木村真理子の文学 『みだれ髪』好きな人のページ

与謝野晶子の『みだれ髪』に関連した詩歌を紹介し、現代語訳の詩歌に再生。 また、そこからイメ-ジされた歌に解説を加えます。

 銅鐸解読 Ⅱ  -大神(三輪)神社額字の古代文字-

2013-11-10 12:45:19 | 銅鐸解読

 吾郷清彦先生と知り合いになったのは、 私が古本屋さんで見つけた 吾郷清彦著 『日本神代文字 -古代和字総観』 (大陸書房 昭和50年) という本がきっかけです。 その本の 口絵第5図に、「三輪神社額字」 と題した文字があり、これがどうも、・・・・何という文字かわからないようだったので・・・・ 以下本文掲載。

:::: 大和(三輪)神社額字文字について

                       (図 1)

                 ①「三輪神社額字 (図 1‐右)」 と  ②「石鏡古字 (図1‐左)」

 

   ① 三輪神社字 (図 1‐右) - 『日文伝』 疑字篇(十六丁)に「三輪ノ神社額字」と題し、 図のごときある種のアワセナ(合体字)を載せ、 『右ハ伝ヘテ神代之字ト称ス也。 字ノ長サ三尺一寸、 横一尺一寸七分。 今其ノ額蔵メテ興福寺ノ庫中ニ在リト云フ』   と、巷説を記し 『今有るのか無いのか知らないが、 漢字ではないと思う。 俗に神代の字と云うので、 ここに挙げた』 という意味の註を施している。   そして、篤胤は、 大竹政文が、 『此は大勳という五字ならむ(註:本来は「」の異字体を記入)』 と言っているが、 どうであろうかと、 漢字であることを否定している。          これに対し真澄は『古字考』 第十七章沖縄字において、 大阪博覧会出品の石鏡図 (第十一図の一甲) を載せ、 『此ノ字伝付録ニ三輪社ノ額字ナリトテ、 石器ノ表面ナル字ヲ載セタリ。 今其ノ額蔵シテ、 興福寺庫中ニ在リト云フ奥書アリ。 サレド今興福寺庫中ニ在ルヲ聞カズ。 三輪神社ノ額字ト云フハ信ジ難シ。 然ルニ真澄明治九年大阪ノ博覧会出品中ニ一ノ石器ヲ見タリ』 (同署下二四丁) と、述べている。

   ② 石鏡台字 (図 1‐左)  - 真澄も前項の解説することが出来なかったものらしく、 これを『字カ、 若クハ神像ナルベシ』 とすこぶる簡単に片づけ、 この石鏡の台に彫りこんである古字の説明に力を注いでいる。 (以下略)  

     * 石台下の文字は、ー 篤胤は、 石鏡台字と全く同一の十二字を『日文伝』に掲げ、 子から癸までの漢字を傍注している。 そして、 『右ニ山崎垂加翁切紙ノ伝、 並ニ渋川晴海瓊矛拾遺ニ之ヲ出ス。 神代の文字ナリ』 と解説を加えている。 - 即ち、 子、丑、虎、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥 の十二支の文字。   

 

 1) 三輪神社額字 は、 「美和」 の漢字

 この様な解説がなされていた訳ですが、・・・・ 私は即座に 「美和」 の漢字 (図 2)であると判断し、 それを吾郷先生に手紙でお知らせしたところ、 その私見を 『日本神学』 (日本神学連盟) に掲載して下さいました。   

                                      (図 2)

                                  三輪神社額字 の中の 「美和 の漢字」

 それ以降だったと思いますが、 吾郷先生が、 大津の宮部誠一朗先生(近江の超古代研究家)ご夫妻 とご一緒に、 大和、葛城・三輪社を巡る為、 関西に来られるという事で、 千早赤坂かどこかで待ち合わせをして、 宮部先生の奥様の巧みな運転で、 大和を巡り、 頂いた手紙には、 昭和57年3月24日の日付けがあるので、・・・・その年の4月7日だったと思います。  その帰り、 金剛山の山頂でお別れをしたと思うのですが、・・・・ とても不思議な事があったので、 お話します。 

 私は当時、 主人の大阪の実家の近所に住んでいて、 まだ娘も小さく、 義母に預けて出て来たので、 早く帰らなければならないと思い、 宮司さんがご祈祷をしてくださる間を惜しんで、 先にケーブルカーで下山することにしました。  山頂からケーブルまでの道程が杉林で暗く、 行ったこともない所だったので、 すごく不安だったのです。 教えられた道を少し進むと、 ひよどり位の大きさの青一色の鳥が現れ、 私の7~8m先を低く飛んで、 また私が近付くと、 その先を飛んで・・・、 途中、 一人で道普請をしているおじさんに出合い、 ニッコリ微笑んで下さったことを覚えています。 その間も青い鳥は、私を先導してくれて、 結局ケーブルカーの見える所まで送ってくれました。  何か、 夢の様な出来事で、 すごく不思議だったことを覚えています。  その後、 宮部先生の古代近江を巡る旅にも参加させて頂いて、 『古代近江王朝の全貌』 吾郷清彦著 (琵琶湖研究会 -発行者 宮部誠一朗 昭和55年11月) 等も知ることになりました。

 それから数年して、 友達皆と三輪山に登拝する機会があり、 その帰り、 三輪神社の宝物館 (大礼記念館) に寄ってみたんです。  そこには、 「三輪神社の額字」 と同じ文様の物? や、 石鏡と同じ文様の銅製品? (記憶が定かでない) が展示してあり、 説明文には、「美和と書いてあると思われる」 という様な文面が添付されていました。 「書いてあると思われる、  って??」 それって、 私が言ったんでしょう!  と思いましたが、 「木村真理子さんが解きました」 といった所で、 どんな信憑性があるのでしょう? 説が一人歩きしているということは、 認められた。  ということだから、 まあ、・・・・ いいかっ。  なんて思ったのを覚えています。  しかし、 その時には既に、 「美和」 の漢字だけではなかったことを、 川崎真治先生の数々のご著書で知っていたのでした。

 

   2)-ア 「美和」の額字は、ガシャン 、バール 、奉。  

 

              (図 3)    (図 4)『古代日本の未解読文字』より     (図 5)

                                              

  昭和55年に出版された 川崎真治著『日本語のルーツが分かった』(徳間書店) や 昭和59年の 『古代日本の未解読文字』(新人物往来社)等を読み、 私は、 川崎先生の古代日本に於ける 「ガシャン神・バールツ神」 の発見に魅せられてしまいました。  以前から、 川崎先生のウル・シュメール語を基盤とする比較言語学 に興味を持っていたのですが、 実際に日本に現存する石や土器に、 古代オリエントの文字やオリエントの神々が見出されたことに驚きました。 

 有名な水窪石 (図 4) や、 群馬県上野村出土の石文字。 鳥取県国府町・今木神社の石碑に、 それぞれの文字で、 「g-sh-n ガシャン、 b-a-l-t バールツ、 奉(タテ)」 の文字が線刻されています。 (図 5)

 ガシャンは、 紀元前30世紀のウル語、シュメール語の女主、 又は主。 バールは、 紀元前20世紀の西セムの主・日神マルドゥク。 バールツは、 東セムの女神だが、 「ガシャン、バールツ」 で男女一対の神に対応しているという。    

 奉る意味する 「F」 は、古代ペリシャ文字の字形だが、 本絵は、 エジプト象形文字(ţa-t   ţa-ţe)の両腕を差し出した形。   日本語の「奉(タテまつ)る」 も、古代エジプト語から。 中国の「奉」の字形もそうである。   今木神社の女魃を意味する 「П(b) ・t ・ 虎」 は、 殷の甲骨文字と同じ様に、 シナイ文字の「 b と t 」 を添えている。 この様に古代日本では、 ウル語、 シュメール語、 セム語、 エジプト語を、 シナイ文字・中国の甲骨文字を使って書かれていた。

 紀元前のアメリカ・ニューハンプシャー州、 ミステリーヒル出土の石にも、 シナイ文字で、「バール、 ティティン、 イル・カ・ガ」。 シナイ半島碑文にもシナイ原字で、 「ネテル(神)、 バール、 ティティン、 イル・カ・ガ」 の文字が線刻され、 紀元前20世紀前葉の中国の仰韶(ヤンシャオ)半坡(ハンパ)期の彩陶土器に、紀元前30世紀のウルの記号文字や、 紀元前20世紀前葉のシナイ文字(ガシャン、 バアル、 イル・カ・ガ)が描かれている。  「人類の古代文字とは、 メソポタミアのウルク市、ウル市の絵文字、 そこから発展した楔形文字、 エジプトの象形文字、 記号文字、 そしてエジプト文字から派生したシナイのアルファベット表音文字、 この三系統の文字群が人類文字の基本である。」 と 「原始宗教のかなりの部分が、 古代オリエントからの伝播であった。」 が、 川崎先生の主張です。

 【結論】 この先例の遺物から、 「美和」 の文字の中に 「美」 は、「g‐a-sh-n」(図 3の①)。 それ と 「和」が、「b-a-l」 と「ヒ(奉)」(図 3の②)。 それらが内在されていると比定しました。 (「禾」偏の部分 が「b」と「a」。 「口」の部分が、 「l」 と 「ヒの逆字」の「奉」。 

 

   2)-イ 「美和」の額字は、ガシャン 、グブ 、ラル 、奉。

 

                      (図 3)          (図 6 の上) 『誰も言わなかった古代史の話』より                                                                                            

                                                          

  美和の漢字の文字に内在された「ガシャン、 バール、 奉」 を見出した訳ですが、 もう一つ、 川崎真治著『誰も言わなかった古代史の話』(新人物往来社 昭和60年8月) に掲載されていた「大阪府 一須賀古墳天井石の文字」 の古代文字に注目しました。 川崎先生の解読によると、 「gashmu(神蛇)-gub(神亀)-lal( 結合) 」 というのですが、 このオリエント古代文字も、 「美和」の漢字に内在されていると思いました。 

 【結論】 「美」は、「g‐a‐sh‐n」 (図3 の①) 。 「和」 の「禾」は、 「g‐b」(図3 の③)。 「美」 の下「大」の左部分は、「小 L(エル)」」 と、 「口」の一画目、 縦棒が、「大L(エル)」 で、 合体すると、「lal (結合)」 (図3 の③)。 「口」の右部分、 「ヒの逆字」 が 「奉」(図3 の②と③は同様)。 つまり、 「g‐a‐sh‐n、   g‐u‐b 、  lal 、  ヒ」 ―  「 ガシャン、 グブ、 ラル、 奉 」(図3 の①) + (図3 の③)。

 このガシャン主神は、 (図 6 の下の左)-川崎真治著『古代日本の未解読文字』より―、 埼玉県入間市瑞穂町の資料館に展示していた縄文土器の文様に、 川崎先生が 「ガシャン主神」 を想定されました。  ― 【川崎注釈】 波状は、シナイ文字のg とs の連続文様。  蛇紋は、 エジプト象形文字の「蛇」の‘くずし,字で、 シナイ半島の西セム人も、 この「蛇」字を母字として、 アルファベットの「n」を造字していた。 なお、 翻字で示した「n」は、 エジプト象形文字そのままの「蛇」である。 

 そしてこの文様は、 そのまま 桜ヶ丘5号銅鐸の蛙の足に蛇がくっ付いた絵(図6 の下の右)の「g ‐sh ‐n ・ ガシャン」 であり、 その区画面下に描かれた人物は、「g ‐b ・ グブ」の神像でしょう。   そのグブ神が抹消されている。 これが、 銅鐸が一斉に埋納された理由でもあります。

 

   3)―ア 「美和」の額字は、中国甲骨文字でもあり、それは日祖神パッダ を表す。

 

                        (図 1)              (図 7)『古代日本の未解読文字』より 

 

 中国の甲骨文字(図 7 の右)- 丁山著『甲骨文所見氏族及其制度』(1956年)より- について、 川崎真治著 『古代日本の未解読文字』 によると、― 【川崎注釈】 図中の甲骨文字(紀元前1300年前後)は、 (A)(B)(C)(D) が同じ字である。 ついで同字に 「父丙」のついたのが(E)、 「父丁」のついたのが(F)、  「父乙」のついたのが(G)、 「父丁」のついたのが(H)、 「土」がついたのが(I)である。  (中略) 上部二字は、 ウル文字の巫女寝台(または神託秘儀神殿) と日祖神パッダの殷人的うつしで、 元初の文字は、 次(図7 の左)のとおりである。 

 (図7 の左)絵文字(右)は、 紀元前30世紀中葉、 楔形文字は紀元前20世紀のものである。 以上の二例を見れば分かるように、中国」の甲骨文字は絵文字の段階で中国入りしたものが殷ナイズされたと推定できよう。 なお nad (または na)には「交合」という意味があり、 pad には「神意を認める」 「神を見る」 「神託を云う」 の意味があり、 そして 『ム・パッダ』 といえば 「神によって任じられた王」、 また、 「芦(ギ)」 を頭につけて 『ギ・パドゥ』 といえば、 日本で言う左義長になる。 ―

 

 この殷の甲骨文字を見ていた私は、 この文字も「美和」の漢字に内在されているのではないか? と思いました。 

 額字と石鏡文字とも、 「美」の上部が巫女寝台であり、 「美」の下部が、 中国の学者が魚の骨や蜻蛉と見た日祖神パッダ。 特に興味深いのは、 石鏡古字の方で、 頭部の王冠の様な 「巫女寝台」 が顕著であり、 2つの目が印象的です。  これは良いとして、 問題は「和」の方です。  

(図 7)の (F) を想定すると、 「和」の「禾」が、 「父」 であり、 「口」の部分が 「丁」 である様に思いがちです。  しかし、 石鏡古字をよく観察すると、 「口」である部分が「父」であり、  「禾」の部分が、「甲」?  と解しても良い様な形をしています。  さらに詳細に観ると、 特に石鏡古字の方の 「父」 の右部分に注目すると、 「工字」 を形成しているのではないか? と思います。 これは、 桜ヶ丘4・5号に見られる 「工 を持った人物」 として描かれているあの 「工」 と同じではないか? と思います。 川崎先生によると、「クシャンの神名は、 共工である」 という記述と、 何か関係があるかも知れません。  兎に角、 「口」の部分が、 甲骨文字の「父」に相当します。  「禾」の部分は、 「甲?」 と述べたのには、 「十干」 は、 「宇宙の樹 を表す十本の樹」 ではないか?  「十二支」 とは、 宇宙に存在する十二柱の神様ではないか? という考えがあるからですが、・・・・これについては、又、 別の機会に述べましょう。  

 【結論】 額字の方が、 「美和」 の漢字 と シナイ文字系のアルァベットをより強調し、 石鏡古字は、 甲骨文字を強調した字体になっていて、  大和・三輪神社額字・石鏡文字は、 1)「美和」 の漢字で神社名を表し、 2)「ガシャン・バール」 と、 「ガシャン・グブ の結合」をシナイ系文字で奉り、  3) 「日祖神パッダ」 の神託を殷の甲骨文字で表しています。

  

  3)イ― 「美和」の額字は、 足のシルエットをしている。

 

 【川崎解説】 『古代日本の未解読文字』より ― ウル人、 シュメール人は『足』の絵文字を「立つ」「歩く」「行く」等の意味に使い、その『足』 を 『日』 の下につけて『日が立つ』、 すなわち「日の出」という文字、 およびことばにした。 さらに彼らは、 日の出の光り輝く太陽を男祖神、 つまり日祖神として篤く崇拝したので、 「日の出」ということばの語頭に子音pを冠し、 同時に母音をuからaに屈折させて p ‐ad ‐da パドゥダ(約音でパッダ)とし、 そのパッダを「日祖神」ということばにした。  (図 7 左の絵文字)の下の「日祖神パッダ」の部分の絵は、 男根の絵文字と、 旭光の絵文字と、 足の絵文字の組み合わせである。―

  

 【結論】「美和」の額字や、 石鏡文字を横向きにすると良く分かるのですが、・・・・全体で 「足」 の形を形成し、 特に石鏡文字の方が顕著に表われているのですが・・・・ つまり、 これは「日祖神パッダ」 の「足」 を顕現している、 と思います。 

  日本全国には、草鞋などが奉納されている、 脚・足の神様とされる神社がありますが、 これもパッダ神の 「足信仰」 の表れであり、 仏足石などもその類でしょう。

 

  :::: 大和・三輪神社とは?

 

   「中国夏代の岳神図」より、 神奈備山とは?

                                         (図 8)「中国夏代の岳神図」、『日本語のルーツが分かった』より

 【川崎解説】『日本語のルーツが分かった』より― 夏王朝、 殷王朝時代の岳神図(図 8‐上の右)からみてみよう。  獅子神は周の時代、女魃(ジョバツ)といわれていたが、 その女魃の上の、数字の「三」のようにみえる甲骨文字は、実は三ではなくてガシャンの略字だった。 紀元前1800年代の中国に、 ウル、シュメールの楔形文字が入っていたなどというと、 ほんとうにしない人がいるかもしれないが、 (図 8)のように夏代の岳神図と殷代の岳神祈願文がそろっているので、まちがいない。     夏代の岳神図の内容をいうと、 左上が「クシャン」、 獅子が「ルブダル」(漢字で呂葡萄‐ルブダウと書き、 神名では女魃‐ジョバツという)。 鳳凰はいうまでもなくガシャン神だが、 夏語ではパキスタン、 インドなどと同じくクシャンといい、 神明では共工。 そしてクシャンを絵文字三個であらわしている。 すなわち、 畜を刺している武器が「ク」ku。 蝗が「ス」s。 山が「シャン」。 全体で 「kshan クシャン」である。  次に、 右側の猿に見える絵は祈願文を詠唱する司祭で、 漢字で書くと、 「虁‐キ」である。 そして、岳神図全体の意味は、 「ガシャン神、 クシャン神、 鳳凰神、 共工神と、 ルブダル神、 獅子神、 女魃神の二柱の岳神に、 誓って供物を奉ります」 から、 どうか御加護のほどをお願いします・・・・という意味である。 なお、 殷代青銅器の文様のうち、 虁鳳(キホウ)文というのは、 詠唱司祭とガシャン神の組み合わせ文様であり、 饕餮(トウテツ)文というのは、 獅子のルブダルを描いた文様である。 ―

 

 【結論】川崎先生が提示された、 夏代の岳神図の中の「蝗と山」の図の「クシャン」の山図が、 「神奈備山の三輪山」 ということになるでしょう。 蝗を突き刺している山、 即ち蝗→パッタ→パッタ→パッダ神→日の出の日祖神の山が神奈備山です。 そして、「クシャン」の「三 及び三の様な文字」 は、 三連に連なった 「三輪鳥居」 でもあります。

 銅鐸絵でも蝗の絵が、パッタ神として表現されていましたし、 美和の額字にも魚の骨に似たパッタ神の甲骨文字が隠されていました。  そしてさらに三輪山は、 川崎先生によると、 忌部山→畝傍山→三輪山→巻向山を結ぶ夏至の線上に位置する、―『誰も言わなかった古代史の話』― とおっしゃっておられます。

 :::: 以下は、 私見です。  

 川崎先生が「クシャン」と提示された 「三や、三の様な文字」 についてですが、 私はこれは、「ガシャン神」ではなく、 「三神がクシャツとなった‐三位一体」 を表す文字ではないか? と思います。 ガシャンとクシャンは、最初は違ったのではないか? と思うのです。

 (図 4)の水窪石にも見られますが、・・・・彫られた文字「ガシャン、 バールツ、 祈、 奉」 以外の 「?と書かれた絵2個」 と 「その左側の絵」、 合計3個の分からない絵(神図)がありますが、・・・・その三神(ガシャン、 バールツ=女魃  と  何か? ) が合体したものが、「三や、三の様な文字」の 「クシャン」 だと思います。

 夏代の岳神図で言うと、 パッダ神(蝗と山の絵)、 ルブダル神=女魃(獅子の絵)、 ガシャン神(鳳凰の絵) の三神が合体したものが「三や、三の様な文字」の 「クシャン」 です。  それに 「猿の絵の司祭の 祈」 と、 「+の 奉」 で、 水窪石の三神 と同一の絵になるのではないでしょうか? 三神とは何か? が、 私もまだ良く分かっていないのですが・・・・。 「ガシャン、 グブ、 バールツ」。 「ガシャン、 パッダ神、 ルブダル神・女魃」 。 これらの組み合わせなのですが、・・・・パッダ神が、 グブ神なのか?・・・・ そもそも、 相対を出現させる位置には、「連理の樹」 があり、 そこには、 双子の男の神様二柱 と 女の神様 がいて、 その三柱の神様で相対を創造させる訳ですが、 女の神様は、 言うまでも無く、 ルブダル神・女魃です。  それが、 キリスト教のマリア様や、 日本の天照大神でもあります。  双子の男の神様の方の兄が、 グブ神で、 相対界に近い弟の方がパッダ神なのか?  総称なのか?  それとも全然別の神様なのかが、 私も良く分からないのです。 ともかく、 パッダ神は、 相対を弓矢で殺し(左目‐月)、 また男根で相対を出現 (右目‐太陽) させるようです。 十字架で殺されるキリストは、須佐之男命と同じく、 万物の還元を、 マリア様に抱かれるイエス様は 万物の創造を負っています。 

 夏代の岳神図の 中央の「角のある鹿=大鹿 の絵」 ですが、 これは銅鐸絵にも表われている 「射られた鹿‐イルガガ」。  つまり、ウル絵文字、シュメール楔形文字、エジプト象形文字、中国金文 等に示される 「水・目 (泪)」の涙 で描かれる 「イル」、 即ち、 シュメール、バビロン、アッシリアの楔形文字の 「イル・ガガ」 の省略形の 「祈る」 を示しています。    私が銅鐸を解読していく中で知り得たことは、 古代人は宇宙の原理、 天地万物の創像をシンボライズ化してその 原理を伝えました。  決して稚拙な神という概念ではありません。    この鹿の大角は、 「未(ひつじ)の木の位置」 にあり、 未(ひつじ)の女の神様は殺され、 「未の木の位置」で万物は、 絶対界に還元されるのです。 これが「大角鹿」のシンボルでもあり、 「涙を流して祈る」 の 「イル・ガガ」 の意図するところです。 

 また、この「未の位置にある木」は、 月の中の 「桂の木」 でもあります。 月-絶対界・黄泉の国 には、「桂と蛙」。 太陽-相対界には、「鳳凰」 が付き物ですよね。   銅鐸絵で 「蛙と蛇の絵」、 これを 「ガシャン」 と解読しました。 また夏代の「鳳凰」、 これも「ガシャン」 でしたよね。 これはどういうことか?  思うに、 宇宙に遍在する万物のその動きであると思います。 「未の位置にある木」 から、 「蛙飛び込む水の音」 ではないけれど、 「蛙が水に飛び込む」 ことにより、 絶対界に還元され、 「蛇」 により絶対となります。 相対界に表出する時は、 「卯 の位置にある連理の樹」の元で、 酉=鳳凰 となり、 相対界を巡ります。  これらがシンボライズ化されたものが、 蛙なり、蛇なり、鳥・鳳凰である訳です。  

 (図 6 ‐左下)の縄文土器の文様は、 その絶対界の 「波々=蛇文様」 と、 そこから生み出される相対界の 下に描かれた「の の字文様」 を表現していると思います。  私が子供の頃、 和歌山市では、 1月10日の 「恵比寿さんの日」 には、紅白の捻り文様の 「のし」の字飴 が売っていて、 それを買ってもらえるのが楽しみだったのですが、・・・・今は、どうかしら?  あの飴の形です。  飴よりも、 恵比寿さんの 「福笹」 の方が一般的ですが、 こちらは、 相対を創造する「連理の樹」 です。    相対界に出現すると、 酉の太陽と共に、 この世を巡るのです。 これを、「ガシャン神」 が担当しているのではないでしょうか?   パッダ神・グブ神? の働きでもって、 女魃・ルブダル神・バールツと合体して、 この女神が相対として物体化し、 ガシャン神の力でもって絶対から相対界を循環していくのではないか? ・・・・まだまだ推測の段階ですが・・・・。

 余談ですが、 私は一度だけ 「鳳凰」 を夢で見たことがあります。 1980年頃だったと思うのですが・・・・、鳳凰というのは、 宇治の平等院に代表される様に、 鶏の頭に孔雀の身体を合わせた様な姿をしていますが、 本当??は、 首も脚も短く、 冠頭の飾りも無く、 どちらかと言えば、 鳩に近い鳥で、 長い尾羽が九枚 (夢の中で、尾羽を数を一生懸命数えていた) あります。  あの短い脚で、 長い尾羽を支えているのが不思議でしたが、 その鳳凰が数羽集まって、 宝塚の様なラインダンスを始めたのです。 その時の鳳凰は、 どういう訳か、 脚に鶴みたいな関節が出来て、 脚を上げて踊っていました。  夢でも、 何か笑ってしまいましたが、・・・・その鳳凰達が一斉に飛び立ち、 巴紋の様にぐるぐる回って、 一個の真っ赤な太陽になって、 夢は終わりました。  その直後でしたでしょうか、 ふらっと立ち寄った梅田のデパートで、 お名前は忘れましたが、 染色家の方の展示会があり、 そこに、 私が夢で見たのと同じ鳳凰の染色絵が飾られていました。  この方も、 夢で御覧になったのだと確信したことを覚えています。  ・・・・そう、 鳳凰は、 太陽となって相対界を巡るのです。 

 

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 三輪神社の伝承と顕彰しよう、 と思ったけれど、データーが重く、パソコンも動かなくなってきたし、疲れてきたので、 これくらいにしておきます。 五十肩がまたぶり返して、 今度は肩と首にきて、 痛く、 下を向くとさらに痛いので、 パソコンの操作は辛いです。  近所の整形の先生が首のMRIを撮ってもらえば? とおっしゃったので、 お願いしたのですが、 まだ骨の検査が残っています。 何ともないことをお祈りして・・・・。  ともかく、 三輪神社の額字 について書こうと思いながら、 原稿用紙にも残さす、 何十年?も経ってしまっていたので、 丁度良かったです。  次回は、 桜ヶ丘5号銅鐸について解読を試みます。  では、 また・・・・。

 

 


銅鐸解読 Ⅰ -銅鐸解読の糸口 ・ 桜ヶ丘1号銅鐸- 

2013-10-18 10:05:07 | 銅鐸解読

 

 いつもは 「みだれ髪好きな人のページ」 ですが、   祝 孫誕生として、  「銅鐸好きな人のページ」 バージョンを書いてみます。

 私のような市井のお小母さん? 違ったオバアサンの -銅鐸解読の夢物語- ではなく、 出来ればチャントシタ学問として受け継いでほしいからです。 ・・・・ 太一君が興味がなかったとしても・・・・、 こういうことを考えていた人がいる、 と知っておいてもらえたら・・・・、 こちらは、 原稿用紙に書き出してありますので、 興味のある方に、 後を考えてもらえば良いかなぁ。 

 

 「太一」 という名は、 字画数からパパママが決めたようですが、 私の父・太一君の曽祖父にも 「太」 の文字が入り、 靖太 (せいた) と言いました。 その弟が 靖仁 (せいじ)、「せいじん」さん と呼称されているようですが・・・・。 

 さて、その 「太一」 ですが、 川崎真治著 『古代日本の未解読文字』 新人物往来社 (昭和59年6月 出版) によると、京都府与謝郡加悦町 須代神社前より出土した 須恵器には、 「太一」 の漢字の文字と魚の絵がヘラ書きされていたそうです。 

 川崎先生によると、 漢語 「太一」 とは、 北極星を意味し、 それは古代メソポタミア神界での最高神、 天父神アンの中国的表現であり、 その北極星信仰が、 中国で 「太一」 信仰となり、 その信仰が、 弥生時代の丹波丹後 に伝来したという。

 また、 この須恵器に、 シナイ系アルファベット文字、 g、sh、n、b、a、l、 すなわち ガシャン・バール神 も線刻され、 先生によると、 古代日本に古代オリエントの 神々が伝来し、 その遺物として、 石・土器・土偶・青銅器等に線刻されていると説いておられ、 元来、 先生は、 比較言語学の権威でいらっしゃるから、 言葉による伝来 というものも、 提唱されておられます。 

 

 ::::  酋長オピポーの空中文字

  千葉県銚子市余山の砂浜で、 若き日の浅川利一先生(玉川大学)が縄文土器を拾われたという。  それは、 霊媒者の口寄せによって、 余山の酋長、 オピポーのものだったと判明、 ある時、 霊媒者が両手を使って、 空中に文字を書いた。  その浅川先生が筆記した文字が、 古代文字研究家の吾郷清彦先生へ送られ、 さらに川崎先生へ問い合わせて来られた、 という手話文字による古代祈願文があった。 

 私は、 吾郷先生主宰の 『日本神学』 誌 (昭和57年7月) に於いて、 『古代日本の未解読文字』 よりも先に、 この手話文字を見ていました。 (以下に示しましたが、web上なので、 正確には描けません・・・・本のページをコピーしたのですが、 見づらいので・・・・) それを、 ウル・ シュメールの楔形文字・エジプトやシナイ文字として捉え、 川崎先生が解読 されたのが、 下記に示しました。

                           

                                                        『古代日本の未解読文字』 川崎真治著 204ページより

     手話文字による古代祈願文


 

      卄  / 縦横の3本線  / 〇〇 ・ 卄   /  〇〇〇 /   井 ・ 〇〇  /  縦横の3本線 /

      ma /    (休み・文節)  /  tam  - ma   /   ešše   /   ka  -  tab    /  (休止符)     / 


 

      #  ・  井 / ↑ の下に ı  ・ 川   /  △ ・ 北(右はヒではなく、左右対称) / 祈るの人型 /  縦横の3本線  /

          ka   -   ga  /               i r            /     du  -    ma             /  祈      /    (休止符)   /


      ヒ (+ と下に -) /  縦横の3本線  /   D の 横向きのような日の出の太陽の半円 /

           奉        /   (休止符)    /          日の出の太陽             /


 

  全体の訳は、 「顕現あれ、 父なる日の神の霊よ、 託宣を(授けられんことを) 祈り、祈り、祈り、奉る、日祖神さま・・・・」 だという。

  嘗て、 大羽弘道著『銅鐸の謎』(カッパブックス 昭和49年5月) や 相馬龍夫著『日本古代文字の謎を解く』(新人物往来社 昭和49年9月) などの 「銅鐸絵解読書」 を、 興味深く読んだけれど・・・・、 鍵となる言語、 他の遺物の検証・・・・、 これが成されていなかったのではないか?  川崎先生の手話解読から古代文字として捉えられたこの 「祈願文」。 私は、 この 「祈願文」 こそ、 銅鐸絵=銅鐸絵文字として捉えられているのではないか? と思いました。 

 では、 この祈願文は、どの絵に当て嵌めたらよいのか? 単独の絵よりも、 フレーズとして捉えるのが良いように想いました。

  

   :::: 銅鐸絵 の中の 祈願文

                            

                           『銅鐸』 藤森栄一著 92ページより 

 

 思い出したのは、 藤森栄一著 『銅鐸』(学生社 昭和39年7月) の中の、 四個の同笵鐸 〔滋賀県野洲郡中洲村新庄(大坪正義氏旧蔵) ・ 出所不明(吉川氏旧蔵) ・ 出所不明(辰馬悦蔵氏蔵) 〕を持つ 鳥取県東伯郡泊村小浜池ノ谷で、 二本の青銅舌 と伴に発掘された 「胴部の狩猟農耕図と舞の上に鋳出された人物像」 (上図) の流水文鐸 です。 それ以後、 兵庫県灘区・ 桜ヶ丘1号銅鐸が発見され、 合計5個の同笵鐸があるようです。 

                                       

           桜ヶ丘の14個の銅鐸と共伴した7本の銅戈         桜ヶ丘1号銅鐸のB面 (本来は、北と東面)

            『銅鐸の世界展』 神戸市立博物館 8ページ          『国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈 』 神戸市立博物館 

 

    以下、 この「胴部の狩猟農耕図」 に注目し、 オピポーの祈願文を銅鐸絵に当て嵌めてみましょう。         

 

    ::::  桜ヶ丘1号銅鐸の解読

 

