木村真理子の文学 『みだれ髪』好きな人のページ

与謝野晶子の『みだれ髪』に関連した詩歌を紹介し、現代語訳の詩歌に再生。 また、そこからイメ-ジされた歌に解説を加えます。

島崎藤村「天馬-牝馬」  -『若菜集』より―

2012-05-25 18:03:26 | 島崎藤村

     

            島崎藤村「天馬-牝馬」

                                        『文学界』(明治30年1月)    ―『若菜集』(明治30年8月29日)よりー

 

 一   青波(あをなみ)深きみづうみの                       岸のほとりに生れてし

      天の牝馬(めうま)は東(あづま)なる                    かの陸奥(みちのく)の野に住めり

 五   霜に霑(うるほ)ひ風に擦(す)れ                       音もわびしき枯くさの

      すゝき尾花にまねかれて                           荒野(あれの)に嘆く牝馬かな

      誰か燕の声を聞き                          十    たのしきうたを耳にして

      日も暖に花深き                                 西の空をば慕はざる

      誰か秋鳴くかりがねの                             かなしき歌に耳たてゝ

 一五  ふるさとさむき遠空(とほぞら)の                      雲の行衛(ゆくへ)を慕はざる

      白き羚羊(ひつじ)に見まほしく                        透(す)きては深く柔軟(やはらか)き

      眼(まなこ)の色のうるほひは                   二〇  吾が古里を忍べばか

      蹄も薄く肩痩せて                                四つの脚さへ細りゆき

      その鬣(たてがみ)の艶(つや)なきは                   荒野の空に嘆けばか

 二五  春は名取(なとり)の若草や                         病める力に石を引き

      夏は国分(こくぶ)の嶺(みね)を越え                    牝馬にあまる塩を負う

      秋は広瀬の川添の                          三〇  紅葉(もみぢ)の蔭にむちうたれ

      冬は野末に日も暮れて                            みぞれの道の泥に餓(う)ゆ

      鶴よみそらの雲に飽き                             朝の霞の香に酔ひて

 三五  春の光の空を飛ぶ                               羽翼(つばさ)の色の嫉(ねた)きかな

      獅子よさみしき野に隠れ                            道なき森に驚きて

      あけぼの露にふみ迷ふ                       四〇  鋭き爪のこひしやな

      鹿よ秋山妻恋(つまごひ)に                          黄葉(もみぢ)のかげを踏み分けて

      谷間の水に喘(あへぎよる)                          眼睛(ひとみ)の色のやさしやな

 四五  人をつめたくあぢきなく                             思ひとりしは幾歳(いくとせ)か

      命を薄くあさましく                                思ひ初(そ)めしは身を責むる

      強き軛(くびき)に嘆き侘び                      五〇 花に涙をそゝぐより

      悲しいかなや春の野に                             湧ける泉を飲み干すも

      天の牝馬のかぎりなき                             渇ける口をなにかせむ

 五五  悲しいかなや行く水の                             岸の柳の樹の蔭の

      かの新草(にひぐさ)の多くとも                        餓ゑたる喉(のど)をいかにせむ

      身は塵埃(ちりひぢ)の八重葎(やへむぐら)           六〇  しげれる宿にうまるれど

      かなしや地(つち)の青草は                         その慰籍(なぐさめ)にあらじかし

      あゝ天雲(あまぐも)や天雲や                         塵(ちり)の是世(このよ)にこれやこの

 六五  轡(くつわ)も折れよ世も捨てよ                        狂ひもいでよ軛(くびき)さへ

      噛み砕けとぞ祈るなる                             牝馬のこゝろ哀(あはれ)なり

      尽きせぬ草のありといふ                       七〇  天つみそらの慕はしや  

      渇かぬ水の湧くといふ                             天の泉のなつかしや

      せまき厩(うまや)を捨てはてゝ                        空を行くべき馬の身の

 七五  心ばかりははやれども                             病みては零(お)つる泪(なみだ)のみ

      草に生れて草に泣く                               姿やさしき天の馬

      うき世のものにことならで                       八〇 消ゆる命のもろきかな

      散りてはかなき柳葉(やなぎは)の                     そのすがたにも似たりけり     

      波に消え行く淡雪(あはゆき)の                       そのすがたにも似たりけり

 八五  げに世の常の馬ならば                             かくばかりなる悲嘆(かなしみ)に

      身の苦悶(わづらひ)を恨み侘び                       声ふりあげて嘶(いなゝ)かん

      乱れて長き鬢の毛の                         九〇  この世かの世の別れにも

      心ばかりは静和(しづか)なる                         深く悲しき声きけば

      あゝ幽遠(かすか)なる気息(ためいき)に                  天のうれひを紫の

      野末の花に吹き残す                               世の名残こそはかなけれ                           

 

     (注)「軛(くびき)」 = 頸木(くびき) → 車のながえの先の横木、 牛馬の首にかける。

 

              藤村「天馬-牝馬」           (訳)木村真理子

      

