久々の雨ですね。
初夏の緑が小雨に煙っていて、緑の淡い色が美しい様子。
夏の雨とも春の雨とも違う、新芽が美しい初夏ならではの風景ですね。
晴れの日はいいですね。青い空と雲の流れが美しいです。晴天の日は毎日車のサンルーフ全開で走ってます。夕焼けに彩られた雲を見たりできますからね。
雨の日もそれなりにいいものです。天井ががガラス張りなので、雨の日でも車内は明るいので圧迫感はありませんし。それに、洋楽を流しながら小雨の降る森の中を走っていると、日本ではない道路を走っているような気分にふっとなったりして。
自動車に何を求めるのか?というのがありますが、私の場合は毎日の通勤時間で往復2時間近く車に乗っているわけですから。年間で換算すると510時間くらいは車中です。
そう考えると、乗っていて楽しい車にすることで少しでも楽しめるようにしたほうが、年間で510時間を楽しんでいられるのですよね。
自分の納得する形でモノをそろえていけば、少しずつでも身の回りに楽しいものが揃っていくのだと思います。
それが積み重なると、「人生ってなかなか楽しいね」となるのかと。
さて、今日のヘミシンク。
ヘミシンク的世界観の考察。
たまに、こういうことやりますが。あくまでこれは私の意見でして、モンロー研の見解とはなんの関係もない事を先に言っておきます。
私の体験した中で感じた事、ということですね。
ヘミシンクとは?
という例え話
たとえば、『向こうの世界』(あの世でも非物質世界でもいいですけど)を大きな険しい岩山と過程します。
その岩山を上るには、フリークライミングで頂上に行くしかありませんでした。
自分の手と足を頼りに、ルートを探しつつ上ってゆく。それにはトレーニングと人並みはずれた精神力などが必要です。
しかも、最初にそれを登ろうとした人の中には、何人も滑落した事でしょう。
努力の末、ほんの何人かその岩山の登頂に成功します。
すると、そこにルートが出来ます。
次にその岩山を登る人が現れた場合、その先に登った人の開拓した、ルートを登れば比較的安全に登ることができます。
しかし、フリークライミングができるくらいの努力と精神力が必要です。
いくつかのルートが岩山には刻まれましたが、それでもトレーニングをしっかりと積んだ人しか、その岩山を登ることはできませんでした。
中途半端にトレーニングをしている人は、途中で脱落したり、滑落したりするのです。
ところが、あるクライマーが思いました。人の作ったルートとはいえ、どれも「探索」をするにはそれなりの準備が必要になりすぎる。
これでは普通の人がこの岩山を登ることはできない。
そこで、そのクライマーはルートに杭を打ち、縄梯子をかけ、ロープを張ってそれほど訓練をしなくても岩山に登れるような、そんな『道』を作ってしまいました。
おかげで、並外れた筋力と精神力がなくても、それなりのトレーニングでその岩山に登ることが出来るようになったのです。
それを見て、他のフリークライミングで登っている人は言いました。
「あんなのは邪道だ。本来の岩山登りではない!」
でも、そういう人すらも、これまでに誰かが作ったルートを登っているのです。
それを自分の筋力で登るのか、道具を使って登るのかの違いで。
そして、岩山に築かれた『道』を利用して、そこから岩山の新たな攻略法を考えるクライマーも出現するようになりました。
これまでは下から上に登るばかりのルートを設定していたのですが。