      祈願文 を 銅鐸絵 に当て嵌める  

     A ― 舞の部分  

 

                                          桜ヶ丘銅鐸上部・ 舞の部分

 

         中心、 舞の穴より、上部 左から右へ、 次に下部 右から下へ → 右周りに読む

            達磨の穴   / 2人  / 下図のmaと同じ図 /  頭なしの1人図  / 3 人図  /  頭なしの1人図 /

             ma       /  tam   / ma (楔形文字より)  /    (休止符)    /   ešše  /   (休止符)    /

 

            【解読】  「ma     tam ‐ ma   ešše     マ、 タム マ、 エッセ 」  

 

     B ― 身の部分

                            

                           手話文字・楔形及び古代文字 を銅鐸絵に当て嵌める

      

 図のように、  

                                             

                   du  -    ma    /  k i (祈)  /   i r     / tam  - ma   /

                  ドゥ  ‐ マ     /    キ    /  イル  /  タム ‐  マ  /


 

                 tab  - ka     / ka  -   ga  /   sh - ma   /      i r     /   s- ud-r  (日の出の太陽) /

            タァブ ‐ カ  / カ ‐ ガ  /   ス ‐ マ  /    イル    /  スゥドゥラ  (日の出の太陽) /

 

  そして、ここでは 銅鐸の舞が ma(マ)であり、・・・・達磨さんのマですよね。  以下のような という祈願文になるのではないか? と想いました。

           【解読】  「 マ、 タムマ、 タァブカ、 カガ、 スマイル、 スゥドゥラ、 ドゥマ、 キ、 イル 」

 

   「 s- ud-r  (日の出の太陽・シュメール語)」 は、 桜ヶ丘1号銅鐸では、 「イモリ・ 小蛙? ・大蛙?」 という組み合わせでしたが、 桜ヶ丘5号銅鐸では、 蟷螂(ud)-蛙(r)- アメンボウ(s)」→ 「s - ud- r 」 の絵画なのですが、・・・・ 土佐明美出土の弥生土器片文字にも例がある。 ( ud は、楔形文字が蟷螂の絵となる ) 

            ud     ウドゥ            ー 太陽。 日。(ウル・シュメール語)

             p-ad-da   パッダ・ア   ー 日祖神 (ウル・シュメール語)    

                    バッタ(蟷螂)の絵 ー 拝み(オガミ) →  パッダ (日祖神)

 

     C ― 地名を導き出す

  さて、 ここで終わってもよかったのですが・・・・、 もう少し踏み込んで、 これを スゥドゥラ国 ・邪馬台国(ヤンパッダ・ヤンマッタ 国)の地名に当て嵌めたら、どうなるのか? を考えてみることにしました。

         du  - ma    /    k i  (祈) ・臼を搗く絵    /      i r       /  tam - ma   /

            祈り     / 紀州 ・ 杵築(楯縫(F)出雲)  / 和泉 ・ 摂津  / 但馬 ・ 丹波 /    

     

         tab -ka ・鹿を射る絵 / ka  -   ga   /    sh - ma    /    i r     /     s- ud-r      /  

          多賀 ・  伊賀   /   加賀    / 須磨 (祈る)   /  祈る    / 日の出の国 (日本)/      

 

           【訳】 お祈り申し上げます(ドゥマ、キ、奉(タテ))。  紀州、 杵築、 和泉、摂津、 但馬、 丹波、 多賀、 伊賀、 加賀、 須磨国を含む邪馬台国は、 日の出の太陽神に(託宣を) 祈り、 お祈り申し上げます。    (注; 地名は、試作したものす。)

 

  以上、 川崎真治先生の 基幹となる比較言語学のグリムの法則とか、音便変化とか、派生とか、 私も難しいので、 興味のある方は、『古代日本の未解読文字』を参照して下さい。  

  

   :::: 太一君のパパのお母さんが、 つまり向こうのお祖母さまが、 宮参りの時の着物を持って来て下さったのですが、 良く見ると、その家紋がすごく珍しい紋で、 ・・・・ それって・・・・ 楔形文字の 「ma」 を意匠化した紋なんじゃないかな? と想いました。 「マ、 タム、 マ」 の「マ」かもね?  お正月に行った時に写真撮ってきてと、 娘に頼んだので、 又、 いつか紹介出来ると思います。

 なんだか急に、 銅鐸解読の方にいってしまいましたが、 ちょっと 「みだれ髪」 をどうしようか?  とても晶子の知識量には追いつかない!  等と考えている所で、 ・・・・ 銅鐸解読を交えて、 今後、・・・・「みだれ髪」 も同時並行にしようかなぁ・・・・。私の体調があまり良くないので、・・・・ 新しいことが考えられないからですが、 体調次第、 ということで、 お許し下さい。 

 


ブレイクタイム -孫が生まれました - Ⅰ

2013-10-04 10:51:07 | ブレイクタイム

 

 太一君、 八月二十三日誕生。 3145グラムの男の子でした。 パパはインストのパーカッション担当のミュージシャンで、 ママは、私の娘です。 宜しくお願い致します。

                                  

 長い間、 ブログをお休みさせていただきまして、申し訳ありませんでした。

 五月中旬頃、 夜中にフライパンで料理していたら、 何かおかしくて、 次の日から腕が上がらなくなって、 五十肩に突入・・・・(本当は、六十肩ですけれど・・・・)、それから腕がしびれてパソコンのキーを打つのも辛く、 少し治った位に、 孫が誕生して、 またまた孫中心の生活に突入、 娘も家に戻り、 十月一日にお宮参りも済ませ、 少しホットした今日この頃です。

 

            

                                                            

         

   

 やっぱし、 太(たい)ちゃんには、 いい音楽を聞かせたいー って思って、 ランバルのフルートの入った 「モーツァルトフルート協奏曲」 を聞かせていたら、フルートは、耳に付くって怒られて、 (娘は少しフルートをかじっている・・・・) ピアノが良いというで、 モーツァルトの 「ピアノソナタ全集」 グレン・グールドのがあったので・・・・それって昔風のゆっくりバージョンだってことで、 内田光子さんの軽快バージョンのを聞かせていました。  私的には、 「バッハの無伴奏ウ゛ァイオリンのためのソナタとパルティータ」 や、ヨーヨー・マさんの「バッハの無伴奏組曲」 が好きです。 後、 インドの秘密の音楽も聞かせていました。 シタールとバンブーフルートの曲なんか、 直ぐにお眠(ねむ)に入ってくれるので、 助かりました。

 子育てって、 やっぱり時代時代があるものですね。 私達の時代は、 お日様に当てなくっちゃって思ってたけれど、 今は紫外線が気になるからと、お日様に当てなかったりするようです。  でも、 ある程度、 当てないと、 ビタミンDが生成されなかったり、 体内時計が狂っちゃったりするのではないか? と心配してます。 だから、 娘には、朝の日の出の太陽に当てるように・・・・、 と言ってます。 日の出の太陽は、 賢い子なるのだそうですって・・・・・???

 今は、 何でもスマホにお伺いを立てて、 便利でもあるけれど・・・・、何かその情報って何処からきているの? と思ったりします。 三ヶ月の間は、 赤ちゃんは、100%欲求を満たしてあげなければいけない、 とか言って、 ズーット抱っこして、 友達もズーット抱っこしている、 とか言っているけれど、 おばあちゃん(私)から見たら、 ほとんど抱き癖が付き始めているように思うのですが・・・・、 それってドオなのヨー・・・・でしょうか?

 何や彼や、 言っている中、 みるみる大きくなって、 顔もハッキリしてきました。  次回は、お祝いバージョンということで、この続き、 太ちゃんへの希望? どうかなぁ・・・・ パパの後を継いでミュージシャンかなぁ? 将来どうなるか解らないけれど、こんなことしてもらいたいバージョン -銅鐸解読への糸口-、みたいなことを書きたいと思います。 太ちゃん、続き、してくれるかなぁ?

   

 


 へげの煙 - 源氏物語から とはずがたり、そして 蕪村へ - 

2013-05-24 11:14:55 | 古典

        

              『源氏物語』  - 巻之三十六 柏木

 

   〔二〕  柏木、 小侍従を介してひそかに宮と贈答

  (柏木)「今は限りになりにてはべるありさまは、 おのづから聞こしめすやうもはべらんを、 いかがなりぬるとだに御耳とどめさせたまはぬも、ことはりなれど、 いとうくもはべるかな」 など聞こゆるに、 いみじうわななければ、 思ふこともみな書きさして、

          (柏木) 「いまはとて燃えむ煙(けむり)もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ

 あはれとだにのたませよ。 心のどめて、 人やりならぬ闇(やみ)にまどはむ道の光にもしはべらむ」 と聞こえたまふ。

                              ―(中略)―

 紙燭(しそく)召して御返り見たまへば、 御手もなほいとはかなげに、 をかしきほどに書いたまひて、 (女三の宮)「心苦しう聞きながら、 いかでかは。 ただ推(お)しはかり。 残らむ、 とあるは、 

           (女三の宮) 立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙(けぶり)くらべに

 後(おく)るべうやは」 とばかりあるを、 あはれにかたじけなしと思ふ。

  (柏木)「いでや、 この煙ばかりこそはこの世の思い出(いで)ならめ。 はかなくもありけるかな」 と、 いとど泣きまさりたまひて、 御返り、 臥(ふ)しながらうち休みつつ書いたまふ。 言の葉のつづきもなう、 あやしき鳥の跡(あと)のやうにて、 

           (柏木) 「行(ゆ)く方(へ)なき空の煙(けぶり)となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ

 夕(ゆふべ)はわきてながめさせたまへ。 咎(とが)めきこえさせたまはむ人目をも、 今は心やすく思しなりて、 かひなきあはれをだにも絶えずかけさせたまへ」 など書き乱りて、 心地の苦しさまさりければ、 (柏木)「よし。 いたう更(ふ)けぬさきに、 帰り参りたまひて、 かく限りのさまになんとも聞こえたまへ。 今さらに、 人あやしと思ひあはせむを、 わが世の後(のち)さへ思ふこそ苦しけれ。

 

  ::: 源氏の正妻・女三の宮(朱雀帝と一条御息所の子)を身ごもらせてしまった衛門督・柏木(致仕大臣の子)は、 源氏に二人の関係を知られてから、 罪の報いの憂慮から病になり、 残された道は死しかない、 と一途に思う。 女三の宮への情愛を断ち切ることの出来ない柏木は、 小侍従を介して文を託すが、 それが最後の便りとなってしまった。

     (柏木) 「いまはとて燃えむ煙(けむり)もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ」

         【著者訳】 今となっては、 私の荼毘に付す煙が漂って、 絶えないあなたへの思いとして、 この世に残ることでしょう。  

     (女三の宮) 「立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙(けぶり)くらべに」

         【著者訳】 あなたの煙と一緒に消えてしまいましょう。 辛いことを思い煩っている煙比べに。

      (柏木) 「行(ゆ)く方(へ)なき空の煙(けぶり)となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ」

         【著者訳】 行方も知れない空の煙となってしまっても、 私が恋焦がれるあなたの周辺を離れることはありません。  

 

 

 

             『とはずがたり』 ― 巻三 〔二四〕 

 

  〔二四〕 有明の月の死

   十八日よりにや、 「世の中はやりたるかたはら病(やみ)の気(け)おはします」 とて、 医師(くすし)召さるるなど聞きしほどに、 「しだいに御わづらはし」 など申すを聞きまゐらせすほどに、 思ふ方(かた)なき心地(ここち)するに、 二十一日にや、 文(ふみ)あり。「この世にて対面(たいめん)ありしを、 限りとも思はざりしに、 かかる病(やまひ)に取(と)り籠(こ)められてはかなくなありなむ命よりも、 思ひ置くことどもこそ罪(つみ)深けれ。 見しむばたまの夢もいかなることにか」 と書き書きて、 奥(おく)に、 

           (有明の月)  身はかくて思ひ消えなむ煙だにそなたの空になびきだにせば

 とあるを見る心地、 いかでかおろかならむ。 げに、 ありし暁(あかつき)を限りにやと思ふも悲しければ、

           (後深草院二条) 「思ひ消えむ煙(けぶり)の末(すゑ)をそれとだに長らへばこそ跡をだに見め

 ことしげき御中はなかなかにや」 とて、 思ふほどの言(こと)の葉(は)もさながら残しはべりしも、 さすがこれを限りとは思はざりしほどに、 十一月二十五日にや、 はかなくなりたまひぬと聞きしは、 夢に夢見るよりもなほたどられ、 すべて何と言ふべき方(かた)もなきぞ、 我ながら、 罪(つみ)深き。   

 

 ::: 有明の月は、 世間で流行っている「かたはら病」の疑いがあるということで、 医師が呼ばれる。 次第に重態になられたと伺ううち、 二条に文が届く。 「この世で対面したのを、最後だとは思ず、 この様な病に捕らわれて、 儚くなってしまった命よりも、 あなたに恋の想いを残しておくことこそ、 罪深く思います。 見た暗い夢も、 どの様なことなのか?」 と書いて、 その奥に歌を書く。 そして、 二条の返し。

             (有明の月)  身はかくて思ひ消えなむ煙だにそなたの空になびきだにせば

                 【著者訳】  私の身は、 こうして恋の想いに焼き尽くされてしまいますが、 荼毘の煙だけは、 あなたがいる空に靡けばよいのです。

             (後深草院二条) 「思ひ消えむ煙(けぶり)の末(すゑ)をそれとだに長らへばこそ跡をだに見め 

                 【著者訳】 恋の想いに焼き尽くされる煙の行く末さえも、 生き長らえればこそ、 その末を見ることが出来ます。 

     

 

 

                     蕪村 「北寿老仙をいたむ」 (晋我追悼曲)

 

  蕪村の詩 「北寿老仙をいたむ」 は、 蕪村没(天明三年・1783年)後、 十年を経た寛政五年・1793年、 早見晋我(はやみしんが)の五十回忌追善集『いそのはな』 編者・ 嗣子(しし)二世晋我(桃彦) に収められて、 世に紹介された。  「北寿」は、晋我の隠居号であり、 「老仙」は、 蕪村が冠した尊称。 晋我は、下総結城郡本郷の酒造家であり、 江戸で朱子学を学んだ後、 郷里で私塾丹涯(たんがい)塾を開き、 漢学を教えたという。   蕪村(宰鳥)は、 師・宋阿(そうあ)‐早見巴人(はじん) と死別(寛保二年・1742年)した二十七歳の時、 同門の故郷・結城の旧家に寄宿していた砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って行った。 雁宕は、 巴人の高弟であり、 其角門の晋我とも蕪村と共に親しかった。  晋我が没したのは、 延亨二年・1745年正月二十八日、 七十五歳、 蕪村三十歳の時であった。  晋我の家は、蕪村が住む小川を隔て住んでいたという。  

 森本哲郎著 『詩人 与謝蕪村の世界』 (講談社学術文庫) によると、 蕪村のこの詩は、王維の「酬諸公見過」にイメージされるという。

 

        王維 「酬諸公見過」 〔諸公の過(と)わるるに酬ゆ〕

                       晨往東皐  〔晨(あした)に東皐(とうこう)に往けば

                       草露未晞  〔草露(そうろ)未(いま)だ晞(かわ)かず〕

                       暮看煙火  〔暮(くれ)に煙火(えんか)を看(み)〕 

                        負担来帰   〔負担(ふたん)して来帰(らいき)す〕

 

    「北寿老仙をいたむ」

      

       君あしたに去ぬゆふへのこゝろ千々に                              君/翌朝(あした)に/去(いき)ぬ/夕べの/心/千々に

       何そはるかなる                               何ぞ/遙かなる

       君をおもふて岡のへに行つ遊ふ                     君を/想うて/岡の辺に/行きつ/遊ぶ

       をかのへ何そかくかなしき                         岡の辺/何ぞ/斯く/悲しき

       蒲公の黄に薺のしろう咲たる                       蒲公英(たんぽぽ)の/黄に/薺(なずな)の/白う/咲いたる 

       見る人そなき                                 見る/人ぞ/なき

       雉子のあるかひたなきに鳴くを聞は                   雉子(きじ)の/あるか/ひた鳴きに/鳴くを/聞くは 

       友ありき河をへたてゝ住にき                        友ありき/河を/隔てて/住みにき

       へけのけふりのはと打ちれは西吹風の                 へげの/煙(けぶり)の/ハと/打(うち)散れば/西吹く風の

       はけしくて小竹原真すけはら                        激しくて/小竹原/真菅原

       のかるへきかたそなき                            逃るべき/方ぞ/なき

       友ありき河をへたてゝ住にきけふは                   友ありき/河を/隔てて/住みにき/今日は

       ほろゝともなかぬ                               ホロロとも/鳴かぬ

       君あしたに去ぬゆふへのこゝろ千々に                  君/朝(あした)に/去(いき)ぬ/夕べの/心/千々に

       何そはるかなる                                何ぞ/遙かなる

       我庵のあみた仏ともし火もものせす                   我が庵(いお)の/阿弥陀仏/燈火(ともし火)も/物(もの)せず

       花もまいらせすすこ ヽ と彳める今宵は                花も/参らせず/すごすご(悄悄)と/佇める/今宵は

       ことにたうとき                                 殊(こと)に/尊き

 

                         釈蕪村百拝書                         (仮名と漢字変換は、木村真理子)

       

 :::   

 ● 「去ぬ」- (さりぬ ・ さんぬ ・ いぬ)。 この内、 山本健吉著 『与謝蕪村』 講談社(昭和62年)によると、― これまで注者によってイヌかサリヌかと議論され、 おおむね「イヌ」に傾いていた。 「きのう去(い)ニ けふいに鴈のなき夜哉」 「酢つけてやがて去(い)ニ たる魚屋かな」 などの作例によっての判断というが、 「芭蕉去(サツ)てそのゝちいまだ年くれず」 「去年去(さ)り移竹移りぬ幾秋ぞ」などの作もあるから、 当てにならない。 漢詩からこの新体の詩はヒントを受けたと思われ、 私はむしろ朗詠めかして、 「サンヌ」と訓みたい。― と書いておられます。 子供の頃遣っていた和歌山弁では、 「イヌ」は、「帰る」 という意味で遣われ、 例えば、「インでくる」 というのは、「帰るから、バイバイ」 という意味です。 つまり、「死」に対して、「イヌ」 とは遣わないのです。 江戸中期は如何だったか?  は疑問ですが、 やはり、 文字としてではなく、 言葉としての遣い分けはされていたでしょうから・・・・。 ここは、「サリヌ」 にしたいと、 この時点では考えていたのです。

 ところが、何と、 『蕪村全集 一 発句』 校注者 尾形仂・森田蘭(1992年5月)講談社 に添付されていた小冊子に、 飯田龍太氏の小論があり、   尾形氏の発言部分には、 ― 「北寿老仙にいたむ」の制作時期は、 晋我没後の直後ではなく、 「春風馬堤曲」 と同時期の晋我三十三回忌の時だということ。 それと、 ・・・・ 私は、「(去る) ゆきぬ」 と訓む可能性があると思いますけど、その、「君」 という言い方も、 若い頃の晋我と蕪村の年の隔たりでは、 これは出てこないんじゃないかと思うんです。 ― が掲載されていました。  制作時期についての論考は、 以前から知っていましたが、それは置いて於いて・・・・、 「去る」 を 「ゆきぬ」 という訓み方には、 衝撃を受けました。 

 そう、私自身も、 漢字に惑わされていたのです。 死んだ人には、 「あの人は、 イッテしまった」 と言います。 「逝く」 です。 それが、「去る・ゆきぬ → いきぬ」、 関西弁では、 「い」と「ゆ」の間の音、「ゐ」 か「ヰ」かどう表記するのか解からないですが、そういう訓みにちがいないと思いますが、 ・・・・ここでは、「いきぬ」 としました。  「行(い)く」 に対する 「去(い)く」 です。

 ● 「咲たる」― (さきたる) → 「さいたる」。 普通は、咲(さき)たる と訓んでいるようですが、 新体詩と言えども、 「はるかなる」 「おもふて」 「しろう」 「あるか」 「住にき」 「ものせず」 「まいらせず」 等のように、健吉氏がおっしゃる朗詠めかして・・・・、 プラス関西風?を加味して、 私は、「さいたる」 としました。

 ● 「雉子(きじ)」― キギス か、 キジ か? については、 「キジ」 です。 キギスは、「ほろゝ」 とは鳴かないでしょう。

● 「へけのけぶり」― 「へげ」 については、 諸説があります。 竃(へっつい・かまど)の煙、 片木(へぎ)を燃やした煙、  変化(へんぐゑ)の煙、 中には、 猟師の鉄砲の煙というものもあり、 こうなれば、 詩とはかけ離れてしまいます。  やはり、 『源氏物語』 の柏木や、 『とはずがたり』 の有明の月のように、 友である晋我の屍を火葬した煙でしょう。 

  「へげ」 を漢字に変換するなら、 「変化(へげ)」 や「剥(へげ)」(肉体を剥ぐを意図) も理に適うと思いましたが、  「斃 (ヘイ)」 の文字を当てるのが良いのではないかと思います。 直接、「ヘゲ」 とは訓みませんが、・・・・「へげ」 に通じるでしょう。 ことばとは、 語彙があっての漢字の当て字だし、 表象であると思うからです。 

    「斃」(ヘイ・ベイ・ タフル)― 大字典(講談社)― たふれ死ぬること。 斃は、独りで死んでたふれ、 又人が殺したふすと也。(中略) 斃は、死したふる也。        

  ● 「あした」― 「翌朝」 と 「朝(今朝)」 を使い分けました。  詩は二部構成で、 晋我の死を迎える前日の夕べと、 死を迎えた日ですが、 この日は、 時間に伴って 今日・夕べ・今宵 と変化していきます。  

 

 

              「北寿老仙をいたむ」   訳詩 木村真理子        

 

                    あなたは翌朝、  死を迎えられるだろう、 夕暮れが迫るこの時、

                    私の心は、 千々に乱れる。                                                                        

                    あなたを想って、 岡の辺に行って遊ぶ、

                    岡の辺は、 何と、 こうも哀しいのだろう。

                    見る人もいないけれど、 

                    蒲公英(たんぽぽ)が黄に、 薺(なずな)が白く咲いている。

                    雉子(きじ)が居るのか?  ひた泣きに鳴くのを聞けば、

                    私も友がいる、 川を隔てて住んでいる友がいる・・・・。

                    西に吹く風が激しくて、 

                    友の屍(しかばね)を焼く煙が、 パッと打ち散り、 

                    小笹や真菅の野原を漂うばかり・・・・。

                    友が・・・・、 川を隔てて住んでいた友がいた・・・・。 

                    今日は、 あの雉子は、 ホロロとも鳴かない。

                    今朝、 あなたは、 この世を去られた。

                    夕暮れの私の心は、 千々に砕ける。

                    私の庵の阿弥陀仏の

                    燈明も灯さず、 花も供えずに過ごす今宵は、

                    あなたを想って、 仏の加護を願う。

 

 :::  私は、 いつか 「北寿老仙」 を訳したいと思っていました。 『とはずがたり』 を知ることにより、 その 「へげの煙の詩」 が、 近付いて来たのでした。  昔、 娘が小学校の頃、 お友達か近所の子だったでしょうか、 お姉さんを亡くした男の子がいて、 患っていたお姉さんが死んだその日、 ズーット近所の公園のブランコに何時間も座っていて、 そして、 誰も、 その子に声を掛けられなかった、 という身近な話を思い出しました。  

 蕪村も、 当時は宰鳥(さいちょう) でしたが、 じっとしていられなくて、 かと言って、 親戚でもない、 単なる風来坊が、 側にも行かれず、 小川を隔てた川堤から、 晋我の家の方を見守っていたのでしょう。 次の日は、 晋我の火葬の煙を見て、 天に昇るかと思いきや、 風に吹き飛ばされて、 野原一杯に充満して、 宰鳥を包んだのです。  

 この部分は、 非常に重要です。 『源氏物語』 では、 柏木の歌 「いまはとて燃えむ煙(けむり)もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ」 や  「行(ゆ)く方(へ)なき空の煙(けぶり)となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ」 にもあるように、 恋する 女三の宮 の周辺を・・・・、 『とはすがたり』 では、 有明の月 は、 「身はかくて思ひ消えなむそなたの空になびきだにせば」 と、 二条 の周辺を煙となって、 巡るのです。

 そして、 宰長は、 日なが一日、  川堤に過ごしました。 今日、 夕暮と・・・・、 そして暗くなった宵になって、 庵に帰って、 阿弥陀仏と対座したのです。 

 

     参考文献: 『源氏物語 七』 完訳日本の古典 第二十巻 小学館 (昭和62年5月)  『とはずがたり 一』 完訳日本の古典 第三十八巻 小学館 (昭和60年4月)  『蕪村の世界』 古典を読む27 尾方仂著 岩波書店 (1993年3月)  『与謝蕪村』 山本健吉著 講談社 (昭和62年5月)   『詩人 与謝蕪村の世界』 森本哲郎著 講談社学術文庫  『与謝蕪村』 大谷晃一著 河出書房新社 (1996年4月) 

 


 ブレイクタイム  - 詩仙堂 十三世乱筆 -

2013-04-16 11:18:05 | ブレイクタイム

  『とはずがたり』 は、 結構、後が曳きますよね。 春爛漫の4月1日、 後深草院二条が女楽事件で隠れていた 下醍醐へ行きたくなって、 お嬢様女子高出身のお嬢様でない三人組が、 繰り出しました ・・・・、 おばさん? じゃなく、 もう直ぐ私も孫が出来るので・・・・、 おばあちゃん三人組ですね。 

 一人は京都在住で実家が西陣の織り元、 ご主人を含めて三人分のお弁当を作って、 孫の面倒を見て、 家庭は明るく、 お料理上手で、 主婦の鑑、 主婦のエキスパートともいうべき人。 一人は滋賀在住、 社会活動に熱心で地域の面倒を良く見て、 絵手紙もお料理も裁縫も (着物の古布を現代風にアレンジして実用化) 上手で、 自慢のコックの息子さんがいる人 (私も賞をもらった料理を、 河原町御池のホテルに食べさせてもらいに行きました)。 もう一人は私、 兵庫県在住、 専業主婦から主人の仕事の都合でコンビニを始め、 お店の維持と、 スポーツクラブのフラダンスと、 訳の解からん執筆?をし、 たまに来る娘夫婦に料理を振舞っている今日この頃・・・・。  

 そんな三人組の桜見物、 醍醐の桜は豪華そのもの。 去年は滋賀の人に奥琵琶湖に連れられ、 船からの海津王崎の桜見物も良かったし、・・・・ 来年は私だけど、 どこにしょうかなぁ・・・・いつか行った奈良は室生口大野・大野寺から長谷寺へ抜けるコースも良いし、・・・・あれこれ言いながら、 醍醐寺の三宝院、霊宝尾館、理性院の拝観と、 清瀧宮、五重塔、金堂、観音堂、弁天堂、 そこから小野の小町邸の跡地・随心院を巡り・・・・、 結局は後深草院二条が籠っていたとされる、 勝倶胝院(しようくていゐん)の跡地に建つ一言寺(一言観音金剛王院)に行くのをすっかり忘れてしまい、  桜に浮かれて帰ってしまいました。・・・・ 何と、 いい加減な!

 ところで、 三~四年前でしたでしょうか、 京都の人の伯父さんが亡くなり、 跡継ぎが居ないということで、 家の整理をし、 その時に「掛け軸」だったか「額」だったかが出て来たので、 いったい何が書いてあるのだろう? ということになり、 私の所にも廻って来ました。    その時、 私も解読させてもらったのですが・・・・、確か、 深草という文字があった様な気がしたので、 そのコピーを持って来てもらったのですが、 詩仙堂のものでした。 

 京都の人の伯父さんが、 どの様にして詩仙堂から戴いたのかは解からないですが、 自宅が高野(たかの)にあったこともあり、 一乗寺の詩仙堂に近いことや、 美術書等の制作に携わっていらした関係かも知れません。 ・・・・ その詩仙堂 十三世乱筆が、 ちょっと面白かったので、 ここに公開させて頂きます。

  

        詩仙堂  十三世 乱筆 「忘磯壁書」

 

  詩仙堂は、徳川家の家臣だた石川丈山が59歳の時、 1641年(寛永18年)に造営したことに始まり、 本来は「凹凸窠(おうとつか)」 という。 中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間による銘々とされます。

 十三世乱筆の「忘磯壁書」は、 詩仙堂の 「六勿銘」(1645年(正保3年) 丈山63歳の作)、そして皇国史観 が根底にある様です。

 

       六勿銘

               勿レ  忘ニ                 棍賊(こんぞく)一              (盗賊を防ぐことを忘れるな)

               勿レ  斁(いとう)ニ    晨興(しんこう)一              (朝早く起きることをいとうな)

               勿レ  嫌ニ         糲色(れいしょく)一             (粗食をいとうな)

               勿レ  変ニ         倹勤(けんきん)一              (倹約と勤勉を変えてはならぬ)

               勿レ  媠(おこたる)ニ  払拭一                     (掃除をおこたるな)

                          (注: 本来は糲の字が草冠です。 パソコンになかったので) 

 

 

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               忘磯壁書

 

 

             

 

 

           

 

           不幸にして世に     背ける墨の衣にはあらじ                          

           頭髪結うが六ヶ(難か)しきまゝに     天窓を剃る

           茅萱(ちがや)の軒端(のきば)               

           竹の主(柱)に身を軽う 茲(ここ)に止めて    浮世を見るに

           東西に走り南北に行く人    多くは身を思ふ業のみ

           足を空に奈(な)して    吉野の花の衰(くさ)れも知らず

           深草の鶉(うずら)の声を聞いては    焼いてしてやりたいとばかり思ひ

           後には何と奈(な)ることぞ    

           楽(ら)くで安からざるこそ     人間のみに限らず

           山を出ずる雲は    雨を催す為に忙しく    

           森林の鹿は     妻恋ふ為に声を限りに鳴く

           それを思えば     此の身ほど閑(ひま)奈(な)事もの無し

           恵心(けいしん)の作    壱體(一体)持てども    後生(ごしょう)を願ふためには

           非(あら)ず持ち傳(伝)えたる道具奈(な)ければ    お宿もうすまで奈(な)り

           極楽え行(いく)奈(な)り    極楽え行きたい欲奈(な)ければ 

           地獄に行く恐れも奈(な)く    死(しぬ)るまで生きていようと思へば

           年齢(とし)のとるを爪牙(そうが)とも思はず

           曲垣(まがき・籬)の朝顔が曲ろうとす(直)ぐろうと    あん奈(な)物ぢやと思ひ

           日暮の小夜嵐が吹古(ふこ)うと降ろうと     我身一つの苦にならず

           膝(ひざ)を容(いれ)る二疂(畳)敷    土鍋一つで埒(ら)ちあけん

           雑煮食はぬ者には    聞かれまいと云はぬ

           鶯の初音も心好く聞き     夜金持たぬ家には光(ひかり)射(い)まいと云わぬ

           ?依估(怙)贔屓(えこひいき)奈(な)い雲(く)もる月を眺め 

           寝奈(な)ずの眼奈(な)れば晝(昼)も寝る

           歩く筈(はず)の足奈(な)れば     手の奴(やつ)足の乘(乗)物にて     心のおもむく処を彷徨あるけども      

           盗みせぬ身奈(な)れば人も咎めず     覚えたること奈(な)ければ     忘るることも奈(な)く

           年齢を数えど    幾年やら知らず   

           奈(な)んぢや    かぢや    婆婆(ばばあ)ぢや  浮世ぢや   苦ぢや   楽ぢや

           神ぢや   佛(仏)ぢや   云ふも苦しや

 

                    昭和四十七年      気櫻佳日(きおうかじつ)

                                                詩仙堂    十三世   ○ ○ 乱筆        

 

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               忘磯壁書(ぼうきへきしょ)       訳詩 木村真理子

 

           不幸にして世に背く僧の墨染めの衣を着てはいないが、

           頭髪を結うのが難しくなって、 頭を剃る。

           粗末な家の軒端(のきば)の竹の柱に身を置いて、 浮世を見れば、

           東西に南北に行く人の多くは、 身を煩(わずら)っている。

           天に足を向けて、 吉野山の花の衰えも知らない。  (吉野朝の存在したことも知らない)

