ひまわりママの脳腫瘍闘病記2

~ひまわりのように いつも おひさまのほうをむいて~
28才で発症した2人のママ。4度のオペを経て身障1級になりました

一年が過ぎて

2012年12月04日 | 旅立ちのあと
ひまわりの夫です。 すっかりご無沙汰しております。

ひまわりが旅立ってから、ちょうど一年が経ちました。
昨日何気なく彼女のブログを開いてみると、たくさんの方が今でも彼女のブログを訪れてくださっていることがわかり、胸が熱くなりました。

彼女がこのブログを始めたきっかけは、自分が発病したときに情報があまりにも少なく、脳腫瘍についてネットで調べてもほとんどわからなかったからです。

はじめはノートに自分の闘病記を日記の形でつけていた彼女は、あるとき思い立ち、同じ病気で苦しむ人のために、少しでも自分の症状や治療の経過が参考になればと、このブログを始め、以来ずっと自分の力で書き続けてきました。

僕が依頼されたことは、手術やセデーション(麻酔薬を入れて脳波が完全に消失するまで深く眠らせ、重責けいれんを抑える処置)などで、彼女が自分で更新できない場合、そして最終的に彼女がもう自分では更新できなくなってから旅立つまでのできごとを、僕が彼女の代わりにブログを書くということでした。
そんな彼女の想いを大切にしたく、このブログは彼女の旅立ちをもって閉じさせていただきました。

でも、いただいたコメントの中には、子どもたちのその後の成長を案じてくださる物もたくさんあり、ご報告もした方がいいのではないかと思いつつ、あっという間に一年が過ぎてしまいました。
彼女が選んだひまわりのブログ背景も、「2ヶ月更新がないと自動的に変更される」という規則に基づきグレーに変更されてしまい、悲しい気持ちでいました。

実は昨日、ひまわりの親しい友人が、ひまわりの花束を持って訪ねてきてくれたのです。彼女は一年前のひまわりの旅立ちの日にもひまわりの花束をプレゼントしてくれました。真冬のこの時期に咲くひまわりが、どれだけ僕たち家族の心に光を与えてくれたことでしょう。その日の出来事をいろいろ思い出しつつ、久しぶりにブログを更新しています。

そのひまわりのお花とともに、彼女の写真をアップしたいと思います。
そしてこれからは、不定期かもしれませんが、時々、子どもたちの近況などをご報告したいと思います。
そうすれば、ひまわりの背景も消えることがないでしょうしね。

高校二年生になったいずみのこと、中2になり背の丈もいずみを抜いてしまった大地のこと、次回にはお話しできればと思います。
家族それぞれ元気にしています。

ひまわりのこと、僕たち家族のことをいつも支えてくださる皆さんに、改めましてお礼を申し上げます。





感謝

2011年12月31日 | もう何もできない


ひまわりが旅立ってから、もう4週間が経とうとしています。

葬儀の後のいろいろな手続きやごあいさつ、事後処理なども、年末にかかって持ち越している一部を残して、ほぼ終わったように思います。

一昨日も、遠方にいた友人がひょっこり訪ねてきてくれたり、お花やお手紙が届けられたり.....。ひまわりの部屋は今もたくさんのお花で一杯です。

彼女の病室で流していた音楽は、家を留守にするときにも小さくかけたままにしています。
朝の光を浴びたひまわりの空間は、お花に囲まれた日だまりになっていて、まるでそこだけ時間が止まっているかのようです。
そこにしばらく座っていると、あたたかくて穏やかな彼女の存在を感じ、僕もほっとするのです。


ブログを今までずっと見守ってきてくださったみなさん、そして励ましのコメントをくださったみなさん。
個々にお返事をさしあげることはできませんでしたが、一つ一つ読ませていただいています。
そして、ひまわりをこんなにも大切に、愛していただいたことに、心から感謝しています。

今まで支えてくださり、ありがとうございました。

病気と共に生きておられるみなさんとご家族が、どんな時でも希望に包まれていますように願ってやみません。

自分の体験が少しでも同じ病気に苦しむ人の役に立つことを願って、ひまわりが始めたこのブログ....。ひまわりの旅立ちをもって、ひとまず終わりとさせていただきたいと思います。

彼女が今まで綴ってきたブログはそのまま、彼女がこの世に生きた証であり、彼女の一部でもあると思います。

『自分の体験を少しでも、同じ病気に苦しむ人の役立てたい.』という彼女の願いに対して、僕ができることはまだあるのではないかと、思い巡らしています。

時間はかかるかもしれませんが、何かの形にできればと願っています。


語り尽くすことのできない感謝の気持ちとともに
2011年の一番最後の日に....