途中までは比較的容易にいけるようになったので、その『道』から、横向きに移動して岩山を一周するルートを登ってみたり、『道』を拠点にフリークライミングで今まで誰も挑戦しなかった難易度の高いルートに挑戦しだす人も出てきたのです。
岩山に、比較的容易に登られる『道』が設定された事で、岩山の登山、クライミング、そういうモノに対して多くの人が参加するようになりました。
そして、多くの新たなルートが開拓され、岩山にはまた別のクライマーが新たな『道』を作り、岩山はトレーニングを積んだ人だけが登られる、精神力の強い人しか登られない「日常と離れている山」であったのが、「わりと普通の人も、簡単なトレーニングで挑める山」となったのです。
と、まあ、こんな感じで例えられるのではないかと。
ゲートウェイやらヘミシンクCDに入っているナレーションや誘導音は、つまりこの『道』に張られたロープの使い方やら、説明やら、足の運び方やらを教えているだけであって、「それが正しいからそれをやれ!」という強制ではないんですよね。
それが必要でない場合はそのナレーションを気にしなければいいだけの話で。
ロープの使い方も、足の運び方もわからない状態で上に登られる人は、他で何らかの訓練を積んでいる人くらいでしょうし。そういう経験の無い人は、まずは素直にその使い方をしっかりと理解してから挑戦するのがいいと思います。
岩山を登る時、この『道』が信用できない方は使わなければいいだけなんですよね。
たくさんルートはありますし、それぞれに精通した指導者のかたもいらっしゃいます。
岩山を登るための、自分の進むルートの素晴らしさを語り、互いに認め合うというのが一番いいんですけどね。
人のルートを否定して、自分のルートだけを「これが一番いいんだ!」と言ったりしないで。
みんな同じ岩山を登っている同士です。仲良くしたいものです。
互いのルートから得た情報を交換することで、その岩山の全体像が見えてくるのでしょうから。
初夏の緑が小雨に煙っていて、緑の淡い色が美しい様子。
夏の雨とも春の雨とも違う、新芽が美しい初夏ならではの風景ですね。
晴れの日はいいですね。青い空と雲の流れが美しいです。晴天の日は毎日車のサンルーフ全開で走ってます。夕焼けに彩られた雲を見たりできますからね。
雨の日もそれなりにいいものです。天井ががガラス張りなので、雨の日でも車内は明るいので圧迫感はありませんし。それに、洋楽を流しながら小雨の降る森の中を走っていると、日本ではない道路を走っているような気分にふっとなったりして。
自動車に何を求めるのか?というのがありますが、私の場合は毎日の通勤時間で往復2時間近く車に乗っているわけですから。年間で換算すると510時間くらいは車中です。
そう考えると、乗っていて楽しい車にすることで少しでも楽しめるようにしたほうが、年間で510時間を楽しんでいられるのですよね。
自分の納得する形でモノをそろえていけば、少しずつでも身の回りに楽しいものが揃っていくのだと思います。
それが積み重なると、「人生ってなかなか楽しいね」となるのかと。
さて、今日のヘミシンク。
ヘミシンク的世界観の考察。
たまに、こういうことやりますが。あくまでこれは私の意見でして、モンロー研の見解とはなんの関係もない事を先に言っておきます。
私の体験した中で感じた事、ということですね。
ヘミシンクとは?
