豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

笑っちゃうでしょwwwww

2015-06-09 16:09:29 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは!

今日は12時ごろにノソノソと這い出してきました。

何かするたびに「起こっている」というテーマが頭を駆け巡る。

そして、それも、起こっている。

体が激重いのも、起こっている。

気分がどん底なのも、起こっている。

大和田菜穂さん good! と手を差し出した笑顔が、脳裏を掠めるのも、起こっている。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



昔の思い出に浸ってしまうのも、起こっている。


母親の家で食事をした。

したのではなく、したという風に映像が回転したのである。

そこに、僕は、いない!

ただ、この全体の描写が湧いているのである。

そこの中心にいるはずの、僕は、ただの絵である。


そして様々な会話をする。

会話をしたのではなくて、そのような映像が回転していた・・・・・・orz


ギャオーーーーーース!!!!

気が狂うぞ、俺wwwwwwww

という思考が「起こっている」


今朝は、大和田菜穂さんのyoutube動画を見ていました。

アーステレビのやつ。

あれが一番、なんか、いい。

菜穂さんが「そうです!」と言い切って手をグッドサインするとき、これ、イリュージョンに入ってしまうのであります。

もはや、ただ、アイドルに憧れている中学生のようですwwwww


対象としての自己。

自己意識。

これが、幻想である。


などという、超、クレイジーメッセージのはずなのだが!!!!

違和感なく入ってきちまうのだ。

なにもない無時間に、全体としての映像が、現れている。

自己とは無関係に、ただ、描写されている。

中心としての、把握する対象であるはずの、自己が全体そのものになっている。

全体、そのものは、幻想である。

無の中に、ポッと現れているのだ。

現れては消えている。

そして、死は、幻想であるのは、もともと、無時間であるのだからだ。

つまり、対象としての自己は不在なのである。


これは、究極過ぎるぞ! 

つまり、人間を取り扱っていないわけである。

人生内の、出来事を、一切、問題にしていなくて、その出来事からの脱却である。

脱却というのか、出来事、そのものが、自己であるというのか。

いや、自己というより風景なのだ。

その風景は、自己に映っているわけではないのだ。

自己⇒リアル

リアル⇒自己

というような関係性は、元々、ないということである。

リアル=無時間

この公式だけが、あって、それを経験している主体が不在なのである。


これって禅、とか、グルジェフワークとは全然違うように感じる。

似ているようで、ヤバサがぜんぜん、違う。

普通は、機能としての、全体と縁起している、自己というのは、残っている。

一番よく現している言葉。

「仏道というは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」

「仏道は自己なり」

仏=自己と言う風に、縁起しているんですよね。

これは、自己が忘れられる、忘我することで、リアルが自己に踊りこんでくる事です。

自己は消失していますが、全体としての自己がある。

全体と不ニの自己です。

ここでは自己感覚が、機能が、リアルと融合しているわけですので、現実は、よりシャープに、中心としての自己に映されています。

自分が自分しているわけですね。



しかし、菜穂さんの仰られているのは、この踊りこんでくるリアルというのはストーリーであり、その幻想の事実は、自己と縁起しているわけではないということです。

つまり、真我も、悟りもない。

なぜなら、私自身が、最初から、存在していないからということですよ!?


