ハル文庫が2020年のクリスマスに向けてお贈りする「クリスマス・ブック」シリーズでは、
世界で一番最初に本格的にクリスマスを取り上げた素敵な物語、
『クリスマス・キャロル』について、まずお話しようと思います。
19世紀に活躍したイギリスの大作家、チャールズ・ディケンズという人の作品です。
主人公はスクルージというとてもケチなお爺さん。
どれほどケチかというと、とても貧しい人々が少しでも豊かなクリスマスを過ごせるよう寄付を募りに来た人に、
「貧乏人は牢屋に入るか救貧院に行けばいい」
「そういうところに入るなら死ぬほうがまし、というなら死んだらいい。そうすれば余計な人口が減る」
とまでいってのけ、断固断るほどでした。
自分の会社で書記の仕事をしているボブ・クラチットにたいしても、
「15シリングで女房子どもを養っている俺の書記が何でクリスマスがめでたいというのか」
とうそぶくほどケチです。
つまり、自分が書記に渡している給料は、
外套を買えなくて毛糸のマフラーで寒さをしのぐほど、
それほど安いのは重々承知のうえで、もう少し給料を上げてあげようなどこれっぽっちも思わない、
心の冷たいケチなのです。
秘密を好み、人とつきあうのを嫌い、かきの殻のように孤独な老人。
貪欲ながりがり爺。
そこまで言う?
(ディケンズは細かく、鋭く描写するのです。文豪の手になる描写は、それはそれは見事です。
リアルではない、大げさすぎる…そういう評価もあったようです。でも…)
いやいや、どの部分をとっても素晴らしい果敢な描写だと思います。(スゲエ!)
決して古くさくなることのない、生き生きとした勢いのある物語です。
どケチなスクルージ爺さんのもとに現れた幽霊
さて、この物語は、
クリスマスとは「年に一度、人々が閉じた心を開く日。
親切な気持ちになって人をゆるしてやり、思いやり深くなる楽しい日。
だれもかれも分け隔てなく、クリスマスを祝う、愛にあふれる日」
だと(というようなことを)いっています。
それなのに、「クリスマスのどこがめでたい、ばかばかしい」といっているスクルージに、
クリスマスイブの夜、とんでもないことが起こります。
ぼくは子どものころ、物語を読むより先に、映画のほうを観ました。
ジャラジャラと響く呼び鈴の音、地獄の底から聞こえてくるようにスクルーージッという呼び声に
震え上がったことを覚えています。
とにかく恐ろしい。
ドアノッカーが男の人のものすごい形相になったのも怖かった。
それはスクルージとて、同じことでした。
7年前のクリスマスに死んだ共同経営者のマーレイ!!が自分の目の前に現れた。
正真正銘の幽霊です。
マーレイの幽霊は、幾重にも巻いた鎖を引きずりながら、こういいます。
(その鎖というのは、銭箱や鍵や錠前や台帳や証券や鋼鉄製の重い財布でできていました。)
「これは生きている時に自分で作った鎖なんだ。それに今つながれているんだ」
そして、自分は慈善、あわれみ、寛大、慈悲を商売にするべきだったと嘆きます。
「なぜ私は気の毒な人たちをかまわずに通り過ぎたのだろう?
東の国の博士たちをみすぼらしいあばらやへ導いていったあのありがたい星を
なぜ見上げなかったのだろう?
その星に導かれて訪ねてやるべき貧しい家もあったろうに!」
そしてスクルージに、「お前さんならまだ間に合う、
自分の力でそのような鎖から自由になるチャンスと希望がある、
そのためにこれから三人の幽霊がくる」と告げ、
寂しい闇夜の中に飛び去っていきます。
とはいえ、スクルージのお金儲けに凝り固まって干からび、強張った心がほぐれ、悔い改めることなど、いったいありうるのでしょうか?