ひまわりの夫 松村 誠
URL http://makoto-matsumura.com/




永遠(とわ)に

2011年12月09日 | もう何もできない

     ひまわり 2008年5月


12月6日。穏やかに晴れた青空の中を、ひまわりはたくさんの友人たちに見守られて、天に帰ってゆきました。16年前の10月10日 僕たちの結婚式の日、二次会の時に着たグレーのドレスを着て、前回のブログでお話しした友人から贈られた素敵なブーケを胸に抱いて...。




葬送式が始まる直前に、ふと思いついて、彼女のブーケから白い花を一輪だけもらって、僕もそっと自分の胸のポケットに挿しました。 

 ブートニア...

彼女が16年前と同じウエディングの装いで旅立つのなら、僕もそうするのが一番ぴったりだと感じたのです。


胸に挿したばかりの頃はつぼみだった白い花が、葬送式が終わる頃に見たら、すっかり咲いていました。

花びらは一枚ずつ、螺旋階段のように開いてゆくのですね。

もう一つ驚いたのは、ずっと僕たちを支えてくれている友人の一人で、いずみの同級生のママが、ひまわりの花束を持ってきてくれたのです。

この時期にひまわりがあるとは....。

感激しつつ、そのひまわりの花を、棺に納められた彼女の周りに入れてあげました。
彼女の顔が、ひまわりに照らされて、ぱっと明るくなりました。

出棺の時、参列してくださったみなさんに、僕は思わず『拍手で送り出してください!』と叫んでしまいました。
そして、みなさんがひまわりの出発を、空まで届くような拍手で送り出してくださいました。

本当に彼女にふさわしい旅立ちの瞬間だったと思います。



葬儀も無事に終わり、静けさが戻った我が家の部屋で、過ぎ去ったこの数日間を思い起こすと、今でもこの一連の出来事が夢だったような気がしてなりません。

しかし、部屋にたくさん飾られたお花と、額に入った彼女の写真と、彼女を納めた白い箱が、この一連の出来事が夢ではなかったことを、静かに語ります。

最期の頃病室でずっとかけていた友人のピアニストの小林真人君、そしてkelly Yostのピアノ曲を、今も途切れることなく小さく流しています。




11年という闘病生活は、長いようであっという間に過ぎていった時間でもありました。

1995年に僕たちは結婚し、翌1996年にいずみが生まれ、1999年には大地が生まれました。そして、ひまわりの病気がわかったのが2000年....。
その意味で、僕たち家族の歩みは、ほとんどそのまま脳腫瘍という病気との歩みと重なります。この病気も家族だったのではないかと...感じることさえあるのです。

なぜ?という想いも、なかったわけではありません。でも、病気であれ出来事であれ、それ自体は良くも悪くもないのだと思います。
むしろその一つ一つのことをどう意味づけるのか、そしてそこから何を選び取り、歩んでゆくのか...。
その選択の連続を人生と呼ぶのかもしれませんね。

ひまわりは、当時5歳くらいだったいずみに宛てて病院のベッドで書いた手紙の中で、
「さみしいことやつらいことがあっても いいことやたのしいことをかんがえるようにね」
「いつでもたのしいことをかんがえていくことがたいせつなんだよ」と書いていました。

僕もそう思うのです。
どんなことがあっても、いつも小さな喜びを見つけてゆこう。
その小さな喜びがたくさん集まれば、それは希望という花束になるのだと...。



ひまわりへ.....。

39年5ヶ月という人生を、あなたは風のように駆け抜けていってしまった。でも、一緒に歩いた16年という時間の中には、数え切れないほどたくさんの想い出がキラキラと輝いているね。その一瞬一瞬の中に、あなたは生きている。


あなたの勇気と笑顔が、どれほどたくさんの人に、生きる希望をもたらしたことか...。
あなたと過ごした一瞬一瞬は、僕たち家族にとって、かけがえのない宝物だよ。


決して平坦ではなかったけれど、素敵な人生だったと思うよ。
いつかまた会えることを楽しみにしている。

そう。いのちは決して終わることがないのだから...。
 

あなたが天に帰った翌日、ぼくは我が家の真上の空に虹を見つけた。それは、あなたが今も幸せであることを伝えるサインだね。


 

この人生であなたに出会えて、ぼくは、とても とても 幸せだった。
人生の旅立ちの時の姿も、16年前二人で歩き始めたあの日と同じように、美しかったよ。

心から、ありがとう。

またね。



人生でもっとも気高く美しい記念日に


今日

2011年12月06日 | もう何もできない
ブログを見守ってくださっているみなさま。
励ましのお言葉、お祈り、心から御礼を申し上げます。
お一人お一人に御礼を申し上げることはできませんが
心からの感謝をお伝えしたいと思います。

