ひまわりママの脳腫瘍闘病記2

~ひまわりのように いつも おひさまのほうをむいて~
28才で発症した2人のママ。4度のオペを経て身障1級になりました

卒業式

2009年03月24日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
19日、いーたんの卒業式に無事行って来られました♪
いーたんの卒業証書授与は一番最後!なんせ3月に転校してきたわけですから。トリなら時間が読めて、わたしにとっては助かる!
長時間になると大変かなぁと前日に、ママ友に卒業式の流れを聞いて、だいたいの時間の予測をつけ、いーたんの卒業証書授与授与に間に合うように後から行くことに。
前夜、担任の先生に電話すると、式場の体育館前に駐車スペースを確保するとのこと。ありがたいことです。

当日、なるべく早く家を出ようと気持ちは急きますが、不自由な身には着替えやトイレをはじめ、何事も時間がかかってしまいます。

すっぴんでいいやと時間短縮したのに、あろうことか生理に(☆o☆)うわぁタイムロスだぁ。なんか予感はしたけど、まさか~(泣)

メールや写真OKの卒業生の後方の保護者席にいる友達のパパが進行状況をメールしてくれます。
『卒業証書授与が始まりました』
わたしたちはまだ車で走行中。
え~ん、間に合わないかも。

到着すると、進行状況をメールしてくれていたパパがすぐに飛んできて、
「最後のいーたんがさっき証書をもらったところでした」
あぁ、タッチの差で間に合わなかったか。なんせ35番目がトリだもんね。いくらも時間かかりません。残念(泣)

行ってみると、後方のの保護者席の最前列に2席、ウチの名前を貼って確保してくれてありました。先生感謝。

卒業証書授与の場面を見逃しちゃったけど、呼びかけや合唱を聴けて、感動で涙がひっきりなしに流れました。

よかった。
いーたんの卒業を見られて本当によかった。

卒業生親子の集合写真に並んでいる時、ちょっと離れていたけど、
「ゴメン、いーたん、見られなかった。間に合わなかったよ」
と言いました。
記念写真を撮り、先生方やママ友に再会し、とてもうれしくて、体調は当日になるのとわからないからといーたんだけ申し込みしておいた謝恩会も、幹事さんが当日参加OKと手紙をくださっていたので、途中いけるところまで出よう!と決めて出席、次々にサプライズもあって楽しかったから中座なんて考えず、結局最後まで参加できました。
気も張っていたからでしょうね。家に帰ってベッドに横になるや、どっと疲れが出て、疲れる夢を見、夜も身動きできないほどだったけど、もちろん後悔はありません。
後悔はいーたんの授与の場面を見られなかったことだけ。

入学式は午後だから、ちゃんと間に合うように行くからね。

新たな出発

2009年03月16日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
去年の6月の手術、重積痙攣を越えて、オペはもうたくさん、終末期医療を考えて、9月に草津に転院・転居したひまわりですが、この度、元住んだ地に帰ることにしました。
病院で言えば、元の大学病院で元の主治医にお世話になります。

半年で戻る最大の理由は、何と言っても『淋しかったから』。

「早くしないと冬になっちゃう」と衰弱してまだ移動もままならないのに、布団を敷いて急いで転院・転居したのは雪国の早い冬を思ってのことでした。
が、間に合わなかった。
4月に転勤した地はまだ残暑厳しいというのに、転院先の病院にはもみじが真っ赤に色づき、短い入院の間に秋は足早に過ぎ去っていきました。

浅間山を眺めながら仲良くお散歩する…半年前幸せそうに逝った姑の姿と病院が、自分の終末期とダブって思えたのです。

転院して来るには来たが時期が悪かった。
衰弱した身体には寒さが辛くてお散歩どころはなく、外に出るのは受診の時だけでした。

そうなれば10年住んだ元の地、遠く離れてしまった友人たち、8年間お世話になった大学病院の先生たちばかりが想い出され恋しくて、毎日涙にくれているようになりました。
草津に転居してそう経たないからのことです。

自分の意思で今後を考えて選択したはずだったのに。
3ヶ月の入院で、ここから出たい、眠らされ(セデーション)、目覚めたら長い絶飲食の日々に、苦しい治療に疲れた、もういい、積極的治療にはやめよう…その頃は覚醒していても、よく考えたつもりですが、そこは人間の思うようにはいかないもの、無治療でも思った以上に再発までの時間はあったのです。

近くに住まう舅には大変お世話になりました。
2~4週間ごとの外来で会う主治医はちょっと馴染めず、(玄関前の階段を雪で阻み、車椅子を出せないから行かない時もあり)今になってこの先生もいい先生だったと感謝しています。
週2回の訪問リハビリ(理学療法士と作業療法士)の女性たちは毎週会って話しできる貴重な人たちでした。