  1  青波立つ深き湖の                                 岸の辺(ほとり)に生れた

     天の牝馬は、 東の                                あの陸奥(みちのく)の野に住んでいる。

  5  霞に濡れ、 雨に苛(さいな)まれ、                      枯草の擦れ合う音も侘しい

     風吹くすすき尾花の                                荒野に嘆く牝馬。

     誰が、 燕の啼く声を聞き                        10  楽しい歌を耳にして、

     日も暖かく、 花が咲き乱れる                          西の空の彼方(かなた)を慕わずにいられようか。

     誰が、 秋に啼く雁(かり)が音(ね)の                     悲しい歌に耳を欹(そばだ)て、

 15  寒い故郷(ふるさと)の天遠く流れる                      雲の行方(ゆくえ)を慕わずにいられようか。                            

     白い羊に見られるように、                            深く透明で柔らかく

     潤っている眼の色は、                          20  我が故郷を偲ぶからか。      

     蹄(ひづめ)が薄く、 肩が痩せ                         四つの脚さえ細ってしまった・・・・。

     その鬣(たてがみ)の艶のなさは、                      荒野の空で嘆くからか。

 25  春は、 田畑を耕す名人、                            病める力に石臼を曳き、

     夏は、 国分の嶺を越えて、                           牝馬の力以上の塩を運ぶ。

     秋は、 広瀬の川沿いの                        30  紅葉の木陰に鞭打たれ、

     冬は、 日も暮れた野末(のずえ)の                     霙(みぞれ)が降る泥道に苦しむ。

     鶴は、 空の雲に飽いて                             香り高い朝の霞の中を舞い、 

 35  春の光の空を飛んでいく・・・・。                        その耀(かがやく)く翼(つばさ)が嫉ましい。

     獅子は、寂しい野に隠れ、                           道なき森に驚き、 曙の露に濡れた道に

     迷い込んだ獲物を一撃する・・・・。                  40  その鋭い爪が羨ましい。

     鹿は、 秋の山に妻恋しと、                           黄葉(もみじ)の蔭を踏み

     谷間の水辺に睦み合う・・・・。                         その瞳の色の優しいこと。

 45  人間を冷淡に                                   思ってから幾歳月、

     命を儚く、 情けなく思い始めると                       我が身を責めることとなる。

     強い頸木(くびき)に嘆き苦しみ、                   50  花を見て感動するよりも、  

     春の野に湧く                                    泉の水を飲み干すために

     天の牝馬は、 限りなく渇く口を                        どうにかして自由にしたいと願う。

 55  流れる水辺の柳が                               芽吹いた樹の蔭に、

     新草(にいぐさ)が多く生えていようと、                   渇いた喉(のど)をどうにかして潤したいと願う。

     身は、 粗末な八重葎(やえむぐら)が                60  繁る宿に生れたが、

     悲しいかな地の青草は                              その牝馬の慰みとはならない。

     ああ雨雲や、 雨雲を請う・・・・。                        塵芥(ちりあくた)のこの世に、

 65  轡(くつわ)が折れ、 世を捨て                         頸木を噛み砕くくらい暴れ、

     自由になりたいと祈っていた                          牝馬の心が哀れである。