昨日ひまわりの通夜の式を済ませました。
今朝ひまわりはいよいよ旅立ちます。
友人の素敵な美容師さんが彼女の髪を整えてくれ、その髪にひまわりの花を一輪飾りました。
この時期なので、残念ながらひまわりはありませんでしたが、数年前にやはり友人からプレゼントしていただき、ずっと彼女のベッドサイドの壁に飾ってあったお気に入りの素敵な造花のひまわりのリースから一つだけ取って彼女の髪に添えたのです。
彼女に寄り添う一輪のひまわりが、彼女を引き立たせてくれています。
また、フラワーアーティストの友人から、『彼女が旅立つときに持たせてあげてね』と、ブルーとホワイトでアレンジした美しいブーケが届きました。
みなさんの想いの中で、今日彼女を送り出すことができますことを嬉しく思います。
いつも前を向き、笑顔で歩んできたひまわりを、今日、僕も笑顔で送り出したいと思います。


ひまわりが旅立ちました

2011年12月04日 | もう何もできない
いつもブログを読んでくださり、応援してくださるみなさん。
12月4日、午前0:21分にひまわりが旅立ちました。

とても穏やかでした。
長い間本当にありがとうございました。

この一週間の間、僕も病院には通っていましたが、ブログを更新するゆとりがなく日が過ぎていました。
11月29~30日にかけては体温の上下が大きく熱も38℃くらいになり、呼吸も脈も速くなってきていて
顔も急にやせてきた感じで、血圧も上が80位になっていました。
12月1日にCT検査をしたのですが、意外なことに腫瘍はほとんど進んでおらず、むしろ10月に撮影した画像と比較しても浮腫が小さくなっているくらいでした。
痰や嘔吐の原因になるため補液を減らして経過を見ていたのですが、脱水気味の状況が続き、徐々に体力が衰弱してきていたようです。
水分が多くなるとむくみも出るし、彼女の場合は嘔吐してしまい、誤嚥性肺炎になる可能性も大きくなるので、バランスを取りながらの処置でした。
2日には血圧が60くらいに下がりましたが、落ち着いているようでした。3日になり、夕方から血圧が上が46になったとの連絡を受けたため、夜までかかった仕事を終えてすぐに病院に向かいました。

ぼくが部屋に到着したとき、ひまわりは、静かな浅い息をしていて、血圧もその時点で夕方と同じ46位でした。
僕は一日仕事だったため、万一の時に備えていずみと大地を友人宅に預けていたのですが、その友人に二人を連れてきてくれるように電話をかけて、電話がつながったのとほとんど同時に、ひまわりの呼吸が止まりました。12月3日の22時52分です。
その時点で医師が来てくれたので、本来ならばこの時刻がひまわりの正確な旅立ちの時刻なのですが、医師に確認していただくのを、子どもたちが到着するまで待ってもらうことにしました。
やはり医師に確定していただく瞬間は、子どもたちも間に合って全員で見守ってあげるようにしてあげたかったのです。

できれば子どもたちも間に合わせたかったのですが、仕方ありませんでした。ぼくが一旦家に帰ってから出直したら、ひまわりの旅立ちに僕も立ち会ってあげることはできなかったことでしょう。実際ひまわりが旅立ったのは、僕が病室に着いてから、15分位経った後のことでした。本当にがんばって、僕を待っていてくれたのだと思います。

今日の担当だった看護師さんがしみじみと、『パパを待っていたんだね。』『いつも、パパ、パパって言っていたもんね』『子供さんたちにも連絡つながったのを見て、安心して旅立ったんだね』と言ってくれました。

全てのことが終わり着替えも済ませてから、車の助手席にひまわりを乗せて家まで連れて帰ってきました。ひまわりが好きだった牧場のある道をゆっくりとドライブして、何頭もの鹿の群れと出会いながら。彼女と何度も走った懐かしい道です。

ずっとずっと帰りたかった我が家に、彼女はようやく帰ってくることができました。
今は布団の上で休んでいます。  ひまわり......よくがんばったね。偉かったよ。お疲れさま。もう苦しいことはないね。解放されてよかったね。

闘病生活が辛くなかったと言えませんが、素敵な出会いも楽しい体験もたくさんありました。そして僕たち家族は多くのみなさんに愛され、支えていただき今日まで歩むことができました。
全てのことに感謝しています。そしてひまわりのブログをずっと読んで応援してくださった皆様にも、こころから御礼を申し上げます。

ひまわりも家に帰ってきて、ほっとしました。これから僕もちょっと一休みしたいと思います。

今はあまり頭が回らないので、乱筆ご容赦ください。








ささやきとうなづき

2011年11月24日 | もう何もできない
昨日、そして今日も、ひまわりは熱はなく落ち着いています。
今日夕方に病室を訪ねた時は、彼女はかなり深く眠っている様子でした。

ひまわりの状態にもよりますが、病室に行ったら、お湯で暖めて絞ったタオルで顔を拭いたり、乾いてがさがさになった唇にリップを塗ってあげるようにしています。今日は顔を拭いている時にまつげを触ってもほとんど反応がないくらい深く眠っていたのに、小さな声で何気なくそっと呼びかけたら、ぱっと目を開けて、かすかに『うん』と言ってうなづいたので、驚きましたが嬉しかったです。