           深草の深い所で鳴く鶉(うずら)の声を聞いては、  焼いて食べたいとばかり思い、

           (北朝の皇統を思っては、  無念に想い、)

           後世には、 どうなってしまうことやら・・・・。    楽で、 簡単なことばかり・・・・。 

           人間のみに限らず、   山から湧く雲は、  雨に成る為に忙しく、  

           深い林の鹿は、  妻恋いの為、   声を限りに鳴く。

           それを思えば、  我が身ほど、   閑(ひま)な者は無い。

           良い詩を一体持っていても、    死後を願うためではなく、

           持ち伝えられる道具でもないので、    死んだら御終(おしま)い。

           極楽へ行きたい欲がなければ、    地獄に行く恐れもなく、

           死ぬまで生きていようと思えば、    齢を取るのも、   残酷な事とも思わない。   

           垣根の朝顔が曲ろうが、   真っ直ぐであろうが、   あんな物だと思い、

           日暮れの夜風が弱かろうが、   強かろうが、   一つも苦にならない。

           座わるだけの二畳敷きに、  鍋一つで用が済む。

           正月祝いをしない私には人に聞かれたくない、  とは云わない。

           鶯の初音も快く聞き、   宵越しの金を持たない家には、   光が射さないとは云わない。

           遍(あまね)く照らす雲から洩れる月を眺め、   寝れない身であるから、  昼も寝る。

           歩くべき足であれば、  手は足の向くまま、  気の向くままに彷徨(さまよ)うけれど、

           盗みをしない身であるから、    人も咎(とが)めはしない。

           覚える事も無いので、   忘れる事もなく、    歳を数えることも無くなった。

           何や彼(か)や、   婆(ばばあ)や、   浮世や、  苦や、   楽や、

           神じゃ、   仏じゃ、   と言うのも苦しい。   

           

                        昭和四十七年      桜咲く吉日

                                                  詩仙堂    十三世  ○  ○  乱書

             

 ::::           

  

      【注釈】  

  * 忘磯壁書(ぼうきへきしょ) ― 京都の人の友人は、 「荒磯壁書」と読み、 「荒磯」で成る程とも思いましたが、 ここは「六勿銘」の忘れる勿れ、 を踏んでいるので、やはり 「忘」 でしょう。 磯の壁に書いた詩を忘れる勿れ、 又は、 その反対の詩の内容も忘れてしまった、 の両方を含んでいるのでしょう。   「磯壁書」 は、三国志の 「赤壁の戦い」、 魏の曹操軍と戦い勝利した、 呉・蜀連合軍の周瑜の長江に刻んだ「赤壁」を想いますが、 作者は恐らく、 三国志のファンだったのでしょう。

 

   * 吉野と深草 ― 吉野を拠点とした南朝(大覚寺統)と、 京都を拠点とした北朝(持明院統)を示す。 南北朝は、 その両統迭立(ていりつ) を言う。  1336年、 吉野に逃れた大覚寺統の後醍醐天皇による南朝と、 足利尊氏が京都に持明院統の光明天皇を立て、朝廷が別れたことに始まる。 1392年、 吉野の後亀山天皇は、将軍足利義満のすすめで京都に帰り、 北朝の後小松天皇に譲位することにより、 南北朝統一が成された。  『とはずがたり』は、その元である弟兄の亀山院と後深草院の両院迭立の宮廷を垣間見ることができる資料でもある。  現在の皇室は、北朝の崇光流皇統・伏見宮家の流れだという。

  * 足を空に奈(な)して/吉野の花の衰(くさ)れも知らず/深草の鶉( うずら)の声を聞いては/焼いてしてやりたいとばかり思ひ/後には何と奈(な)ることぞ ― ここは、詩仙堂十三世の皇国史観が表出されている部分です。

     今の私達一般市民は、 多少の温度差はあれ、 南朝だろうが北朝だろうが、 皇統であるからにはそれで良いのでは・・・・、 という感じですが、 特に昭和の太平洋戦争以降には、 皇国史観 ( 足利尊氏を天皇に叛いた逆賊とし、 楠正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈。) が盛んであったようです。 実際、 私も子供の頃に、 南朝の末裔の熊沢天皇という名を耳にしたことがあります。  この詩が書かれた昭和47年から推測すると、 平泉澄(きよし)の名が浮かびますが、・・・・南朝の吉野を「吉野時代」と表現し、 昭和天皇に楠正成の功績を進講(1932年)、 東京帝大の学生団体「朱光会」会長に就任。 それ以後、公職追放となり、 銀座にあった国史研究室を閉鎖(1974年・昭和49年)という経歴の持ち主ですが、 そういう人々の影響があったのではないでしょうか。 

 

  * 恵心の作/壱體(体)持てども ― は、 この詩 「忘磯壁書」 を指す。

 

  * 後生を願ふためには/非(あら)ず持ち傳(伝)えたる道具奈(な)ければ/お宿もうすまで奈(な)り ― 「非ず」 は、前後に掛かり、 非後生 (後生を願うためでは非ず) と、 非ず持ち伝える道具 (持ち伝えることが出来ない道具) の両方に掛かる意。

     

  * 爪牙(そうが) ― 爪と牙。 残酷な例え。

 

  *  雑煮食はぬ者には ― 「正月祝いをしない者」 と訳したが、 これも、 十三世の皇国史観を意図する。

 

  * ?依估(怙)贔屓(えこひいき)  ―   「依估贔屓」 の前の一文字「?」が良く解かりませんでしたので、「?」としました。                                                                                                                          

                                                                                                   

 


 『とはずがたり』 後深草院二条 (雅忠女)

2013-03-24 09:27:50 | 古典

 

 主人の従兄が、 去年どの様な本を読んだか? の一覧を毎年年賀状にして下さるのですが、 その中に 「とはずがたり」 が入っていたので・・・・図書館の本の背表紙にしか、 この本の題名を見たことがなく、 今回はこれにしよう、 と決めました。

 

                      とはずがたり』の美しい描写 

 

    巻一 ・ 二六 (冬の山里)

  有明(ありあけ)は西に残り、 東(ひんがし)の山の端(は)にぞ横雲(よこぐも)わたるに、 むら消えたる雪の上に、 また散りかかる花の白雪も折知(をりし)り顔(がほ)なるに、

 

 この一節、 私は藤村詩の「白磁花瓶賦」を想いました。  (ブログの一番最初に、この詩と訳詩を掲載しています) 

   29節   あゝあゝ清き白雪は / つもりもあへず消ゆるごと / なつかしかりし友の身は / われをのこしてうせにけり

   30節   せめては白き花瓶(はながめ)よ / 消えにしあとの野の花の / 色にもいでよわが友の / いのちの春の雪の名残を

 30節の訳を、 国文学の博士が 「白雪が消えてしまったあとに咲く野の花のように。 野の花が色あざやかに咲くように。 友のはかない命の名残を、 この花瓶にとどめてほしい」 と訳されていますが・・・・、 29節から訳しますと、 「ああ、 ああ、 清い白雪は、 積もらずに消えてしまうように、 なつかしい友は、 私を残して消えてしまった。」  30節 「せめて白い花瓶よ、 野の花のように消えてしまった 我が友の、 心の清さの色を、 春の雪の名残のように(白磁花瓶に)留めてほしい。」 となります。

 白雪に対峙して、 野の花の、 何と紅いことか!  

 それで・・・・「とはずがたり」 ですが、・・・・「むら消えたる雪の上に、 また散りかかる花の白雪も折知(をりし)り顔(がほ)なるに、」 何と美しい一節でしょうか!  「花の白雪」 は、 「花のような白雪」 ではありません。 雪が所々消えてむらむらになった地面の上に、 花の上に積もった雪が零れ落ちて、 むらむらになった雪の地面を覆うのです。  刻を心得て散り落ちる映像が、 見事に浮かび上がります・・・・。 

 

 

    巻四 ・ 一七 (草原の中の浅草観音)

  武蔵国(むさしのくに)へ帰りて、 浅草(あさくさ)と申す堂(だう)あり。 十一面観音のおはします、 霊仏(れいぶつ)と申すもゆかしくて参るに、 野の中をはるばると分けゆくに、 萩(はぎ)・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・薄(すすき)よりほかは、 また混じる物もなく、 これが高さは、 馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、 推しはかるべし。 三日にや分けゆけども、 尽きもせず。 ちとそばへ行く道(みち)にこそ宿(しゆく)などもあれ、 はるばる一通(ひととほ)りは、 来し方(こしかた)行く末、 野原なり。 観音堂(くわんおんだう)はちと引き上がりて、 それも木などはなき原の中におはしますに、 まめやかに、 「草の原より出づる月影」と思ひ出づれば、 今宵(こよひ)は十五夜なりけり。 ・・・・(中略)・・・・草の原より出でし月影、 更(ふ)けゆくままに澄み昇り、 葉末(はずゑ)に結ぶ白露(しらつゆ)は玉かと見ゆる心地(ここち)して、 

 

 花の野原に囲まれ、 十五夜の月が丘の上の観音堂を照らし出します。 現在の浅草観音とは想像だに及ばないですが・・・・、 絵に描いたような室町時代の風景ですね。 作者・二条の筆が冴え渡ります・・・・。  

 私は、 二条の歌については、 時代の型というものに囚われているので・・・・、 機知は凄いと思うけれど、 余り感心しなかったですが、 文章のリズム、美的センス、 何より着眼が素晴らしいと思い、 感嘆しました。 

 

 

                      「とはずがたり」 について思うこと

 

     巻一 ・ 二四 (白き色なる九献)

   誰ならむと思へば、 仲頼(なかより)なり。 「陪膳(はいぜん)おそくて」 など言ひて、 「さても、 この大宮の隅(すみ)に、 ゆゑある八葉(はちえふ)の車(くるま)立ちたるを、 うち寄りて見れば、 車の中に供(とも)の人は、 一(ひと)はた寝たり。 とうに牛は繋(つな)ぎてありつる。 いづくへ行きたる人の車ぞ」 と言ふ。

 

 「とうに牛は繋(つな)ぎてありつる」 の 「とうに」 についてですが、 「遠に」 であり、 これは距離ではなく、 時間の経過であり・・・・、 今でも残っているかどうか分かりませんが、 私が子供の頃、 明治生まれの祖父と同居していたので、 和歌山市で普通に遣っていました。  訳すと、 「既に」です。 ― 既に、 牛は繋いでありました。   (既に、 牛は八葉の車から離されて、 別の場所に繋がれていた、の意)

 

    巻三 ・ 二四 (有明の月の死)

  やがてその日に御所へ入らせたまふと聞きしほどに、

 

 「やがて」(副詞) についてですが、 辞書では古語で、― そのまま。 ひきつづいて。 ― とありますが、 これは語彙を意味するものではなく、 意訳です。 「やがて」 も時間の経過なのです。 ここは、 文章の初っ端であることもあり、 前章の文を受けてこの章がある訳ですから、 訳としては、 「そして」 ぐらいが適当ではないでしょうか。

 

 

    巻三 ・ 四四 (九十賀歌会)

        限りなき齢(よはひ)は今は九十(ここのそぢ)なほ千代(ちよ)遠き春にもあるかな  (春宮・ 熙仁)

                (【本の注釈尺】  限りないあなたのお命は今は九十ですから、 千代までは遥か遠い春であります)

           【訳】 あなたの永遠の御歳は、 今は九十歳ですが、 この上、 千年の遠き春をもご存命になられるでしょう。

 

        世々(よよ)のあとになほ立ち昇る老(おい)の波よりけむ年は今日のためかも   (春宮大夫・ 実兼(さねかぬ))

                 (【本の注釈】  代々、 佳例を重ねた後にそれらをさらに凌駕するよ。 老いの波が寄られたのは、 今日のよき日のためであったろうか)

            【訳】 世々天子を創出されました上に、 尚、立ち昇る齢の波、 その波が打ち寄せ九十歳となられましたのは、 今日の祝賀の為でしょうか。

 

 

   巻四 ・ 二一 (春日詣で) 

        奈良の方は藤の末葉(すゑば)にあらねばとて、 いたく参らざりしかども、

 「あらねばとて」は、藤原氏の子孫でないから、 の意と、 二条が祖父・四条隆親の思惑によって女楽事件で雲隠れした時、 雪の曙の春日神社参籠によって醍醐に見付け出され、 結局は御所に帰ることになるのですが、 そのことを暗々裏に含み、 (お礼参りにいかねば)、 もしくは、 全然関係ないこともない、 という意をも含ませているのではないか? と想います。 

 

 

    巻四 ・ 三二 (外宮より内宮へ)   

        今ぞ思ふ道行人(みちゆきびと)は馴(な)れぬるも悔(くや)しかりける和歌の浦波(うらなみ)      (渡会常良)

               (【本の注釈】 今になって思います。 あまりの名残惜しさに、 旅路を行くあなたと和歌を詠み交したりして親しくなったことも悔しく思われます)      

 

           【訳】 (表訳) 【本の注釈】のそのままで良いですが・・・・、 今になって思います。 旅路のあなたと親しくなりましたが、 もうこれから和歌を詠み交わすこともなくなって、 悔しく(淋しく)思います。  

               (裏訳) 今になって思います。 旅路のあなたは、 歌に慣れておられましたが、 私は和歌を詠むことについては、 悔しい思いをしましたよ。          ( 「馴れぬる」 を 表詠・ 裏詠みで理解する )   

 

 

    巻五 ・ 一三 (後深草院発病)

        夢ならでいかでか知らむかくばかり我のみ袖(そで)にかくる涙を        (後深草院二条)

               (【本の注釈】 夢に御覧になるのではなくて、 どうしてご存じになろうか。 このように、 わたしだけが涙を袖にかけて、 御所様の御病を悲しんでいることを)

 

 御所様が夢を御覧になるのではなく、 作者・二条が御所様を夢に見て、様子を知る、 という歌意。  「我のみ」は、前文章の「誰に言う問(ことと)ひ申すべきやうもなければ」 を受けています。 

           【訳】 夢でなら・・・・、 (他に)どの様にして御所様の様子を知ることができるのでしょう。 この様に私だけが(独り淋しく) 袖にかけて拭う涙を・・・・(流していますのに)。 

 

 

     巻五 ・ 一四 (八幡参籠、 西園寺を訪れる)

         君ゆゑに我先立(われさきだ)たばおのづから夢には見えよ跡の白露(しらつゆ)     (後深草二条)

              (【本の注釈】 わが君をお救いするためにわたしが先立ったならば、 おのずとわが君の夢にそれとは見えよ、 死んだ跡の白露よ)  

 

           【訳】御所様の延命祈願の為、 私が先に死んでしまったなら、 (蓮の)白露が、 私の涙の跡だと解かって、 御所様自身の夢に私を見てほしい。  

 二条の歌は、玄宗皇帝が楊貴妃を失った後、 城に帰って蓮の花の白露を見て、妃を思う「長恨歌」を下地としていますが、 直接的には、 『伊勢集』 の 以下の歌 ― 『源氏物語』 桐壺の巻に記されている亭子院(宇多天皇)の長恨歌屏風の賛 (片桐洋一著『伊勢』(新典社 昭和60年初版)) ― を踏んでいます。 

          「帰り来て君を見せまし蓮葉(はちすは)に涙の玉とおきいてぞ見る」    

            (【訳】 城に帰って来て、 蓮の白露を見ると、 あなた(楊貴妃)が私(玄宗皇帝)に、 涙の玉を置いて見せている、 と思いました。  (訳は、私流です。 詳しくは以前のブログを御覧下さい。)

 陳鴻傳『長恨歌傳』より ― 「東都門(ひがしともん)を望み馬に信(まか)せて帰り。 帰り来たれば池苑(ちゑん)皆(みな)舊(きう)に依(よ)る。 太液(たいえき)の芙蓉、 未央(びあう)の柳、 芙蓉は面の如く柳は眉の如し。 此れに対して如何ぞ涙(なみだ)垂(た)れざらん。」

 

 

     巻五 ・ 一五 (西園寺実兼の計いで院の臨終を拝す)

   「今一度、 いかがして」 とや申すと思ひては参りたりつれども、 何とあるべしともおぼえずはべるに、 仰せられ出(い)だしたりしこと語りて、 参れかしと言はるるにつけても、 袖の涙も人目あやしければ、 立ち帰りはべれば、・・・・

 

  「仰せられ出(い)だしたりしこと語りて」 は、二条が言い出したいことを、 実兼が言い始めた、 の 二重の 「仰せられ出だしたり」です。 実兼の言葉でもありますから、 敬語になっています。

          【訳】 「今一度、 何とかしてお目に掛かりたい」 などと申し上げようと思って参りましたが、 どうしたらよいかも解からず居りますと、 私が言いたいことを実兼が言い出してくれて、 「御所にいらっしゃい」 と言って下さるにつけても、 袖に覆う涙が人目に付くのも変に思われるので、 立ち帰りますと、・・・・ 

 

 

     巻五 ・ 二一 (母の形見を手放す)

  わが宿願成就せましかば、 空(むな)しくこの形見は人の家の宝となるべかりき。

 

 二条の気持ちが内在している二通りの 「せましかば」 と 「べかりき」 です、 非常に面白い文章だと思いました。  

             ・ わが宿願成就するには、 空しくこの形見は、 人の家のものとならねばならない。

             ・ わが宿願成就したなら、 この形見は、 人の家の宝となるだろう。

               (合成) わが宿願成就したなら、 空しくこの形見は、 人の家のものとならねばならない。

 

 

 

       参考文献 : 『完訳 日本の古典 とはずがたり一 ・二』  久保田淳 著 (小学館) 昭和60年6月初版

 

 


 続 『とはずがたり』 と 『みだれ髪』 の対比 ??

2013-03-24 09:15:39 | 古典

 

                      『とはずがたり』 と 『みだれ髪』 の対比??

 

 さて、 肝心の 『みだれ髪』 との対比ですが、・・・・ 『とはずがたり』 の作品が国文学界に紹介されたのは、 昭和15年9月号の 『国語と国文学』 に掲載された 山岸特平 著 「とはずがたり覚書」 であるとされます。 氏は、 当時の宮内省図書寮、 今日の宮内省書陵部でこの本を発見し、 「大正5年の図書寮の書籍目録一冊には、 たしか地理の部に掲載せられて居たかと思い出す」 と 言っておられます。

 私が参考にした小学館版の『とはずがたり』 は、1、2部に分かれていて、 その事実を知ったのは、2冊目の一番最後の解説だった訳ですが・・・・、 まあ、 それを知っていれば、最初から読まなかったのに・・・・? いえいえ、 作品は素晴らしいものです。  

  晶子は、古典や当時の詩歌を自身の歌に絡めて詠み、 晶子の好きなものづくしで 『みだれ髪』 を埋め尽くしていた訳ですが、 『みだれ髪』初出の、・・・・ 特に 『みだれ髪』 を出版するにあたって付け加えた中の三首もあり、・・・・ 明治34年に出版された『みだれ髪』には関係ないはずなのに・・・・、 以下の五首が、 二条と悲しい情を交わした四人 (後深草院 ・ 有明の月 ・ 亀山院 ・ 近衛の大殿 ) と、 二条の恋人である雪の曙 を彷彿させ、 私を悩ませました。  『みだれ髪』初出の三首を加えることにより、 晶子は 『とはずがたり』 を完成させたのではないか??  また、 「とはずがたり」 を代表するような最も衝撃的な 「近衛の大殿」 との出来事が、 蕪村も詠んでるのではないか? と疑問に思いました。  全て検討違いかも知れませんが、・・・・??

 

 

   亀山院(新院)に対して― 巻三(一七)・(一八) 

 

  巻三(一七)亀山院の誘惑

  「いと御人少(ひとずく)なはべるに、 御宿直(とのゐ)つかうまつるべし」 とて、 二所(ふたところ)御寝(よる)になる。 ただ一人さぶらへば、 「御足(あし)に参れ」 などうけたまはるもむつかしけれども、 誰(たれ)に譲るべしともおぼえねば、 さぶらふに、 「この両所の御そばに寝させたまへ」 と、しきりに新院申さる。 「ただしは、所せき身のほどにてさぶらふとて、 里にさぶらふを、 にはかに、 人もなしとて参りてさぶらふに、 召し出てさぶらへば、 あたりも苦しげにさぶらふ。 かからざらむ折は」 など申さるれども、 「御そばにてさぶらはむずれば、 過ちさぶらはじ。 女三(さん)の御方をだに御許されあるに、 なぞしもこれに限りさぶらふべき。 わが身は、 『いづれにても、 御心にかかりさぶらはむをば』 と申し置きはべりし。 その誓ひもなく」 など申させたまふに、 をりふし、 按察(あぜち)の二品(にほん)のもとに御渡りありし前(さき)の、 「斎宮(さいぐう)へ入らせたまふべし」 など申す宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや、「御そばにさぶらへ」 と仰せらるるともなく、 いたく酔(ゑ)ひ過ぐさせたまひたるほどに、 御寝(よる)になりぬ。 御前(まへ)にもさしたる人もなければ、 「ほかへはいかが」 とて、 御屏風後(うし)ろに、 具(ぐ)し歩(あり)きなどせさせたまふも、 つゆ知りたまはぬぞあさましきや。

 

  巻三(一八)亀山院の御慶び

  今宵も桟敷殿(どの)に両院御渡りありて、 供御(ママ?)もこれにて参る。 御陪膳(はいぜん)両方を勤む。 夜も一所(ひとところ)に御寝(よる)になる。 御添臥(そへぶ)しにさぶらふも、 などやらむ、 むつかしくおぼゆれども、 逃(のが)るる所なくて宮仕(みやづか)ひ居(ゐ)たるも、 今さら憂き世のならひも思ひ知られはべり。

 

  【巻三(一七) 訳】 「たいそう人が少ないので、 宿直(とのい)しなさい」ということで(又、伺候することになり)、 両院はお寝(やす)みになる。 ただ一人伺候していると、 「足を按摩せよ」 などと承るのも面倒だけれど、 この役目を誰かに譲る訳にもいかないので、 お側に居ると、 「このお二人の側に寝させて下さい」 と、 新院が頻りに申される。 御所様は 「但し、 二条は窮屈な(身重の)身の程にて里に下がっておりましたものを、 直ぐには人もいないということで、 召しましたが、 所作も苦しげにしております。 この様な折ですから」 などと申し上げるが、 「お側にて居られますので、 過ちはございません。 女三の宮の御方でさえも、 源氏物語ではお許しになられたのに、 この方に限りそうされるのですか。 私の方は、『女房の誰であれ、 お心に叶ったならば、 伺候させますから』 と申しておきました。 その誓いも無く」 などと申されて・・・、その時分、 「斎宮へ参らせよう」 などとしてた矢先の、 新院の女宮の按察(あぜち)の二品(にほん)を、 御所様が あれやこれや言われて、 お渡りになられたところだったので、 「お側に居なさい」 とおっしゃることもなく、 ひどく酔われるままに、 寝てしまわれた。  御所様の御前に気が咎める人もいないので、 新院が 「他へ、いらっしませんか?」 と、 屏風の後ろに、 私を連れ伴って行かれたのも、 少しもお知りにならいのは、意外でした。          

       【注】 [ 御前にもさしたる人もなければ、 「ほかへはいかが」 とて、 御屏風後ろに、 具し歩きなどせさせたまふも、 つゆ知りたまはぬぞあさましきや。] の訳は、 参考とした本と私見では、 少し違っています。

 

 御前に「さしたる人」 とは、「差し当たって・それなりの」 添臥しする女房でしょうか? というのが一つ目の疑問です。 私は、「差したる人 ・ 差し支える人 ・ 気が咎める人」 つまり、 「 御供として伺候している人 ・ 目付け役の男」 であり、 前の巻三(一六) の、「若き殿上人(てんじやうびと)二、三人は御供(とも)にて、 入らせおはします」 にもある様に、 五月蝿方の御供がいなかったと解釈しました。  

 すると、 二つ目の疑問は、 「ほかへはいかが」 という新院の言葉です。 〔 新院には、「ほかへはどうして行こうか」 〕 と、 他の女房がいないので、 二条しかいない、 という意味合いで解説されていますが・・・・、 新院の言葉は、 後出の 「御屏風後ろに、 具し歩きなどせさせたまふも」 に掛かって、 直接、 屏風裏へ誘った 「誘いの言葉」 と解釈出来るのではないか? と思いました。 

                                                                                                                                                                                   

 巻三(一八) 女院(大宮院=後深草、亀山両上皇の母后)を見舞うの嵯峨・嵐山の大井殿の宴は、次の日も催される。 その夜も二条は両院が一緒にお寝みをされる添臥しに仕え、 今さらながら、 憂世の習いを嘆く。   

 

 

       『みだれ髪 298』 人に侍る大堰(おほゐ)の水のおぼしまにわかきうれひの袂の長き  (みだれ髪 初出)

           【298 表訳】 鉄幹が東京から来て、側にいてくれるけれど、 嵯峨の大堰川(桂川)添いの旅館の手摺りに凭れ、(川を見下ろし)ている私は、 東京での生活に疲れ果て、 憂いの日々が続いています。 まだ未熟だったからでしょうか・・・・。

           【298 裏訳】 『とはずがたり』に思いを馳せ・・・・。 大井殿での桟敷殿に行く廂にて、これから後深草・亀山両院に添臥しをすることになる私は、 袖に涙をして、世を憂っております。 この習いは、 いつまで続くのでしょうか。                                  

 『みだれ髪』裏訳は、 『とはずがたり 巻三(一八)』を直接的に踏んだものでしょう。 そして、 何と、 後出する  蕪村「帋燭(しそく)して廊下過ぐるやさつき雨」 をも、 想定しているのです。

私は、なぜこの嵯峨の歌が、何度も登場するのか?  集中編纂の際に入れられたのか? が、 凄く不思議だったのですが、 やっと解かったような気がします。  

 

 

   近衛の大殿 (鷹司兼平)に対して― 巻二(三四)・(三五)・(三六)   

 

   巻二(三四) 筒井の御所の夜

  御所へ帰り参らむとて、 山里の御所の夜なれば、 皆(みな)人(ひと)静まりぬる心地して、 掛湯巻(かけゆまき)にて通るに、 筒井(つつゐ)の御所の前なる御簾の中より、 袖を控(ひか)ゆる人あり。 まめやかに化物(ばけもの)の心地して、 荒らかに、 「あな悲し」 と言ふ。 「夜声(よごゑ)には、 木霊(こだま)といふ物の訪るなるに、 いとまがまがしや」 と言ふ御声は、 さにやと思ふも、 恐ろしくて、 何とはなく引き過ぎむとするに、 袂はさながらほころびぬれども、放ちたまはず。 人の気配(けはひ)もなければ、 御簾(みす)の中に取り入れられぬ。 御所にも、 人もなし。 「こはいかに、 こはいかに」 と申せども、 かなはず。 

 

 

   巻二(三五)近衛の大殿

  御殿籠(とのごも)りてあるに、 御腰(こし)打ちまゐらせてさぶらふに、 筒井の御所の昨夜(よべ)の御面影(おもかげ)ここもとに見えて、 「ちと物仰せられむ」 と呼びたまへども、 いかが立ち上がるべき。 動かで居(ゐ)たるを、 「御寝(よる)にてある折だに」 など、 さまざま仰せらるるに、 「はや立て。 苦しかるまじ」 と忍びやかに仰せらるるぞ、 なかなか死ぬばかりに悲しき。 御後にあるを、 手をさへ取りて、 引き立てさせたまへば、 心のほかに立たれぬるに、 「御伽(とぎ)には、 こなたにこそ」 とて、 障子のあなたにて、 仰せられ居たることどもを、 寝入りたまひたるやうにて聞きたまひけるこそ、 あさましけれ。 [ とかく泣きさまたれ居(ゐ)たれども、 酔(ゑ)ひ心地(ごこち)やただならざりけむ、 つひに明けゆくほどに帰したまひぬ。] 我(われ)過ごさずとは言ひながら、 悲しきこと尽くして御前に臥したるに、 ことにうらうらとおはしますぞ、 いと堪(た)へがたき。 

 

  巻二(三六)伏見の旅寝

  更けぬれば、 また御寝(よる)なる所へ参りて、 「あまた重ぬる旅寝(たびね)こそ、 すさまじくはべれ。 さらでも伏見の里は寝にくきものを」 など仰せられて、 「紙燭(しそく)さして賜(た)べ。 むつかしき虫などやうの物もあるらむ」 と、 あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」 とさへ仰(おほ)せ言(ごと)あるぞ、 まめやかに悲しき。   「かかる老いのひがみはおぼし許してむや。 いかにぞや見ゆることも、 御傅(めのと)になりはべらむ。 古き例(ためし)も多く」 など、 御枕(まくら)にて申さるる、 言はむ方なく、 悲しともおろかならむや。 例(れい)のうらうらと、 「こなたも独り寝はすさまじく。 遠からぬほどにこそ」 など申させたまへば、 昨夜(よべ)の所に宿りぬこそ。

 

 巻二(三四) 二条が、 御所様のお寝(やす)みの間に、 伏見殿筒井の御所へ出た帰り、 戻ろうと掛湯巻で通ったところ、 御簾の中にいた近衛の大殿に袖を取られ、 引き込まれてしまう。  

 巻二(三五) 昨日に続いて、 伏見殿の宴の後、 御所様の寝所にいると、 近衛の大殿が来て、 話し掛けるが、 返事をしないでいると、 御所様に行くよう指図される。 二条は、 大殿に手まで曳かれて、 障子の向こう側でお伽の相手をさせられてしまう。  御所様は寝入ったふりをして、 それを聞いていたのだった。  

 巻二(三六) 今日は帰る予定だったのに、 またもや逗留。 御所様がお寝みになっている所に、 近衛の大殿が来て、「伏見の里は寝にくいので、 紙燭を付けてくれ」 と言う。 御所様に、 催促され、 「こちらも独り寝は興ざめだから、 遠くない所で」 と、 またもや昨日と同じ所で寝ることになる。

 

       『みだれ髪 309』 舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊(わたどの)   (明治34年1月 「舞姫」 初出)

        蕪村 「帋燭(しそく)して廊下過ぐるやさつき雨」

 『みだれ髪 309』 は、(三四)を彷彿させます。 『みだれ髪』の 「舞ぎぬの袂(たもと)」 は、 近衛の大殿に 「袂はさながらほころびぬれども、放ちたまはず」 の 敗れるくらい放さずに引っ張られ、 御簾の中に引き込まれた 「二条の袂」 なのです。 

 蕪村も同じく、 二条にとって最も衝撃的な・・・・、 つまり、 『とはずがたり』 に於けるライマックスを題材として、 近衛の大殿との出来事を詠んでいます。    蕪村については、 前テーマの『枕草子』 で気付いたのですが、 古典については、 一場面を絵画のように額縁句にする、 ということをしていたし、 晶子は、 それを知っていたのです。  こちらは、 (三六) の二条が大殿に所望された「紙燭」 を持って、 お伽に向う場面です。 晶子もそうだけれど、 蕪村は天才だとつくづく思います。 この一句で、『とはずがたり』 の全てを物語っているのですから・・・・。

  もう一つ付け加えたいのは、(三五)「我(われ)過ごさずとは言ひながら、 悲しきこと尽くして御前に臥したるに、 ことにうらうらとおはしますぞ、 いと堪(た)へがたき。」 です。 二条が悲しんでいるにも関わらす、 御所様が、 うらうらとしている、 という場面。

       『みだれ髪 138』 琴の上に梅の実おつる宿の昼よちかき清水に歌ずする君   (明治34年8月 『小天地』「黒髪」 初出)

 駆け落ちの待ち合わせた京都の宿で、 晶子は「あなたは後から日にちを置いて上京しなさい」 と告げられます。 落ち込んでいる晶子に対して、 近くの川で鼻歌を唄っている鉄幹の 「うらうらさ」。  御所様の 「うらうらさ」 にどこか似通っています。

 

 

   後深草院(御所様) に対して― 巻三(一二)・巻二(三五)        

 