この自己感覚、自己意識、自体が、幻想なので、その、意識と感覚に映っているリアル、もしくはリアルが反映した自己などという概念は成立しないのです。

不二ではなく、無二というのか・・・・・・。

眼前の自己とか、よく言われている「私はあなた」なんてのも、全然、相手になりません。

交流がないからです。

交流しているのは、幻想の、映像の中の、キャラだけで、だから、そのリアル、そのものの実在性を否定しているのです。

個人の存在を否定しているというのか、、、それは「生命の描写」でしかない。

逆に言えば、まるっと、あらゆる、すべてを、全肯定しているのか。


このリアルというのは「自己が不在」のリアル。

だからリアルではなくて、たとえるなら夢のようなもの。

つまり、しっちゃかめっちゃかな、意味不明な、何らかの表現。

誰に対して起こっているわけでもない。

全肯定というのも、ただ、巻き起こっているだけ、のものしかない。

という形での、全肯定です。


でもね。

これ、今朝から、行ったり来たりしだしてるんですよ。

つまり中心としての自己に戻ったり、全体のみの世界にいたりしている。

自己と世界がリンクするのではなく。

これは、僕が書いていた「行ったり、来たり」とは全く違います。

僕は純粋意識、五感や本能の働きと縁起した不二の自然世界と、思念(思惑)の世界の間の行ったり、来たりを思っていたのです。

しかし、これは、その自己意識と自己感覚の不在と、その存在の間です。

受け手が残っていないのと、現れるの間の「行ったり来たり」です。


うげー、酔っ払ううううううう。


泥酔状態と似てるかもしれない・・・・・・。

いや、そんなわけない。

酔っていても、さすがに、自己感覚は、本能は残っている。


こんなに混乱させてもらったのは、久しぶりだぜwwwww

グルジェフさんの「人間は機械である」以来の衝撃だ。

機械であっても人間が残っているので、まだ甘いwwwww

人間は、不在である。

ただ、このクリエイトされた描写だけが、しかも、瞬間の、無時間の、自己と無関係の全体だけが、ある。


僕はノンデュアリティを誤解して受け取っているのかもなあ。

これって言ってみたら、恋愛とかしてる人は、もう、これ、完全に意味を失う話でもありますよね。

別に、あったら、あっただけでしょレベルwwwww

つまり、愛情とか、愛着とか、そういうものは、単なる描写ですから、ただ、そこにあるんです。

いいもわるいもなく、ただ、ある。

自己の「意識的行為」とか「意志」というものが、そこにはない。

「自分は愛している」と思うことが、ただ、そこで起こっている。

完成された映像として、自己の不在の中で、ただ、そこで起こっている。

それを体験している人が、不在なのですよ!?


おおおおおおおおおおおお。

ここまで抵抗が表れるとは、まだまだ、じゃのう我。

自分の中の触れてはいけないところに入っているという危機感。

僕の今の理解では、ただ、この現れだけがある。


この現れというのは、自己不在の、つまり、自分に対して起こっている現われではなく、単なる映像としてのこれ。

全体。

この全体が私を生きているのではない。


全体だけがある。


しかも、その全体は幻想であり、実際は、無時間である。

つまり、無の中に、切り離されない全体生命だけがある。

しかし、無は感じられないので、全体だけが残っている。

そこに、自己は不在なので、生も、死もない。


つまり、ギャオーーーーーーーーーーーーーーース!

と、叫ぶしかないのです、笑


いいですか、みなさん!!

ここにブログが書かれていると思うでしょう。
僕の指がキーボードをタイプしていると思うでしょう。
そして、僕の脳内に閃いたアイデアが、ここにあると思うでしょう。
それらの、ことは、実際には、ないんですよ?
ただ、ここで、僕が書いているのは、ストーリーの中なのです。
つまり、意志も、行為もなく。
ただ、無時間の映画が上映されている。
そこに、僕は、いなくて、このブログは勝手に書かれているのですよ。
描写が、とういか、起きる事が、起きているだけ。
だから、みんさん! 
このストーリーには責任は皆無なのです!!!!


人間と人間のとか、愛情は、完全に幻想ということですよ?

まあ、幻想と言えど、あるわけですが、しかし、そこに自由意志、選択がない!!


これは絶対に、誰にとっても、ピンチだと思いますけどねえ。

あなたはいない。

ですよ?

「元々いないという体験」自体も無いのですよ?

つまり、悟りなんて、あってもなくても、関係ないと仰られているのですwww

ブッチャケ、悟りどころか、あなたは、生きていないと言っているのです。

完璧な生命の描写だけがある。

それを眺めたり、体験したりしている人すらいないのです。


自己⇒対象というのが普段の感覚です。

で、対象⇒自己というのが、自覚している状態です。

そして、自己⇔対象という二つが一つになっているのが、自己想起です。

この自己想起というのは純粋な知覚の中に、全体が現れている状態です。

しかし、大和田さんの表現は、この自己と対象、というものが、どちらもない。

これらの行為があるという、想い、自体が、起こっているだけなのです。


映像があります。

その中心に身体感覚としての自己があります。

そして認知としての意識があります。

この自己意識と自己感覚が、ないのです。

つまり、ただ、無時間の生命映像が、あるだけ。

全体生命の描写だけがある。

それ以外に、なにもない。

この全体があるというのは、自己にあるわけではないですよ。

全体だけがあって、それを体験している自己は不在なのです。

意識も感覚も、全体の描写です。


ただ、これだけ。


ここまで強烈な表現は、今までに、見た事がない。

現象界で何をするかは、全く関係ないと、いうことです。

完全にコントロール外にあるということですよ!?wwwww

起こることが、起こっているだけ。

愛にすらも意志はない。 


このメッセージを理解していたら、まあ、なんていうのかなあ。

笑っちゃうでしょwwwww

あなたは存在している!!