反応がなく表現ができないようでも、ちゃんとひまわりは聞こえているし、わかってくれているのだなと、今日あらためて思いました。
話しかけるのに無理に大きな声をだす必要はなくて、今日のようにささやくような声だっていいのだ...と感じました。
いつものままでいいのだと感じられた時、ちょっと心が温かくなった気がします。

しばらくしたら彼女はまた眠ってしまったので、僕も今日は早めに切り上げて帰ってきました。

このところ、むくみを減らすために、お腹の皮下からの点滴はラクテック溶液を1日500mlのみにしてあります。やはり、水分摂取量とむくみのバランス取りは難しいところですが、水分を抑えた方が、意識のレベルは高いように感じます。
両足と右手のむくみは相変わらずなのですが、左手のむくみだけはどういうわけか、今日はほとんどなくなっていました。

脈拍は110位、呼吸数は毎分8回くらいです。一時期は呼吸数が毎分5回くらいになったこともあったので、少し増えてきた感じです。






子どもたちと

2011年11月21日 | もう何もできない
ひまわりの夫です。
またしても時間が過ぎてしまいました。

先週は、毎年僕が関わっているプロジェクトが大詰めを迎え、追われていたことに加え、僕自身が久しぶりに体調を崩したことも重なって、ひまわりの病室にもほとんど行くことが出来ませんでした。そのプロジェクトも昨日無事に終わり、ほっとしたのですが、残務や他の仕事も、疲れもたまっています。本当は早く片付けてしまいたいのですが、今日は一日体を休める日にしました。

今日の夕方、数日ぶりに子どもたちと一緒にひまわりを訪ねました。僕はまだ体調が戻っていないので(たぶん風邪だと思うのですが)ひまわりにうつさないようにマスクをかけてちょっと会った後は、外の待合室で待っていました。代わりに子どもたちがしばらくママと一緒に過ごせたので、それはそれで良かったと思います。

採決結果のことは前回お伝えしましたが、体調的にはその後も大きな変化はなかったようです。脱水をふせぐために補液をすると、逆にむくみが出て痰や唾なども多くなり、結果的にはひまわりにとっても苦しいようなので、補液の量を減らすことにしてありました。水分が減ったからだと思うのですが、数日前会ったときより、少し頬がやせているのがわかりました。

看護師さんにこの数日の様子を聞いても、熱が上下することはよくあったようですが、体調的には大きな変化はなく、呼吸数も以前より増えたとのことです。今日は午前中に39℃ほど熱が出たので、解熱剤を使ったとのことですが、今日は一日意識はとてもクリアだったとのことで、ひまわりにとっても子どもたちにとっても、今日会えたことは本当に良かったと思うのです。
大地が剣道をがんばっていること、いずみが高校受験に向けてがんばっていることを伝えて、ひまわりは一生懸命聞いていました。「うん」と返事もできました。

そういえば、今日病院に行くので車に乗ろうとしたとき、雪が舞っているのがわかりました。
まだ積もるほどの雪にはなりませんが、いよいよ冬の訪れを感じました。
もう年末になるのですね....。

採血結果

2011年11月09日 | もう何もできない
一昨日ひまわりの病室に行くと、看護師さんが『今朝ひまわりさんの検査をしました。先生が、あとで結果説明をしたいと言っておられます。』と教えてくれました。
30分ほどで主治医の先生が来られ、採血結果を聞きました。
僕も正確には覚えていないところもありますが、内容の中心的な部分は下記のような状況でした。

ナトリウム値が上昇している。CRP(炎症反応)は22になっているが白血球はむしろ減少している。血小板は5万程度に下がっている。(通常は15万くらいはある)とのことでした。

原因は複合的に考えられるようですが、一つには腎機能が低下しているかもしれないとのことでした。意識レベルが下がってきてからずっと導尿なので、腎機能が落ちているかもしれないと。そうすると尿量も減り、手やまぶたがむくむこともあると。

先週意識がかなりクリアだったのは、脱水状態が進んだことで脳内のむくみも減少した結果、意識レベルが上がったことも考えられると。
採血の朝の時点でも瞳孔反応はしっかりあるし、まつ毛を触っても反応があるので、腫瘍自体の進行速度は今までとそれほど変わらないのではないかとのことでした。今回の検査は採血のみでCTは撮っていません。

脱水症状を改善するために補液を増やすことになったのですが、水分が多く入りすぎるとつばや痰の量も増えて、結果的に喉に痰や唾がからまったりして辛い状況になるので、様子を見ながら少し補液の量的バランスを取ることにしました。
たしかにこのところつばや痰も出なくなり胸のゴロゴロいう音もなくなっていたので、僕としては気持ちは楽になっていたのですが、脱水と引き替えだったということになると複雑な気持ちになります。

今日昼頃に病室を訪れた時には、ひまわりは熱も下がり、落ち着いた感じでした。目もちゃんと開いていて、話しかけると目の焦点も合います。彼女は今は自分から意思表示はできる状況ではないのですが、内面的な意識はちゃんとあると、僕は感じています。