という例え話
たとえば、『向こうの世界』(あの世でも非物質世界でもいいですけど)を大きな険しい岩山と過程します。
その岩山を上るには、フリークライミングで頂上に行くしかありませんでした。
自分の手と足を頼りに、ルートを探しつつ上ってゆく。それにはトレーニングと人並みはずれた精神力などが必要です。
しかも、最初にそれを登ろうとした人の中には、何人も滑落した事でしょう。
努力の末、ほんの何人かその岩山の登頂に成功します。
すると、そこにルートが出来ます。
次にその岩山を登る人が現れた場合、その先に登った人の開拓した、ルートを登れば比較的安全に登ることができます。
しかし、フリークライミングができるくらいの努力と精神力が必要です。
いくつかのルートが岩山には刻まれましたが、それでもトレーニングをしっかりと積んだ人しか、その岩山を登ることはできませんでした。
中途半端にトレーニングをしている人は、途中で脱落したり、滑落したりするのです。
ところが、あるクライマーが思いました。人の作ったルートとはいえ、どれも「探索」をするにはそれなりの準備が必要になりすぎる。
これでは普通の人がこの岩山を登ることはできない。
そこで、そのクライマーはルートに杭を打ち、縄梯子をかけ、ロープを張ってそれほど訓練をしなくても岩山に登れるような、そんな『道』を作ってしまいました。
おかげで、並外れた筋力と精神力がなくても、それなりのトレーニングでその岩山に登ることが出来るようになったのです。
それを見て、他のフリークライミングで登っている人は言いました。
「あんなのは邪道だ。本来の岩山登りではない!」
でも、そういう人すらも、これまでに誰かが作ったルートを登っているのです。
それを自分の筋力で登るのか、道具を使って登るのかの違いで。
そして、岩山に築かれた『道』を利用して、そこから岩山の新たな攻略法を考えるクライマーも出現するようになりました。
これまでは下から上に登るばかりのルートを設定していたのですが。
途中までは比較的容易にいけるようになったので、その『道』から、横向きに移動して岩山を一周するルートを登ってみたり、『道』を拠点にフリークライミングで今まで誰も挑戦しなかった難易度の高いルートに挑戦しだす人も出てきたのです。
岩山に、比較的容易に登られる『道』が設定された事で、岩山の登山、クライミング、そういうモノに対して多くの人が参加するようになりました。
そして、多くの新たなルートが開拓され、岩山にはまた別のクライマーが新たな『道』を作り、岩山はトレーニングを積んだ人だけが登られる、精神力の強い人しか登られない「日常と離れている山」であったのが、「わりと普通の人も、簡単なトレーニングで挑める山」となったのです。
と、まあ、こんな感じで例えられるのではないかと。
ゲートウェイやらヘミシンクCDに入っているナレーションや誘導音は、つまりこの『道』に張られたロープの使い方やら、説明やら、足の運び方やらを教えているだけであって、「それが正しいからそれをやれ!」という強制ではないんですよね。
それが必要でない場合はそのナレーションを気にしなければいいだけの話で。
ロープの使い方も、足の運び方もわからない状態で上に登られる人は、他で何らかの訓練を積んでいる人くらいでしょうし。そういう経験の無い人は、まずは素直にその使い方をしっかりと理解してから挑戦するのがいいと思います。
岩山を登る時、この『道』が信用できない方は使わなければいいだけなんですよね。
たくさんルートはありますし、それぞれに精通した指導者のかたもいらっしゃいます。
岩山を登るための、自分の進むルートの素晴らしさを語り、互いに認め合うというのが一番いいんですけどね。
人のルートを否定して、自分のルートだけを「これが一番いいんだ!」と言ったりしないで。
みんな同じ岩山を登っている同士です。仲良くしたいものです。
互いのルートから得た情報を交換することで、その岩山の全体像が見えてくるのでしょうから。
ヘミシンクも、まるの日さん達の、体験を聞いて、準備して、フォーカス世界にいく。
目的は、同じなんですから、先人の経験を踏まえて、行かなくては、損ですよね。
「ヘミシンク=邪道」と批難なさる方々の気持ちがどうしても理解できなかったのですが「なるほど!」と。。。
目的地は同じですものね。
こちらの世界の「山であったら、こんにちは♪」の精神(^^)は、自己探求や高次の探求でも「活かしたい」ですものね。
ありがとうございました☆
見れば 誰でも登りたい気持ちになると思います。
岩山の登山ルートに杭を打ち、縄梯子をかけ、ロープを張って比較的容易に登れるようにしたものが ヘミシンク技術ならば、その道案内人が 圭さんということになりますね。
人それぞれの価値観で非物質世界を訪れることは、人間社会に於いて、建設的に意義を持つものであると思います。
私は、ヘミシンク技術を邪道とは思いません。
TVで紹介されていた太田山神社に行って来ました。
神社に行くには、鳥居から小高い山の急斜面に
無理矢理付けたような階段を上って、登山道に
入ります。
しばらく、山登り状態で上がっていきますが
最後の神社の本体は、頂上付近の小さな洞窟へ
岩山のクライミング状態で、鎖ハシゴを登って
いきます。
なんでも、円空さんが仏像を彫ったとか、
神社ですが、修験道の方達の修行の場の
ようでした。
神社へ行く途中で何人もの参拝(山登り)する
方達とすれ違いますが、もちろん笑顔で挨拶を
交わし情報交換したりします。
なんといっても、見知らぬ同志で礼儀正しく
会話するのが、新鮮でした。
ヘミシンクでも、こうありたいですね。
私も、そのテレビ見ましたよ。
最後にがけを登るように、くさりで登るんですよね。
すごいですね。
私なんか、あのテレビを見ただけで、尻込みしてしまいましたね。
山に登ると、会う人に、「こんにちはー」と、あいさつしますね。
ほんと、ヘミシンク仲間も、こうありたいですね。
親しき仲にも、礼儀あり、です。
自分はまだ入山口付近でウロウロしてる状態かな?