  巻三(一二)扇の使い   

  承仕(しようじ)がここもとにて、 「御所よりにてさぶらふ。 『御扇(あふぎ)や御堂に落ちてはべると、 御覧じて、 参らせたまへと申せ』 とさぶらふ」 と言ふ。 心得ぬやうにおぼえながら、 中(なか)の障子を開けて見れども、 なし。 さて、 引き立てて、 「さぶらはず」 と申して、 承仕は帰りぬる後(のち)、 ちと障子を細めたまひて、 「さのみ積もるいぶせさも、 かやうのほどはことに驚かるるに、 苦しからぬ人して里へ訪れむ。 つゆ人には洩(も)らすまじきものなれば」 など仰せらるるも、 いかなる方(かた)にか世に洩れむと、 人の御名もいたはしければ、 さのみ、 「いな」 ともいかがなれば、 「なべて世にだに洩れさぶらはずは」 とばかりにて、 引き立てぬ。      御帰りの後、 時(じ)過ぎぬれば、 御前へ参りたるに、 「扇の使はいかに」 とて笑はせおはしますをこそ、 例(れい)の心あるよしの御使なりけると知りはべりしか。 

 

  巻二(三五) 近衛の大殿 [ ] の部分

  とかく泣きさまたれ居(ゐ)たれども、 酔(ゑ)ひ心地(ごこち)やただならざりけむ、 つひに明けゆくほどに帰したまひぬ。 

 

 巻三(一二) 御供花(くうげ)の結縁(けちえん)ということで、「有明の月」も御堂に来ている。 雑用の僧が、「御所様が、 扇が御堂に落ちていないか見て参れ」という伝言を伝える。 二条が見に行くが、 何もない。 すると、 「有明の月」 が、 障子を細く開け、 出産の為、 里に退出する二条に逢いに行く旨を伝える。  その後、 御所様の前に参ると、 「扇の使いはどうだった?」 と 笑って言われ、 心あるお使いだったと知る。 

 巻二(三五) 近衛の大殿のお伽の相手をした二条は、 あれこれ泣き崩れていたが、 酒宴に酔って抗うことができなかったのだろうか、 夜が明けていく時分に帰された。

 

       『みだれ髪 302』 くれなゐの襟にはさめる舞扇(まひあふぎ)酔のすさびのあととめられな (明治34年1月 「舞姫」 初出) 

 『みだれ髪 302』 の上句 「くれなゐの襟にはさめる舞扇(まひあふぎ)」が 『とはずがたり 巻三・(一二)』 の 「扇の使い」に象徴される御所様の 「心ある使い」 であり、 下句「酔のすさびのあととめられな」 が 近衛の大殿とのお伽を薦めた御所様の仕打ちです。 両面を持ち合わせる御所様が詠まれています。

            【302 裏訳というか、表訳はなし】 『とはずがたり』に思いを馳せ・・・・。 御所様は、 有明の月に対しては、「扇の心遣い」を示して下さったけれど、 御所様の後見役である近衛の大殿には、 私にお伽の相手をさせて・・・・、 酒に酔ってしまったとはいえ、 抗えなかった私の運命でしょうか。  

   

 

     参考文献 : 『完訳 日本の古典 とはずがたり一 ・二』  久保田淳 著 (小学館) 昭和60年6月初版

 


続々 『とはずがたり』 と 『みだれ髪』 の対比 2

2013-03-24 08:39:34 | 古典

 

 有明の月 (性助法親王?)に対して ― 巻二(七)・(一一)・(一六)・(一七) 巻三(二)・(三)・(四)・(五)・(一二)・(一三)・(二一)・(二二)・(二三)・(二四) 

 

    巻二(七) 後白河院八講での出会い

    何とやらむ、 思ひのほかなることを仰せられ出だして、 「仏も心きたなき勤めとやおぼしめすらむと思ふ」 とかやうけたまはるも、 思はずに不思議なれば、 何となく紛らかして立ち退かむとする袖をさへ控(ひか)へて、 「いかなる隙(ひま)とだに、 せめては頼めよ」 とて、 まことに偽りならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、 還御とてひしめけば、 引き放ちまゐらせぬ。     

   巻二(一一) 道場のそばの忍び逢い

   「御撫物、 いづくにさぶらふべきぞ」 と申す。 「道場のそばの局(つぼね)へ」 と仰せ言あれば、 参りて見るに、 顕証(けんそう)げに御灯明(みあかし)の火にかかやきたるに、 思はずに萎(な)えたる衣にて、 ふとおはしたり。 こはいかにと思ふほどに、 「仏の御しるべは、 暗き道に入りても」 など仰せられて、 泣く泣く抱きつきたまふも、 余りうたてくおぼゆれども、 人の御ため、 「こは何事ぞ」 など言ふべき御人柄にもあらねば、 忍びつつ、 「仏の御心の内も」 など申せども、 かなはず。   見つる夢のなごりもうつつもなきほどなるに、 「時(じ)よくなりぬ」 とて、 伴僧ども参れば、 後ろの方(かた)より逃げ帰りたまひて、 「後夜(ごや)のほどに、 今一度かならず」 と仰せありて、 やがて始まるさまは、 何となきに、 参りたまふらむともおぼえねば、 いと恐ろし。 (中略) 後夜過ぐるほどに、 人間(ひとま)をうかがひて参りたれば、 この度は御時(じ)果てて後なれば、 少しのどかに見たてまつるにつけても、 むせかへりたまふ気色(けしき)、 心苦しきものから、 明けゆく音するに、 肌に着たる小袖にわが御肌なる御小袖を、 しひて、 「形見に」 とて着替へたまひつつ、 起き別れぬる御なごりも、かたほなるものから、 なつかしくあはれとも言ひぬべき御さまも忘れがたき心地して、 局にすべりてうち寝たるに、 今の御小袖の褄(つま)に物あり。 取りて見れば、 陸奥紙(みちのくにがみ)をいささか破(や)りて、 〔 うつつとも夢ともいまだわきかねて悲しさ残る秋の夜の月 〕  

  巻二(一六) 出雲路の一夜

   例の、 けしからずさは、 恨めしく、 疎ましく思ひまゐらせて、 恐ろしきやうにさへおぼえて、 つゆの御答(いら)へも申されで、 床中(とこなか)に起き居たる有様は、 「あとより恋の」 と言ひたるさまやしたるらむと、 我ながらをかしくもありぬべし。 夜もすがら泣く泣く契りたまふも、 身のよそにおぼえて、 「今宵ぞ限り」 と心に誓ひ居たるは、 誰かは知らむ。 (中略) その昼つ方、 書きつづけて賜ひたる御言の葉は、 偽りあらじとおぼえし中に、 〔 悲しとも憂しとも言はむ方ぞなきかばかり見つる人の面影 〕 

  巻二(一七) 記請文

   このうへは文をも遣はし、 言葉をも交はさむと思ふこと、 今生(こんじやう)にはこの思ひを断つ。 さりながら、 心の中(うち)に忘るることは生々(しやうじやう)世々(よよ)あべからざれば、 我さだめて悪道に堕つべし。 されば、 この恨み尽くる世あるべからず。 両界(りやうかい)の加行(けぎやう)よりこの方(かた)、 灌頂(くわんぢやう)に至るまで、 一期(いちご)の行法(ぎやうほふ)、 読誦大乗四威儀(どくじゆだいじようしゐぎ)の行(ぎやう)、 一期の間修(しゆ)するところ、 みな三悪道に回向(ゑかう)す。 

  巻三(二) 障子のあなたの立聞き 

   その折しも、 御前に人もなくて、 向かひまゐらせたるに、 憂かりし月日の積もりつるよりうち始め、 ただ今までのこと、 御袖の涙は、 よその人目も包みあへぬほどなり。 何と申すべき言の葉もなければ、 ただうち聞き居たるに、 ほどなく還御なりけるもしらず、 同じさまなるくどきごと、 御障子のあなたにも聞こえけるにや、 しばし立ち止まりたまひけるも、 いかでか知らむ。      

  巻三(三) 院に告白する  

   「さることなし」と申すともかひあるべきことしあらねば、 相見しことの始めより、 別れし月の影まで、 つゆ曇りなく申したりしかば、「まことに不思議なりける御契りかな。 さりながら、 さほどにおぼしめし余りて、 隆顕(たかあき)に道芝(みちしば)せさせられけるを、 情なく申したりけるも、 御恨みの末も、 かへすがへすよしなかるべし。 (下略)」              

  巻三(四) 逃れぬ契り

   しばし引き留めたまふも、 いかに洩るべき憂き名にかと恐ろしながら、 見る夢のいまだ結びも果てぬるに、 「時(じ)なりぬ」 とてひしめけば、 後ろの障子より出でぬるも、 隔つる関の心地して、 「後夜(ごや)果つるほど」と、 かへすがへす契りたまへども、 さのみ憂き節のみ留(と)まるべきにしあらねば、 また立ち帰りたるにも、 「悲しさ残る」 とありし夜半(よは)よりも、 今宵はわが身に残る面影も、 袖の涙に残る心地するは、 これや逃れぬ契りならむと、 我ながら先の世ゆかしき心地して、うち臥したれども、                                                                                                                                                              

   巻三(五) 重ぬる袖の涙 

   「今宵ばかりの夜半(よは)も更けぬべし。 隙(ひま)作り、 出でよかし」 など仰せらるるもあさましきに、 深き鐘の声の後(のち)、   東(ひんがし)の御方召されたまひて、 橘の御壺(つぼ)の二の間に御寝(よる)になりぬねば、 仰せに従ふにしあらねども、 今宵ばかりもさすがに御なごりなきにしあらねば、 例の方ざまへ立ち出でたれば、 もしやと待ちたまひけるもしるければ、 (中略)  飽かず重ぬる袖の涙は、 誰にかこつべしともおぼえぬに、 今宵閉ぢめぬる別れのやうに泣き悲しみたまふも、 なかなかよしなき心地するに、 憂かりしままの別れよりも、 やみなましかばと、 かへすがへす思はるれどもかひなくて、 短夜(みじかよ)の空の今宵よりのほどなさは、 露の光などいひぬべき心地して、 明けゆけば後朝(きぬぎぬ)になる別れは、 いつの暮れをかと、 その期(ご)遥かなれば、 〔 つらしとて別れしままの面影をあらぬ涙にまた宿(やど)しつる 〕

  巻三(一二)扇の使い   

  承仕(しようじ)がここもとにて、 「御所よりにてさぶらふ。 『御扇(あふぎ)や御堂に落ちてはべると、 御覧じて、 参らせたまへと申せ』 とさぶらふ」 と言ふ。 心得ぬやうにおぼえながら、 中(なか)の障子を開けて見れども、 なし。 さて、 引き立てて、 「さぶらはず」 と申して、 承仕は帰りぬる後(のち)、 ちと障子を細めたまひて、 「さのみ積もるいぶせさも、 かやうのほどはことに驚かるるに、 苦しからぬ人して里へ訪れむ。 つゆ人には洩(も)らすまじきものなれば」 など仰せらるるも、 いかなる方(かた)にか世に洩れむと、 人の御名もいたはしければ、 さのみ、 「いな」 ともいかがなれば、 「なべて世にだに洩れさぶらはずは」 とばかりにて、 引き立てぬ。      御帰りの後、 時(じ)過ぎぬれば、 御前へ参りたるに、 「扇(あふぎ)の使(つかひ)はいかに」 とて笑はせおはしますをこそ、 例(れい)の心あるよしの御使なりけると知りはべりしか。  

  巻三(一三) 法輪に籠る

  まことならぬ母の嵯峨に住まひたるがもとへまかりて、 法輪に籠りてはべれば、 嵐の山の紅葉も憂き世を払ふ風にさそはれて、 大井川の瀬々(せぜ)に波寄る錦とおぼゆるにも、 いにしへのことも、 (中略)  数々思ひ出でられて、 「うらやましくも返る波かな」 とおぼゆるに、 ただここもとに鳴く鹿の音(ね)は、 誰が諸声(もろごゑ)にかと悲しくて、  〔 わが身こそいつも涙の隙(ひま)なきに何を偲びて鹿の鳴くらむ 〕   

  巻三(二一) 有明の月の子を産む

   更け過ぎて後(のち)おはしたるも、思ひよらずあさましけれど、 心知るどち二、三人よりほかは、立ち混じる人もなくて、 入れたてまつりたるに、 夜べのおもむきを申せば、 「とても身に添ふべきにはあらねども、 ここさへいぶせからむこそ口惜しけれ。 かからぬ例(ためし)も世に多きものを」 とて、 いと口惜しとおぼしたれども、 「御計らひの前(まえ)は、 いかがはせむ」 など言ふほどに、 明けゆく鐘とともに、 男子(をのこご)にてさへおはするを、 何(なに)の人形(ひとかた)とも見え分かず、 かはゆげなるを膝(ひざ)に据(す)ゑて、 「昔の契り浅からでこそかかるらめ」 など、 涙も堰(せ)きあへず、 大人(おとな)に物を言ふやうにくどきたまふほどに、 夜もはしたなく明けゆけば、 なごりを残して出でたまひぬ。  この人をば、 仰せのままに渡したてまつりて、 ここには何の沙汰(さた)もなければ、 「露(つゆ)消えたまひにけにるこそ」 など言ひて、 後(のち)はいたく世の沙汰も、 けしからざりし物言ひも止(とど)まりぬるは、 おぼしよらぬ隈(くま)なき御心ざしは、 おほやけわたくし、 ありがたき御事なり。  

  巻三(二二) 有明の月の訪れ

   いかなることにか、 かたはら病(やみ)といふことはやりて、 いくほどの日数(ひかず)も隔てず、 人々隠(かく)るると聞くが、 「ことに身に近き無常どもを聞けば、 いつかわが身も亡き人数にと心細きままに、 思ひ立ちつる」 とて、 常よりも心細くあぢきなさまに言ひ契りつつ、 「形は世々(よよ)に変はるとも、 相見ることだに絶えせずは、 いかなる上品上生の台(うてな)にも、 ともに住まずは物憂かるべきに、 いかなる藁屋(わらや)の床(とこ)なりとも、 もろともにだにあらばと思ふ」 など、 夜もすがらまどろまず語らひ明かしたまふほどに、 明け過ぎにけり。  出でたまふべき所さへ垣根つづきの主(あるじ)が方(かた)ざまに、 人目(ひとめ)繁ければ、 包むにつけたる御有様もしるかるべければ、 今日は留まりたまひぬる、

  巻三(二三) 鴛鴦の夢

   「わが身が鴛鴦(をし)といふ鳥となりて、 御身の内へ入ると思ひつるが、 かく汗のおびたたしく垂(た)るは、 あながちなる思ひに、 わが魂や袖の中留まりけむ」 など仰せられて、 「今日さへいかが」 とて立ち出でたまふに、 月の入るさの山の端(は)に横雲(よこぐも)白(しら)みつつ、 東(ひんがし)の山はほのぼの明くるほどなり。  明けゆく鐘に音を添へて帰りたまひぬるなごり、 いつもより残り多きに、 近きほどより、 かの稚児(ちご)して、 また文あり。          

  巻三(二四) 有明の死

   十八日よりにや、 「世の中はやりたるかたはら病の気おはします」 など申すを聞きまゐらせしほどに、 思ふ方なき心地するに、 二十一日にや、 文あり。  (中略)  奥に、 〔身はかくて思ひ消えなむ煙だにそなたの空になびきだにせば〕 とあるを見る心地、 いかでおろかならむ。  げに、 ありし暁(あかつき)を限りにやと思ふも悲しければ、 「〔思ひ消えむ煙(けぶり)の末(すゑ)をそれとだに長らへばこそ跡をだに見め〕 ことしげき御中はなかなかにや」 とて、 思ふほどの言の葉もさながら残しはべりしも、 さすがこれを限りとは思はざりしほどに、 十一月二十五日にや、 はかなくなりたまひぬと聞きしは、 夢に夢見るよりもなほたどられ、 すべて何と言ふべき方もなきぞ、 我ながら罪深き。   

 

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 巻二(七・一一・一六) 後白河院の御八講が正親町(おおぎまち)の長講堂で行なわれる。 そこで初対面をした阿闍梨・有明の月が、 父・故大納言の話などをするので、 のんびり対座していると、 「少しでも逢おうということを期待させてくれ」 と言い始めたので、 その時は、 抑えられていた袖を振り払って逃れた。 御所様のご祈祷の為いらっしゃったのが、 あの方だった。  仰せの御撫物を持って道場の局に参ると、 そこでは抗うことが出来なかった。 その後夜の鐘の後も参るように仰せられ、 この御修法中、 連夜お逢いする。 しかし恋しい気持ちもなく、 御所様が快方に向われると、 あの方はご退出された。  善勝大納言からの偽りの手紙で出雲路に呼び出された二条は、 再び有明の月と共寝をするが、 いつもの様に気味が悪く、 寝床に起きて座っている有様だった。 有明の月は、泣く泣く愛情を約束されるが、 関わりのないことのように思われて、 「このお方とは、 今夜が最後だ」 と二条は心に誓っていた。      

 巻二(一七) 善勝寺大納言から、 あなたが薄情にあしらわれたのを、 あのお方が恨んでいるという旨の手紙に添えて、 あのお方の立文があり、 熊野だろうか、牛王宝印が捺してある裏に、日本国の神仏のすべてが書き尽された後に、 今生に於いて、 手紙を出したり、 言葉を交わすことを断念する。 この愛執ゆえに、 後世は悪道に生を享けるだろうと恨みの言葉が認められていた。 これを皆お返し申し上げるその包み紙に、 〔 今よりは絶えぬと見ゆる水茎(みずぐさ)の跡を見るには袖ぞしをるる 〕と書いて差し上げた。

 巻三(二~四)遊義門院がまだ姫宮でいらした頃、 ご病気の祈祷に有明の月が呼ばれる。 御所様が姫宮のご様子を見にいらした隙に、 阿闍梨が辛かった月日から、 今までのことをお話され、 それを御所様は、障子の向こうで聞いておられたのだった。 お帰りになった後、 隠しきれないと悟った二条は、 御所様に二人の関係を告白するが、 意外にも阿闍梨を擁護し、 心の恨みを晴らすよう、 お相手申し上げよ、 と仰せになった。  修法の合間をぬう逢引も、 だんだん有明の月の面影が残り、 次第に二条の心が変化してゆく。         

 巻三(五)  御所様は、 姫宮の病気祈祷にいらした有明の月と 「逢えるのも、 今夜ばかり、 隙(ひま)をつくって、 出なさい」 とおっしゃり、 東の方を召して寝所に行ってしまわれた。 仰せに従う訳ではないけれど、 名残惜しいこともないので、 いつもの所へ行くと、 もしやと待っておられたのも明らかだった。 【訳】 重ねる袖の涙は、 誰に愚痴を言ったらよいのやら。 有明の月は、 これが恋の終わりの別れのように悲しむのも、 無理のないように思うのだが・・・・、 つれない、 薄情な別れよりも、 (已(や)んで) 気持ちよく別れることが出来ると、 何度も思うけれど、 それも甲斐なくて・・・・、 短夜の空の宵から明けゆく歩度(ほど)のなさは、 朝露の光(が一舜に消えてしまう)ような気持ちがして、 明ければ後朝になる別れは・・・・、 何時の夕暮にお逢い出来るだろうと、 その時は遥か先なので・・・・、  〔別れたままになっていた(二条がつれないと思う)有明の月の面影を、 前回とは違って、 別れを惜しむ(有明の月の)涙の面影として、 (二条が)また宿すことになりました。〕  

        ところで、 「露の光などい(言)ひぬべき心地して」は、 「露の光などひ(干)ぬべき心地して」 ではないでしょうか? 露が消えるという意図を持たせた語彙であるべきだと思うのですが・・・・?? それとも、 露の光がキラキラ耀いて・・・・、でしょうか?? 文意として、 苦しいのでは??

 巻三(一二) 御供花(くうげ)の結縁(けちえん)ということで、有明の月も御堂に来ている。 雑用の僧が、「御所様が、 扇が御堂に落ちていないか見て参れ」 という伝言を伝える。 二条が見に行くが、 何もない。 すると、 有明の月が、 障子を細く開けて、 出産の為、 里に退出する二条に逢いに行く旨を伝える。  その後、 御所様の前に参ると、 「扇の使いはどうだった?」 と 笑って言われ、 御所様の心あるお使いだったと知る。 

 巻三(一三) 二条は有明の月の子を懐妊し、 嵯峨に住んでいる継母の所に下がり、 法輪寺に籠っている。 嵐山の紅葉も大井川の瀬に吹き寄せられるにつけても、 あれこれ思い出され、鳴く鹿の声も何を偲んで鳴いているのでしょうか? と涙を誘う。     

 巻三(二一~二四) 二条は有明の月との子を産むが、 御所様の計らいで、 死産した子の身代わりに、 秘密裏に受け渡される。  世間では、「かたはら病」 が流行、 有明の月も身近な者が死に、 不安になって二条のいる乳母の家を訪れ、 「我が身が鴛鴦となって二条の袖の中に留まる夢」を見た、 と言って帰る。  有明の月が「かたはら病」に罹ったと知るが、 「荼毘の煙だけでも二条のいる側に靡きさえすれば」 と文に届け、 あっけなく死んでしまう。    

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     『みだれ髪 299』 くれなゐの扇に惜しき涙なりき嵯峨のみじか夜暁(あけ)寒かりし  (みだれ髪 初出)

 

  何か、 めちゃくちゃ長くなってしまいましたが、「くれなゐの扇」は、後深草院の「扇の使い」の扇ですが・・・・、 「嵯峨」 がどこに出現するのか? これという決定打がなくて 自分でも確認する為に書き出してみました。 

 「嵯峨」は、巻三(一三)の嵐山の法輪寺に籠った 「嵯峨」 ですが・・・・、「みじか夜暁(あけ)寒かりし」 の直接的表現は、 どこにもありません。 全体に流れる空気が寒々しさを感じますが、 秋に 「みじか夜」 はないでしょうし・・・・、 でも、 あれやこれや思い出して、- 巻三(五)の 「短夜(みじかよ)の空の今宵よりのほどなさは、 露の光などいひぬべき心地して、 明けゆけば後朝(きぬぎぬ)になる別れは、 いつの暮れをかと、 その期(ご)遥かなれば、」の部分を思い出して- が、 直接的だとも言えますが・・・・。  私が想うには、 (299)は、 晶子の思い違いが生んだ歌なのでは? と。 それ程、 編纂を急いでいたのではないか? と。 

 しかし、 いづれにしろ、 『みだれ髪 299』は、有明の月を意図した歌でしょう。 なぜなら、 これに関する表訳は、想いつかないし、 『みだれ髪 302』 と同様に、 舞妓の歌だとは考えられないからです。  

            【みだれ髪299 表訳】 ありません。

            【みだれ髪299 裏訳】 後深草院の慈悲 (扇の使い) にも関わらず、 なぜいつも悲しい境遇なのかと、 鳴く鹿の音にも涙を誘っています。 有明の月の子を身ごもる私の嵯峨の夜明けは、 寒々しいものです。

 

 雪の曙 (二条の恋人 西園寺実兼(さねかぬ))に対して ― 巻三(一六)・巻三(一八)

 

  巻三(一六) 大井殿の御遊

   両上皇歌ひたまひしに、 似る物なくおもしろし。 果ては酔(ゑ)ひ泣きにや、 古き世々の御物語など出で来て、 みなうちしをれつつ、 立ちたまふに、 大井殿の御所へ参らせおはします。 御送りとて、 新院御幸なり、 春宮大夫は心地(ここち)を感じてまかり出でぬ。 若き殿上人(てんじやうびと)二、三人は御供(とも)にて、 入らせおはします。

  巻三(一八) 亀山院の御慶び   

   御酒盛りは夜(よ)べにみなことども尽きて、 今宵はさしたることもなくて果てぬ。 東宮(とうぐう)の大夫(だいぶ)は、 風邪の気(け)とて、 今日は出仕(すし)なし。 「わざとならむかし」、 「まことに」など沙汰(さた)あり。 今宵も桟敷殿(さじきどの)に両院御渡りありて、 供御(ママ?)もこれにて参る。 御陪膳(はいぜん)両方を勤む。 夜も一所(ひとところ)に御寝(よる)になる。

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   巻三(一六) 身重になった二条が、 継母が住む嵯峨に宿下がりをして、 法輪寺に籠っていると、 大宮院(後深草・亀山両上皇の母后)の病気見舞いの為、 両院が御幸されたが、 女房もいないということで急遽呼び出される。 そこには、 二条の恋人、 東宮の大夫・西園寺大納言も参っておられたのだった。 女院の病気は脚気、 たいしたこともないということで、 快気祝いの祝宴が催される。 夜が更け、 皆、 御退出なさると、 後深草院は大井殿の御所へ、 その御送りと称して亀山院も一緒に御所に入られる。 東宮大夫は、「心地を感じて」退出する。  

   巻三(一八) 昨日は後深草院だったので、 今日は深草院の主催で祝宴が催される。 東宮大夫は、風邪だということで出仕しない。 皆は、 「わざとだろう?」 とか 「本当にそうだ」 とか噂をする。 二条は昨日と同様に、 両院が一緒にお寝みになられる所に伺候する。

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 私は、 二条との悲しい情を交わした四人が 『みだれ髪』 に詠まれているのに、 何故 「雪の曙」について、 何も詠まれていないのだろう? と思っていました。 なぜなら、 彼については、 良いイメージを持っていて、 例えば 「18 清水(きよみづ)へ祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)こよひ逢ふ人みなうつくしき」 みたいな歌が詠まれている、 と考えていたからですが・・・・、 (みだれ髪初出)で、 と見ると、 やっと 『みだれ髪 319』 だと気付いたのでした。 

   『みだれ髪 319』 そのなさけ今日舞姫(まひひめ)に強ひますか西の秀才(すさい)が眉よやつれし  (みだれ髪 初出)

 

 元々この歌は、 親の言い成りになって結婚する登美子が、 愛する人と添い遂げたい想いから発して、 鉄幹・晶子・登美子の三人が京都の宿に同宿して、 鉄幹と情を交わす様に計らわれた訳ですが、・・・・ これが後々の登美子の「躓(つまず)きの石」 となります。  この時期も逸した歌が、 (みだれ髪初出) として組み込まれているのです。 つまり、 この鉄幹と、 二条の窮地を救ってくれない雪の曙について詠んだ、 二重詠みの歌でした。 「西の秀才(すさい)」 は、共に 鉄幹と太政大臣にまでなった雪の曙であり、 「眉よやつれし」が、 鉄幹に対しては 「眉がニヤケています」。 雪の曙に対しては 「眉が窶(やつ)れています」 を意図しています。  

          【みだれ髪319 表訳】 その情交を、 今日、 登美子に強いますか? (今夜、 登美子と情交をしますか?) 京都の秀才であるあなた(鉄幹) の眉がニヤケていますよ。

          【みだれ髪319 裏訳】 その添臥しを、今日、 私(後深草院二条)に強いますか? (今夜、 後深草上皇と亀山上皇との情交を許しますか?) 京の都(みやこ)の秀才であるあなた(雪の曙)の眉が窶(やつ)れていますよ。

      

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 さて、 『みだれ髪』 舞姫 の章は、元来不思議な章だと思っていました。 これら二十二首のほとんどは、 京都の艶麗な舞妓の姿を詠んでいるとされている章にも関わらず、 私には、 どこにも舞妓の姿が見えなかったのです。 『みだれ髪』は、全て晶子自身が主役であり、 晶子に関わる鉄幹、登美子やその他、 晶子の想い人が登場し、 晶子が誰か知らない舞妓の歌などは、 どこにも存在していません。 にも関わらず、 「くれなゐの扇」 「くれなゐの襟にはさめる舞扇」 、 これらはいったい何なのか? が、 『とはずがたり』 を知ることにより、 糸が解けるように、 明快になっていきました。 

 舞姫の章は、 1番が、 二条が御所を追われる原因となった「(298)亀山院」の歌、 謂わば今上天皇の上皇であり、 最高位の人で始まり、 2番が、 一途に愛してくれ、二人の子まで生した「(299)有明の月」の歌。 3番が、 歌集を風呂敷包みに抱え、 雨に濡れながら東京に帰って行く、 今の鉄幹の姿。 4番が鉄幹との恋の歌、 を挿んで、 5番が、 幼い時から御所で一緒に暮らし、言わば家族同様の人、 上皇としての最高位者、 その女房であり、恋人であり、夫であり、 二条を追放した人、 愛しく、憎く、悲しく、恨めしい「(302)後深草院」。 そしてほぼ中央に位置する12番目の歌が、 最も凄惨な体験をした「(309)近衛の大殿」であり、 「舞姫」 という章の銘々の根幹を成す要因となったその事件。  舞姫の章の一番最後22番目が、 二条の恋人「(319)雪の曙」であり、 鉄幹との二重詠みでもある歌で終わっています。  

  これら初出の歌の配置が、 何よりの『とはずがたり』 との関係を示唆していると思いますし、また、 駆け落ちをして来た京都に、 晶子を置いてきぼりにした鉄幹の歌、(138)は、 暢気な鉄幹の様子を後深草院の様子を踏まえて詠んでいる歌なのですが、 これも『みだれ髪』 初出 と同時期の、 明治34年8月の『小天地』に初出していることもあって、  これらが、 初出に集中して詠まれたということは、 晶子は、 『みだれ髪』 編纂時に於いて、 『とはずがたり』 との重なりを完成させたかったに違いありません。

 さらに謂うなら、 後深草院(302)と、 近衛の大殿(309)の歌が、 明治34年1月の『明星 (舞姫)』が初出ですので、 晶子はその頃に『とはずがたり』 を通読したのではないでしょうか?