脱水症状と意識レベルの関係は良くはわからないのですが、見守る側とすれば、やはり葛藤はあります。
意識レベルが高くなれば意思や感情の表出もあるので、家族にとっては嬉しいですが、彼女にとっては同時に、悲しい気持ちや辛さも敏感に感じることになると思います。もし意識レベルが下がれば、彼女自身は苦しさも感じることはないかもしれませんが、僕たちも彼女の感情を感じることができないので、悲しくもあるわけです。

いろんな感情や葛藤を経て自然にわき上がってくるのは、無理せず、ありのままが一番いいという気持ちです。
痛みや苦しみは可能な限り取り除きつつ、これからも、ひまわりが自然に向かおうとしている歩みを信じて、それに任せてゆくといったらいいのでしょうか。
きっと意識を超えたもっと深い部分で、人はみな、そのことをわかっているのでしょうね。
いのちの不思議と奥深さを想います。

熱が出ています。

2011年11月06日 | もう何もできない
一昨日の午後ひまわりを訪ねた時、ひまわりは目は開いているのですが、意識のレベルは低いようでした。
このところまた時々吐くようになってしまったので、誤嚥性肺炎を防ぐため、薬を入れて数時間経ったら胃管のふたを解放して胃液を自然に排出するようにしました。
この一月ほどは、胃からの栄養はやめにして、胃管(いわゆる鼻管)は薬を入れるためだけに残してあり、最低限の栄養をお腹の皮下から点滴の形で入れています。

昨日はひまわりの親友といずみと3人で午後にひまわりを訪ねましたが、一昨日と同じような状況でした。熱が出てきたせいか酸素濃度が少し下がったので、呼吸の補助のために酸素を鼻から少し足して様子を見ているとのことでした。

傍らにいても何もしてあげることはできないのですが、病院の近くにあるハーブ専門の素敵なお店で教えてもらったエッセンシャルオイルを喉や気管支の上の皮膚に塗っています。
シナモスマフラグランスというマダガスカル生まれの植物のオイルをジェルに混ぜて小瓶に入れてサイドテーブルに置いてあります。オイルに混ぜたこともあるのですがオイルの場合はしばらくするとエッセンスの香りは飛んでしまい、オイルの酸化したにおいがパジャマについて、洗濯しても落ちないのでお店で聞いてみたら、ジェルを使ってみることを勧められました。膚にすぐに吸収され、時間が経ってもオイルのように酸化したにおいも残らないのでよかったと思います。
呼吸が少しでも楽になり、リラックスできるようになればと思います。唇も乾いてがさがさになってしまうので、蜜蝋(だったかな..)にローズのエッセンスが少し入ったクリームを塗るのですが、しっとりした感じになります。これは小さな壺でいただいたものです。

今日は僕はどうしても時間がとれず、友人のママが大地を連れて訪ねてくれました。熱が38℃位あったので今日の入浴は中止したようでした。
心配は尽きないのですが、緩和ケア病棟のスタッフのみなさんがいつも良くケアをしてくださるので、とても感謝しています。

ひまわりの書きかけの原稿が出てきたのでご紹介します。これは昨年秋、いずみが中学2年生の学園祭の記事で、ずっと書きかけていて、年明けしてしまってまだ未完成になっていた記事です。
途中で途切れていたりしますが....そのまま載せます。

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あけましておめでとうございます。
すみません。永らく更新切更新できなくて。

土曜日、いーたんの中学校の学祭の文化部門がありました。
言わば小学校の学習発表会です。
今年の劇はいーたんは裏方(背景を描いてたらしい)だそうで、1年経って体力低下を自認しているわたしは、午後一の吹奏楽部の演奏だけ行きました。

中学校の体育館は裏門からすぐ近くのスロープを使って便利です。あらかじめ許可取って特別ですけど。
普段はパジャマだから外出には着替えも厄介

、演奏20分、車で往復20分として1時間弱、音の問題は自宅に子供の数人の友達が遊びに来て音が響いて発作になった経験はあるけれど、広い空間なら大きい音でも拡散して発作になりにくい、20数人の吹奏楽部なんだから大丈夫と自信ありました。
何より、いーたんの吹奏楽の演奏している姿は、たぶんこれで最後だろう、来年はたとえ生きてていても、出かけるのは無理だろうと思い、こんな最適な条件はないと意地でも行くつもりでした。

ギリギリで入ろうと思ったのに少し早く着きました。
暑い日だったので、しばらくして窓全開でちょうど思い思いに楽器の音出しをし始めました。
う…やばいかも…
到着前後に何となく発作の予兆があったのですが、近くでトランペットなどの音がして、急ぎセルシンのみました。
薬の効きはじめは15分、早く効いて…そう願いつつ、間もなく吹奏楽部の子たちも吹くのをやめて整列してスタンバイに向かったようなのでで、わたしも車の助手席から車いすに乗り、体育館に移動しました。


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そうだったね...と、その日のことを懐かしく思い起こしました。2010年9月11日のことです。
この日、結局彼女は体育館に横付けした車の中でセルシンを飲み、痙攣を無理矢理抑え込んで、いずみの吹奏楽の演奏を聴いたのでした。
その日のノートを見返してみたら、僕の殴り書きでこう書いてありました。
「開始前具合が良くなかったが、気合いとセルシンで無事に乗り切った...」

昨年、かなりがんばっていずみの演奏を自分の目で見て耳で聴いてあげることができて、良かったなと思います。
そんないずみも今夏で吹奏楽部は引退。いよいよ高校受験です。



お花がたくさん...