     食べきれない位の草が生えているという              70  天上が慕わしい。

     水が永遠に湧くという                               天の泉が慕わしい。

     狭い厩(うまや)を捨て、                             空に想いを馳せる馬の

 75  心だけは逸(はや)るが、                            病んだ身には涙が零(こぼ)れるのみ。

     草に生れて草に泣く                                姿やさしい天の馬の、                  

     この世の生き物に違(たが)わず、                    80  消えてゆく命は脆(もろ)い。 

     葉が散り果てた柳の                                その姿にも似て・・・・、

    波に降る淡雪の                                    消えていく姿にも似ている。

 85 実に、 世の常の馬であったなら、                         この様な悲嘆(ひたん)に、

    身の苦悶(くもん)を恨み儚(はかな)んで、                   大声で嘶(いなな)くだろう。

    長い鬣(たてがみ)が、想いを                       90  乱すが、 この世の別れにも

    心だけは冷静である。                                ああ、 幽(かす)かに深く悲しい

    終焉(しゅうえん)の気息(ためいき)を聴けば、                天の憂いを紫の 

 95 野末の花に吹き残した牝馬の                           この世の名残こそ・・・・儚い。       

 

             藤村「天馬-牝馬」  『みだれ髪』との対比

 

 ここで重要なのは、(44)と(266)が対となって、藤村「牝馬」を踏んでいるということです。

 (44)は鹿の妻を恋する優しい瞳の色の対極である飢えた羊の瞳の色-鉄幹の瞳の色。 (266)は羊の古里を忍ぶ涙の瞳の色-晶子の瞳の色を対峙させています。

  一七     

     *白き羚羊(ひつじ)に見まほしく/ 透(す)きては深く柔軟(やはらか)き/眼(まなこ)の色のうるほひは/吾が古里を忍べばか/蹄も薄く肩痩せて/四つの脚さへ細りゆき/その鬣(たてがみ)の艶(つや)なきは/荒野の空に嘆けばか

       ― 「266 そのわかき羊は誰に似たるぞの瞳(ひとみ)の御色(みいろ)野は夕なりし」      (訳)その若い羊である私は、いったい誰の瞳の色に似ているのでしょう?  野が夕焼けに染まり、 私の瞳の色も涙で真っ赤に染まっています。

 色々に訳されている様ですが、藤村「牝馬」の「白き羚羊(ひつじ)に見まほしく/・・・・/眼(まなこ)の色のうるほひは/吾が古里を忍べばか」を踏んでいます。 詠まれたのは、 鉄幹と駆け落ちをすべく京都にやって来た晶子でしたが、 鉄幹は一人東京に帰ってしまいます。 その一人京都に残された時の歌で、夕焼けのように真っ赤な瞳の色に晶子の涙の様子が窺えます。

 

  四一

     *鹿よ秋山妻恋(つまごひ)に/黄葉(もみぢ)のかげを踏み分けて/谷間の水に喘(あへぎよる)/眼睛(ひとみ)の色のやさしやな

       ―「44 水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君」       (訳)情愛に飢えて、森を彷徨っている小羊のその血走った眼(まなこ)に似ていませんか?  あなた(鉄幹)。

 『みだれ髪を読む』(佐藤春夫 昭和34・6)-恋人に向つて呼びかけた歌である。・・・・という評が、この歌の真価を妨げてきた様に思います。 初出が『明星第七号(明治33・10)』の「清怨」中、 つまり、清い「怨み」がこの歌のテーマです。 晶子が鉄幹と出逢った頃のものですが・・・・、藤村「牝馬」を逆に踏んでいるとすると・・・・、「妻恋い」の為の優しい瞳の色ではなく、 「飢えて・・彷徨う」情欲の為の瞳の色、 血走った瞳の色です。 鉄幹の瞳の色が「水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや」と晶子が言って揶揄しているのです。 ・・・・当時、出逢った時、 すでに関係を持ってしまったのかも知れません。

   

    (注)漢字は新漢字。  番号は便宜上付けました。  二八の「塩」の旧字体は、「鹽(しお)」(鹵(しお)部首は岩塩を竹の籠に入れた形)。