 

 

      参考文献: 『完訳日本の古典 三十八巻 とはずがたり 一』 校注・訳者 久保田 淳  (小学館 昭和60年4月 初版発行)

 


『枕草子』  清少納言

2013-02-10 01:34:45 | 古典

 

            清少納言 から蕪村、 そして晶子へ

 

 

         蕪村  「 冬鶯むかし王維が垣根哉    うぐひすや何こそつかす藪の霜    しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 

     蕪村が没したのは六十八歳、 天明三年十二月二十五日。 その前日に臨終の吟の三句を弟子の月渓に書き取らせています。  第一句の 王維は唐の詩人、 その家の垣根にも鶯が鳴いていただろうか、 というものです。 第二句は、今現在の蕪村の家。 そして第三句は、平安時代の清少納言 『枕草子 三十四段』 の 「朝露に濡(ぬ)れたる朝ぼらけの桜」 を、 想っていたのではないでしょうか? 蕪村は消え入る意識の中で、 過去(唐) → 現在(自宅) → 過去(日本・平安時代) 、 そして、 王維 → 自分(蕪村) → 清少納言 へと想いを廻らせていきます。 

       三十四段  ―  木の花は、濃きも淡きも紅梅

   四月(しぐわち)の晦(つもごり)、 五月(ごぐわち)の朔日(ついたち)のころほひ、 橘(たちばな)の葉の濃く青きに、 花のいと白く咲きたるが、雨うち降りたる早朝(つとめて)などは、 世になう心あるさまに、 をかし。 花のなかより、黄金の玉かと見えて、 いみじうあざやかに見えたるなど、 朝露に濡(ぬ)れたる朝ぼらけの桜に劣らず、 郭公(ほととぎす)のよすがとさふ思へばにや、 なほさらに、いふべうもあらず。

 「朝ぼらけの桜」 が、 蕪村の 「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」 です。 「桜」 と 「しら梅」 に違いがありますが、 清少納言が、「木の花は、 濃きも淡きも紅梅」 と言っていますので、 それに対抗して、蕪村が 「そりゃあ、 しら梅だろう」 と言っている姿を彷彿させます。  また、 「朝露」 が 「藪の霜」 であり、 「郭公」 が 「鶯」 へと変遷しています。   

       ― 『みだれ髪 132』 君が前に李春蓮説くこの子ならずよき墨なきを梅にかこつな     ; 「李春蓮」は、「李青蓮」の誤植。

 晶子も、この蕪村の三連句を見逃すはずがありません。 三句を一纏めにしたのが、(132) です。 「李青蓮 は、李白(青蓮は号)」のこと。 「王維」 が蕪村が一番好んだ「李白」へと変遷し、 「よき墨なき」は、 蕪村のように、 「良い句を詠めないこと」 を意味し。 「しら梅」 は 「梅」と合致しています。  また、三連句の一つと考えるなら、 第一句です。 

            【132 訳】〔表訳〕 君(鉄幹)の前で、李青蓮の詩を解説する私ではありません。 良い句が出来ないのを、 梅の所為(せい)にしないで下さい。

                    〔裏訳〕 私・晶子も 蕪村に習い三連句を詠もうとしましたが、 中々できるものではありません。 「冬鶯むかし王維が垣根哉」 に対峙。

        ― 『みだれ 髪 115』 ゆふぐれを籠へ鳥よぶいもうとの爪先(つまさき)ぬらす海棠の雨

 集中において、(115) の意図が解かりませんでしたが、 「いもうと」が、 尊敬している蕪村・ 歌の師である蕪村の妹 - 晶子自身を指していることが知れると、 自然と意図を持ってきます。 (115)も蕪村の三連句の総合であり、 単独に位置付けるなら、 第二句です。  「明る夜」 が 「ゆうぐれ」に対峙し、 「鶯」 が 「鳥」、 「藪の霜・しら梅」 が 「海棠の雨」でしょう。 「鳥よぶ」 が 鶯を呼ぶ、 でもあり、 蕪村を呼ぶ、 でもあります。 「いもうとの爪先」 は、晶子が蕪村の詩の域にまで到達しようと、背伸びをしている姿でもあります。 初出の 『明星 13号(明治34年5月)』 とは、趣の異なった歌となっています。 初出は、「鶏」と「褄(つま)さき」。

           【115 訳】〔表訳〕 夕暮に、 (庭の)海棠が雨に濡れ、 その雨が、 鳥籠へ小鳥を呼ぶ妹の爪先にも、 降りかかっています。  

                   〔裏訳〕 「うぐひすや何こそつかす藪の霜」 に対峙。 

         ― 『みだれ髪 248』 しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば  

 強いて言うなら、(248)が、蕪村の第三句でしょう。 「しら梅」 が同じ、 で、「蕪村の死」 が、 「君さらばさらば」 です。 初出は、(115)と同時期の作であり、 晶子が駆け落ちの京都に置いてきぼりされ、 鉄幹が一足先に東京に帰ってしまった時のものです。  「しら梅は袖に」 は、鉄幹と蕪村の三連作を話し合った、 もしくは、二人して、 歌を詠み合ったことを指すのでしょう。 「湯の香は下のきぬに」は、鉄幹と睦み合ったこと。 「かりそめながら君さらばさらば」は、 後で、 日にちを置いてから、 晶子が東京に行く、 という約束。   

            【248 訳】〔表訳〕 しら梅の歌を認(したた)め合い、 (華頂温泉の)湯の香と伴にあなたと睦み合いましたが、 暫くですが、 お別れしましょう。 (私が後から追い駆けますからね。)    

                    〔裏訳〕 「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」 に対峙。

 

 

           蕪村 「ゆく春やおもたき琵琶の抱きごゝろ」       

    八十九段 ― 上(うへ)の御局(みつぼね)の御簾(みす)の前にて、 殿上人、

   まだ御格子(みかうし)はまゐらぬに、 大殿油(おほとなぶら)差し出でたれば、 戸の開(あ)きたるがあらはなれば、 琵琶(びは)の御琴(おんこと)を、 縦(たた)ざまに、 持たせたまへり。 紅の御衣(おんぞ)どもの、 いふも世の常なる袿(うちぎ)、 また張りたるどもなどを、 あまたたてまつりて、 いと黒う艶やかなる琵琶に、 御袖をうちかけて把(とら)へさせたまへるだにめでたきに、 稜(そば)より、 御額(ひたひ)のほどの、 いみじう白うめでたく、 けざやかににて、 はづれさせたまへるは、 譬(たと)ふべきかたぞなきや。   

    ;(新潮社版 注) 格子がまだ上げたままになっているところへ、 中宮のお傍近く燭台が差し出されたので、 孫廂にいる殿上人たちから中宮のお姿が簾越にくっきり見える。 そこで中宮は、琵琶を膝の上に立てて転手(てんじゆ)の蔭に、 お顔を隠されたのである。 それでも、 転手の角(かど)から額だけは外れて見える。           

 蕪村の句は、 『枕草子 八十九段』の 御殿油で照らされた御簾を通して見える中宮(定子)が、顕わに見える自身の姿を恥らう気持ち、その気持ちのまま、 琵琶を弾いている姿を詠んでいるのだと思います。 

       ― 『みだれ髪 29』 人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴(をごと)にもたす乱れ乱れ髪

 蕪村が、 「琵琶を抱く・ ごころ」 と詠んだので、 晶子は、「小琴に凭れる・ 乱れ乱れ髪」 と詠みました。 「もたす」は、 凭す、 間をもたす、 耽(ふけ)る 、 の意です。

            【29 訳】〔表訳〕 鉄幹を帰さず、 暮れてゆく春の宵、 琵琶を弾いて間をもたせる乱れた私の気持ち。 

                   〔裏訳〕 情愛の晶子の気持ちです。    蕪村の句に対峙しています。

   

    

 『枕草子』 をテーマにしたことで、 一番困ったことは、 参考文献に何を選ぶか? ということでした。 私が読んだのは、いつもながらの『すらすら読める』や、小学館、岩波、新潮社などの、 図書館で普通に読める解説書でしたが、 これらの本は、何を定本にしているのか?  段も全て異なっているし、 無いのもある。 それを探すのも結構大変な作業でした。 (前のブログから日が経過している言い訳です。)  新潮社版【三巻本】のものが、 読み易く、 訳としても解かり易く、 一番優れているように思いましたが、・・・・ 素人なので、 良く分からないですが、 ここは根本的に理解しやすいように改竄しているのでは? と思われる部分もあります。  その点を補ってくれたのが、小学館版【能因本】のものですが、 この二冊の本を基本、参考とさせて頂きました。  簡単に目を通しただけですので、 やはりジックリ読むには、 数年かかってしまいそうです。  ・・・・で、 兎に角、 新潮社版のものを ここでは参考文献として、 提示させて頂きます。

   

               『枕草子』と『みだれ髪』の対比

  

     二段 ― ころは、 正月(しやうぐわち)・三月(さんぐわち)、 四月(しぐわち)・五月(ごぐわち)、

   祭ちかくなりて、 青朽葉(あをくちば)・ 二藍(ふたあゐ)の物どもおし巻きて、 紙などに、 けしきばかりおしつつみて、 いきちがひ持てありくこそ、 をかしけれ。 末濃(すそご)・むら濃なども、 つねよりはをかしく見ゆ。 

        ― 『みだれ髪 300』 春を細き雨に小鼓(こづつみ)おほひゆくだんだら染の袖ながき君       ; (こづつみ)のルビは、(こつづみ)の誤植。  

 (300)は、舞姫の章にあることもあり、 当然、 小鼓を抱えた舞妓の姿、 とされています。 しかし、晶子は、単なる舞妓の情景など詠んでいません。 全て、晶子自身に関して詠っているのが、『みだれ髪』なのです。 

 ここでは、 『枕草子』 の 「むら濃」が、 「だんだら染」であり、 「物どもおし巻きて、 紙などに、 けしきばかりおしつつみて、 いきちがひ持てありくこそ、 をかしけれ。(反物などを、巻いて、紙などに、申し訳程度に包んで、持ち歩き、その人々が往来しているのが、おもしろい。)」 を暗々裏に踏んでいると思います。

 これは舞姫についてでしょうか?  私は、 春雨に濡れ、 雨に濡れた着物がだんだら染めになり、 歌集を入れた風呂敷包みを小脇に抱えた鉄幹の姿を想定します。  そう、 (こづつみ) のルビが正解で、 漢字が「小包」 なのです。 晶子は、 常に、皆が理解する様に、 『みだれ髪』 を改定しています。 さらに、 鉄幹の着物は、 通常の労働する男性が着る袖の短い着物ではなく、 袖の長い着物を着ているのです。

           【300 訳】 春、 小雨が降る中を、 (歌集を包んだ風呂敷)包みを抱えた(鉄幹が、) 雨に濡れた着物をだんだら染めに濡らしながら帰って行きました。 その着物の袖は、長いです。 

 

 

      二十段 ― 清涼殿(せいらうでん)の丑寅(うしとら)の角(すみ)の、 北のへだてなる御障子(みさうじ)は、

    いと久しうありて、 起きさせたまへるに、『なほ、 このこと勝ち負けなくてやませたまはむ、 いとわろし』 とて、 下の十巻を、 『明日にならば、 異をぞ見たまひ合はする』 とて、『今日、 定めてむ』と、 大殿油(おほとなぶら)まゐりて、 夜ふくるまで読ませたまひけり。 されど、 つひに負けきこえさせたまはずなりにけり。 

       ― 『みだれ髪 350』 大御油(おほみあぶら)ひひなの殿にまゐらするわが前髪に桃の花ちる

 「大御油」は、「大殿油」のこと。 (350)は、『よしあし草』(明治33年4月)初出であり、この歌だけが集中に採られた。 三四版では、「村はづれひもも花さく板橋の橋のたもとを右へわかれぬ」を補入。 晶子は、歌の意味が解せないとすると、 同じ意味の別の歌を補入していますから、 酔茗に関係している歌として訳します。

 清涼殿において、村上天皇の御時、帝は、宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)に、古今集の歌二十巻の、「何の年、何の月、何の折、詠み手の歌」 などを当てさせる、 ということをした。 少しは間違いを見付けようとしたが、叶わず、十巻にもなってしまった。 一旦はお休みになられたものの、 「明日になれば、 違っていたところを見付けてしまう、 今日決着をつけよう」 として、 大殿油をお灯しになって続行したが、 結局、女御はお負けにならなかった。 

 という概要ですので、「よしあし草」の「新星会」に於いて、「大御油」を灯して夜更けまで歌を詠み合ったことを指すのではないか? と思われます。 「桃の花ちる」は、晶子の酔茗への恋が成就しなかったことをいうのでしょう。 集中に纂されることにより、 初出とは違った響きが生じるのかもしれません。

           【300 訳】 灯を灯して、(夜更けまで、歌を詠み合う仲でしたが、)恋が叶わず、 私の前髪が桃割れの儘、 終わってしまいました。

  

 

      二十五段 ― にくきもの。 急ぐことあるをりに来て、 長言(ながごと)する客人(まらうど)。

    蚤(のみ)も、 いとにくし。 衣(きぬ)の下に躍りありきて、 もたぐるやうにする。

       ― 『みだれ髪 211』 露にさめて瞳(ひとみ)もたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹

 (211)の「もたぐる」は、「瞳も、 手繰(たぐ)る」? もしくは「擡(もた)げる」?ー (頭を擡げる?)だと思っていました。 しかし、これはどこから来たのか? と不思議でなりませんでしたが、『枕草子』の「もたぐる」だと理解すると、 納得することが出来ました。 蚤が飛び跳ねる様子、 その躍動感と同じように「瞳もたぐる」、 瞳も飛び出す様に驚いた、 ということでしょう。 

 この時、晶子は駆け落ちの京都で待ち合わせをした鉄幹に 「あなたは後から日にちを置いて来なさい」 と告げられ、 置いてきぼりにされ、 その後京都から奈良、 信州方面など、を経て一週間以上を掛けて東京に向かいます。 その間野宿もしたでしょう。 その時の歌が(211)です。 この虹の出現によって、 駆け落ちをすることに不安を持っていた晶子を勇気付けました。 

           【211 訳】 (野宿をしていた私は、)露に目覚め、 瞳も飛び出すくらい驚きました。 そこには夢で見た虹その侭(まま)の虹が、 目の前に出現していたからです。 (これで私は、 希望を持って東京に向かいます。)  

 

 

      三十段 ― 説教の講師は、顔よき。

   説教の講師(かうじ)は、顔よき。 講師の顔をつと見守(まも)らへたるこそ、 その説く言(こと)の尊さも、 おぼゆれ。  ひが目しつれば、 ふと忘るるに、 「にくげなるは、 罪や得(う)らむ」 とおぼゆ。  この詞(ことば)、 停(とど)むべし。 すこし歳(とし)などのよろしきほどは、 かやうの罪得がたのことは、 書き出でけめ。 今は、 罪いとおそろし。  また、 「尊きこと」 「道心おほかり」とて、 「説教す」 といふ所毎に、 最初(さいそ)にいきゐるこそ、 なほこの罪の心には、 「いとさしもあらで」 と見ゆれ。

       ― 『みだれ髪 42』 旅のやど水に端居の僧の君をいみじと泣きぬ夏の夜の月

       ― 『みだれ髪 99』 漕ぎかへる夕船(ゆうぶね)おそき僧の君紅蓮(ぐれん)や多きしら蓮(はす)や多き

       ― 『みだれ髪 159』 経にわかき僧のみこゑの片明(かたあか)り月の蓮船(はすぶね)兄こぎかへる

       ― 『みだれ髪 229』 うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ

 『枕草子』でなくても、 『みだれ髪』には、僧が多く登場し、 鉄幹も元僧であったこともありますが、  美僧を彷彿させるものが詠まれています。 さらに『みだれ髪』の出発は、 晶子が鉄幹-詩歌の講師- に恋したことであり、 それが 「また、 「尊きこと」 「道心おほかり」とて、 「説教す」 といふ所毎に、 最初(さいそ)にいきゐるこそ、 なほこの罪の心には、 「いとさしもあらで」 と見ゆれ」 とあるように、 親に内緒で鉄幹と逢引を重ね、 それが東京への駆け落ちに発展したこと。 その罪の意識が、 『枕草子』のこの段に表れていると思います。    (訳は、既に記載していますので、 ここでは省かせて頂きます。)

 

 

      六十三段 ― 草は、 菖蒲(さうぶ)。

   沢潟(おもだか)は、 名のをかしきなり。 「心あがりしたらむ」 と思ふに。

       ― 『みだれ髪 167』 五月雨に築地(ついぢ)くずれし鳥羽殿(とばどの)のいぬゐの池におもだかさきぬ

 (167)は、幾度となく採り上げていますので、 ここでは「おもだか」について。 晶子は、清少納言の「「心あがりしたらむと」 とおもふに。」 に同意して、 歌に詠んだのでしょう。  実際に築地に沢潟が咲いていたかどうかは別として、 晶子に引き寄せて考えると、 期待して行った京都での新詩社の歌会に、 「心あがりした人」 がいて、 「築地(鉄幹への思い)が崩れてしまった」 ということではないでしょうか?   今まで気付かなかったですが、 意外と古典に、 ヒントが隠されているものですね。 晶子より先に「新詩社」に加入した美しい登美子を指しているのではないでしょうか。 怖いですねぇ・・・・。

          【167 訳】〔表訳〕 五月雨の中、(京都の歌会から帰る途中、車窓から想う)水無瀬宮、その土塀が崩れ、西北の池に、沢潟が咲いています。   

                  〔裏訳〕 歌の師匠である鉄幹の気を引けなかった私、 いつか歌の実力で、あの「心あがりした女」 を負かしたいです。 

 

 

      七十六段 ― 御仏名(みぶつみやう)のまたの日、 地獄絵の御屏風(みびやうぶ)とりわたして、

    御仏名(みぶつみやう)のまたの日、 地獄絵の御屏風(みびやうぶ)とりわたして、 宮にご覧ぜさせたてまつらせたまふ。 ゆゆしう、 いみじきこと、 かぎりなし。  「これ、見よ、見よ」 と、仰せらるれど、 さらに見はべられで、 ゆゆしさに、 小部屋(こへや)に隠れ臥しぬ。 ・・・・・・ ひとわたり遊びて、 琵琶弾(ひ)きやみたるほどに、 大納言殿、 「; 琵琶、 声やんで、 物語りせむとすること遅し」 と、 誦(ず)したまへりしに、 隠れ臥したりしも起き出でて、 「なほ、 罪は恐ろしけれど、 もののめでたさはやむまじ」 とて、 わらはる。           ; 『白楽天 巻12』 琵琶行 「怱チ聞ク水上琵琶ノ声。 主人ハ帰ルコトヲ忘レ 客ハ発セ不。 声ヲ尋ネテ 暗ニ問フ    弾ク者ハ誰ゾ。 琵,琶,声,停,欲,語,遅,」。  

         ― 『みだれ髪 108』 人まへを袂すべりしきぬでまり知らずと云ひてかかへてにげぬ

 『みだれ髪』は、 晶子の恋愛成就物語なのですが、 何故この歌が混じっているのか? が解けたような気がします。  「ゆゆしさに、 小部屋に隠れ臥しぬ。」 が同じで、「もののめでたさはやむまじ」 を暗々裏に踏んでいると思われます。  つまり、 イヤなことがあっても、和歌に親しみたい。 和歌と関わっていたい、 ということではないでしょうか?

           【108 訳】 〔表訳〕 人前で、袂から滑り落ちた絹手毬を、「知らない」と云って、 抱えて逃げました。 (子供の頃の思い出です。) 

                   〔裏訳〕 ? これ以上、 歌の師匠の鉄幹に逢いたくありませんが、 和歌の魅力には勝てません。

 

 

      七十七段 ― 頭の中将の、 そぞろなるそら言をききて、

   「かいをの物語なりや」 とて、 見れば、 青き薄様に、 いときよげに書きたまへり。 心ときめきしつるさまにもあらざりけり。 「 ;蘭省(らんせいの)花時(はなのときの)錦帳下(きんきんやうのもと)」 と書きて、 「末は、 いかにいかに」 とあるを、 いかにかはすべからむ。 「御前(ごせん)おはしまさば、 御覧ぜさすべきを、 これが末を、 知り顔に、 たどたどしき真字(まんな)書きたらむも、 いとみぐるし」 と、 思ひまはすほどもなく、 責めまどはせば、 ただ、 その奥に、 炭棺(すびつ)に消え炭のあるして、 「; 草の庵(いほり)を誰(たれ)かたづねむ」 と書きつけて、 とらせつれど、 また、 返りごともいはず。 みな寝て、 つとめて、 いと疾く局に下りたれば、 源(げん)中将の声にて、 「ここに、『草の庵』やある」 と、 おどろおどろしくいへば、 「あやし。 などてか、 人気(ひとげ)なきものはあらむ。 『玉の台(うてな)』ともとめたまはましかば、 いらへてまし」 といふ。 ・・・・・・・・・・     「 夜べありしやう、 ・・・・・・   さばかり降る雨のさかりにやりたるに、 いと疾(と)く還(かへ)り来、 『これ』 とて、 差し出でたるが、 ありつる文なれば、 『返してけるか』 とて、 うち見たるに合はせて、 をめけば、 『あやし』 『いかなることぞ』 と、 みな寄りて見るに、 『いみじき盗人(ぬすびと)を。 なほ、 得こそ思ひ捨つまじけれ』 とて、 見さわぎて、 『これが本(もと) 付けてやらむ』 『源中将付けよ』 など、 夜更くるまで付けわづらひて、 やみにしことは。 『行く先も、 語り伝ふべきことなり』 などなむ、 みな定めし」  

     『白楽天- 巻十七 廬山(ろざん)ノ草堂夜ノ雨ニ独リ宿ス』 の第三句 (花やかな中央の官庁の錦の帳(とばり)の下で、卿(けい)らは、 さぞ楽しいであろう) の意。  ― 第四句目 「廬山ノ雨ノ夜ノ草庵ノ中(うち)」 を要求される。 ; (注 新潮社版)

     『公任集』 に 「いかなるをりにか『草の庵を誰かたづねむ』 との給ひければ、 蔵人たかただ 『九重(ここのへ)の花を都をおきながら』」 とある連歌の、 公任が出題した下の句を借りた。 

      七十八段 ― かへる年の二月廿余日、 宮の、

   「『西の京といふところの、 あはれなりつること。 もろともに見る人のあらましかばとなむおぼえつる。 垣などもみな旧(ふ)りて、 苔生ひてなむ』 など語りつれば、 宰相の君の、 『瓦(かはら)に松はありつるや』 といらへたるに、 いみじうめでて、 『西の方(かた)、 都門(ともん)を去れること、 いくばくの地ぞ』 と、口ずさみつること」 など、 かしがましきまでいひししこそ、をかしかりしか。

        ― 『みだれ髪 131』 道たま ゝ 蓮月が庵のあとに出でぬ梅に相行く西の京の山

  晶子は、 『枕草子』の中で、 七十七段 と 七十八段 を最も好んだでしょう。 それは、(131)に表出しています。  

 清少納言が、 返歌した公任の句「草の庵を誰かたづねむ」ですが、それは  晶子は、『これが本を付けてやらむ』 というよりも、(131) と共に、 連歌を創作したのではないか? と思います。  

            【131 訳】 〔表訳〕 散歩途中、 偶然、太田垣蓮月の庵の跡に出ました。 梅を見ながら(鉄幹と)二人で行く西の京の山です。

                     〔裏訳〕  『草の庵を誰かたづねむ』   公任                          (発句)

                            『道たまたま蓮月が庵のあとに出でぬ』  晶子                  (第二句)

                            『もろともに見る人のあらましかばとなむおぼえつる』  斉信(頭の中将)  (第三句)

                            『梅に相行く西の京の山』  晶子                           (第四句)   

                          

   

      七十八段 ― かへる年の二月廿余日、 宮の、 

    御簾(みす)のうちに、 まいて若やかなる女房などの、 「髪うるはしくこぼれかかりて」 などいひめたるやうにて、 もののいらへなどしたらむは、 いますこしをかしう、 見どころありぬべきに、 いとさだすぎ、 ふるぶるしき人の、 髪なども我がにはあらねばにや、 ところどころわななき散りぼいて、 おほかた色ことなるころなれば、 あるかなきかなる淡鈍(うすにび)、 あはひも見えぬ際衣(きはぎぬ)などばかりあまたあれど、 つゆの映えも見えぬに、 おはしまさねば、 裳(も)も着ず、 袿姿(うちぎすがた)にてゐたるこそ、 ものぞこなひにて、 口惜(くちを)しけれ。

       ― 『みだれ髪 339』 朝の雨につばさしめりし鶯を打たむの袖のさだすぎし君

 七十八段の「さだすぎ」は、 ふるぶるしき人・歳をとった女、 を意味しますが、(339)の 「さだすぎし」 は、「沙汰・過ぎし- 行ないが過ぎる → やりすぎ 」。  「さだすぎし君」 で、歳をとった女、 とされていますが・・・・、 鉄幹のこと。 「遣りすぎのあなた」 の意。  何故、 「さだすぎ」の語彙がイメージされたのか? は、やはり、『枕草子』のこの部分、 晶子は、 東京に到着した時、 乞食みたいな酷い恰好だったからです。 何しろ、 一週間以上の放浪の旅だったのですから・・・・。  次の(361)と対の歌。

           【339 訳】 朝の雨に濡れた翼の鶯を、 袖で打つような、遣りすぎのあなた。 

 

 

      七十九段 ― 里にまかでたるに、 殿上人などの来るをも、

    「明日、 御読経(みどきやう)の結願(けちぐわん)にて、 宰相の中将、 御物忌(おんものいみにこもりたまへり。 『妹(いもうと)のありどころ、 申せ申せ』 と、 責めらるるに、 術(ずち)なし。 さらに、 得(え)隠しまうすまじ。 『さなむ』 とやきかせたてまつるべき。 いかに。 仰せに従はむ 」 といひたる、 返りごとは書かぜ、 布(め)を一寸ばかり、 紙につつみてやりつ。 

       ― 『みだれ髪 361』 結願(けちぐわん) のゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ

 『枕草子』 では、宰相の中将が、御読経の結願の日、ということで、 物忌に籠っていますが、 (則光は)妹の場所を申せと責められます。  『みだれ髪 361』 でも、 結願が叶い、 放浪していた晶子が、 東京に到着することによって、 晶子の存在が明らかとなるのです。 晶子の古典を通暁していた気持ちを理解すると、 難解とされる歌も・・・・少し薄められるようです。

 晶子は、 駆け落ちの東京に、 雨の昨夜、 到着しました。 - 「結願(けちぐわん) のゆふべの雨に」。 しかし、 迎えた新詩社の人々には、 とても受け入れられる状態ではありませんでした。 それが 「花ぞ黒き」 であり、 到着した喜びとは裏腹のものでした。 そして、 「こちたき髪」-鬱陶しい髪が、 (切って) 軽くなりました。  (切って)が欠落し、全般が所謂 〔舌足らずの歌〕 ということでしょう。 

            【361 訳】 東京に到着した(結願の)昨夜の雨に、 喜びも暗かったですが、 (長く伸びた)鬱陶しい髪を(切って)少しはスッキリしました。 

 

     

 


 続  『枕草子』  

2013-02-04 17:27:38 | 古典

        

            『枕草子』 と 『みだれ髪』の対比 

 

         九十四段 - 五月(ごぐわち)の御精進(みさうじ)のほど、 職(しき)におはしますころ、

    (94段 新潮社版) 「ところにつけては、 かかることをなむ見るべき」 とて、 稲といふものを取り出でて、 若き下種(げす)どもの、  きたなげならぬ、 そのわたりの家の娘など、 ひきもて来て、 五六人して扱(こ)かせ、 また、 見も知らぬくるべきもの、二人して挽かせて、 歌うたはせなどするを、めずらしくて笑ふ。 「郭公(ほととぎす)の歌詠まむ」 としつる、 まぎれぬ。

   * (104段 小学館版) 「所につけては、かかる事をなむ見るべき」 とて、稲といふものおほく取り出でて、 若き下衆女(げすをんな)どもの、 きたなげならぬ、 そのわたりの家のむすめ、 女などひきゐて来て、 五六人してこかせ、 見も知らぬくるべき物ふし、 二人して引かせて、 歌うたはせなどするを、 めづらしくて笑ふに、 郭公の歌よまむなどしたる、 忘れぬべし。

            ― 『みだれ髪 183』 次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみぢかき   

  新潮社版は、「くるべきもの」 の訳として 「くるくる回るもの」。  小学館版は、 「くるべき物ふし」 として、― 不審。 『和名抄』蚕糸具に「反転」 を 「クルベキ」 と よんでいる。 糸をよる機械であるが、 それに類した精米機械か。 ただし 「くるべき」 を名詞とすると 「物ふし」 がいよいよ不審。 一説 「くるべき物」 は 「くるくる回る物」。 それも 「ふし」は不審。 三本「くるべく物」 マ本「くるめく物」、 ともに「ふし」はない。―

 これらの「くる」は、 全て「繰る」です。 新潮社版の「くるべきもの」は、 米を機械 ‐「繰るべき物」に入れて、 二人で回して、挽かせる。  小学館版の「くるべき物ふし」は、「歌うたはせなどする」 に掛かり、「繰りながら歌う、唄の節」 の意。 三本は、「繰るべく物」。 マ本は、「繰るめく物」、 もしくは、 くるくる回る物」。  「くるべき」 は、名詞ではなく 「繰る・べき」であって、 繰る(動詞) + 「べき」も「べく」も 助動詞。

           【小学館版の訳】 (名順は、)折角の所ですので、 こういう事を見ておくべきです」 として、 こざっぱりした若い下々の女達の、その辺りの家の娘や女などを連れて来て、 稲という物を沢山取り出し、 五六人で扱(こ)かせ、 見も知らない物を二人で繰りながら唄う歌節を唄わせるのを、 (私‐清少納言は、)珍しくて笑っているうちに、 郭公の歌を詠まねばならいことなど、忘れてしまいました。  

 (183)の「あま戸そとくる」は、 雨戸を外に繰る。 雨戸を繰って、 開けるの意。

           【183 訳】 次の間(鉄幹と登美子の次の部屋)の雨戸を外に繰っている私(晶子)を呼び止めて、 (登美子が、)「秋の夜は、長かったですか、短かったですか?」 と訊いてきました。

 

 

      百四十三段 ― 胸つぶるもの。 競馬(くらべむま)見る。

    例のところならぬ所にて、 殊にまだいちじるからぬ人の声ききつけたるはことわり、 こと人などの、 そのうへなどいふにも、 まづこそつぶるれ。

 平安時代は、(ここでは恋人以前の)声であったり、噂話を聞きつけると、胸がドキドキしましたが、 明治も含めて現在人は、やはり顔を見て、 ドキドキ感が増します。 聴覚から視覚への移行かなぁ。

       ― 『みだれ髪 110』 ほの見しは奈良のはづれの若葉宿(わかばやど)うすまゆずみのなつかしかりし

 「ほの見し」 は、「仄かに見る」 と 「惚れて、 見とれる」 を意図する。 「薄眉」は、 鉄幹の特徴的な眉。 駆け落ちの東京へ行く途上、奈良に立ち寄った時の出来事。

           【110 訳】 ちらっと見たのは、奈良の端づれの若葉が美しい宿、 (その人の-鉄幹の) 薄い眉が似ていて、 恋し懐かしく思いました。 (これから、 鉄幹の後を追って東京に向かいます。)

       ― 『みだれ髪 166』 おもざしの似たるにまたもまどひけりたはぶれますよ恋の神々

 『明星四号- 露草(明治33年7月)』 に掲載。 酔茗が去り、 鉄幹と出会い始めた頃の作。 「恋の神々」は、酔茗と鉄幹の二人と、恋の神様。

          【166 の訳】 (二人に)顔が似ている人々に出会って、またも惑います。 恋の神様は、からかっていらっしゃるのですね。 

 

 

      百四十五段 - 人映(ば)えするもの。 ことなることなき人の子の、

    あなたこなたに住む人の子の、 四(よ)つ、 五(いつ)つなるは、 あやにくだちて、 もの取り散らし、 そこなふを、 引き張られ制せられて、 心のままにも得あらぬが、 親の来たるに、 所得て、 「あれ見せよ。 やや、 母」 など、引きゆるがすに、 大人どもの、 ものいふとて、 ふともきき入れねば、 手づから引き探し出でて、 見騒ぐこそ、 いと憎けれ。 「まな」 とも取り隠さで、 「なさせそ」 「そこなふな」 などばかり、 うち笑(ゑ)みていふこそ、 親も憎けれ。 われ、 はた、 得はしたなうもいはで見るこそ、 心もとなけれ。

       ― 『みだれ髪 126』 春の川のりあひ舟のわかき子が昨夜(よべ)の泊(とまり)の唄(うた)ねたましき

 「四(よ)つ、 五(いつ)つなるは、 あやにくだちて、・・・・見騒ぐこそ、 いと憎けれ。」 そのままの歌。 「われ、 はた、 得はしたなうもいはで見るこそ、 心もとなけれ。」 を暗々裏に踏んでいます。

          【126 訳】 春の川の遊覧舟に乗り合わせた子供が、( 騒がしく、同宿した)昨日の夜の宿でも 騒がしく、 本当に憎たらしいです。

 

 

      百五十四段 ― 故殿(ことの)の御服(おんぷく)の頃、 六月(ろくぐわち)の晦(つもごり)の日、

   時づかさなどは、 ただかたはらにて、 鼓(つづみ)の音(おと)も、 例のには似ずぞきこゆるをゆかしがりて、 若き人々二十人ばかり、 そなたにいきて、 階(はし)より高き屋にのぼりたるを、 これより見上ぐれば、 あるかぎり淡鈍(うすにび)の裳(も)・唐衣(からぎぬ)、 おなじ色の単襲(ひとへがさね)、 紅(くれなゐ)の袴(はかま)どもを着てのぼりたるは、 いと「天人」などこそ得いふまじけれど、「空より降りたるにや」 とぞ見ゆる。 おなじ若きなれど、 押し上げたる人は、 得まじらで、 羨ましげに見上げたるも、 いとをかし。        

       ― 『みだれ髪 37』 さて責むな高きにのぼり君みずや紅(あけ)の涙の永劫(えうごふ)のあと       ;「えうごふ」は、「やうごふ」の誤り、 とか(坂本政親)。

 集中初出の歌で、 実際のところ、 よく解かりません。 思想的内容の歌、とされていますが、 晶子は、一度も思想的な歌を詠んだことはありません。 『枕草子』を挙げたのは、「高き屋にのぼりたるを」のフレーズのみです。 その高見から見下ろした高揚感と、 それに引き替え、若い女房達の太政官庁の東舎(朝食所・アイタンドコロ)の生活は、くちゃくちゃです。 こういうことから、 鉄幹が色々考えてくれているのに、・・・・晶子の身勝手さを指しているのではないか? と思いました。      参考; (297) こもり居に集(しう)の歌ぬくねたみ妻五月(さつき)のやどの二人うつくしき

          【37 訳】 ? さて、 頭に血が上って現実を省みられなかったことを責めないで下さい。 血の涙を激しく流した後。  (あなたが、どんなに私のことを思って下さっていらしたことか・・・・。)

  ( 晶子が東京から衰弱して、京都の宿に静養していた時、 鉄幹が歌集『みだれ髪』を出版したいとの意向を告げた時?)               