2011年11月03日 | もう何もできない
すみません。気になっていたのですが、また、しばらく時間が過ぎてしまいました。
みなさんのコメントも拝見しています。ひまわりのことを大切にしてくださるみなさんの気持ちを受け取り、感謝しています。

このところずっとひまわりは意識のクリアな日々が続いています。もちろん状態は日々変化しますし、一日の中でも意識状態は変化するのですが、ちゃんとこちらの話すことも理解しています。
先週はたくさんの友人が、ひまわりのもとを訪ねてくれました。数日でひまわりの部屋はお花のアレンジがいくつも届き、いい香りが部屋に広がりました。

いずみの小学校時代の同級生のママが持ってきてくれた花束の中に、僕たち夫婦が結婚するときに彼女がブーケに使った青い花が入っていました。16年前の10月10日体育の日...よく晴れた日でした。
そんなことを想い出しながら、いただいた花束を花瓶に移してひまわりに見せてから枕元の台に置いたのですが、何気なく「この花ひまわりのブーケに使ったね。懐かしいね。」と言ったら、彼女はゆっくりとうなずいて、かすかに「うん」と言いました。
わかっただけでなく、ちゃんと返事もできるようになった...。とても嬉しい瞬間でした...。
内面的にはしっかりわかっていても話すことができない今、きっと伝えたいことはもっとたくさんあるのだろうに...と思います。

一つまた驚いたことは、昨日、ひまわりが動かないはずの左手を動かしたことです。それを見た瞬間、思わず痙攣を疑ったのですが、そうはなくて彼女は自分の意思で麻痺しているはずの左手を持ち上げて自分の胸のところあたりまで何度も動かして見せたのです。びっくりしてひまわりに「それ、痙攣じゃなくて、自分で動かしているんだよね..」と聞いたら、ひまわりはかすかにうなずいて「うん」と...。
カメラにムービーがついているのでそれを録画して、しばらくして様子を見に来てくれた主治医に見せてみました。先生もちょっとびっくりした様子でしたが、わからないことは多いのだそうです。
夕方になって熱が38.6℃まで上がりました。無理してがんばったから熱が出てしまったのかもしれないですね。
最近は自分で体温調節することが難しくなってきたようです。長時間布団をかけていると、体に熱がこもってしまうようですので、布団ではなく彼女の好きなディズニーランドの大きなバスタオルを毛布の代わりにかけています。

今日は僕は日中病院に行けなかったので夕方子供たちを連れて病室に行きました。でもひまわりは夕方から夜にかけては意識レベルも下がっていることが多く、今日はずっと眠ったままでした。大地は宿題を持ってきてソファのテーブルでやっていて、いずみは友達とメールしています。なるべくはっきりしている時に子供たちもたくさん会わせておきたいと願っていますが、子供も大きくなってそれぞれ忙しくなってきた現在では、なかなか難しいのも事実です。

この数日 穏やかな日々です。

2011年10月24日 | もう何もできない
前回更新してから、あっという間に日が過ぎてしまいました。ごめんなさい。

コメントをくださるみなさん、そしていつもひまわりのことを心にかけてくださるみなさん、ありがとうございます。
ひまわりと違って夫の僕はブログにも慣れていないので、コメントにもお返事書けません。でもいつも心から感謝しています。そして、みなさんが、どんな時でも喜びと幸せに満たされているように、願っています。


この数日の経過ですが、ひまわりは安定していると思います。僕も、日によって病院に行ける時間は一定ではありませんが、なるべく毎日行くようにしています。

ひまわりは、血圧が下がって緊迫した状況になった10月12日以前に比べて、呼吸の数はとても少なくなりました。一分間に10回に満たないので心配になったりしたのですが、血圧も100前後を維持しているようですし、表情も苦しそうではなく落ち着いているように思います。
それまでは鼻からチューブで胃に栄養を入れていたのですが、10月12日以降は、誤嚥などの危険性もあるので、おなかの皮下に点滴の形で水分と栄養を、時間をかけてゆっくり入れることにしました。

目もしっかりと開いて、いろんなところを見ていますし、名前を呼ぶと瞬きをしたり、表情は変わりませんが視線を合わせたりします。
体も自分では動かせなくなってしまったので、酸素の量もそんなに必要なくなって、少ない呼吸でもバランスがとれているのかもしれませんね。

