不眠閑話

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【再掲】「高校教師」(TBS系ドラマ、1993年)

2022-07-21 14:01:24 | サブカルチャー
「高校教師」(TBS系ドラマ、1993年)
            
日本の90年代TVドラマの中で、私のもっとも好きな作品の一つ、「高校教師」について、寸評を加えてみたい。    
                    
この作品は、高校教師(=ポスドク?)と女子高生の「禁断の愛」を描くという――さらに心中(情死)に至るという、今でいえば、完全にアウトな内容の物語なのであるが、注目したいのは、このドラマが単に恋愛を描いているだけではないという点である。
           
では、恋愛以外にどんなモチーフがあるのか?――というと、結論からいえば、それは主人公の「自分探し」というものになる。以下、そうした本作の副次的テーマを、語り(ナレーション)の構造から読み解いてみることにしよう。
            
すでにこのドラマを観たことのある読者ならご存じの事と思うが、「高校教師」は冒頭部分から、主人公の「独り言」のようなナレーションが、しばしば挿入されている。
        
そのナレーションをよく聞くと、全11話のうち、10話までは「あの頃の僕は~」「あの頃の僕は~」という<過去形>で物語が語られていくのであるが、最終話の心中直前の場面(エンドロール寸前)になって、突如「今、僕は~」という<現在形>に変わる。
           
このことは、物語全体が実は心中する直前の主人公の「回想」でもあった、という事を意味している。
        
つまり、主人公の「僕」は、ヒロインと出会ってからの思い出を、記憶をたどりながら回想していたのであり、物語はそのような主人公によって(ある意味、自分の都合のいい形に)編集され、美化された話だった、という事である。

(したがって、「高校教師」は潜在的には「一人称物語」といえる。ただ、この問題については、書くと長くなるので省略する。)
          
それでは、このナルシズム的な自意識のなかで、「僕」はヒロインとの関係を反芻(回想)しながら、一体何をしようとしているのか? というと、それが「本当の自分とは何か?」という<自分探し>の問題になる。
           
例えば、主人公は記憶(物語)のなかで、「本当の自分というのは、全てを失った時にあらわれる」(第3話)と述べているが、この「本当の自分(=すべてを失った自分)」に関する話題は、その後もたびたび記憶の中で繰り返され(第4話、第7話)、最終話(語りの現在時)に向けての伏線になっている。
         
そして、実際、物語は「僕」が、将来の夢も、婚約者も、何もかもを失っていく、という形で展開していくのであるが、そこから「すべてを失った今の自分とは、何者なのか?」という死の直前の「僕」の問いかけが生まれてくる。
       
「僕」は、かつての同僚の愛の姿や、ヒロインとの関係を回想し、それらを(ある種の)〈鏡像〉としながら、変容していく自身の姿を辿っていくかのようである。このような形での「自分探し」こそが、本作のいわゆる「語りの衝動」なのだともいえよう。
          
では、すべてを失うことで、最終的に主人公が発見したらしい「本当の自分」とは一体何か?――それは紙数の都合もあるので、ここでは書かない。結末はぜひ、読者の眼で確認して頂くことにしたい。


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