2015-06-08 10:08:01 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

今日は9時ごろに起きてきました。

眠りすぎなのか、疲れすぎなのか、体が重い。

母親の家で食事をしてから、読み返している『すべて愛の中にある』を眺める。

だいたい理解した。

ぼうっと気力の抜け切った、抜け殻のようになる。

ネットを、いつものようにブログを眺める。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



たくさんの人たちのメッセージ。

それぞれに、それぞれの「想い」が込められている。

成功したい人、優しさを伝えたい人、真理へ導きたい人、笑いあいたい人。

オリジナルな個性が、そこに、溢れている。

だが、そこには、全体としての表現が、伴っているのだ。


2015年、なぜか、今年は何かあるのではないかと思っていた。

なぜなら、1997年、2006年と数秘術的に8の年は、何か、幸運が訪れることが、多かったからである。

人生の方向性を変えてしまうような、幸運。

それは、まあ、気のせいなのだろう。

しかし、まあ、1977年7月13日生まれの僕の、運命数が8である。

かといって、1979年や、1988年に何かあったのかと言われれば、全く記憶にないなあwwww

まあ、今のところ、気のせいかな。


しかし、全てが、この全体性の表現だとするならば、天体の法則が、地球に影響を及ぼし、その気候変動が、また海の満ち欠けが、人間の心理に変化をもたらし、集団的な、なんらかの動きが生まれてくるというのも、ありうるかもね。

もしかしたら、狂気をもたらす、満月の力(ルナティック)もあるかもしれない。

想像するしかないけど、それは、可能性を捨てるわけにもいかないだろう。

全体が個と分かれていないのだから、個人の行為というものは、完全に縁起しているのだから、ひとつだけを切り抜くわけにはいかない。


対象としての自己の不在性。

これが歴代の覚者の語ってきた事である。

すごい虚無感と共に、それが、まあ、現れている。

嫁様と喧嘩したのと同時に、あの『すでに愛の中にある』を読む。

このタイミングで!

だから、これが、単なる、気のせいなのか、自己の不在性に気づいたためなのか、分からない。

ある一方の観点から見れば、これは、空のキャンバスに描かれた、全体の表現ではあるわけであるが、このキャンバス内の自己に焦点を当てれば、それが、虚無感である。


苫米地博士の空観と仮観と中観の話を思い出す。

つまり、空観に傾きすぎるとカルト危険思想が生まれ、仮観に傾きすぎると暴力性と戦争が生まれてくる。

その中観、は、空を捉えながらも、仮の世界に生きている。

人間の世界である。


涅槃とこの世との間に、鏡に映されし、人の世界がある。

3つの世界だ。

これは瞑想によって生まれる「何か」と普段の感覚世界、そして、その両方を映し出している、鏡としての、感光版としての人間の機能である。

普段は仮観の世界しか認識していない、それで、次に、空の世界を認識する。

そのあとで、鏡を見るわけだが、その鏡は、全体を反映している。

その反映している中心点、これの、有無が、違いだったのである。


中心点の対照としての自己意識、自己感覚、こういったもの、が、全体の、生命と分断されていない1枚の写真のようなものなのだ。

丁度、大和田菜穂さんのホームページの写真のように、一枚の鏡。

その中心に映っている彼女はいないのである。

つまり、周囲と、彼女は、分断されず、1枚の写真である。

そして、それが、ただの生命の描写であり、実際は、無限に現れている、瞬間、瞬間の移ろいであるわけだ。

ですから、すでに、そこにずっと在る。

在るというのは、それ、が在るのであって、それというのは全体と空の饗宴の事である。


真我の目覚めというのは、この、全体世界の中で眠っている自分に気がつくことである。

主人が居ない、空っぽなのは、眠っているからなのだ。

だから私は存在しないという発言に対してジャンヌ・ド・サルツマンが「あなたは存在しないのですか? それは残念!」と言い放ったのである。


それは、自分を生きることであり、自分を生きることは苦しい事である。

しかし、この苦しみしかない一切行苦の中で、諸行無常の中で、清浄なる我、つまりスピリットとしての「真の私」が誕生し、その、魂の体が、創造主、つまり偉大なるクリエイターの一部分として、融合する事、フュージョンする事が、真の救いである。

