先月、大学入試共通テストの英語民間試験導入が延期されたのに引き続き、もう一つの目玉であった、国語と数学の記述試験も中止になりました。文科大臣の「身の丈」発言から、注目され始めて、その後急展開にマスコミ等も連動して、「桜」も吹雪の様相で、いったいどうなってるんだと思うこの頃です。
私自身は年齢的に、センター試験、共通1次試験世代の前の世代ですが、共通1次、センター試験の現場を経験してきた者として、この国の教育はどうなっていくんだろうと思わざるをえません。
共通1次は、当時の文部大臣のN井道雄が、東大を頂点とする大学の序列をなくし、八ヶ岳のような大学が切磋琢磨してしのぎを削るような状況を目指すと、その趣旨を説明しました。しかし、現実は、共通1次試験の点数により、大学は言うに及ばず、学部学科毎に1点刻みのランク分けが生じ、東大を頂点とする細かいランキング表さえできる結果になり、その後のセンター試験でも現在までその傾向は続いている状況です。
センター試験(共通1次)は、1月の13日以降の第3土日に行われるのですが、それから逆算して、高校の行事も前倒しになり、体育祭も5月、6月に行われているのが多くの高校で見られる現象です。
私の高校時代は、大学も国公立は1期校2期校の時代で、1期校の入試は3月3日4日5日で、2期校は3月23日頃でした。卒業式が3月1日で、それが終わってから試験に向かうという状況でした。体育祭は、10月で文化祭は11月の文化の日でした。体育祭の種目は多く、また文化祭も今では考えられないような出し物もありました。例えば、家がパチンコ屋さんの友人は、当日、家からパチンコ台を運んできて、「先生もどうぞ!」なんてやっていました。日頃はいかつい顔の先生も、この時ばかりは、完全に生徒にコントロールされていたような、懐かしい思い出ばかりあります。今から思い出しても、楽しい高校時代でした。詳細はまた別の機会に書くとして、大学入試に関しても、今のように学校から受験指導を受けるのではなく、各自がそれに向けて勉強するという雰囲気でした。偏差値もありましたが、校内で何番だったらこの大学かなというくらいのもので、要は自分の行きたい大学に向けて自らがその対策を練っていくという時代でした。しかし、今の時代より受験生に対する大学の数も少なく、競争倍率は今よりも明らかに高い状況でした。センター試験もないので、年が明けてから理科社会をやろうかという状況でもありました。さらに、試験科目も今の2次試験より明らかに多く、センター試験の科目数と大体同じでしたが、センター試験と異なり、今の2次試験の一発勝負の感じで、記述式が主体でした。したがって、今の時代に何が記述式?と思わざるをえません。
センター試験のようなマーク式だけでなく、記述式もなんていう発想から共通テストと名前を変えて、記述式を導入するという発想自体がおかしい。2次試験で記述式が行われているのだから。そもそもセンター試験がなぜ必要なのか?多くの世代がセンター試験(共通1次)世代になり、センター試験はあるものだという固定観念に基づく発想をそもそも転換する必要がある。センター試験を行うために大学入試センターがあり、そこでは年間数百億の金が使われている。役人の天下りの受け皿になっている。さらに、国公立大学の独立行政法人化により、ますます事務職員が増加して、理事等それまでの大学にはなかった事務職員が、文科省の天下りの受け皿になり、その人件費のために、大学の教員が減らされ、大学の研究費が削減され、ノーベル賞を受賞したIPS細胞の研究費も削減されそうになり、いったいこの国は何を考えているのか。
英語の試験の民間委託では、民間への天下りの構図や民間と政治家の癒着構図がその背景にあり、結果として、高校生や現場の高校、大学は被害を被っている。実は、今行われている全国の小中学校の学力検査は民間が受託していて、それがベネッセであることは意外に知られていない。全国の全ての小中学校で行われている試験を1民間業者が落札して、そこへ膨大は金が流れていることはほとんど報道されていない。
皮肉を込めて言うなら、今回の試験中止に関しては、H文科大臣のおかげであり、彼以前の文科大臣はその全責任を負わなければなりません。To be continued.