まりさん824のブログ

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my お気に入り  東京『小川軒/レーズンウィッチ』

2007年12月18日 | ●MYお取り寄せ
★今朝のお目ざはコレッ!代官山の小川軒のレーズンウィッチは
ラム酒の香りがきいて クリームが甘すぎずたっぷりと..本当に美味しい!

         《小川軒の101年の歴史》

 初代、小川鉄五郎が洋風レストラン「小川軒」を汐留に明治38年(1905)鉄五郎28オのときに開店する。店は木造2階建てで、1階はレストラン、2階は家族と従業員の住居であった。

 鉄五郎は、尋常小学校を卒業後、英国人のもとで英語を学び、その後、横浜の英国人外交官の家で働き料理を習う、その後海軍士官に仕えて、料理の腕を上げていくことになる.


 当時、明治から大正にかけての小川軒の料理はシチュー、コロッケ、ビフテキ、煮込みカツ(カツをブラウンソースで煮たもの)などであった。料理の作りかたは黎在とは少し違い素朴な作り方をしていた。例えばシチューは肉と野菜を水から煮込みそこえ小麦粉とケチャップを入れ、仕上げにバターを落とすだけのものであり、カレーは野菜、肉などからとった煮汁にカレー粉をといだスープ状のものでした。
 
 開業2年後明治40年(1907)汐留から新橋に移転する。その当時新橋、横浜間を鉄道が走りだしたのが明治5年(1872)、当初は今の汐留が新橋駅の場所であった。その後現在の新橋駅に移ったのが明治42年であった事実をみると、鉄五郎がよく言っていた「新橋駅前に小川軒ができたのではなく、小川軒の前に新橋駅ができたのだ」という言葉が歴史を物語っている
昭和に入り、2女7男の次男の順(明治41年生・1908)が、大正12年海城中学5年生だった長男晴治の突然の死により、早稲田中学在学で建築家志望を断念して家業を継ぐ事になる。


 レインボーグリル、東京会館等で修行をつみ家業を継ぐが、戦争に入ると約10年間戦地との行来になり、その間留守の店を守ったのは妻の美枝子と鉄五郎、順の姉であった。この苦境の時に店を守り営薬を継続したことが後の繁栄につながる原動力になった。戦中、戦後、物が乏しい時でも、小川軒にはかなりの配給があり、ビールも日本酒も入った。作ったものは何でも端から売れた時代であった。
 
 
戦後、戦地から戻った順は店の再建を始める、それを、妻の美枝子、末弟の斌が助けた。順は、初代鉄五郎の「舶来洋食」から、本格的な西洋料理屋への転換を目指した。順は得意の語学力で外国の料理書を読破し、片や専門分野以外の、日本料理、中国料理に興味をもち応用できるものはレパートリーに積極的にとりいれた。とくに日本料理の懐石料理には大きな影響を受け、今の「小川軒の季節の小皿料理」という形となった。

 しかしこれも一夜にして出来た訳ではなくこのスタイルが看板になったのは、東京オリンピックの時、新橋から渋谷代官山に移った昭和39年頃からである。戦後から約20年の年月がかかっている。

 この事を見ても《のれんとは長い時間の経過と共に築き上げられるもの》順の哲学をうかがい知る事柄といえる。また将来のレストラン業を見据えて早くから物販業である"洋菓子"に力をいれ、フランスの郷土菓子からヒントをえた"レーズンウイッチ"はサンドウィッチから名前の転用であり、順の機知にとんだ才能を物語る名品となった。(しかしこれも、発案してから製品となるまで15年以上時がかかった。) 
 円熟期にはいった小川軒には、尾崎士郎、藤原義江はじめたくさんの著名人や、ジョン・レノン、寅さんこと渥美清など色々なお客様がみえた。

 代官山に移って8年後昭和48年、順(65オ)は持病の心臓がもとで急死した。
その時には小川順が築き上げた小川軒は不動のものとなっていた。

小川順亡きあと息子3人が、長男・忠貞は代官山小川軒(レストラン)、次男・摩樹夫は目黒小川軒(洋菓子)、三男・洋は御茶ノ水小川軒(レストラン)で各人の個性を活かし、順の遺志を継いで現在に至っている。



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