実は一昨日は、病院祭でした。
きれいに手入れされた中庭に屋台が出たり、ロビーは風船が飾られていくつも演奏会が行われたり、とても楽しい雰囲気でした。
この日は午前中に行ったので駐車場も混み合っていて、場所を探していたら、はっぴを着て赤い棒を持った人に誘導されました。

目が合ったらひまわりの脳外科の主治医の先生だったので、びっくりしました。 思わず『えっ、先生が交通整理しておられるのですか..?』と大声で聞いてしまったら、先生も照れたように、『もう少ししたら終わりますよ』と....。 
ようやく車を停めてエントランスホールに入ると、ひまわりの病棟の看護師さんと師長さんが着物姿でお祭りの受付に立っていました。お二人ともよく似合っていて、なんだかとても新鮮でした。
いつもと違う空気の病院もいいものですね。

ところで、今日は秋の収穫祭でした。病院も秋はイベントがたくさんあって、病院スタッフの方々も大変ですね。
ひまわりのいる緩和ケア病棟の人のためにも、栗ご飯とか秋の味覚がお昼ご飯に準備されるとのことでしたが、僕は今日はスケジュールの関係で昼間は動けず、これから子どもたちに夕食を食べさせてから病院に行こうと思っています。
ひまわりの様子はまたご報告しますね。

そうそう、これからの時期は、病院に通うときにいつも通る高原の道には鹿の群れがたくさん出てきます。秋は鹿の繁殖の時期で、群れを率いる雄鹿の気が荒くなり始めます。
道路を渡る鹿の群れの切れ目にたまたま車で通りかかったりすると、立派な角をはやして人の背丈よりも大きな雄鹿が車に突進してきたりすることがあるんですよ。まるで日本じゃないみたいな....。
毎年のことなので慣れていますし、注意して走りますが、車にぶつけられるのだけは...ごめんです。

でも、そんな彼らのたくましい生命力に触れると、なんだか勇気づけられるような気がするんです。




今日、びっくりすることが

2011年10月18日 | もう何もできない

血圧が下がり主治医からも厳しい状況を説明された13日には、僕もひまわりの病室に泊まったのですが、翌朝にはまた血圧が上がり始め、それ以降は100近くで安定し、この数日は落ち着いてきて、ほっとしています。

実は今日、とてもびっくりすることがありました。
可能な限り毎日病室に行くようにしているのですが、どうしても夕方や夜になることが多かったので、今日は午前中に時間を作って病室に行きました。すると、珍しくぱっちり目を開けていたひまわりと目が合いました。そしてその瞬間に、彼女が一瞬泣いたのでした。

顔に表情が見られなくなってすでに何日も経っていて、血圧が下がった頃にはまつ毛を触っても瞬きもなく、半分空いたままの目はどんどん乾いてきてしまうため、濡らしたガーゼをあてたり潤い成分のある目薬を点眼したりして乾燥を防いでいました。血圧がまた上がってくるにつれて、目も動かすようになってきていたのですが、昨夜子どもたちを連れて行った時もぼんやりしていて、認識はできていないように思えていたのです。

主治医の話では、視床下部のあたりまで腫瘍が進んでいるか、あるいは脳圧が上がった影響で、いずれにしても体の維持ができなくなり始めているという説明だったので、意識はもう難しいのだろうと感じていました。でも、今日ひまわりは、ちゃんと意識を持っていたのです。

うつろな目と、意思を宿した目は全く異なります。今日のひまわりの目は、透き通ったいつもの目に戻っていました。言葉さえ出るのではないかと感じたほどでした。

彼女はもう話すことはできないけれど、ちゃんとわかるし、聞こえてもいるのだと確信できました。

ずっと鮮明な状態をキープすることはもう難しいのでしょうね。午後にはまたぼんやりした状態になってしまったのですが、それでも、ほんのちょっとでもわかってくれたことが、とても嬉しかったのです。


大地、 小学校卒業おめでとう! 

2011年10月15日 | もう何もできない
ひまわりの夫です。

ひまわりが、ブログにアップしようとして3月に彼女の携帯に下書きしたまま、アップできずに残っていたものです。
そのまま載せます。 ママから大地への最後の手紙です。


大地、
小学校卒業おめでとう!
中学校への短い3年間、多くの興味をどんよくに伸ばしてください。めんどくがらずにね!
将来が楽しみです。
でも…
6年間通して△だった忘れ物…中学生になったら、この不名よな毎日を取り戻すが母の願いです。