そこでは、鏡としての認識とか、眠れる我だとか、超越意識とか、ないのだ。

ただ、目の前のリアルが、単なる平凡な、日常が、ある。

特別な認識としての自己は、いない。

ただ、その、全体の中の、自然の、生まれたままの自分である。


涅槃も、現実も、人間も、あるがままに、最初から、そこで、生きている。

そして花が散るように、悲しみの中で散っていく。

一休さんの「死にとうない」という言葉、これこそが、真実である。


トリックはない。

仕掛けとか、トリックとか、完全なる平穏は、それは、認識の偏向である。

それらの考え、また、体験が、救いであるとするならば、教義が生まれ、主義が生まれ、特別な私が生まれ、そして、社会との対立が生まれる。

それはキリスト教の歴史を見れば、明らかである。


これは認識の変更ではないのである。

スピリチュアルの分野で言われている事は、主に、この体験の共有だろう。

曰く、ワンネス体験である、真我実現である、超越意識、悟り、引き寄せ、真の幸福、超人の世界、超能力、UFO、宇宙人との邂逅、霊体験、死後の世界、涅槃体験、絶対安心の境地などなど、様々に書かれている。

これらの目指すところは、現状の自己からの脱却である。


しかし、人は、一時たりとも、この真理から離れていないのだ。

だから、本当は、導かれる必要がないのだ。

そこに、さあ、これこれを読みなさい、瞑想をしなさい、今のあなたは、ほんとうの自己ではないが、これをすれば、あなたは真の「幸福に」幸運に預かるだろう。

という馬に人参をぶら下げるような、ことで、真の自己に帰らせようとする。

しかし、真の自己とは「あるがままの」自己である。

そこには清浄なものがあるだけではない。

醜い姿も、清浄な姿もあるし、喜びも悲しみもある、それで、絶対安心の世界もある。

これが、カオスの生命なのである。

カオスというのは理解が不可能なものであるが、もう、すでに、そこにあるのだ。


だから、あの人は、悟っている、でも、僕は、まだまだ、なんてことは絶対に、ありえないのである。

正に、すでに愛の中にある。

しかし、言葉の捉え方は、人、様々である。

もしも、全人類が、この対象の不在を悟ったとしても、何も変わらないだろう。

まあ、そのようなことは、ありえるとは、とても思えないわけですが・・・・・・。


本当に、人を助ける人は、内面の声を聴いてくれます。

その人、その人によって、事情が違い、悩みは違うはずです。

だから一般の、全員に通用する教え、というのは、難しいと思うのです。

間違っているというわけではありません。

ああいった、お話は、ほとんど全部が、本当のことが書いてあります。

実は究極の真理は必要ないのです。

それは、厳然として、明白に現れているものであり、それが悩み、存在の不安になっている人にとってだけ必要なものである。


必要なのは体のリラックスです。

体と心は、繋がっていて、心の病が、体に影響していたら、心を癒す事も必要ですね。

だから、対象の不在は、究極の安心ですが、それは、ひとつのアイデアです。

たぶん、認識の変更なのです、これは。


お寺の和尚さんが、人を悩ますようなことを言うのはよくない。

社会での悩みを解消して、笑顔で、楽しく、人生を過ごすことが究極だと思います。


まあ、僕みたいに偏屈な人間には、覚者はとても救いになるわけですが(苦笑)