 

 

      二百十一段 ― 九月二十日あまりのほど、

   九月(くぐわち)二十日(はつか)あまりのほど、泊瀬(はせ)に詣(まう)でて、 いとはかなき家に泊りたりしに、 いと苦しくて、 ただ寝に寝入りぬ。 夜更けて、 月の、 窓より洩りたりしに、 人の、 臥したりしどもが衣(きぬ)の上に、 白うて映りなどしたりしこそ、 「いみじうあはれ」 と、 おぼえしか。 さやうなるをりぞ、 人、 歌詠むかし。

     ― 『みだれ髪 47』  額(ぬか)ごしに暁(あけ)の月みる加茂川の浅水色(あさみづいろ)のみだれ藻染(もぞめ)よ

 清少納言の 「「いみじうあはれ」 と、 おぼえしか。さやうなるをりぞ、 人、 歌詠むかし」 に応じて詠んだ歌が、『みだれ髪 47』 だという気がします。 「いとはかなき家に泊りたりしに、 いと苦しくて、 ただ寝に寝入りぬ。」 が、鉄幹や新詩社の人々の間で、東京の生活に疲れ果て、 関西に帰り、 京都の賀茂川辺の旅館で寝込んでいた時の晶子の心境です。 夜が更けて、月が明るく窓より差し込む。 -「月の、 窓より洩りたりしに、 人の、 臥したりしどもが衣(きぬ)の上に、 白うて映りなどしたりしこそ」 そして晶子は、 額ごしに賀茂川を見ます。  みだれ藻染に蠢いている加茂川の水。 ここは、 とても悲しい気持ち、 複雑な気持ちが、みだれ藻染として表現されています。

           【47 訳】 (賀茂川辺の旅館で寝ている私は、)夜が明け始めた月を眺めると、 その月に照らされた加茂川の浅い水中に藻が蠢いて見え、 浅水色のみだれ藻染の様です。

 

 

     二百二十段 ― 万(よろ)づのことよりも、わびしげなる車に、  

  * (220段 新潮社版) 殿上人、 ものいひにおこせなどし、 所の、 御前駆(ごぜん)どもに水飯(すいはん)食はすとて、 階(はし)のもとに馬ひき寄するに、 おぼえある人の子どもなどは、 雑色など、下(お)りて、 馬の口取りなどして、 をかし。      

  * (214段 小学館版) 殿上人の物言ひおこせ、 所々の御前どもに、 は水飯(すいはん)食(く)はせて、 桟敷(さじき)のもとに、 馬引き寄するに、 おぼえある人の子どもなどは、 雑色(ざふしき)などはおりて、 馬の口などとてをかし。 

  ―新潮社版と小学館版の定本の違いから、 新潮社【雑色など、下(お)りて、 馬の口取りなどして、 をかし。】 小学館【 雑色(ざふしき)などはおりて、 馬の口などとてをかし。】 ですが、 ここは小学館版のものがより原書に忠実でしょう。 「とてをかし」 であって、 「をかし」 の語彙は、どこにも存在しません。 

 

 【馬の口などとてをかし】 の 「とてをかし」 は、 「取っておく = ~して(取る・動詞)おく」 + 「~しよ(する・動詞)かし」 という構成だと思われ、 今も使われている京都弁? に通じるものがあります。   ニュアンス的に言うと・・・・、 相手の対象(雑色など)が、(勝手に)、 自動的に行為をする、 ということでしょうか。

      【小学館版の訳】 (私の車に)殿上人が挨拶の使いを寄こしたり、 水飯を振舞うために、 あちこちの御前駆の者達が桟敷のもとに馬を引き寄せると、 名のある家の子供などには、 雑色などは(座敷から)下りて、 馬の口など取っておきます。 (馬の口金を取って、繋いでおきます。)  (つまり、 重要な家の子息の馬は、 丁寧に扱い、 保管しておく、という意。)

 

 この部分かどうか分かりませんが、 晶子も『みだれ髪』に於いて、 敏感に反応していますので、 ここでは『みだれ髪』の方言についてお話したいと思います。

       ― 『みだれ髪 129』 小川われ村のはづれの柳かげに消えぬ姿を泣く子朝見(あさみ)し

 「われ」は、一人称の私ではなく、 二人称に対する呼びかけの「あなた」、「小川よ」の意。

           【129 訳】 小川よ、 あなたは、村の外れの柳陰に、 泣きながら姿を消していった子(私・晶子)を朝、見ましたよね。

       ― 『みだれ髪 214』 袖にそむきふたたびここに君と見ぬ別れの別れさいへ乱れじ      ; 「袖」は、「神」の誤植。   ; 再版 「神にそむきふたたびこゝに君と見ぬわかれのわかれさ云へみだれじ」

 「さいへ」は、明らかに方言と解かるものですが、 後に「 さ云へ (とは云うものの) 」と改定していますが、 初版では、「際(さい)でさえ」 という意図でしょう。

           【214 訳】 神様に背いて、再びあなたとお逢いしましたが、別れ別れになる時でさえ、 情熱的に愛し合いました。 

        ― 『みだれ髪 226』 ひとつ血の胸くれなゐの春のいのちひれふすかをり神もとめよる

 「もとめよる」は、「求め寄る」と解釈されているようですが、 これも方言であり、 「~し(動詞)よる」 。 相手が能動的に行為をする、という意図を持っています。 具体的には、 晶子にその気持ちがないのに、 鉄幹がそれを求める。 平伏(ひれふ)す・かをり・を、鉄幹が求めるのです。 

           【226 訳】 あなただけを心底愛しています、という青春の息吹、 それを全て奉げるように鉄幹は求めます。 

       ― 『みだれ髪 255』 夜の神のあともとめよるしら綾の鬢の香朝の春雨の宿

 同じく「もとめよる」は、「求め寄る」ではなく、上記と同様です。 こちらは、晶子の気持ちと関係なく、 晶子の肉体が能動的に「夜の神(鉄幹)のあと」 を求めています。

           【255 訳】 鉄幹の情愛の後を、 (晶子の気持ちと関係なく、肉体が) 白綾の着物に移った鬢の香りを求め、 その香りが朝の春雨の宿に漂っています。

        ― 『みだれ髪 264』 行く春の一絃(ひとを)一柱(ひとぢ)におもひありさいへ火(ほ)かげのわが髪ながき

 「さいへ」は、 「さ云え」 であり、こちらは正真の「とは云うものの」の意。  「わが髪ながき」は、怨みで髪が長い。         

           【264 訳】 過ぎ行く晩春の、一舜一舜に思い出があります。 とは云うものの、 燈火に照らされた私の髪の影は長く、 (鉄幹、あなたを怨んでいます。)

        ― 『みだれ髪 389』 柳あをき堤にいつか立つや我れ水はさばかり流れとからず

 「流れとからず」は、「流れ・疾(と)からず」ではなくて、 川の水が流れていなければいけないのに、 流れていない状態のことを云います。 ここに示した方言は、 どれも対象の状態を表現している・ 対象の能動態の言葉なのでは? と思いますし、 こういう言い回しは、古典でもよく見られるものです。

           【389 訳】 柳が青々としている川の堤に、 私が何時か立つ時が来るのでしょうか? (自殺をしようと思い、川を見ると)水は少ししか流れていなくて、 (ここでは自殺出来そうにありません。)

 

 

      二百四十九段 ― 世の中に、なほいと心憂きものは、 

    世の中に、 なほいと心憂きものは、 人に憎まれむことこそあるべけれ。  誰てふもの狂ひか、 われ「人にさ思はれむ」 とは思はむ。 されど、 自然(しぜん)に、 宮仕へ所にも、 親・ 同胞(はらから)のうちにても、 想はるる・想はれぬがあるぞ、 いとわびしきや。 

        ― 『みだれ髪 393』 庫裏(くり)の藤に春ゆく宵のものぐるひ御経(みきやう)のいのちうつつをかしき

 「世の中に、 なほいと心憂きものは、 人に憎まれむことこそあるべけれ。」 を暗々裏に踏み、 「ものぐるひ」を導き出しています。 「庫裏」・「御経のいのちうつつおかしき」 から、堺の僧侶、鉄南を指しているでしょう。

          【393 訳】 庫裏の(中)、藤の花が咲く宵、(僧侶の鉄南が)情愛を求めました。 お経の効力が全然ないものでしょうか。

 

 

      二百五十八段 ― 嬉(うれ)しきもの。 まだ見ぬ物語の、一を見て、  

    日来(ひごろ)月来(つきごろ)、 しるきことありて悩みわたるがおこたりぬるも、 嬉し。 想ふ人のうへは、 わが身よりもまさりて、 嬉し。

       ― 『みだれ髪 15』 春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花(ばいくわ)のあぶら  

 「日来(ひごろ)月来(つきごろ)、 しるきことありて悩みわたるがおこたりぬるも、 嬉し。」 を暗々裏に踏み、 思い悩み続けていた事が、「しるきこと」であり、 それが「髪か梅花(ばいくわ)のあぶら」の匂いである、と 「印し」 の掛詞。 晶子の奔放さには、 敬服します。

           【15 訳】 (私‐晶子の我が世の)春、 恋の世界の夜明け。 待ち遠しかったことが、 髪か梅花の油の匂いに表れています。

 

 

      二百七十五段 ― 常に文おこする人の、 

   常に文おこする人の、 「なにかは。 いふにもかひなし。 いまは」 といひて、 またの日、 音もせねば、 さすがに、 「明け立てばさし出づる文の見えぬこそ、 寂々(さうざう)しけれ」 と思ひて、 「さても、 際々(きはぎは)しかりける心かな」 といひて、 暮らしつ。  またの日、 雨のいたく降る。 昼まで音もせねば、 「無下(むげ)に思ひ絶えにけり」 などいひて、 端のかたにゐたる夕暮に、 笠さしたる者の持て来たる文を、 常よりも疾く開けて見れば、 ただ、 「水増す雨の」 とある、 いと多くよみ出だしつる歌どもよりも、 をかし。

       ― 『みだれ髪 42』 旅のやど水に端居(はしゐ)の僧の君をいみじと泣きぬ夏の夜の月

  『枕草子』の、「「さても、 際々(きはぎは)しかりける心かな」 といひて、 暮らしつ。」 という気持ちで、 東京から疲弊して戻り、 京都の旅館に暮らしていた晶子に、 鉄幹がやって来ます。  『枕草子』では、清少納言が「端のかたにゐたる夕暮に」 (端近に座っていた夕暮に) でしたが、(42)では、 鉄幹が端居しています。 つまり、 『枕草子』 の 「無下(むげ)に思ひ絶えにけり (ひどく見限るれたものねえ‐ 新潮社訳)」 を暗々裏に踏んでいるのです。

           【42 訳】 (東京から戻り、 実家にも帰れず京都の旅館に滞在していた私の元に、 鉄幹がやって来ました。) 旅館の川辺の端近くに座った元僧の鉄幹に、 私が 「酷い」 と言って泣くのを、 夏の夜の月が照らしていました。 

 

 

       二百八十六段 ― うちとくまじきもの。 似而非(えせ)もの。

    屋形(やかた)といふものの方(かた)にて押す。 されど、 奥なるは頼もし。 端(はた)にて立てる者こそ、 目眩(めく)るる心ちすれ。 「早緒(はやを)」 とつけて、 櫓(ろ)とかにすげたるのの、 弱げさよ。 かれが絶えば、 何にかならむ。 ふと落ち入りなむを。 それだに、 太くなどもあらず。

       ― 『みだれ髪 239』 春をおなじ急瀬(はやせ)さばしる若鮎の釣緒(つりを)の細うくれなゐならぬ      ; 「細う」は「細緒」の誤植。

 誤植についてですが、 私は、このママでも良いと思います。 恐らく、晶子は 「細う、紅ならぬ ‐ 細くて、紅ではない」と詠んだのですが、 新詩社の人々にされ問題とされたのでしょう。  集中では、よくあることだったと思います。

 「春をおなじ急瀬(はやせ)さばしる若鮎」は、 鉄幹に同じ様に恋をするライバル女性達と晶子のこと。 (239) は、 『枕草子』 の 「「早緒(はやを)」 とつけて、 櫓(ろ)とかにすげたるのの、 弱げさよ。 かれが絶えば、 何にかならむ。」 を暗々裏に踏み、 その恋のライバルの中で、晶子の不安を顕現しています。  「若鮎の釣緒(つりを)の細うくれなゐならぬ」 は、鉄幹の私への思いが薄く、情熱的ではない、の意。

          【239 訳】 (青春の恋を同じくする私達のように、)春の急流を走る若鮎。 それを(鉄幹の私を)釣り上げる釣緒が細く、情熱的ではありません。

 

 

        参考文献 ; 新潮日本古典集成 枕草子 上下 (校注者 萩谷 朴) 新潮社(昭和52年5月 初版)

                 日本古典文学全集 11 枕草子 (校注・訳者 松尾 聡 永井和子) 小学館(昭和49年4月 初版) 

                 現在語訳 日本の古典 枕草子 (秦 恒平) 学研社

                 すらすら読める 枕草子 (著者 山口仲美) 講談社  2008年6月

 

 


『土佐日記』

2012-10-14 16:58:10 | 古典

 

  をとこ(男)もすなる日記といふものを、 をむな(女)もしてみんとてするなり。 それのとしのしはす(十二月)のはつかあまりひとひ(二十一日)のいぬ(戌)のときに、 かどです。 そのよし、 いさゝかにものにかきつく。

 ではじまる『土佐日記』、 高校の古典の時間にやったような気もするけれど、 殆ど記憶にありませんでした。 貫之は、『土左日記』としたためていたそうですが、 今回このテーマにしたのは、 図書館で『すらすら読める 土佐日記』 林望 著(2005年 講談社)を見付けたからです。 本当に芸能人の本なみにすらすら (例えが悪くてスミマセン) 読めました。  初心者が、端的に的確な知識を得られる誠に優れた翻訳本であり、解説書です。 本の大きさも小振りで良かったです。 こういう本を作って頂くと、 古典も身近なものになりますよね。 特に林望(はやし のぞむ)さんの造詣の深さ (学者さんですから当たり前ですよね・・・・) に驚かされましたし、 文体も愉快で、 全くもって貫之の意図した筆法を真に会得していらっしゃる。 現代版 『土佐日記』 を読んでいるようで、 楽しかったです。

 

                   『土佐日記』と『みだれ髪』の対比

 

  廿七日(はつかあまりなのか) 〔承平(じょうへい)四年 934年12月27日〕 

  「をしとおもふひとやとまるとあしがものうちむれてこそわれはきにけれ」 

 

   『みだれ髪』(52) うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今  

  『みだれ髪』(52)は、 『新派和歌評論』(黒瞳子-平出修 明治34年11月)の所説によるのが一般的解釈ですが・・・・、 初出は、 明治34年3月 『明星』(おち椿)中であり、 始めて鉄幹と粟田山に宿泊した時のものでしょう。 その晶子の心は、 上記の『土佐日記』「惜しと思う人やとまると 葦鴨のうち群れてこそ我れは来にけり」 を踏み、 惜しい、 素晴らしい、 雲の上の人である鉄幹を敬愛する余り、 鉄幹をこちらに向かせたい一心で・・・・、葦鴨のうち群れるようにして・・・・、 鉄幹に請われるままに京都にやって来たことを示しています。 そしてその願いを果たした (関係を持ってしまった) 今、 それが良かったのかどうか、 自ずと後悔の念が持ち上げているのではないでしょうか。 

         【訳】 関係を持ってしまったことを、 後悔しはじめています。 鉄幹に近付きたいという願いを果たしてしまった今・・・・。

 

 

 十一日(とをあまりひとひ) 〔承平五年 935年1月11日〕

   いまし、 はねといふところにきぬ。 わかきわらは、 このところのなをきゝて、 「はね(羽根)といふところは、 とりのはねのやうにやある。」 といふ。 まだをさなきわらはのこと(言)なれば、 ひと ヾ わらふときに、 ありけるをんなわらは(女童)なん、 このうたをよめる、              

           まことにてな(名)にきくところはねならばとぶがごとくみやこへもがな                     

 とぞいへる。 をとこもをんなも、 いかで、 とく京(きやう)へもがなとおもふこゝろあれば、 このうたよしとにはあらねど、 げにおもひて、 ひと ヾ わすれず。 このはねといふところとふわらはのついでにぞ、 またむかしへびとをおもひいでて、 いづれのときにかわするる。 けふははゝのかなしがることは、 くだりしときのかずたらねば、 ふるうた(古歌)に、 「かずはたらでぞかへるべらなる。」 といふこと(言)をおもひいでて、 ひとのよめる、            

           よのなかにおもひやれどもこをこふるおもひにまさるおもひなきかな                 

とおひつゝなん。 

  

      『みだれ髪』(357) 狂ひの子われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき百二十里あわただしの旅  

      『みだれ髪』(149) うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君  

  『土佐日記』 前者と後者の歌は、『みだれ髪』(357) と(149)に対応しています。 前者は、 「羽根」 という地名から想像して、 「ここが羽ならば、 はやく都に帰りたい」 という歌を踏んで、 晶子は鉄幹との駆け落ちの東京(都)への旅を 「翅かろき」 と詠んでいます。 一方、 (149)は、「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひに勝る思ひなきかな」を踏み、 母の立場から、子を愛しく思う気持ちが歌われています。 

         【訳】(357) 狂った私は、羽が生えたように急いで(駆け落ちをする為に)、慌しく、 東京へ向います。 

         【訳】(149) 藤の花が咲く朝、 (母が) 私の項(うなじ)に手をやって(後れ毛を身繕いしてくれながら)、「およしなさい、この子は、・・・・あなたが駆け落ちをする相手は、 いい加減な人ですよ。」 と言いました。  

 

 

    けふはましてはゝのかなしがらるゝことは、 くだりしときのかずたらねば、 ふるうた(古歌)に、 「かずはたらでぞかへるべらなる。」 とある。        

      補注(『日本古典文学大系』より); 古今集弟九、 羈旅歌に、 「北へゆく雁ぞ鳴くなるつれて来し数は足らでぞ帰るべらなる」とあり、 左註に、「この歌はある人、 男女もろともに人のくにへまかりけり。 男まかりいたりて、 すなはちみまかりにければ、 女ひとり京へ帰りける道に、 帰る雁の鳴きけるを聞きてよめるとなむいふ   

     

     『みだれ髪』(387) 雁(かり)よそよわがさびしきは南なりのこりの恋のよしなき朝夕(あさゆふ)

 初出は、『みだれ髪』ですが、 晶子は後から挿入するという形で、 『みだれ髪』を歌集として完成させていますから、 何時を想定して詠んだのか? が難しいです。 しかし、考えられるのは、 雁の秋という季節や、 『土佐日記』に、「下りし時の数の足らねば」 とあるので、 ・・・・晶子が東京での生活が息苦しく、 一旦、 関西(京都の三本木)へ戻った頃と推測されます。

  『土佐日記』では親の子への愛、 古歌では夫への愛がテーマですが、 (387)は、古歌に習い、 晶子のこれまで恋愛の対象となった人々の名を読み込んでいます。 雁-雁月、 南-鉄南、 よしなき-(『よしあし草』の今は無き)酔茗。

         【訳】(387) 雁月よ、 そうよ、 私が淋しく思うのは南(堺)にいる鉄南。 (鉄幹との恋が危うくなってしまった今、)残っている恋は、今は『よしあし草』にいない酔茗、 しかしその酔茗さえもいない朝夕です。

 

 

   十三日(とをかあまりみか) 〔1月13日〕    

  ふねにのりはじめしひより、 ふねにはくれなゐ(紅)こくよききぬ(衣)きず。 それはうみのかみにおぢ(怖)てといひて。 

 

      『みだれ髪』(315) おほづつみ抱(かゝ)へかねたるその頃よ美(よ)き衣(きぬ)きるをうれしと思ひし  

  『土佐日記』の「よき衣着ず」のフレーズが、 そのまま 「美き衣きる」 として使われているので、 それは「海の神に怖じて」 、つまり「若狭出身の登美子に怖じて」 ということではないかと思います。 「舞姫」の章は、 鉄幹、晶子、登美子が三人で京都に宿泊し、 これから結婚してゆく登美子の別れの会ですから、 登美子が主役です。 従って晶子が綺麗な色、華やかな色地の着物を着る訳にはいかないし、 鉄幹を愛している自分を前面に出すことも控えなければなりません。 

 尚、 「おほづつみ」は、「大鼓(おおつづみ)」の誤植だとされています。 私は最初、 「大包み」(晶子が習い事をしていた姿) で良いのではないか? と思っていましたが・・・・、やはり通常の 「舞妓が抱えかねた大きな鼓(つづみ)を持っている」の解釈にし、 それを見て、 同じ歳頃の自分の姿を思い出して・・・・、と解釈しました。       

         【訳】(315) 大鼓(おおつづみ)を抱えるのに苦労している舞妓を見ると、 同じ年頃だった自分が、 綺麗な着物を着せてもらうのが嬉しかった頃を思い出します。 (あの頃は無邪気だったけれど・・・、今は) 登美子に気遣って、 今日、 鉄幹を譲ろうと思います。

 

 

  十七日(とをあまりなぬか) 〔1月17日〕    

   むべもむかしのをとこは、 「さをはうがつ(穿)つ、 なみのうへのつきを。 ふねはおそふうみのうちのそらを。」 とはいひけん。 きゝされにきけるなり。 また、 あるひと(或人)のよめるうた、  

          みなそこのつきのうへよりこぐふねのさを(棹)にさはるはかつら(桂)なるらし          

 これをきゝて、 あるひとのまたよめる、    

          かげみればなみのそこなるひさかたのそらこぎわたるわれぞわびし

 

     『みだれ髪』(240) みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ緋鯉のせなに梅の花ちる 

     『みだれ髪』(197) かの空よ若狭は北よわれ載せて行く雲なきか西の京の山 

  『みだれ髪』(240)と(197)は、「影みれば波の底なる久方(ひさかた)の空漕ぎ渡る我ぞ侘しき」の「我ぞ侘しき」 を踏んでいますから、 決して、 黒髪の美しさに対するナルシズムではありません。 両首ともに、 鉄幹、 晶子、 登美子が過ごした京都での詠であり、 登美子を見送った後の詠かも知れません。 ここでも、 鉄幹と登美子の二人の間で揺れ動く晶子、 寂しさで一杯の晶子の姿が彷彿されます。 私は、 京都・粟田山の旅館に三人で宿泊したと思っていましたが・・・・、 (197)の「西の京の山」(西ノ京は京都二条駅の北西一帯)は、 三人が宿泊した所だったのかも・・・・。  〔鉄幹〕『むらさき』  比良こえて雲もかなたへ行く夕こころにかかる若狭路の雪  (西京よりとみ子のもとへ)          

        【訳】(240) 池の底にぼんやりと映っている黒髪の人はだれでしょう? (それは、 呆けた私、晶子です。) 緋鯉の背中に、 梅の花びらが散っています。

        【訳】(197) あの空よ、 登美子のいる若狭は、北の方向です。 私を連れ去って行ってくれる雲はないものでしょうか? (昨日、三人で宿泊した?) 西ノ京の山よ。 

 

  

 廿六日(はつかあまりむゆか) 〔1月26日〕   

   かぢとりしてぬさ(幣)たいまつらするに、 ぬさのひむがしへちれば、 かぢとりのまうしてたてまつること(言)は、 「このぬさのちるかたに、 みふね(御船)すみやかにこがしめたまへ。」 とまうしてたてまつる。 これをきゝて、 ある(或)め(女)のわらは(童)のよめる、

          わたつみのちふり(道觸)のかみにたむけ(手向)するぬさのおひかぜやまずふかなん

 とぞよめる。 このあひだに、 かぜのよければ、 かぢとりいたくほこりて、 ふねにほ(帆)あげなどよろこぶ。 そのおとをきゝて、 わらはもおむなも、 いつしかとしおもへばにやあらん、 いたくよろこぶ。 このなかに、 あはぢ(淡路)のたうめ(老女)といふひとのよめるうた、   

          おひかぜのふきぬるときはゆくふねのほて(帆手)うちてこそうれしかりけれ   

 とぞ。 ていけ(天気)のことにつけていのる。

 

      みだれ髪』(273) 紫のわが世の恋のあさぼらけ諸手(もろで)のかをり追風(おひかぜ)ながき 

  私は、 「諸手のかをり」 が、 晶子が鉄幹と酔茗の両方の愛を得た 「両手に花」 だとズーット思っていましたが、 そうではなく、 ここは『土佐日記』 を踏んでいるということを、 はじめて知りました。 そう、 『土佐日記』 にあるように、 都へ到着する直前の 「さあ、 これから帆を上げて、 東京へ行くぞ」 という歌だったのです。 晶子は駆け落ちをする為に、 鉄幹と京都で待ち合わせをします。 しかし、 体裁を構う鉄幹に、 「あなたは、後から日にちを置いて来なさい」 と言われてしまいます。 それから晶子の放浪の旅がはじまる訳ですが・・・・、 もう充分日にちも経ったし、 これで東京に行っても良いだろうと、 判断した時点での歌です。 

 『土佐日記』 の 「追風止まず吹かなん- (追風が止まずに吹いてください)」 ですから、 これを踏んで(273)も、 「追風ながき」 で、「追風が長く吹きますように!」 でしょうし、 「帆手打ちてこそ嬉しかりけれ」 が 「諸手のかをり」 でしょう。 

         【訳】(273) 情熱的な我が世の恋の始まりの朝、 いざ出発! 追い風が長く続きますように!

 

 

  廿九日(はつかあまりここぬか)〔1月29日〕 

   つめのいとながくなりにたるをみて、 ひをかぞふれば、 けふは子日(ねのひ)なりければ、 きらず。 むつき(正月)なれば、 京(きやう)のねのひ(子日)のこといひでて、 「こまつ(小松)もがな。」といへど、 うみなかなれば、 かた(難)しかし。

  

     『みだれ髪』(301) 人にそひて今日(けふ)京の子の歌をきく祇園(ぎおん)清水(きよみづ)春の山まろき               

  (301)は、 人口に膾炙した「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」 と同時に、『明星』(明治34年5月 朱弦)掲載されたものですが・・・・、 「朱弦」の他の歌とは違うのではないかなぁ? ・・・・、「人にそひて」 とは、 「鉄幹と登美子にそひて」 だし、 「祇園清水春の山まろき」 は、 風景の平和さに対峙しての晶子の憂鬱な心中なのではないでしょうか?  なぜそう思うか? ということですが・・・・、 『土佐日記』の〔1月29日〕のところに、 「けふは子日 ・ 京のねのひ」 とあり、 それが、『みだれ髪』 の 「今日京の子」 =「1月29日もしくは、1月の子の日」 だったろうし、 「京の子の歌」 とは、「登美子の願いを叶える事―(鉄幹への愛)」 だったのではないでしょうか?  

         【訳】(301) 鉄幹と登美子のお供をして、 今日、 1月29日(または子の日)、 登美子の願いを叶えるためにやって来ました。 祇園、清水の東山の春は穏やかです。 ?? 

 

 

 九日(ここぬか) 〔2月9日〕     

   かくてふねひきのぼるに、 なぎさ(渚)の院(ゐん)といふところをみつゝゆく。 その院(ゐん)、 むかしをおもひやりてみれば、 おもしろかりけるところなり。 しりへ(後方)なるをかには、 まつのきどもあり。 なかのにはには、 むめのはなさけり。 ここにひと ヾ のいはく、「これ、 むかしなだかくきこえたるところなり。 故(こ)これたかのみこ(推喬親王)のおほんともに、 故(こ)ありはらのなりひら(在原業平)の中将(ちうじやう)の、 「よのなかにたえてさくらのさかざらばはるのこゝろはのどけからまし。」 といふうたよめるところなりけり。」 いま、 けふあるひと、 ところにに(似)たるうたよめり。     

            ちよへたるまつにはあれどいにしへのこゑのさむ(寒)さはかはらざりけり    

また、 あるひと(或人)のよめる、  

            きみこひてよをふるやどのむめのはなむかしのかにぞなほにほひける   

といひつゝぞ、 みやこのちかづくをよろこびつゝのぼる。 

    

      『みだれ髪』(251) かつぐきぬにその間(ま)の床(とこ)の梅ぞにくき昔がたりを夢によする君   

  『土佐日記』「君恋ひて世を経(ふ)る宿の梅の花昔の香にぞ尚(なほ)匂ひける」の歌をそのまま踏んだのが、 『みだれ髪』(251)です。 そしてそれは、 その前の 「千代経たる松にはあれど古(いにしへ)の声の寒さは変はらざりけり」 を暗々裏に踏んで、 荘厳を意味する「声の寒さ」 ではなく、 そのままの、 冷たいという意図を持つ 「声の寒さ」 の鉄幹の声が響いてきます。 「梅」 は、 旅館の床の間に生けてある 「梅の花」 でもありますが、 「白梅」 は、 増田まさ子を示す源氏名でもあります。 まさ子は、 明治33年11月に新詩社に入会しましたが、 翌年の1月には、 鉄幹と逢っているらしいとされていて、 その嫉妬の歌、というのが一般的解釈ですし、 実際そうでしょう。 

 まさ子の歌に 「ともすれば若狭の空をながめやると友の文きぬ雪ちるあした」 (【訳】どうかして若狭の空の方を窺うと、 登美子の文が来ました。 結婚生活はうまく行っていない様です。)『明星』(明治34年3月)があり、 まさ子も登美子のことが気掛かりだったことが知れます。

 「かつぐ」は、「かづく」の誤りとされていますが、 晶子は堺弁で集を編んでいますから、「かづく」という意識はなかったろうし、「かつぐ―担ぐ」 そのままで良いのではないかと思います。 (55)「ふしませとその間(ま)さがりし春の宵衣桁(いかう)にかけし御袖かつぎぬ」 

          【訳】(251) 布団を被(かぶ)ると、 その部屋の床の間の梅の香りがして、 まさ子を思います。 昔の恋愛の遍歴を耳元で聞かせる鉄幹。 

 

 

   十六日(とをかあまりむゆか) 〔2月16日〕   

  よるになして京(きやう)にはい(入)らんとおもへば、 いそぎしもせぬほどに、 つきいでぬ。 かつらがは(桂川)、 つきのあかき(明)にぞわたる。 ひと ヾ のいはく、 「このかは、 あすかがは(飛鳥川)にあらねば、 ふちせ(淵瀬)さらにかはらざりけり。」 といひて、 あるひと(或人)のよめるうた、   

           ひさかたのつきにおひたるかつらがは(桂川)そこなるかげもかはらざりけり    

 また、 あるひとのいへる、     

           あまぐものはるかなりつるかつらがはそでをひで(漬)てもわたりぬるかな    

 また、 あるひとよめり。  

           かつらがはわがこゝろにもかよはねどおなじふかさにながるべらなり    

 京(きやう)のうれしきあまりに、 うたもあまりぞおほかる。

    

      『みだれ髪』(23) 雲ぞ青き来し夏姫(なつひめ)が朝の髪うつくしいかな水に流るる  

  『土佐日記』では、京に到着した歌ですが、 晶子はこれを想定し、 長い放浪の旅の末、やっと東京に到着したという感慨深い歌です。 晶子の東京到着は明治34年6月とされていますから、 初夏の朝の清々しさや、 晶子の溌剌とした気持ちが込められていて、 絵画としても非常に美しい。 私は、この歌が大好きです。   

         【訳】(23) 雲が青天に流れ、 (東京に)やって来た朝、 私は水に映る美しい髪の溌剌とした我が姿を眺めています。

 

  

                      『土佐日記』について思うこと 

 

 八日(やうか) 〔承平五年 935年1月8日〕      

   こよひ、 つきはうみにぞいる。 これをみて、 なりひら(業平)のきみの、 「やまのはにげていれずもあらん。」 といふうたなんおもほゆる。 もしうみべにてよまましかば、 「なみたちさへ(立塞)ていれずもあらなん。」 ともよみてましや。 いまこのうたをおもひいでて、 あるひと(或人)のよめりける、 

           てるつきのながるゝみればあまのがは(天川)いづるみなとはうみにざりける          

 とや。 

 

 「照る月の流るゝ見れば天の川出づる水門は海にざりける」 の訳についてですが、 -照る月が、 空を流れるように亙る― と解されています。 業平の元歌は、 「飽かなくにまだきも月のかくるるか山の端逃げて入れずもあらなむ」 であり、-まだ見飽きないのに、 もう月が隠れようとする- の意であって、 「月が隠れてしまった」 の過去完了ではありません。。 つまり、 「こよひ、 つきはうみにぞいる」 は、 -今宵、 月は海に居て、 これから海に入ろうとしている- という状態です。 ですから、 今、 月は空に居て、 その月は海に映っています。 月そのものが海に映って、 波に流れているのです。 これを 「照る月の流るゝ」 と詠んだのです。 照る月が、「空」 を流れているのではなく、 照る月が、「海」 を流れているのです。

 私は小学生の頃、 父によく、 和歌山港や紀ノ川の河口での釣りに連れて行ってもらっていました。 子供だから、直ぐ釣りに飽きてしまって、「早く、 帰ろうよ」 と言っていたものです・・・・、 夕方になって、 沈みかけの太陽が海や河の水に映って、 波に流れてキラキラ黄金に耀いていました。 ・・・・これを言葉にしたら、 何と言うんだろう? と考えていましたが・・・・、何も思い付かなかったように思います。 太陽と月とで異なりますが、 「あるひと」という貫之が、 これを「てるつきのながるゝみれば」 と見事に詠んだのです、 流石・・・・。 差し詰め 「沈む陽(ひ)の流るゝ見れば」 ??   

