、今の時代の文学は、二次元の世界を再現する「ゲーム的リアリズム」をメインにしたサブカルチャーとなりつつある。
それを良いとか悪いというのではなく、まずはそういう現実を確認したい。
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柄谷行人『近代文学の終り』(インスクリプト 2005年11月)より
「中上健次の死(1992年)は総体としての近代文学の死を象徴するものであった。それはもはや別の可能性があるというようなものではない。たんに終わりなのである。もちろん、文学は続くだろうが、それは私が関心をもつような文学ではない」(31ページ)
「近代小説が終ったら、日本の歴史的文脈でいえば、「読本」や「人情本」になるのが当然です。それでよいではないか。せいぜいうまく書いて、世界的商品を作りなさい。マンガがそうであるように。」(60ページ)