何か特別な体験、経験をする前に、もう、そこに自然はあるでしょう。

意識を高めなくても、そこに、花は咲くでしょう。

それは生命の力が、最初から、そこで、自分が何かする前に、在るからです。

在るからなのです。

自然なる喜びは、どこにあるでしょう。

一生懸命、苦しみながら、生きている人々、その人たちとの交流の中にある。

また自然との交流の中にある。

自分が、自分として、あることの中に、ぜんぶ現れているんです。


ひとつの特別な状態に、導く事ではなく。

ただ、あるがまま、このまま、そのまんまの自分です。

それが、自然と縁起して、ここにある。

在るのは、意図して、在るわけではありません。

最初から、オリジナルに、豊田真大として、つまり、この名前の指し示す、人間として、ここに咲いているんですね。

まるで、樹が風に吹かれているように、在るだけです。

自然に、咲いて、自然に、帰る。

諸行無常の中で、すべては、現れては消えていく。

瞬間の贈り物なのです。

死は避けられないが、僕は、いま、この日常のリアルに、在るのです。

正に、ライフはミラクルですww

大和田菜穂さん―『すでに愛の中にある』―の読後感想

2015-06-07 07:26:49 | 読者に人気の記事
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

今朝は7時ごろに目覚めました豊田です。

ついに、座禅をやめることになりました。

昨日は嫁様と大げんかして、彼女は実家へ帰りました。

さっきまでいろいろ、事情を書いていたけど、まあ、ここに書くと、まためんどうなことに巻込まれるので、やめておきます。

鈴鹿の宮脇書店へ行って『すでに愛の中にある』を買ってから、最近、亀山に開店した漫画喫茶で熱読していました。

なんと!



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



ライフはミラクルwww

と言うのは生命が、ここで、こう湧き出していることのようです。

そして、その生命力は、だれかという個人ではない。

そして、それは、今、この時に湧き出て来ているものである。

だから、人間は、だれもいない!!!!

なんと言うことだ。

この、時期に、この本を読むとは・・・・・・。

なんか、その、ことで、座禅も読書もやっぱり趣味だよねと思って、そう考えると、やっぱり修行なんか、まあ、それも起こっていることな訳であほうらしいなと(爆笑)

単に、夫婦げんかしてやる気無くなっただけかもしれません。

とにかく、この大和田菜穂さんの表現は突抜けてますよね。

人間は機械であると言ったグルジェフさん。

このけがらわしい体に何があると言うのかと言ったお釈迦様。

それに匹敵する表現。

「人間の中身は何もないでしょ^^」

衝撃。

wwwwwwwwwww

これはすごい。

と言うか非常に危険ですね。

著書の中にもクレイジーと言うことばが頻繁に使われていますが、まさに、クレイジー。

だって、この生命が表現されている、世界には、人間は一人もいない。

つまりだれもいない。

自分も含めて一切、何もかもが、ただの生命の現れである。

つまり「ライフはミラクル」な訳です。

なんかこう満喫の化粧室に成人向けサイトの広告写真がはってあるのですが、それを見るたびに「え? これって中身はだれもいないのかああ」と感慨にふける。

いやあ、どう考えてもすさまじい。

これは、絶対に広まることなんてないだろう伝達です。

何しろ「自分は最初から生きてない」

つまり、もともと自分はいない、生まれてさえいないということです。

ただの全体の生命の流れがあって、それだけが生きている。

それは熟睡時と同じで、そこに、だれもいない。

ラマナ・マハルシみたいwwwwwwwwwww

これは、超、クレイジーだぜ!!!!

しかし、まあ、読んだ時期が、あの、嫁様との大げんかだっただけに、ああ、そうか「ライフはミラクル」なんだね。

中身にはだれもいないんだと、自然に思えてしまったwwwwwwwwwww

てことは、この日記を読んでいる人もいない訳だ実際は。

ただ、読んでいるというストーリーが生命によって巻き起っている。

なるほど!

これはグルジェフさんが指摘した状態ですよね。

人間は、ね、実は、機械なんです。

つまり中身にはだれもいない。

なんという、クレイジーな感じでしょうか。

でも、この突抜けた感は、グルジェフさん水準だなwwwwwwwwwww

大死一番。

死に切って来いと言う禅のことば。

これは本気でいなくなってしまえと言う意味ってことだな。

非常にやばいw

何回も繰返し読んでいたら同じ境地をかいま見るかもしれないと感じる。

まあすでに映写幕として突放すのは分るが・・・・・・。

どうも、それではないようだ。

何しろ、その映写幕を見ているのもストーリーである。

何もしないのではなく、何もできないものだ、もともと、と彼女は言う。

確かに、そう、自然が最初からあるが、それは、僕は、対象としての僕の意識や五感に対して縁起している世界と捕えていたのだが、なんと、その縁起と言うのは、だれに対して起っている訳でもない。

つまり、だれも、生きてなんかいない、最初っから。

と断言しているのである。

これは!!

