サラ☆です。
三津田さんの物語、再開です。
朝日新聞の取材を受けるために待ち合わせをしたフサコさんの
その後のお話です。
(三津田さんの物語①~2人のフサコさん、の後に入ります。)
★87歳だけれど、思うところあり
年が明けてお正月も過ぎ、何となく落ち着いた1月の夕方。
フサコさんはいつもの食事をしたり、書き物をしたり、お習字の練習をするテーブルの前に腰かけて、物思いにふけっていました。
いったいどうしたものでしょう……。
朝日新聞の取材の後、社会面に8段抜きの大きな記事が掲載されました。
フサコさんの写真も、大きく写っていました。
そして、そのあとの反響もすごかったのです。
読者の方々からお便りもくるし、何と言ってもびっくりしたのは、出版社の人から電話があったこと。
「朝日新聞の記事を読みました。それで、じつは三津田さんのことを本にできないかと思いまして。いちどお会いして、お話を伺いたいのですけれど」
私のことを本にしたいですって!?
朝日新聞の取材も青天の霹靂なら、「本にする」という話も、いったいどういう風の吹き回しなのか…。
それでもフサコさんは今日、編集者の女性の申し出を受けて、池袋の西武百貨店の8階レストランまで、会いに行ってきました。
資生堂パーラーでフサコさんを待っていたのは(当時は資生堂パーラーが店を出していたのです)、育ちのよさそうなお嬢さんといった雰囲気がまだ抜けきれない、40代後半の女性でした。
それでも話はテキパキしていて、フサコさんのこれまでの投稿記事をまとめて、1冊の本にしませんかという話でした。
「あらまあ、本になりますかしら」とフサコさんが言うと、「大丈夫です。編集のほうは私が責任もちますから」とニッコリ笑って受け合います。名刺を見ると編集長と書いてありました。
本が出せるなんて、なんだかワクワクするような話だけれど、でも私が!?
確かに夫の三津田氏は、生きていたころ、法律関係の本を書いて出したりしていました。専門書です。フサコさんは夫の書き直しや訂正がいっぱい入った原稿を、ていねいに清書したものでした。
でも、編集者のHさんが言っている本とは、一人の女性の生き方を読者に読んでもらう読み物。そんなことが、うまくいくものだろうか…。
「申しわけないですけれどね、ちょっと考えさせてもらってよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです。きっといい本になると思います。良いお返事をお待ちしています」
ということで、編集者のHさんと別れて、自宅に戻ってきたのでした。
お昼をランチのコースでいただいて、まだお腹いっぱいです。
フサコさんはお正月の残りの清酒をお猪口に一杯いただきながら、「どうしましょう」と考えていました。
私が書いたものが本になるなんて、そんなことがあるかしら…。
物事の進み具合がまだ納得できなくて、フサコさんは迷っていました。もちろん、本を出したくないわけではないけれど。
そこでフサコさんは、12歳年下の弟に相談してみることにしたのです。
フサコさんの弟というのは、都内にある某有名予備校の物理の名物講師をしていました。
『前田の物理』と言えば、理系に進む学生にとっては聖書のようなもの。わかりやすくて面白い。泣く子も黙る受験生のベストセラーでもありました。
図書家の現在の当主であり、著者として先輩にあたる弟の意見を聞いてみようじゃないの。
フサコさんはそう思い、弟に電話をしたのです。
弟さんは、フサコさんの話を聞くなり、「お姉さん、いいじゃない」と明るい声で言いました。
「ボクは、そんな面白い話、大好きだよ」
弟によると、本を出してくださる、というのは面白い話になるらしい。
そうなのか、面白いというのは、楽しいってことね。
私も楽しいことは大好きだわ。
M書房も確かな出版社だし、あの編集者の女性もとても感じがよかったし、やってみようかしら。
フサコさんは弟の嬉しそうな言葉に押され、「やってみましょう」と思いました。
そんなわけで、フサコさんに新たな楽しみが生まれ、やがて出版された本は読者の人々に大歓迎されて、そのあと何冊もの本が生まれ続けたのでした。
これから物語るのは、そんなフサコさんが大正元年から平成にかけての100年の人生を、いかに果敢に生きたか、というお話。
“勇気”という言葉が似合いそうな「潔さ」と、フサコさんがたくさん見つけた楽しみの物語。