おめでとう!
心を込めて

大地の卒業式のこと

2011年10月14日 | もう何もできない

ひまわりがとても楽しみにしていた大地の小学校卒業式の日のことを、半年以上もたった今日、思い出しながら少しお話ししたいと思います。

暦の上では春でも、油断をすれば大雪に見舞われる可能性がある、よく晴れた3月18日の寒い朝、大地の小学校の卒業式は行われました。

ひまわりとしても、風邪をひいたり体調不良にならないように細心の注意を払ってコンディションを整えて迎えた念願の卒業式の朝です。

万全の防寒を施し、頭から膝下まですっぽりと隠れるフード付きのダウンコートでくるんで、前日レンタルしておいた大型のリクライニング式車いすに乗せて式に臨みました。
底冷えのする体育館で、式の最初から最後までいることは体力的に不可能と思われたので、卒業証書授与の部分の20分だけ参加できるように学校にもお願いして、途中での入退場についても可能なように配慮をいただきました。いつも助けてくれる親しい友人のほか、訪問看護師二人にも点滴を準備して付き添っていただきながらの出席でした。

定刻となり卒業式が始まります。
やがて後部のドアがあき、卒業生たちが入場してきます。ひまわりも、その列を食い入るように見つめていました。その視線の先には、大きく成長して歩いてくる大地の姿とともに、6年前に保育園を卒園した頃の幼い彼の姿も重なって見えていたに違いありません。
6年という時間は、この病と共に生きてきたひまわりにとって、瞬く間の出来事であったと同時に、とてつもなく長い時間であったはずです....。
全員の名前が呼ばれ、卒業証書授与の部が終わり、卒業生と在校生が対面し言葉を交わします。既に時間は予定の20分を経過していて、二人の訪問看護師も待っていますが、聖子は帰ろうとしません....。

彼女の性格からして、きっと最後まで見たいと言うだろうということは来る前からわかっていましたが、それが今の彼女にとって相当の無理となることも、予想がつきました。

僕も迷ったのですが、明日のことを心配するよりも今この瞬間を生きることをいつも選んできたひまわりの想いを大切にしようと思い、時間をオーバーしても待っていてくださったお二人の訪問看護師には、先に帰っていただきました。

結局彼女は式を最期まで見届け、全校の歌も聴き、大地から卒業証書とお花を受け取り、最後には卒業記念集合写真にまでも、ちゃんと収まったのでした。
6年前の保育園卒園式の日、祝会の途中で体調を崩したひまわりは、あらかじめそれを見越して会場の別室に用意しておいていただいてあったベッドに横になったりしたものの、ちゃんとその日を見届けることができました。

6年前のその日に僕たち家族をサポートしてくれた同じ友人とその家族がこの日もまた、全く同じようにサポートしてくれました。
もちろん見えないたくさんの方々の支えがあったからこそ今までやってこられたのです。

この喜びと感謝は、どんなに言葉を尽くしても言い表すことができないものであり、僕たち家族にとっての宝物です。
その日のひまわりの笑顔は、以前に比べてやせてしまっていましたが、とても深い喜びにあふれていました。

おめでとう大地、そしておめでとう....ひまわり




これまでの経過 その2

2011年10月14日 | もう何もできない

日々いろんな出来事があり、苦しみや悲しみもありましたが、病と共存しながらも、僕たち家族には小さな喜びや楽しみがたくさんあったと思います。


なるべく長く家で生活できるように、訪問看護に週3回、素敵な訪問ドクターにも週に一度来ていただき、入浴と体調チェックを中心にしたケアを受けながらがんばってきました。ひまわりはこの訪問入浴と、素敵なドクターの訪問をとても楽しみにしていました。
時々発作が治まらなくなり、緊急で大学病院に入院してお世話になることもありましたが、状態が改善されると、また帰ってきました。

ひまわりにとっての一番大きな目標は、この春の大地の小学校卒業を見届けるということでした。

振り返ってみれば、この病を発症した2000年の夏、聞き慣れない病名と、MRI画像の右頭頂部に映った渦のように巻く白い影に不安を覚え、いろいろ調べてみて、絶望的な気持ちになったことを思い起こします。いずみは4歳、大地はまだ1歳半の夏の出来事でした。

この病気を知ったとき、妻は、大地の小学校入学までは生きて見届けたいと強く願いました。そして、子どもたちの太陽として、ひまわりのように明るく生きようと決心しました。それがこのブログの「ひまわりママ」の由来です。

それから時間が過ぎ、幼児だったいずみも大地もいつの間にか大きくなり、思春期を迎えました。発症当時目標とした大地の小学校入学をクリアし、さらに小学校卒業、そして中学入学までも見届けることができたことは、とても大きな喜びです。

子どもたちにとっても、もちろん言葉に言い尽くせない苦しみや悲しみはあることと思います。つねに「母親の死」ということと頭のどこかで向き合いつつ過ごす日々は、幼い子供たちにとって、あまりに重い重荷であるかもしれません。確かに病とともにある生活は制約も多く、多感な彼らにとって不満も多いものであるかもしれませんが、それを覆ってあまりあるほどの喜びと学びもたくさんあったと思うのです。
たくさんの友人たちに無条件に愛され、支えていただいて歩むことのできる喜びは、僕たち家族にとって、とても大きな希望と宝物なりました。感謝でいっぱいです。