なんという表現。

あの、かわいらしい容姿で「そこに菜穂はいません」と断言・・・・・・。

唖然、衝撃、すさまじい境涯。

自然な現実にはだれもいない。

これは、つまり、こう言うことだ。

普通は、僕が、この日記を書いて、だれかがこれを読むと考えられている。

しかし実際は日記を書くと言う行為が、だれでもない、この人間の体を通して、全体としての表現として、ここに現れているだけで、そこに意志も、行為もない。

実は、何も起こっていない無限空間に、ただ生命が巻き起っているだけ。

そこには本当はストーリーすらないらしいのだ。

魚ええええええええええええ。

これは、ちょっと、やばくないですか?????

本気で覚醒と言うか、まあ、分かっちゃった感じですよね、彼女。

えーっと、精神的な記事を書かれている方は、この本は、絶対、読むべしw

想像以上に圧倒されます。

え?

本気で?

あのかわいい人が、この発言?

みたいな、すごい幻影の世界に、運ばれます。

それで、まあ、なんか本物感が容赦なく伝わってくる。

僕もこの日記で、何度も解釈をいじることではない、最初からあると書いていましたが、それを、なんと「エネルギーが消える」と彼女は書いているのだ!!!!

自己という収縮したエネルギーが体から消えるとは、すさまじい。

ある意味、個人の死刑宣告ですよね・・・・・・これって、笑

個人のすべてを失った時、すべてが現れる

BY大和田菜穂さん


映写幕の中で見ている主体がいなくなっている状態と言うのかな。

非二元。

なるほど、非二元とは、このことか。

つまり、このパソコンと自分の体はまったく同じになっているwww

まあ、そう固定的に、比較しなくて、全体が、ライフがただ、巻き起っている。

これは、完全なる沈黙ではないか。

何しろ、いないのだからwwwwwwwwwww

沈黙している人なんていうのは最初からいなかったのだ。

うぎゃああああああああああ。

あるがままの美女覚者、現る!

これは、ほんとうに、阿部敏郎さんじゃないけど、一大事だ。

と言うか、僕は、これ、何をするとかもう関係ないじゃん(爆笑)

ただ、ライフが、巻き起っているのだから、もう、どうしようもない。

自分を手放すことは、自分ではできないと言う矛盾。

ただ、落ちている瞬間も、確かにあるよね。

忘我している時であるが、まあ、しかし、それがずっとだ。

完全に我が落ちきっている。

ほんとうに、そこまで、行ったのが、ただ歩いていて「あっ」と何かが気付いたただけで、もう、そこに彼女はいなくなっていたと・・・・・・。

えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!

じゃあさ、修行とか、これ、本気で、ただ起っているだけ?

おーい。

これは、まずいですよ。

うん、この伝達は、よく似ているようで、全然、やばい度が違う、笑

まあ、これの系統はインドですね。

どうもナチュラルスピリット刊行の書籍は、この、系統が多い気がします。

これをたどっていくと、たぶん、シャンカラという人が、元祖ではないでしょうか。

しかし、その、覚醒者と言う者もいないと断言される彼女wwwwwwwwwww

本気っすか!?

つまり、お釈迦様も、シャンカラも、ラマナ・マハルシもいないと、こうおっしゃられているのです。

現代の美女覚醒者様が!

いない。

だれも、そこにはいない。

ただ無限空間映写幕に生命混沌映像が映っているだけ。

決まったストーリー。

それはライフが巻き起しているミラクル。

あるのは生命の働きだけ。

しかも、この生命は、有機、無機関係なく、鉄も、生命と言う訳だ。

石ころも、何もかも、すべて一切が、これの表現で、自分の肉体も、それ。

で、その生命の働きの中に、自分は生きていない!!!!

いや自分だけでなく他人も、言うたら、思考も、感情も、動作も、それで、この景色も何もかもが一体となった混沌の生命。

ぎゃ嗚呼ああああああああああああああああ。

これ、どうですか?

やばくないですか、本気で。

これが世界中に広まることは、まず、有り得ませんぜ、阿部さんwww

認識が甘すぎたので、衝撃がでかい。

そうか!

