ひまわりママの脳腫瘍闘病記2

~ひまわりのように いつも おひさまのほうをむいて~
28才で発症した2人のママ。4度のオペを経て身障1級になりました

近況とわたしの悩み

2008年09月30日 | 再々々発(4回目の手術)
9月24~27日までまた入院していました。というか、ダンナが仕事で出かけるため、わたしの介護ができないので、いわば病院にショートステイをお願いしていました。
子供は近くの舅が見てくれています。

今まで毎月1週間実母が来てくれていましたが、我が家が引っ越して母と遠く離れてしまった上、体調が悪くなってしまいました。

早く結婚した母は昔から、「子供の手が離れたらそれからがわたしの青春時代、孫の面倒は見ないわよ」とよく言っていたのに、わたしが脳腫瘍になって、今でこそ毎月1週間でしたが、だいちゃんが1歳半の始めの頃から何年間は、ずっとよくやってもらいました。年に数回会うか会わない孫たちを預かるのは、苦労が多かったと思います。

姑は今春亡くなり、6月の手術でわたしがこういうふうになってからはターミナルケアを見越してこの地に引っ越してきたので、近くに住まう舅には何かと世話になるようになりました。
ダンナはなるべく自宅を離れないででできる職を変え~といっても丸一日出かけることもあり、舅に頼むのですが~わたしの介護をする覚悟でバタバタと引っ越してきました。
だんだんママがいることに慣れてきた子供らは、手伝わなきゃという意識もなくなり、子供たちは自分のことすらせず、何か頼んではむくれ、わたしはトイレすら自分でできない…こんなじゃパパの負担が大きすぎて壊れちゃう!
家事を頼んでもロクに返事もしない子供ら、、ちゃんと宿題しないだいちゃんにわたしなりの声をはりあげて、退院直後より疲れてセルシン飲む回数も増えてしまいました。

ダンナは今は金銭的なことも考えて、ヘルパーを頼むことにも今は考えていないようですが(こんな田舎にそういう組織があるかもわかりません)。すべてを負うのもしのびなく…

わたしがこんなになったら…と悲しいです。

ご無沙汰です

2008年09月25日 | 再々々発(4回目の手術)
なかなか更新できなくてすみません。
昼間はクスリの副作用ですぐ眠くなっちゃって、夜はこれまた薬のせいでめまいぐるぐる、メールができません。

八ヶ岳が見える大学病院からダンナの実家近くに引っ越しました。
家族の引っ越しの間、転院という形で姑が亡くなった病院に入院してから、9月17日、退院して新しい家に来ました。
転院先の病院では、小さいけいれんもしょっちゅうでしたが、家族と一緒になって、けいれんもほとんどなくなりました(薬で眠くて寝てばかりだったからというのもだけど)。
やっぱり家族っていいね!
わたしの介助と家事と仕事でダンナが倒れちゃわないか心配ですが。
まだ家の中はぐちゃぐちゃです。
自分でできればどんなにいいのに…と思います。

転院

2008年09月15日 | 再々々発(4回目の手術)
ご無沙汰しています。
ひまわりです。
絶飲食、ベッド上の生活、肺炎で肺洗浄、麻痺足の激痛、と次々苦しんだ経験した3ヶ月以上。
こんなことになんて思わなかった4回目の手術。
「帰りたい」「早く帰りたい」とダンナに泣いたわたしが帰る場所として選んだのは、わたしにはなじみ薄いダンナの実家の地でした。
八ヶ岳から車で3~4時間、不便なところです。
友人もたくさんいるここを離れるのはとても辛いのですが、この3月にすい臓がんで亡くなったダンナの母はこの病院でとてもいい最期を送れた、緩和ケア・ターミナルケアに優れていたと思ったからです。
もう後がない、次の手術はない、もうセデーションもたくさんだと思ったわたしは、のんびりしたいと考えられるようになりました。(思わぬ痛みに闘うことになりましたが)

薬の調整してけいれんが落ち着いた9月、一日でも早く退院したかったわたしは、けいれんの落ち着いた9月9日に9日に自家用車に布団を敷いて、休憩をはさんで6時間かけて移動し、引っ越しが片づくまで一時転院しました。
急に日を決めたので、8年お世話になった大学病院には名残惜しい人もたくさんいましたが、次の再発、今後を考えてなるべく早く転院をと焦っていました。

でも今までの病院や先生がたが恋しくもあります。お別れ言えなかったみんな、ごめんね。

ここの病院には訪問リハビリや訪問介護もあります。
足の痛みを麻薬系パッチで取りながら、なるべくけいれんが出ないようにのんびりやっていければと思います。

こちらはもう秋。昨日機械浴(湯船はない)に入れたら窓から紅葉が見えました!
ひまわりは過ぎてしまったけど、雪山を眺めて暮らしたいと思います。