         【訳】 照る月が海に映って、 波に流れているのを見れば・・・・、 空の月に目を見遣ると、 天の河も海が源となって、 出現して来ます。 

 

 

   九日(ここぬか) 〔1月9日〕  

   をのこもならはぬは、 いともこゝろぼそし。 まして、 をんなはふなぞこにかしらをつきあてて、 ね(音)をのみぞなく。 かくおもへば、 ふなこ(船子)かぢとりはふなうた(船唄)うたひて、 なにともおもへらず。 そのうたふうたは、

      はるののにてぞね(音)をばなく。 わかすゝきに、 て(手)きるきるつんだるなを、 おややまぼるらん、 しうとめ(姑)やくふらん。 かへらや。 

   

      「春の野にてぞ音をば泣く。 「わかすゝき」に、 手切る切る「つんだるな」を、 親や「まぼる」らん、 姑や食うらん。 帰らや。」 

  「わかすゝき」については、 『日本古典文学大系』では「若薄」と訳されていましたが、 この部分の解釈は諸説あるようです。 しかし、 手を切るのは「若薄」ではなく、 成長した葉の鋭い薄ではないでしょうか? ・・・・ 曲がった薄の葉、「曲(わ)が薄」 というのは如何でしょう? 「菜」の中に混じった薄、 「曲がって垂れた葉の薄」に手を切るのではないでしょうか? 

 林望さんは「吾が薄」-「オラガ薄に手を切りながら」 と訳されました。 最初、「吾が薄」というフレーズだけ見ると、 「私の薄」となり、 何か変だなと思いましたが、・・・・全体を通してみると、 「吾(わ)が」 が 「薄に、 手切る切る摘んだる菜」 に掛かり、 こちらの方がスンナリするように思いました。    

 「つんだるな」 については、「摘んだる菜」 とし、「る」 を唄のリズムの一部として捕らえているのかどうか、 この部分の注釈」がないようです。 ここを 「摘んだ玉菜(るな)」 とすると、 「玉のような瑞々しい貴重な若菜」 の意となり、・・・・色々思考しましたが、 やはり、 唄のリズムとするのが一番だと思いました。      

 「親やまぼるらん」の「まぼる」を -『日本古典文学大系』の注釈; 「まぼる」は「まうぼる」 と同じく 「食べる」の意か。 また「まぼる」 を 「じっと見守る」、「ほしがる」の意や、 「まほる」と清音に読み 「むさぼり食う」 の意とする説もある。 - とあり、 林望さんも、 「あの舅めが貪るだろうか」 と訳されておられます。 しかし、「まぼる」 を辞書で引くと、 - 「まぼる」 守る。①見つめる。 注目する。 ②護る。 保護する。 -とあり、 ここは、 ②を意図する「親や護るらん」 だと思います。 親を生活(食わす)為に、 薄に手を切りながら菜を摘み、 その残りの菜を、 姑が我が家の食卓に出す、 というのが 「姑や食うらん」 ではないでしょうか。 

         【訳】 「春の野にてぞ音をば泣く。 吾(わ)が 薄に、 手切る切る摘んだる菜を、 親や護る(まぼ)るらん、 姑や食うらん。 帰らや。」  (春の 野で、 声を上げて泣く。 私が薄に手をきりながら摘むんだ菜を、 親を護り、 食わす為に売り、 また姑がその残りの菜を自分達が食べる為に調理する。 これで充分摘んだろうから、 帰ろうかなぁ。)  

 

    

   廿一日(はつかあまりひとひ) 〔1月21日〕  

  うのときばかりにふねいだす。 みなひと ヾ のふねいづ。 これをみれば、 はるのうみに、 あきのこのはしもちれるやうにぞありける。 おぼろげの願(ぐわん)によりてにゃあらん、 かぜもふかず、 よきひいできて、こぎゆく。 

  

  「おぼろげの願」の注釈では、- 「おぼろげならぬ顔」の意で、並々ならぬ祈願のおかげであろうか。- とありますが、 「おぼろ」は、 ぼんやりした、 ぼーっとした、 ぼやけた等の意で、 「朧月」 は、ぼやけた月。 「おぼろ昆布」は、細かく削った、 ぼやーん・ふわふわーとした昆布です。 例にある 「おぼろげならぬ顔」 は、 「しっかり顔」 かも知れませんが、 「ならぬ」 が否定で、 「ぼんやり顔でない顔」 でしょう。 ですから、 「おぼろげの願」は、- 並々ならぬ祈願のおかげによってであろうか - ではなく、 「いい加減な、 あやふやな祈願」 です。 貫之は、 諧謔のユーモアでもって書いているのです。   

         【訳】 卯の時(午前六時)頃に船を出す。 皆人々の船出る。 これを見れば、 春の海に秋の木の葉がさも散るようであった。 いい加減な願掛けによってではなく、 風も吹かず、 良い日和になって、 出航する。  

 

 

  かくいひつゝゆくに、 ふなぎみ(船君)なるひと、 なみをみて、 くによりはじめて、 かいぞく(海賊)むくいせんといふなることをおもふうへに、 うみのまたおそろしければ、 かしらもみなしら(白)けぬ。 ななそぢ(七十)やそじ(八十)は、 うみにあるものなりけり。

          わがかみのゆきといそべ(磯辺)のしらなみといづれまされりおき(沖)つしまもり(島守)       

 かぢとり、 いへ。   

     

 歌の対句についてですが、 これより以前の 「黒鳥のもとに、 白き波を寄す」 と船頭が言った言葉の 「黒と白」に対峙して、 「我が髪の雪と、 磯辺の白波と、 いづれ勝れり、 沖つ島守」 は、「白と白」の対峙ですが、・・・・ これは 「わが髪の雪」の方は、 海賊への心配。 一方の 「磯辺の白波」 の方は、 天候への心配、 どちらも船の後悔に当たっての心配です。 どちらの心配の可能性が高いか、 船頭に問うています。

 

 

   廿九日(はつかあまりここぬか) 〔1月29日〕 

  おもしろきところにふねをよせて、 「ここやいどこ。」 ととひければ、 「とさ(土佐)のとまり(泊)。」 といひけり。 むかし、 とさ(土佐)といひけるところにすみけるをんな、 このふねにまじれりけり。 そがいひけらく、 「むかし、 しばしありしところのなくひにぞあなる。 あはれ。」 といひて、 よめるうた、       

          としごろをすみしところのなにしおへばきよるなみをもあはれとぞみる      

 とぞいへる。  

   

  「昔、 暫し在りし処のなくひにぞあなる。 あはれ。」 の 「なくひ」が、 何か良く分からないですが、 これは、 地図を見れば一目瞭然です。 「土佐の泊まり」 という処は、 阿波国(徳島県)の淡路島に面した鳴戸よりさらに鳴門海峡側にあり、 阿波国にありながら、 「土佐の泊まり」 という名を持っています。 つまり、 土佐の土地に住んでいた女が、 阿波国の 「土佐の泊まり」 という名を聞いて、 「昔、 私が暫く住んでいた処の国の名と、 同じ泊まりの名です。」 と言ったのです。   

 「なくひ」 は、「なく尓(に) - な・く尓(に) - 名・国」 の誤写ではないでしょうか?  何が原本で、 何が写本なのか。 どういう資料を基に、 私達が今、 『土佐日記』 として目にしているのか? そういう知識はありませんが、 ・・・・恐らく、 「なく尓二ぞ」 の中の 「尓(に)・ 二(に)」 が結合し、 「ひ・に」 と誤写し、 「なくひにぞ」 となったのではないでしょうか?  

         【訳】 「むかし、 しばしありしところのなく尓二ぞあなる。 あはれ。」 (昔、 暫し在りし処の名 国にぞあなる。 あはれ。) 

 

     

   十六日(とをかあまりむゆか) 〔2月16日〕  

  さて、 いけめいてくぼまり、 みづつけるところあり。 ほとりにまつもありき。 いつとせむとせのうちに、 千(ち)とせやすぎにけん、 かたへはなくなりにけり。 いまお(生)ひたるぞまじれる。 おほかたのみなあれ(荒)にたれば、 「あはれ。」 とぞひと ヾ いふ。 おもひいでぬことなく、 おもひこひしきがうちに、 このいへにてうまれしをんなごのもろともにかへらねば、 いかがはかなしき。 ふなびと(船人)もみな、 こたか(聚)りてのゝ(喧)しる。 かかるうちに、 なほかなしきにたへずして、 ひそかにこゝろしれるひとといへりけるうた、

           むまれしもかへらぬものをわがやどにこまつ(小松)のあるをみるがかなしさ        

とぞいへる。 なほあか(飽)ずやあらん、 またかくなん。          

           みしひとのまつのちとせにみしかばとほくかなしきわかれせましや         

 わすれがたく、 くちをしきことおほかれど、 えつく(尽)さず。  とまれかうまれ、 と(疾)くやり(破)てん。 

       

 上記二首は、 「畔(ほとり)に松もありき。 五年六年の内に、 千年や過ぎにけん、 かたへ(片側)はなくなりにけり。 今 生ひたるぞ交れる。」 を踏み、 「今 生ひたるぞ交れる」 は、 前者の「小松」 の歌の方であり、 「五年六年の内に千年にも経ったように見える松」 が後者の 「松の千年」 の歌の方です。     

  「見し人の松の千年に見ましかば 遠く悲しき別れせましや」 の訳についてですが、 この「千年」は、 「千年の齢を持つ松-長寿の松」 ではなく、 後者の歌を踏んで 「土佐に行った五・六年の内に、 千年も経ってしまった様に見える松」 を意図しています。 ですから、 歌は、 「ここで見た子(死んだ子)が、 松の千年の齢を持つように見ていたなら」 ではなく、 「土佐に行かなかったら」 を暗々裏に詠んでいます。 そして、 最後に貫之は日記を、 「とまれかうまれ、 と(疾)くやり(破)てん。 - 兎にも角にも、 さっさと破り捨ててしまおう。」 と結んでいます。   

          【訳】 嘗て、 ここで見た子が、 (土佐に行っていた五・六年のうちに、) 千年も経ってしまった松に見られる様に、 (土佐に行かなかったならば、) 遠く悲しい別れをしなかったでしょうに・・・・。 

                                           

 

           参考文献 ; 本文は全て、 『日本古典文学大系 20  土左日記』 岩波書店(昭和32年12月 初版) に従い、 資料として 『すらすら読める 土佐日記』 林望著 講談社(2005年6月) を参考にさせて頂きました.

 


『和泉式部日記』

2012-09-21 11:40:32 | 古典

 

                  一夜(ひとよ)見(み)し月ぞと思へばながむれど心もゆかず目(め)はそらにして

 

 『和泉式部日記』と言えば、この歌が浮かびますが、私のお気に入りは以下の部分です。

 ―――    

  (九月二十日すぎ)

    〔式〕 秋のうちはくちはてぬべしことは(わ)りのしぐれに誰(たれ)が袖はからまし

 嘆(なげ)かしとおもへど知(し)る人もなし。 草の色さへ見(み)しにもあらずなりゆけば、 しぐれんほどの久(ひさ)しさもまだきにおぼゆ               る、 〔草が〕風に心ぐるしげにうちなびきたるには、 たゞ今(いま)も消(き)えぬべき露のわが身ぞあやう(ふ)く、 草葉につけてかなしきまゝに、 おくへも入(い)らでやがて端(はし)にふしたれば、 つゆねらるべくもあらず、 人はみなうちとけたるねたるに、 そのことと思ひわくべきにあらねば、 つく ヾ と目(め)をのみさまして、 なごりなううらめしう思ひふしたるほどに、 雁(かり)のはつかにうち鳴(な)きたる。  人はかくしもや思はざるらん、 いみじうたへがたき心ちして

    〔式〕 まどろまであはれいく夜(よ)になりぬらんたゞ雁(かり)がねを聞(き)くわざにして

 とのみして明(あ)かさんよりはとて、 つま戸をおし開(あ)けたれば、 おほ空に西(にし)へかたぶきたる月のかげ遠(とを)くすみわたりて見(み)ゆるに、 霧(き)りたる空(そら)のけしき、 かねのこゑ ・ 鳥(とり)のね一(ひと)つにひゞきあひて、 さらに、 すぎにしかた ・ いま行末の事ども、 かゝるお(を)りはあらじと、 袖(そで)のしづくさへあはれにめづらかなり

    〔式〕 我ならぬ人もさぞ見(み)んなが月の有明(ありあけ)の月にしかじあはれは

 たゞ今(いま)、 この門(かど)をうちたゝかする人あらん、 いかにおぼえなん、 いでや誰(たれ)かかくて明(あ)かす人あらむ  ―――

 

 ・・・・ 有明の月が浮かぶ光景と式部の心情がマッチして、 現代人の私達でさえ感動する文章です。  さて本題の『みだれ髪』との関係に入ります  ・・・・

 

 

            『和泉式部日記』と『みだれ髪』の対比

 (四月十餘日)

 夢(ゆめ)よりもはかなき世のなかを嘆(なげ)きわびつゝ明(あ)かし暮(くら)すほどに、 四月十餘日(よひ)にもなりぬれば、 木のした暗(くら)がりもてゆく。 築地(ついひじ)のうへの草あをやかなるも、 人はことに目(め)もとゞめぬを、 あはれとながむるほどに、 近(ちか)き透垣(すいがい)のもとに人のけはひすれば、 誰(たれ)ならんとおもふほどに、 故(こ)宮にさぶらひし小舎人童(ことねりわらは)なりけり。 あはれにもののおぼゆるほどに来(き)たれば、 〔式〕「などか久(ひさ)しく見(み)えざりつる。 遠(とを(ほ))ざかる昔(むかし)のなごりにも思ふを」 など言(い)はすれば、 〔童〕「そのこととさぶらはでは馴(な)れ 〃 しきさまにやとつゝましう候(さぶら)(ふ)うちに、日ごろは山寺(でら)にまかり歩(あり)きてなん、 いとたよりなくつれ ヾ に思(ひ)たまふ(う)らるれば、 〔故宮の〕 御かはりにも見(み)たてまつらんとてなん師(そち)の宮に参りてさぶらふ」 とかたる。 〔式〕「いとよきことにこそあなれ。 その宮(みや)はいとあてにけゝしうおはしますなるは。 昔(むかし)のやうにはえしもあらじ」 など言(い)へば、 〔童〕「しかおはしませどいとけ近(ぢか)くおはしまして、 〔宮〕「つねに参まい(ゐ)るや」 と問(と)はせおはしまして、 〔童〕「参(まい)り侍(り)」と申(し)候(さぶら)(ひ)つれば、 〔宮〕「これもて参(まい(ゐ))りて、 いかゞ見(み)給(ふ)とて〔式に〕奉(たて)まつらせよ」 とのたまはせつる」 とて、橘(たちばな)の花を取(と)り出(い)でたれば、 〔式〕「昔(むかし)の人の」 と言(い)はれて。 〔童〕「さらば参りなん。 いかゞ〔宮に〕聞(きこ)えさすべき」と言(い)へば、 ことばにて聞(きこ)えさせんもかたはらいたくて、 〔式〕「なにかは、 〔宮は〕あだ 〃 しくもまだ聞(きこ)え給はぬを、 はかなきことをもと思(ひ)て
    〔式〕 かほ(を)る香(か)によそふるよりはほとゝぎす聞(き)かばやおなじ声(こゑ)やしたると

と聞(きこ)えさせたり。 

   ― 167 五月雨に築土(ついじ)くずれし鳥羽殿(とばどの)のいぬゐの池におもだかさきぬ

 『みだれ髪 167』は 、蕪村の句に想を得ているのではないか? とされています。  しかし蕪村の句でさえも『和泉式部日記』 から発想しているのではないでしょうか? 

 通常、(167)の 鳥羽殿とは鳥羽離宮のことで、 ―白河天皇が藤原季綱(すえつな)から献上された山荘の地(鳥羽) に1086年から造営を始め、 鳥羽上皇がこれを引き継ぎ完成させた。 東殿、北殿、南殿の三つの殿舎群と庭園、御堂が一体となった大規模な離宮。 12世紀~14世紀頃まで、代々の上皇により使用された院御所。 鳥羽殿、城南離宮とよばれ、 晶子の歌は、 この離宮だと解されています。      
  去年の年末、伊丹市内の中で引越しをしたのですが、 方位違いの厄除けに
城南宮に御参りをさせて頂きました。 祈祷料にドギマギしましたが、 主人と二人だったにも係わらずお払いをしてもらった後、 庭内の茶室で一服。  庭園 (曲水の宴の庭がある) が素晴らしく、 優雅な半日に大満足でした。  ・・・・この庭園内に晶子のこの歌碑があったのですが・・・・、 私は、 大阪府三島郡島本町の水無瀬宮の方の 「後鳥羽上皇」 が、 この歌の 「鳥羽殿」 だと思います。 

 水無瀬神宮とは、 ― 藤原信成・親成親子が、 承久の乱で隠岐に流され、そこで崩御された後鳥羽上皇の離宮・水無瀬殿の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。 1494年(明応3年)に上皇の神霊を迎え、水無瀬宮の神号を奉じたという。 後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。 

  晶子は、その承久の乱で隠岐に流され、 そこで崩じた後鳥羽上皇を 「鳥羽殿」 と詠んでいるのだと思います。  なぜか? それは、 この歌は、京都の歌会から大阪へ帰る東海道線の汽車の窓から、 水無瀬宮の方向を見て詠まれたと思います。 水無瀬宮は、JR東海道線の山崎駅と島本駅の中間にあり、線路と平行に走る淀川との間にありますが、 その少し上流の大山崎は、 桂川・宇治川・木津川が合流して 大阪を流れる淀川となる水郷の地点 「池」 です。 

 「いぬゐ」乾・戌亥は、 → 北西の方向で、 京都から大阪に向かう東海道線が北東からに南西向って走っていますから、東西南北、正位置に離宮が位置しているとするならば、 丁度、 乾「いぬゐ」の角が線路と接することになります。 私は、水無瀬神宮に行ったことがないので、 良く分からないのですが、 恐らく実際は水無瀬宮は見えないと思います。  しかし、 晶子は水無瀬宮を想定してこの一首を詠んだのだと思います。 (私は、 高校生の時から和歌山と京都間を往復しているのですが、・・・・ 昔は、 この線路沿いに、 水路の中に荘厳な建造物があったように記憶しています。 それが今では、 いつの間にか消え去り、 それがどの場所だったのか確認できません。  現在、 発掘現場の様な箇所があり、 それが水無瀬神宮の一部だったのかどうか? 晶子は、それを「鳥羽殿」と詠んだのでしょうか?)

 晶子は、それをもって「いぬゐ」とし、 崩れた土塀に「おもだか」を咲かすことにより、 隠岐に流された後鳥羽上皇を忍んだのでしょう。  そして、  和泉式部が為尊親王を忍んだ 「築地(ついひじ)のうへの草あをやかなるも、 人はことに目(め)もとゞめぬを、 あはれとながむるほどに」 を踏み、 (167)が詠まれました。

 歌はそうですが、 さらに重要なことは、『和泉式部日記』 では ― 式部が庭を眺めていた時、 亡き弾正宮為尊親王にお仕えし、 今は弟君の帥宮敦道親王にお仕えする小舎人童が、 宮に言付かった橘の花を持参して表れます。― ・・・・つまり、 晶子にしてみれば、 旧恋人の河井酔茗を懐かしむ気持ち、・・・・ また鉄幹と出合って、 鉄幹を恋し始めた気持ち、 その苦しい余韻が為尊親王を懐かしむ和泉式部に仮し、 ・・・・為尊親王から 弟の帥宮へ傾く恋の変換期、  酔茗をまだ恋していながら、 鉄幹との恋が始まる・・・・、その変換期を、 式部に仮して詠んだのではないでしょうか?

      【167の訳】 五月雨が降り、 土塀が崩れた後鳥羽上皇の離宮の北西の池に、 沢潟が咲いています。 (和泉式部は、為尊親王を忍んで「築地(ついひじ)のうへの草あをやかなるも、 人はことに目(め)もとゞめぬを、 あはれと」眺めていましたが、 私(晶子)も、酔茗を想い、 今また鉄幹を愛しはじめている、 その同じ変換期なのかも知れません。)

 

 

 (五月五日になりぬ)

 「いざたまへ。 こよひばかり。 人もみぬ所あり。 心のどかにものなども聞(きこ)えん」 とて車をさしよせて、 たゞのせにのせ給へば我にもあらでのりぬ。 人もこそきけと思ふ 〃 いけば、 いたう夜(よ)ふけにければ知(し)る人もなし。 やをら人もなき廊(らう)に〔車を〕さしよせておりさせ給(ひ)ぬ。 月もいと明(あ)かければ、 「おりね」 としゐてのたまへば、 あさましきやうにておりぬ。 「さりや。 人もなき所ぞかし。 今よりはかやうにて聞(きこ)えん。 人などのあるお(を)りにやと思へばつゝましう」 などものがたりあはれにし給ひて、 明(あ)けぬれば車(くるま)よせてのせ給(ひ)て、 「御を(お)くりにも参(まい)るべけれど、 明(あ)かくなりるべければ、 ほかにありと人の見(み)んもあいなくなん」 とてとゞませ給(ひ)ぬ。

   ― 105 うながされて汀(みぎは)の闇(やみ)に車おりぬほの紫の反橋(そりはし)の藤(ふぢ)

 この歌は、鉄幹と駆け落ちの京都で待ち合わせをし、 鉄幹が夕方暗くなってやっと現れた後、 そのまま車に乗せられ、「汀(みぎは)の闇(やみ)に車おりぬ」 と、旅館の路地の水路に掛かっている反橋 (入口に掛かっている石橋?) に車(人力車?) を付けて下ろされたことを詠んでいます。  「ほの紫」は、薄紫の藤の花と、 「ほの紫」- 惚の紫・ほの字の紫・仄かに恥らう紫 -情愛を行う場所である旅館の入口に咲く藤の花- を掛けています。  それが、帥に牛車に乗せられて冷泉上皇の院の棟に連れて行かれた和泉式部の気持ち「我にもあらでのりぬ」と合致したのでしょう。  

       【105の訳】(鉄幹に)促されて、 暗闇の中、(旅館の)水路脇に車を降りました。 そこには(石橋の?)反橋が架かり、薄紫の藤の花が咲いていました。 (これからの情愛を思うと、恥ずかしさに顔が火照ります。)

 

   ― 309 舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊(わたどの)

 こちらも棟に連れ込まれた和泉式部に仮して、 晶子が自身を舞姫となり詠んだものです。 恐らく、 登美子と三人でいた京都、 その旅館で拗ねていた晶子に対して、 鉄幹が機嫌を取ったのやも知れません。

 

 

 女、 道(みち)すがら、 あやしの歩(ありき)や、 人いかにおもはむと思ふ。 あけぼのの御すがたのなべてならず見(み)えつるも、 おもひ出(い)でられて

     〔式〕  よひごとに帰(かへし)はすともいかでなを(ほ)あかつきおきを君にせさせじ

 くるしかりけり」 とあれば

     〔宮〕  あさ露のおくる思ひにくらぶればたゞに帰(かへ)らんよひはまされり

 

   ― 118 母よびてあかつき問ひし君といはれそむくる片頬柳にふれぬ    

 『みだれ髪』初出ですが、 こちらは鉄幹と駆け落ちの約束をして、京都で待ち合わせをする為、 朝早く堺の実家を出発した時のものであり、 歌の詠としては後から挿入されたものでしょう。

 「よびて」は、 晶子が母を「呼んで」、 と 母が晶子を「あかつき問ひし君」と(呼んで)言って、 の掛詞です。 「あかつき問ひし」は、上記『和泉式部日記』 の 「あかつきおき」 です。 晶子は鉄幹の待つ京都に「暁 ・ 起き」 をして、堺の実家を出発するのですが、 夜も明けぬ内から起き出して、母に 「行って来ます」と告げます。 その時の母に言われた言葉 「あかつき問ひし君」 に拗ねてみせた片頬に柳の枝が触れるというものですが、 くすぐったい様な、 恥ずかしい様な、 なんとも捕らえがたい表情が詠み込まれています。 

       【118の訳】 (鉄幹と駆け落ちをする為、 待ち合わせの京都に出発する朝)、母に「行って来ます」と呼ぶと、 「あかつき問ひし君」 とからかわれ、 拗ねて顔を背けた拍子に、 柳の枝が片頬に触れました。

 

 

 (かくて、のちも猶ま遠(どを(ほ))なり)

 宮も〔家の内へ〕のぼりなむとおぼしたり。 さんざいのをかしきなかに歩(あり)かせ給(ひ)て、 「人は草葉の露なれや」などの給(ふ)。 いとなまめかし。 近(ちか)うよらせ給(ひ)て、 〔宮〕「こよひはまかりなむよ。 誰(たれ)にしのびつるぞと見(み)あらはさんとてなん。 あすは物忌(ものいみ)と言(い)ひつれば、 〔自宅に〕なからむもあやしと思(ひ)てなん」 とて帰らせたまへば

     「人は草葉の露なれや」 ; 「わが思ふ人は草葉の露なれやかくれば袖のまづしをるらむ」(拾遺集十二.恋二・読人知らず)の第二・三句をとる。 -わが恋人は草葉の露だからか。 露で袖が濡れるように、 恋人に思いをかけると、 わが袖は涙に濡れてしまう。-

 (5月5日になりぬ)

   昼(ひる)つかた、 川の水まさりたりとて人人見(み)る。 宮も御覧(らむ)じて、 「たゞ今いかゞ。 水見(み)になむいきはべる 

     〔宮〕 おほ水の岸(きし)つきたるにくらぶれどふかき心(こヽろ)はわれぞまされる

さは知(し)りたまへりや」 とあり。 御返 

     〔式〕 今(いま)はよもきしもせじかしおほ水のふかき心は川と見(み)せつゝ

かひなくなん」 と聞(きこ)えさせたり。

   ― 163 藻の花のしろきを摘むと山みづに文がら濡(ひ)ぢぬうすものの袖

 上記の(167)と同時期の詠であり、 鉄幹を恋しはじめた頃の作です。  「文がら」 の内容は分かりませんし、対象が酔茗か鉄幹か?  さえもはっきりしません。  『和泉式部日記』 は、「涙に濡れた袖」 がキーワードとなり、 数々の歌に表れていますが、 全て、 「恋人に思いをかけると、 わが袖は涙に濡れてしまう」 でありますから、 (163) もそれを踏んで 「山みづに文がら濡(ひ)ぢぬうすものの袖」 と袖が濡れたのでしょう。 

 ただ、「文がら・文殻=読んでしまっていらなくなった手紙」という言い方や、 集中(167)の前に位置していること等から、 酔茗からの手紙かも知れません。 私が気になるのは、『和泉式部日記』の賀茂川の水が溢れた時の帥宮と式部の問答です。 (163)の「山みづ」は、 山に雨が降って小川が増水したことでしょうから、 賀茂川の増水に通じています。 

 「岸に溢れた賀茂川の水の深さよりも、 私の愛情の方がずっと勝っています。」 という宮の歌に対して、 式部は、『古今集』の歌ー 「思へども人目つつみの高ければかはと見ながらえこそ渡らね」 ; 思ってはいるが、人目を慎む堤が高いので、これくらいはただの川に過ぎないと見ながらも、渡ってそちらに行くことができません。ー  を踏み、 「今となってはよもや、 あなたは岸ならぬ、私のもとに「来し」たりはなさらないでしょう、 深いお気持ちをおほ水の川 「かは(これくらい)」 のようだと見せてはいらっしゃいますが・・・・、 甲斐がありません。」と暗々裏に詠み込んでいると思われます。 

  つまり、 晶子の「山みづ」に濡れた「文がら」は、 『古今集』を踏み、式部の歌「今はよもきしもせじかしおほ水のふかき心は川と見せつゝ」 を踏んで、酔茗の愛は「愛情が深いように見せて、 決して私の元にいらっしゃらないでしょう」 という意図のもとに詠まれているのです。

      【163の訳】 山水に増水した川の白い藻の花を摘むと、 夏衣の袖に忍ばせた手紙を水に濡らしてしましました。 (その手紙は、河井酔茗からの手紙で、 彼は私に深い愛情を見せながらも、 決して私の元には帰って来ないでしょう。  -酔茗は、明治33年5月、上京する- )

 

  

 (かゝるほどに八月にもなりぬれば)

   〔式〕  あふみぢは忘(わす)れぬめりと見(み)しものを関(せき)うち越(こ)えて問(と)ふ人や誰(たれ)

 いつかとの給はせたるは。 おぼろげに思(ひ)給へ入(い)りにしかも。

     〔式〕  山ながらうきはたつとも都(みやこ)へはいつかうち出(で)の浜(はま)は見るべき

 と聞(きこ)えたれば、 「くるしくともゆけ」とて、 〔宮〕「問(と)ふ人とか。 あさましの御もの言(い)ひや。

     〔宮〕  たづねゆくあふさか山のかひもなくおぼめくばかり忘(わす)るべしやは

 まことや 

   ― 369 みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根

  (369)の初出は『みだれ髪』でありますから、 晶子が上京後の作であり、 (172)「憎からぬねたみもつ子とききし子の垣の山吹歌うて過ぎぬ」の歌と連動していると考えて良いでしょう。  この山吹垣根は、鉄幹の妻・林滝野の家であることは承知の通りですが・・・・、 私は『和泉式部日記』の 「たづねゆくあふさか山のかひもなくおぼめくばかり忘(わす)るべしやは」 を踏んでいると思います。 

  たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしや ; あなたに逢おうと逢坂山を越えて訪ねて行った甲斐もなく、 私が誰だか分からない程(知らばくれて)、 お忘れになったのでしょうか?

  言い換えれば、 「訪ね行く上京の甲斐もなく、 おぼめくばかり忘るべしやは」 であり、 晶子は鉄幹に請われて上京したにも関わらず、 上京した当時は、 鉄幹にも新詩社の人々にも持て余されていたと言われていますから、 滝野の家の山吹垣根を歌いながらも、 暗々裏には上京した後の晶子の立場、 また鉄幹へ「私をお忘れですか」 と問うているのだと思います。 

       【369の訳】 振り返って見ると、 山吹垣根の影から誰かがこちらを窺っているらしく、 それは更に辛いです。 (鉄幹と愛し合って上京した私ですが、 私が誰だか分からない程、 お忘れになったのでしょうか?)