天地いっぱいの命に対象としての自己が残ってないのだ。

これは最終兵器。

あのかわいらしい笑顔で「そこにだれかはいないんです」って、言う、本気の伝達をずばっと言い切る感じは、本物感、満点ですな。

『悟りの世界に遊ぶだけ』のハリー☆さんの名言「大和田の変」来ました、これ。

まさに、時は今、雨の滴る、五月かなwwwwwwwwwww

敵は「本能寺」じゃなくて「個我」にありー!!!!!

なんと「混沌生命の」謀反者と?

自分に起っている訳じゃなかったのだ。

ただ、瞬間、瞬間に、巻き起ってくる生命。

中心としての自己はいない。

見る者は見られる者であり、その見られているわたしと言う者は、ない。

混沌とした見られているがあるだけ。

だから、ただ、無関係に巻き起っている。

この爆発的空間。

ただ、これが、あるだけ。

認識者は、それも、ただの表現・・・・・・。

意識は、それも、ただの表れ。

すべてがもう、それ。

そこにわたしは、もともと、いない。

行為というものは、ない。

うーん、わたし、参りました。

完全に、ほれたなあ、これには^^

Already in love

分かったというものは知らず

2015-06-06 10:12:02 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

本日は8時半ごろに起床しました。

長男の悠聖が起きてきてニコッと笑いながら、こちらを見ている。

妻の千鶴さんは、あちらで、まだ眠っているようだ。

疲れているんだろう。

僕も、どうも起きたくない気分だったが、ゆっくりと起き上がる。

体がしんどい。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



「ありがとう」を呟きながら洗面所へ向かいます。

鏡を見ながら歯磨いて、顔洗って、髭剃って、髪を湯で流す。


悠聖がこちらへきて台所で、ガス台下の収納扉を開けたり閉めたりしている。

座禅をしようと日本間へ行くと、金色の鍋をもって、こちらを見つめてアピールww

「はやく、起きて」みたなことを千鶴さんに怒鳴っていたら怒る。

まあ、なんか言い合い。


で、僕は座禅50分に入ります。

携帯の充電が残っていなくて、いつもと違う方向でします。

東に向かって座った。

いつもは西に向かって座っている。

なんか武士は北面して座すみたいな言葉あったなあ、そういや。

ああいうのも意味があるのだろうか。


いつものように姿勢を整えて、座る。


やっぱり、人間、脳内で出来ると思っていても実際、そこにいないと駄目だな。

感覚の乏しいこと、バランスの悪い事、渦巻く否定的感情、過去の連想、それらを、どんどんと開放していく。

なんでもない自己、天地の自己、自然へ。

僅かに触れたり、触れられなくてイライラしたりする。

毎日、継続する事が、大切だ。

人間は、脳内で、すぐに、得たものだと勘違いする。

自分は分かっていると思ったときには、もう、罠に捕らえられているのだ。


で、座禅を終えて、コーヒーを淹れて、玄関先へ向かう。

ガス代の上に調理に使ったであろうフライパンが置いたままになっている。

昨夜のチャーハンを作るのに使ったのだろう。

ヘラにチャーハンの粒が、御飯粒が、こびりついている。

ふと、見ると、食器類も、ぜんぶ、シンクに溢れているではないか。

それで通りざまに、また、千鶴さんに余計な事を言う。

「料理したら洗わないとアカンやろ!」

そうしたら、当然、千鶴様もブチ切れて「自分で作れば」


そのまま玄関脇で煙草を吸いながら読書します。

丙丁童子来求火と書いてある。

これは「火が火を求めている」というような意味らしいです。

つまり「自分が自分を求めている」ということですね。

それでお寺のエライサンが、この言葉を、弟子に言って、弟子はすっかり悟った気になっていた。

そうか「自分」なんだから、なにも、しなくても大丈夫^^

それで、他の師が、この弟子に尋ねた。

火が火を探しているのが、そう、私たちのようなもんですね。

「やっぱりお前、分かっておらん!」

寺を飛び出して、散々悩んで、寺に戻って、悟りとは如何に?

和尚さん「丙丁童子来求火」


で、戻ってブログ更新をしていました。

書きながら、ピアノのゆったりテンポの楽曲を聴くのが、すごく癒される。