身体が(心も)もっと元気なら近所の人や子供を通して新しいママ友もできただろうけど、学校行事にも行けず、けいれんや手術で取ってしまった平衡感覚やふらつきがあるから車椅子の乗り降りがちゃんとできれば屋内を移動はできても、トイレなど絶えず危険が隣り合わせなので、一人で留守番も危険でした。

それでも転院当初に比べれば、薬もけいれんも減り、ずいぶんよくなったと思います。

人のいのちは人間には計り知れません。

膠芽腫で4度目のオペの結果がこんなで、ターミナルを考えてのことなのにすぐには再発しないから、じゃあ前向きにテモダールくらいやってみようかと思ったのに、ずっと採血結果が悪くて無治療を余儀なくされても、膠芽腫とは思えぬ遅さでゆっくり増大してくれています。

自分でここが最期の場所として決めたことなんだから仕方ない、と諦めかけた時、友達のいる、10年暮らした地に帰りたい心とダンナの仕事のフィールドはここじゃ難しい、と相まって、再度の引っ越しをすることになりました。
せっかくいい友達ができてこれから広がっていく1学期毎に転校した子供たちにはかわいそうなことをしたと思いますが…

今度は何かと頼りにしていた舅が近くにいない分、わたしも大変になるのかもしれません。
わたしがまだほとんど動けなかった秋から介護が中心で、なけなしの貯蓄を取り崩す生活をしていたので、そろそろダンナも仕事しなければ家族を養えませんから、友達の助けを借りつつなんとかやっていこうと思っています。

膠芽腫グレード4なのに生きすぎた、のかもしれません。
それも人知を超えたこと。

いーたんはこの春から中学生。卒業式、入学式には何とかして出たいと思っています。
『いーたんが小学校を卒業するまで、意識もしっかりあって生きてること』が目標でしたから。

結局行き着く最期は、住み慣れた友達もいる地で、馴染みの主治医の元で最期を迎えたい望みを叶えそうです。

子供らは3月から家族ぐるみの一番親しい友達宅で居候してます。
いーたんの卒業は保育園から5年生までいた小学校でさせてあげたいねと友達や先生も言ったから。
たくさんの友達の助けがあって、子供先行でスタートしています。
今、引っ越しの山場です。明日は退院。そのまま移動して、中1日休養して、卒業式にはわたしも出たいって思います。

わたしが散々家族を振り回してしまったけれど、一つの家族のひとつきりの人生、まだ残っています。

救急車初体験

2009年03月11日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
一昨日のMRIの結果はまたビミョーに増大。
でもそのくらいですごくホッ。
去年ビミョーに増大し始めたのも2月、その後毎月MRI撮って再発確定が5月。
だんだん再発までののスパンが短くなってきて、3回目のオペからは毎年ほぼ同時期再発疑い。
だから今回2ヶ月以上経っているからバーン!と増大しちゃってたら…と少しコワかった。
医大では手術対象になりそうな大きさ。前回のオペはもしかしたらこのくらいだったかも…

でも今回はオペする気なしです。5回目をすると、また重積痙攣になりそうでコワいから。

病院にMRI撮りに行った日の夕方、胃がすごく痛くなって、胃けいれんかな?とけいれん止め飲んでみてもよくならなくて、そのうちどんどん39.7℃まで上がっちゃいました。
トイレに動いたらゲーゲー吐いちゃってもう大変でした。
朝まで待って病院に電話し、マイカーで連れて行く手筈をつけたのですが、2食抜いてて胃は空っぽなのにちょっと動こうとするだけで、胃液胆汁の緑ゲロをたくさん吐くし(失礼)でどうにもならず、初めて救急車のお世話になっちゃった!
救急車内でも吐きました。

急患の処置は手早いです。吐き気止めを点滴し、主治医の先生に夕食後と寝る前のけいれん止めが飲めなかったと自己申告したら、朝の分も含め1日分、痛~い懐かし~いアレビアチン(痙攣止め)の注射をゆっく~り打たれました。ゆっくりじゃないといけないから。
もぅ半泣きです。
鼻の奥にはインフルエンザの検査をされました。

吐き気止めと水分の点滴して、だんだん落ち着き熱も下がってきました。
採血に心電図にレントゲン、基本検査をしました。
インフルエンザは陰性。よかった!これが一番心配だったんです。

原因は特定できなかったけど、炎症反応も上がってるし、毎度お悩みの白血球もおかげさまで8000以上まで上がってるし、何かの菌?が入ったんだろう。
昨日はおかゆちょっとしか食べられなかったけど、今朝からは食べられたから(嫌いなおかゆも食べてます)、明日は普通のご飯にして点滴やめてもらおう。
お腹の左がずっと痛かったけど、それもかなりよくなってきました。