と思います。
道具の使い方であれ?っとなったりしてますが、
それを含めてこちらで教えてもらったとおり
楽しむ事を第一にコツコツ続けてます。
ここ最近は忙しかったので完全クリックアウトしてまして、数日前から記録を付ける為にICレコーダー使っていたんですが、気がついたらCD終わっていて自分のいびきが延々と(笑)別の意味で衝撃でした。
ところであつかましいお願いで申し訳ないんですが、ICレコーダーにヘミシンク中につぶやくのがどうもうまく出来なくて、吹き込もうとすると途端に映像がぼやけてしまうんです。まだ集中がうまく出来ていないからだと思うんですが、何かコツ等があればお教えいただけませんでしょうか?
同じ高嶺の 月を見るかな。」
それぞれ道は違えど目的は一緒ですね。
心の幼いものは、自分達の道のみが正しいと思い、
他の道を登る者を批判し、非難するのですが、
長じて 心が成長した者には、上のうたの様な心境になり
みんなで仲良く山登りが出来るのでしょうね。
それぞれの心の成長を待ちましょう。
で、私はふもとで転げ回っていて登れないので、
誰か、ヘリコプターを開発してチョウダイ。
これは、あまりにも横着ですね。反省。
TVですごい登山道とか見るたびに、いつも子供と話ししております。
資材の調達や、現場での工事や生活、まかない等、今ならヘリがありますが、徒歩しか手段のなかった時代は、先人の大変な苦労があった事でしょう。
名古屋の書店でも、まるさんの本がない!
ネコオルさんでは注文OKでしょうか。他のヘミCDもほしいので一緒に注文したいのですが?
そのかわりに??
図書館で、森田 健さんの「あの世はどこにあるのか」を借りました。不思議を、へえ~すごい、で終わらせずに、なぜそうなのか、疑問への探求の熱意が伝わってきます。置物で、なぜ開運するのか、とか、自分が心霊手術の実験台になったり…!
なんでもそうですが、最初の開拓者はすごいのですが、その後に続く人々がそれを忘れてしまうといかんかなあ、と思うところもあります。
モンローさんの本、読みましょうね。
ICレコーダーに吹き込む件ですが、これはイメージがぼやけた時に、吹き込んだ後にそのイメージの続きが見られるようにしておくといいです。
印をつける感じでしょうか。
イメージがぼやけたら、すぐに「つづき!」と頭でイメージして、レコーダーに吹き込んだあとにその「つづき!」というイメージを思い浮かべて、その後を見るという事もできます。
あとは、寝ながらメモメモ方法に慣れてみるか、というのもあります。人によってはそちらのほうが良い場合もありますので。
自分にあったスタイルをしらべてみてくださいね。
私の本は、私のところでも買えますがあと数冊くらいしかないのでお早めに。