過去・現在・未来のクリスマスの幽霊
まず過去のクリスマスの幽霊がやってきて、スクルージに過ぎし日のクリスマスの情景を見せます。
懐かしい日々。
クリスマスをあんなに楽しんだときもあったのに。
すっかり心の奥に封印していたけれど、スクルージの心を熱い涙でゆすぶる思い出もあったのです。
昔の恋人も登場します。
彼女と結婚していたら、あの幸せそうな家庭の情景は自分のものになっていたかもしれないのに…。
つぎに現在のクリスマスの幽霊がやってきます。
幽霊はクリスマスを迎える人々につぎづぎと祝福を与え、スクルージはその後をついてまわります。
そして、ボブ・クラチットの家にやってきて(あのスクルージの雇い人である書記です)、
ボブの子供であるティムを見つけ、心を奪われます。
足が不自由で松葉杖なしには歩けない。
病弱で、このままではそれほど長くは生きられそうもない、小さな男の子でした。
きっと、男の子の素直で健気な魂がスクルージの心を捉えたのかもしれません。
本の中にも「幼いティムの魂よ、お前の子供としての本質は神から来たものである
というディケンズの一文がさしはさまれています。
スクルージの心に、この子の命を助けたいという思いがこみ上げます。
甥の家に行き、誘われたのに拒否した楽しいクリスマスの宴に、姿はないものの脇から参加して、
思いのほか愉快なときをすごしたりします。
でも、愉快な現在のクリスマスの幽霊が最後に突きつけたのは、あまりに醜い二人の子供でした。
★「お前の子供だ」と幽霊はいいます。
「無知なる者たちの子供だ。二人の名は〝無知〟と〝渇望〟だ。
彼らの額には〝運命〟の文字が刻まれている。それはお前のような者の破滅を意味している」
(この部分は1984年に制作された、ジョージ・C・スコット主演の映画『クリスマス・キャロル』より引用。)
最後にやって来たのは未来のクリスマスの幽霊。
これから未来に起ころうとしているものの影を見せてくれます。
スクルージが気にとめた、あの幼いティムは、短い命を閉じ亡くなっていました。
書記の一家は哀しみに包まれています。
未来のクリスマスの幽霊は、スクルージがどのような死を迎えるのかを見せてくれました。
「とうとうあの悪魔め、くたばったじゃありませんか、ねぇ?」
そういう酷いことをいう人もいて、
あまりに哀しい、誰一人悲しむものもいない、受けいれがたい自分の死です。
「ああ、いやだ! いやだ!」
スクルージは自分の運命を換えられるものなら換えたいと激しく願うのです。
クリスマスの過ごし方
さて、気が付くと朝。
幽霊たちが訪れる前と何も変わらない普段の情景がそこにあります。
ベッドのカーテンも、何もかも元のままです。
スクルージは心から喜びます。
しかも何よりうれしいのは、行く手に横たわる「時」は自分のものであり、埋め合わせをつけられること!
★「私は過去と現在と未来の中に生きよう。
三人の幽霊方に私の心の中ではげましていただくのだ。
おお、ジェイコブ・マーレイよ! このことのために神もクリスマスの季節も讃えられんことを。
私はひざまずいて言ってるんだ。ジェイコブ爺さんよ、ひざまずいて言ってるんだ!」
彼はあまりにも我とわが崇高な決心に興奮してしまい、
声はとぎれとぎれで、なかなか思うように出なかった。
おお、なんとすてきだろう。なんとすてきだろう!
窓にかけよって彼はそれを聞き、頭を突き出した。
霧ももやもない、澄んだ、晴れわたった、陽気な、浮き浮きするような、冷たい朝。
血が踊り出さずにいられないような冷たさ。
黄金の日光、神々しい空、甘い爽やかな空気、たのしい鐘の音、おお、すてきだ! すてきだ!
「きょうは何の日だね?」
と、スクルージは日曜日の晴れ着を着た少年を見おろしながら声をかけた、少年はあたりを眺めながらぶらぶら来たらしかった。
「きょうは何の日だね、素敵な坊や?」
「きょうだって? クリスマスじゃありませんか」
(この部分は村岡花子さんが訳した新潮文庫の『クリスマス・キャロル』から引用)
ほんとに嬉しそうですよね…!
スクルージはそれからというもの、善行の限りをつくして生きました。
病弱だったティムももちろん死んではおらず、スクルージはティムの第二の父親になりました。
「スクルージほどクリスマスの祝い方を知っているものはいない」といわれるくらい、これまでとはまったく違った人生を送ったのです。
自分のこととして
みなさんは、いかがですか?
クリスマスはサンタクロースがやってきて、プレゼントをくれる日でもあるでしょう。
でもスクルージと同じように、誰かのために善いことをする日と考えてみる。
映画『Merry Christmas~ロンドンに奇跡を起こした男』は
チャールズ・ディケンズが『クリスマス・カロル』を書いたときの物語ですが、
映画の中で彼は「人は誰でも、人の重荷を軽くできる」といっています。
過去・現在・未来のクリスマスの幽霊たちがスクルージに教えたように、
人のために何かをすることは誰にでもできることだし、
たぶん人生をよりよく生きるうえで、とても大事なこと。(この物語はそう伝えています。)
クリスマスはそのことを思い出し、実行に移すとっておきの日です。