 

  【思うこと】

  「山ながらうきはたつとも都(みやこ)へはいつかうち出(で)の浜(はま)は見るべき」の訳ですが、

 通常の訳は、「山にいるままで、 辛い(憂き)ことがあろうとも、 都へは何時の日か、 (山を下りて)琵琶湖半の打出の浜に打ち出て見ることがありましょう。」 というものであり・・・・、 石山に居るのが辛いという解釈ですが、 何か違うような気がします。 

 「うきは」を、上手く訳せないというか、 殆ど語彙が分からない状態ですが、 一つの言葉で、 「うわさ話」 「浮いた噂話」 等を指し示す語だと思います。 「山ながら」=山に居ながら、都から聞こえて来る、の意。   つまり、 訳としては、 「山に居ながら、都から伝え聞こえて来る(式部の浮ついた話)が立っていようとも、 いつか(山を下りて)琵琶湖半の打出の浜に打ち出て見ることがありましょう。」 だと思いますが、如何でしょうか??

   

 

             『和泉式部日記』について思うこと

   

   (かくて、のちも猶ま遠(どを(ほ))なり)

   〔式〕 こゝろみに雨もふらなんやどすぎて空(そら)行(く)月のかげやとまると

 人の言(い)ふほどよりもこめきてあはれにおぼさる。 「あが君や」とてしばしのぼらせ給(ひ)て、出(い)でさせ給(ふ)とて


    〔宮〕 あぢきなく雲ゐの月にさそはれてかげこそ出(い)づれ心(こヽろ)やはゆく

  とて返らせ給(ひ)ぬるのち、ありつる御文(ふみ)見れば


    〔宮〕 我ゆへ(ゑ)に月をながむと告(つ)げつればまことかと見に出(い)でて来(き)にけり


 とぞある。 なを(ほ)いとをかしうもおはしけるかな、 いかで、 いとあやしきものに聞(きこ)しめしたるを、 きこしめしなを(ほ)されにしがなと思ふ。

 

  【通常の訳】  

   「あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やはゆく」 → 残念なことに雲に懸かる月に誘われて私の影も帰りますが、私の心はどこにも行きません。  「心やは行く」 と解釈。

  「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり」 → 私ゆえに物思いにふけって月を眺めていると告げたので、〔私の影が〕「誠か」と思って見に出てきました。     *校注(『日本古典文学大系』による) - 式部の歌で、 宮のことを「月のかげ」と詠んだので、 宮は、をれを承けて返歌とした。 「かげ」は「心」に対するものだから、「肉体」となる。 「かげ」は、「月」の縁語。

    

  疑問  

  私は始め、『和泉式部日記』の原文(所謂 定本)を読んでいて、 何と無く変だなと思ったのですが、そのまま通り過ぎていました。  杉篁庵さんの口語訳を拝見して・・・・、

 {『和泉式部日記』 を検索していたら、『杉篁庵』 さんのページに到達しました。  口語訳、お蔭で全体像が把握出来、 非常に助かりました。 有難うございます。  国語の先生をしていたと書かれてましたが、 知識が豊富でいらして、 何より高雅で、 画像も綺麗で、  スゴイの一言です。  行徳寺町にも行ってみたくなりました。} 

 ・・・・ああ、ここは違っているな、 と気付きました。  杉篁庵さんが  ― 「なほいとをかしうもおはしけるかな」 を、 ― 式部は、「やはり宮は本当に風流でいらっしゃる。」 ― と訳して下さったからです。 

  ・・・・ そう 「宮は風流でいらっしゃる」?  ということは?  宮の歌 「まことかと見にでて来にけり」 は、影なのか? 影が出て来た  ならば、 月が出ると影が映るのであって、 普通ですよね。  風流とは、もう一歩踏み込んで、 月が 「まことかと見に出て来にけり」 ではないでしょうか? ここではじめて風流だと言えるのではないでしょうか?    

  ・・・・つまり・・・・その前の宮の歌 「あぢきなく雲ゐの月にさそはれて影こそ出づれ心やはゆく」 の解釈 から違っていると思います。  「心やは行く」 ではないのです。  「心やはゆく = 心・和(やは)ゆく」 = 「心が穏やかになるように」 です。  宮は、 雲に隠れた月に便乗して、 式部邸を出るのですが、 それが心苦しく、 「影こそ出づれ」 と宮の影が月影に映えて出てほしい、「心が穏やかになる様に」 と願うのです。  この様に理解すると、 「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり」 の解釈も違ってきます。  「我ゆゑに」 とは? 「雲居の月 ― 雲に隠れた月に便乗して、 目立たないように式部邸を出て来てしまった私だから」 です。 そんな私だから、 「月を眺めています」 と月に告げれば、 「誠か?  と月が雲間から (宮を) 見に出て来た」 のです。 そして、ここではじめて影が出てくる。 これが、 風流 「なほいとをかしうもおはしけるかな」 ということではないでしょうか。 

   【帥宮の歌の訳】
 

    「あぢきなく雲ゐの月にさそはれてかげこそ出づれ心やはゆく」

       【訳】 つまらないことに、 雲に隠れた月が引き金となって(式部邸を出ましたが)、 心が穏やかになるように、 せめて私の影だけでも出てほしい。 (こそこそ帰るのは、 気が引けます。)

 
 
    「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり」

       【訳】 (月影が出ない内に帰って来た)私だから、 「月を眺めています」 と月に告げれば、 「誠か」 と月が私を見に出て来ました。

 

 

 (なにたのもしきことならねど)

    〔宮〕 ほどしらぬいのちばかりぞさだめなきちぎりてかはすすみよしの松  

   

  (校注―『日本古典文学大系』(岩波書店より)― いつまで生きるかわからぬ命だけは定めないもの、(しかし)約束をかわしたことばは永遠ですよ。 ―  (補注) 「すみよしの松」 は 「われ見ても久しくなりぬすみのえの岸の姫松いく代経ぬらむ」(古今集十七・雑上・詠人知らず)を踏まえている。 「永遠に変りないこと」にたとえる。 「ちぎりてかはす」は、 「松」の縁語として、 「枝をかはす」の意味をかける。 

  「すみよしの松」は、 通常、上記の古今和歌集の住之江の岸の姫松を踏んでいるとされています。 しかし私は「すみよしの松」とは、「住の江の松」とは云っていないこともあり、 神戸市東灘区・ 本住吉神社の松だと思います。  今の本住吉神社よりもう少し浜側にあったようですが、 入口には、 交差した松が植えられており、 その松の「×」の絵画図を見た憶があります。 「かはす」とは、 松の交差した状態を言うのでしょう。 

 「×」とは何か? 中々難しい問題ですが・・・・、 出雲荒神谷遺跡から銅鐸6個・銅矛16本・銅剣358本 が出土しましたが、 私は、その銅矛だったか銅剣だったかに彫られていた「×」と同じだと思います。  「×」とは、相対界と絶対界が交差する、 という意味を持っているのだと思われます。 出雲は冥界への入口、 日本国の絶対界の入口なのです。 絶対界を通り抜けて、 もの皆すべて新しく生れます。 相対が生れるのです。 本住吉神社の北西には、 銅鐸14個・銅戈7本が出土した神戸市灘区・桜ヶ丘遺跡があり、 何と、 その桜ヶ丘を基点として、 神戸市東灘区の本住吉神社と 大阪市住吉区・住之江の住吉大社が同じ線上に位置していると思われます。 そして、住吉大社の方は、奈良と大阪の境の二上山(山と山の間から太陽が昇る)との線上にありますから、つまり、 大阪湾・血沼の海の相対が生れるその位置にあります。  東灘の本住吉神社は、 「×」の位置、 絶対界に飲み込まれる、絶対界と相対界の交差する地点を象徴しているのではないでしょうか?  それが、本住吉神社入口の交差の松だと思います。 恐らく、 主に生田神社がその役目を負っていたと思われるのですが・・・・、 銅鐸やこれらについては、 いつか述べたいと思っています。・・・・今は、・・・・心身共に弱っているかなぁ・・・・ 先ずは、 『みだれ髪順接全訳』 を目指します。

 ということで、 「すみよしの松」は、「神戸東灘の本住吉神社の松」・交差の松であって、 「ちぎりてかはすすみよしの松」とは、死後も一緒にいようね、という約束。 死んでも変わらない愛を契る。 などの意図があると思います。 

    【帥宮の歌の訳】 命の程は知りようがなく、こればかりは定められないですが、 本住吉神社の松が交差しているように、 私達が死んでもこの愛を貫きましょうね。 約束ですよ。

 

          - 本文は全て 『日本文学大系 20』(岩波書店 初版昭和32年発行)に従いました -

 


『和泉式部集・続集』

2012-07-20 09:19:10 | 古典

           

           和泉式部集』と『みだれ髪』

                                 ―歌は、清水文雄著『校定本 和泉式部集・(正・続)』笠間書院に従いました―

 

* 86 くろかみのみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき

     → 「260 くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」

  『みだれ髪』の題名は、結局の所、和泉式部のこの歌から生れているのではないかと思います。 恋多き情熱の歌人・和泉式部は、余りにも晶子に似ているし、 とても素直に恋を詠んでいるからですが、 『みだれ髪』も恋による恋の為の詩集であり、 晶子自身も ― 彼女は天成の恋愛詩人で、恋と歌とは彼女の一生に体験せられて分つべからざるものでした。 恋のために歌を詠んだのか、 歌のために恋をしたのか、 二つのものが全く一つである観を呈してゐます。 ― と述べています。

 さて、(96)の歌ですが、晶子は「自分の髪の乱れることなども忘れて、 うつ伏しになって悲しんでいると、 自分の髪を第一に掻き撫でてくれた初恋の男のことが思い出されて恋しい」と訳しています。   後世、歌の解釈は色々されているようで・・・・、中には「男のひとり寝を歌ってこれほど艶な歌もまれであろう」という、 いくら詠む方の感性に任せられると言っても、 それはないでしょうという解釈もあるようです。  要は、最初の夫・道貞への歌か? 否か? ということが問題の様ですが・・・・、 「まづ」の解釈による所でしょう。   

 上村悦子 ― あまりの悲しさに心乱れて、黒髪がくしゃくしゃになるのも気にせず、わっと声を立ててうつ伏していると、すぐ、側に寄ってわたしの髪を撫でてなぐさめてくれたあの人が、ああ恋しい。― 

 藤岡忠美 ― 副詞「まづ」は「恋しき」に接続するはずなのに、(著者注:晶子の解釈は)「まづ掻きやりし人」をひとつながりに解するという、いわば初歩的なミスが冒されているのである。愛撫してくれた最初の恋人=道貞というおかしな図式があてはめられたうえで、その道貞を忘れかねて詠んだ「純情」「素直」な詠歌にたいする鑑賞がおこなわれたのであった。― 

 これらが「まづ」を「すぐに」と解した例ですが・・・、この解釈は違っていると思います。 藤岡忠美さんが解説して下さった全く逆で、「まづ」は「かきやりし人ぞ恋しき」に係ります。 こんなことを声を大にして市井の私が言ったところで、 何の説得力もないことは重々承知しているのですが、・・・・晶子や窪田空穂の訳が正しいです。 歌は文法が先にあるものではなく、 詠みがあって後から追いてくるものですが・・・・、歌う、詠むという音・抑揚が重要です。

 

 * 19 岩つつじをりもてぞみるせこがきし紅ぞめの衣〈きぬ〉ににたれば      

      → 「146 巌(いは)をはなれ峪(たに)をくだりて躑躅(つヽじ)をりて都の絵師と水にわかれぬ」      (訳)実家を離れ、京都で鉄幹と駆け落ちの待ち合わせをして、 暫く楽しんで、 そして京都の(絵を描いて楽しんだ)師と、まだ妻ではない(水の関係の)私は、雨の中、別れました。

 (146)の「躑躅をりて」は、和泉式部の「岩つつじをりもてぞみる」に依っています。 「をりもてぞみる」は、窪田空穂によると ―岩つつじの花を折って見る。 夫が着た紅染めの衣の色(五位の官人の袍の色に似ているので。)― という注釈もあり、この様に理解されています。  しかし、「をりもてぞみる」=折って見るではなく、 折ってみる・・・・~してみる、という意味で、 晶子もよく使っている用法です。   

     (19の訳) 岩躑躅を折って(も)みる。 夫が着た紅染めの衣に似ているから・・・・。

 私達が野に咲いている「花を摘む」時、 手折ってじっと見る、 慈しむという行為ではなく、 何と無く手折ってしまったというような感じ、 別に摘みたい訳でもなく・・・・、どちらかというと千切るという感じ・・・・、 岩躑躅を折ってみたのです。 理由が、夫の着た紅染めの衣に似ているから、です。 夫に対してのそういう気持ち・・・・、強いて言うなら、 自分のものにしたいという気持ちが含まれている気がします。   

 晶子の(146)も、 鉄幹と駆け落ちをする為に京都で待ち合わせをするのですが、 結局は一緒に連れて行ってもらえず、 独り京都に残されるのですが、その置いてきぼりをされる前の楽しい時、 鉄幹を独占していた時期を 「躑躅をりて」 に表現しました。 

 

  * 226          ある人の、 あふぎをとりて持(もたまへりけるを御らんじて、 大殿(との)、 「たがそ」ととはせ給ひければ、 「それが」 ときこえ給ひければ、 とりて、 「うかれめのあふぎ」 とかきつけさせたまへるかたはらに

               こえもせむこさずもあらん逢坂の関守ならぬ人なとがめそ   

       ―「122 白檀のけむりこなたへ絶えずあふるにくき扇をうばひぬるかな」

  或る人が、 (女物の)扇を持っているのを大殿‐藤原道長がご覧になって、 「それは誰れの?」とお尋ねになったので、 「その人です」と聞こえて来たので、 道長がその扇を取って、 「うかれ女の扇」と書き付けられたその横に、・・・・「越えもしたか、越えもしなかったか、逢坂の関守でもないお方が人を咎めないで下さい」 と書き付けました。

 『みだれ髪 122』は、『関西文学33年9月』に掲載されたものですが、 鉄幹が来阪して歌会を開催した直ぐのもので、 おそらく「白檀のけむりこなたへ絶えずあふるにくき扇」は、鉄幹の扇であり、 鉄幹は晶子をからかっていることから、 既に、和泉式部の(226)・道長のエピソードに想定して詠んでいるのだと思います。  

 

 * 269         身ヲ観ズレバ岸ノ額(ひたひ)ニ根ヲ離レタル草、 命ヲ論ズレバ江ノ頭(ほとり)ニ繋ガ不ル舟    (和漢朗詠集 羅維)

        みる程は夢もたのまるはかなきはあるをあるとて過(す)ぐすなりけり       

        →「211 露にさめて瞳もたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹」 

 人間の身を観れば、岸辺から根を離れた草。 命を論ずると、江の畔に繋がれていない舟の様なものです。 と和漢朗詠集にありましたので、和泉式部は、それを題材に歌に詠みました。  「見ている間は、夢も頼みとなりますが、儚いのは、目の前にあるものを、永遠にあるものとして過ごすことです」。  ここで晶子は、 これはどうでしょう? と(211)を詠みました。  という感じではないでしょうか? 

 晶子は、(211)を京都で駆け落ちの待ち合わせをした鉄幹に一人残され、 「あなたは後から、日にちを置いて来なさい」と告げられます。 そして放浪の旅をして東京に向かうのですが、・・・・野宿していた最中、 露の冷たさに目覚めます。 その時、 今、 夢を見ていたその中の虹が、現実となって目の前に現れているのです・・・・。 これは「ないをあるとて過ぐすなりけり」 ではないか?  鉄幹に捨てられたと思っていたけれど、 鉄幹を信じようと、 この時、 確信した歌ではないかと思います。

 

 * 712        くさのいとあをやかなるを、 とほくいにし人を思ふ

        浅茅(あさぢ)原見(み)るにつけてぞ思(おも)ひやるいかなる里にすみれ摘(つ)むらん

        → 「275 みどりなるは学びの宮とさす神にいらへまつらで摘む夕すみれ」

 草がすごく青々としているので、 遠く帰ってしまった人を思う。 「野原を見ると、あの人に思いを馳せます。 どんな里で菫を摘んでいるのかしら?」。  

 晶子は、 駆け落ちの放浪の旅で、 野の草々が青々と生い茂る中、 遠く東京に帰ってしまった鉄幹を思います。  「日にちを置いて、あなたが来ることは、平穏に事が収まることです。」 と指し示す鉄幹に、 「いかなる里にすみれ摘むらん」 と思ってくれているのでしょうか? と。 苛々しながら、夕方の菫を摘んでいる晶子です。               (北村透谷 「楚囚之歌」を参照して下さい。)

 

 * 955 今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりのうきふしもなし

       → 「134 わが春の二十姿(はたちすがた)と打ちぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹」

 (955)は、「今は唯、それよ、その事と思い出されて、 帥の宮さまを忘れてしまう位の、 憂鬱なこともありませんでした。」  この「そよ、そのこと」が、 晶子の「打ちぞ見ぬ」です。  『みだれ髪(134)』は、鉄幹との駆け落ちの為に、 箪笥を開けて衣類の準備をする訳ですが、晶子が色々物色している最中に、 二十歳の時のうす色牡丹の着物が出て来ます。 それが、「そよ、その時の物よ」と手を打って合点するのです。                                            ( 『楊太真外伝』を参照して下さい。)

 

        『和泉式部集』校注や解説について思うこと   

 

 * 163         なげく事ありとききて、人の、「いかなる事ぞ」ととひたるに  

        ともかくもいはばなべてになりぬべしねになきてこそみせまはしけれ

    332         内侍うせて後、 頭の中将、 「みづからきこえむ」とのたまへるに

        涙をぞみせばみすべきあひみても言(こと)にはいでむかたのなければ        

  藤岡忠美さんの説 『日本文学講座9』 - (163)を「いかにことばを尽くしてみたところでありきたりの説明にしかならず、 この悲嘆の深さは、 ひたすら声をあげて泣く自分の姿から想像してもらうしかない」と、 真に当を得た訳をしておられます。 そして晶子説「この歌を最初の夫の橘道貞と別れた直後の作と推定した」ことや、 木村正中説「それは、為尊親王を喪ったときのものではないか」の紹介。 さらには、 小式部内侍を亡くした頭中将・藤原公成が和泉式部に対面を求めたが、 その和泉式部の断りの歌(332)も、 「ともかく」の歌の上下が倒置されているだけで、 発想としては「泣く涙であらわすしかない悲しみは、ことばに言いあらわすすべがない」という主旨がここにも述べられている。  -が非常に興味深かったので、 両歌の違いについて私見を述べさせて頂きます。

 

  両歌共、表訳は藤岡説の如く同様の意味ですが、和泉式部の非凡さは、両歌の二重詠みの違いにあります。

  (163)→「ねになきてこそ」=「音に泣きてこそ」と「寝に泣きてこそ」の掛詞。従って・・・・

          (163の裏訳)ともかくも、言えば世間並みになりますが、(私が)寝ながら泣いていることをご存知でしょうか。

  (332)→「いでむかたのなければ」=「(言葉に)出す方法がないので」と「伺いに来られる方(小式部内侍)が(この世に)いないので」の掛詞から・・・・

          (332の裏訳)涙を見せて、お互い(頭中将と和泉式部)が相見ても、伺いに来てくれる人(小式部内侍)が(この世に)いないので・・・・。

  そして(163)は、裏訳の意図や、「嘆くことありと聞きて、人の、「いかなることぞ」と問ひたるに」の詞書を考慮して、 やはり晶子の推定-最初の夫・橘道貞への歌、 というのが正しいでしょう。 

 

 

 * 366             道貞(みちさだ)さりてのち、 帥の宮に参りぬと聞きて     (赤染衛門)

            (365) うつろはでしばし信田(しのだ)の森をみよかへりもぞする葛くずのうら風

                     返し

        秋風はすごく吹くとも葛の葉(は)のうらみがほにはみえじとぞおもふ

 赤染衛門の歌は「敦道親王のところに移らないで、しばらく信太の森(道貞-和泉の国司)の様子をご覧なさい、葛の葉が風に裏返るように、あなたのところに帰って来るかも知れませんよ」と、 どの注釈を見ても、同様に解説されています。  これは、全くその通りだと思うのですが・・・・、 問題はその返しの和泉式部の方の歌です。 どれも秋風を「飽き(厭き)風」と解し、「秋風が吹いて(あの人が私に)飽きたとしても、私は恨んだりしません」と注釈しています・・・・???。  何が?  赤染衛門の歌は、「葛」が和泉守だった道貞を指していたのでは?  「風」が今の状態を打開する良い兆候の喩えじゃなかったんですか?  詠まれた歌に対する返しの歌も、 同様の意図を持って返さなければならないことは王道だと思うのですが・・・・、そもそも秋風は 「飽き風」ではなく、「呆き風」なのでは? 赤染衛門の呆れ顔の揶揄した風=秋風 、と解するのが妥当だと思うのですが・・・・。

 和泉式部の歌は、「赤染衛門の呆れ顔の風・ 葛の裏風の秋風が凄く吹いても、 「葛の葉の裏身」は見えないと思います。」 と、「「葛の葉(道貞)の恨み顔」には見えない・届かないと思います。」  を掛けた歌だと思います。

         (366の訳)呆れ顔(赤染衛門)の秋風が凄く吹いても、葛の葉が裏返ることはなく、恨み顔の道貞には見えないと思います。

                   

                   『和泉式部続集』

           『和泉式部続集』校注や解説について思うこと

 

 

 * 1290       「今はたえてあはじ」などいひてのちも、 またいきあひて

         しのぶれど忍びあまりぬいまはただかかりけりてふ名(な)をぞたつべき

  窪田空穂の訳『朝日古典全集』― 人目を憚って、逢ふまいとがまんしたが、がまんし切れなくなった。 今はもうこれこれの中であったといふ評判を立てることとしよう。―  この様に訳するのが常套手段のようで、 詞書の「いきあひて」も、落ち合って、逢引きして、と解されています。 

 私は、「たつべき」の「べき」という語彙が非常に気になって・・・・、 余りにも恋多く、 恋に我慢しきれない和泉式部だという先入観からの想定だと思います。  「たつべき」は、「立つべき」ではなく、「断つべき」ではないかと? その方が、「べき」に ピッタリ だし・・・・、詞書の「いきあいて」も、 「出会って・ 偶然出会って」 とすると、 この歌は、180° 転回します。 訳は・・・・

            (1290)       「今は我慢して、今後お逢いません」 と言ってから後も、 また偶然出会って・・・・

                  我慢して、 我慢しきれなくなりましたが、 今はただ、 浮気者(同士)だという評判を断つべき?

 「断つべき」に断定の意志ではなく、 「?」を付けたのは、 和泉式部の気持ちです。 今はただ、浮気者だという評判を断つべきかどうか? それとも我慢しないで逢うかどうか? という選択です。 たぶん、 この歌は、和泉式部が自分自身に問うている、そういう歌だと思います。 

 

 * 1484       「ひさしくなりぬ、御ぐしまゐらん」といふ、 いらへばあやしや     

         いとどしくあさねのかみはみだるれどつげのをぐしはささまうきかな       

 私が一番知りたかった「ささまうきかな」の語の解説はなく、 全体の訳は、空穂の「髪をお洗ひしませうと侍女がいふのに返事をすれば、変な気分である。 髪を洗って黄楊の櫛を挿すのは、つらいことであるよ。」の洗髪説もありますが 、「黄楊の櫛を入れて梳き変える気になれない」と解されるのが一般的の様です。   清水文雄校注によると「朝寝髪われは梳らじうつくしき人の手枕ふれてしものを」(拾遺集、恋四、人麿)。 「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず」(万葉集、九、播麿娘子)。 等からの歌とされています。  しかし、和泉式部はもっと斬新ですし、 当時の晶子の様に素直で、前衛的だったに違いありませんし、古代の歌をなぞる様なことはしなかったでしょう。 私が思うには、その「ささまうきかな」の語自体が、新鮮だったのではないでしょうか?   

 詞書の「いらへば」=「答(いら)へば」と、「いらへば-(触(さわ)れば)の意」の掛詞です。  『岩波文庫』では、「挿(さ)さま憂(う)きかな」の漢字を当てて下さっていますので、恐らく「挿すのに惑う・混乱する(憂し)」と判断し、 また、「つげのをぐしは・黄楊の小櫛は」とあることから判断して、訳は・・・・

 

      (1484の訳) 「日にちが経ちました。 御髪を梳きましょう」 と侍女が言います。 「お願いします」と答え、 触れると(梳くと)まあ大変・・・・、ひどく朝寝の髪は乱れていますが、 黄楊の小櫛は梳くのにこんがらがっています。 (黄楊の小櫛が梳けない程、私の朝寝髪は乱れているのです。

 

      注; 清水文雄・校定本では、詞書の「いらへばあやしや」の部分が 「いらへはあやしや」 となっていました。 誤植かどうか判りませんが、 他本では「いらへば」を採っていますので、 「ば」を採用させて頂きました。

       

            『後拾遺和歌集』(雑六・神祇一一六)と 『みだれ髪』

 

* 1674          をとこにわすられて侍りける此、きぶねにまゐりて、御たらし河にほたるのとび侍りしを見て

        物おもへばさはのほたるもわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る

                御返事

        おく山にたぎりておつるたぎつ瀬の魂ちるばかり物なおもひそ   

                此の歌は、きぶねの明神の御返しなり。 男の声にて和泉式部が耳に聞こえけるとなむいひつたへたる。

      →「79 うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風(よかぜ)の青き」 

 『伊勢物語 百十段』-「思ひあまりいでにし魂のあるならむ夜ふかく見えば魂結びせよ」。  『源氏物語 葵の巻』の葵の上に憑依した六条御息所の生霊-「なげきわび空にみだるるわが魂を結びとどめよしたがひのつま」。 これらからも、「あくがれいづる魂」=生霊、と直接考えても良いと思います。 明神のお返事は、奥山に水飛沫をあげて落ちる滝の水滴みたいなものだから気にするな、との事でしたから・・・・、歌の訳は・・・・

         (1674の訳) 恋人のことを考えると、沢を飛んでいる蛍は、私の身より出た生霊かと思います。 

 私は、『長恨歌』でこの『みだれ髪(79)』を述べましたが、晶子は、より和泉式部に成り代わって同じ情景を詠んだのだと思います。 『みだれ髪79』は、 晶子の生霊の蛍が流れ、呆けた感じの世界観、青の世界が広がってゆく艶なる美しさです。

       

  参考文献:清水文雄校注『和泉式部集・和泉式部続集』(岩波文庫)、 窪田空穂『日本古典全集 和泉式部集・小野小町集』(朝日新聞社)、 与謝野晶子『定本与謝野晶子全集 第十二巻 和泉式部新考』(講談社)、 吉田幸一『和歌文学講座6 王朝の歌人 和泉式部』(桜楓社)、 上村悦子『和泉式部の歌入門』(古典ライブラリー)、 清水好子『王朝の歌人6 和泉式部』集英社、 日本文学協会-編『日本文学講座9  藤岡忠美-和泉式部「ともかくも」の歌をめぐって』(大修館書店)、 清水文雄『校定本 和泉式部集(正・続)』(笠間書院)

 


薄田泣菫「暮春の賦」

2012-07-01 03:24:49 | 薄田泣菫

 

           薄田泣菫「暮春の賦」               ―『暮笛集』 金尾文淵堂(明治32年11月)より―

 

 一   冷(つめ)たき土窟(むろ)に醸(か毛)されて、               若紫(わかむらさき)の色深(いろふか)く、

      泡(あは)さく酒(さけ)の盃(さかづき)を、                 吾唇(わがくちびる)に含(ふく)ませよ、

      暮(く)れ行(ゆ)く春(はる)を顫(わなヽ)きて、               細(ほそ)き腕(かひな)の冷(ひ)ゆる哉(かな)。

 

 二   心周章(こヽろあは)つる佐保姫(さほひめ)が、              旅(たび)の日(ひ)急(せ)くか、この夕(ゆふべ)、

      人(ひと)は夕飯(ゆふげ)に耽(ふけ)る間(ま)を、           花(はな)、そここゝに散(ち)りこぼれ、

      痛(いた)ましい哉(かな)、春(はる)の日(ひ)の             快楽(けらく)も土(つち)にかへりけり。

 

 三   垂(た)るゝ若葉(わかば)の下(した)がくれ、                乱(みだ)れて細(ほそ)き燈火(と毛しび)に、

      瞳(ひとみ)凝(こ)らして見入(みい)るれば、               蕚(うてな)にぬれる蕊(ずい)の粉(こ)や、

      花(はな)なき今(いま)も香(か)を吹(ふ)いて、             残(のこ)れる春(はる)を焼(や)かんとす。

 

 四   足(あし)にさはりて和(やは)らかき                      名(な)もなき草(くさ)の花(はな)ふみて、

      思(お毛)ふは弱(よわ)き人(ひと)の春(はる)、             蹠(あなうら)粗(あら)き運命(うんめい)に、

      恋(こひ)の常花(とこばな)ふみさかれ                    憂(う)しや、 逝(ゆ)く日(ひ)の無(な)くてかは。

 

 五   暗(やみ)まだ薄(す)き彼方(かなた)より、                 常若(とこわか)に笑(ゑ)む星(ほし)の影(かげ)、

     知恵(ちゑ)ある風(ふり)にきらめきて、                    夏来(なつく)と知(し)らす顔付(かほつき)よ。

     今(いま)冷(ひや)やかに見(み)かへして、                 吾(われ)、 嘲(あざ)けるを江堪(た)へじな。

 

 六   耳(みヽ)をすませば薄命(はくめい)の                    長(なが)き恨(うらみ)か、 暗(やみ)の夜(よ)を、

     くだけて落(お)つる芍薬(しやくやく)や                    吾(われ)も沈(しづ)める 此(この)夜半(よは)を、

     毒(どく)ある花(はな)の香(か)に酔(ゑ)ひて、               消(き)江て人霊(すだま)と化(か)せん哉(かな)。

 

 七   かゝる静寂(しヾま)をことならば、                       心(こヽろ)ある子(こ)がものすざび、

      顫(わな)なく絃(いと)にふれもせば、                    弱(よわ)き我身(わがみ)はくだけても、 

      琴(こと)ひく君(きみ)が胸(むね)の上(へ)に、              涙(なみだ)のかぎりかけましを。

 

  八     あゝ恨(うら)みある春(はる)の夜(よ)の                   ほそきあらしに熱情(ねつじよう)の

     焔(ほのほ)な消(け)しぞ、木(こ)がくれに、                 のがれて急ぐ佐保姫(さほひめ)が、

     旅路(たびぢ)を咀(のろ)ふ蠱術(まじ毛の)の                息吹(いぶき)とはかん血汐(ちしほ)なり。   

 

  (注) 漢字は新漢字を用い、 節の番号は便宜上付けました。   江=え。  毛=も。  咀(のろ)ふ→「詛(のろ)ふ」の間違い。 晶子も『みだれ髪』(267)に於いて、同じ誤りをしています。   著作本『百年目の泣菫『暮笛集』』には、 訳も違っている箇所があることもあり、 『みだれ髪』にとっては非常に重要な詩ですので、 再度引用させて頂くと共に、 以前よりも直訳を心掛けました。     

  

 

            泣菫「暮春の賦」の訳                         木村真理子   

 

  1  冷たい室(むろ)に醸造され、                           若紫の奥深く、

     発泡してくる酒の杯を                                私の唇に与えよ。

     暮れて行く春を嘆いて、                              私の細い腕が冷たくなってくるから。

 

  2  心焦(こころあせ)る佐保姫が                          夕暮れになり、 旅路を急ぐのか、

     人々の夕餉の間に                                 男と交わった。

     花がそこここに散り、                                春の快楽が過ぎ去った。

 

  3  遠くに揺らめく細い燈火を通して、                       瞳を凝らして見入れば、

     垂れる若葉の下に、                               芋茎(ずいき)の粉が塗られていた。

     花のない今も香を放って、                            残る春を燃やそうとする。

 

  4  足に触れる柔らかい                               名もない草(行きずりの男)の花を踏んで

     思うのは、 愛に飢える人の春。                        衝撃的な運命に

     恋する女心を犯されて、                             悲しくて死んでしまいたい。

 

  5  薄暗い夕闇の彼方より                              永遠の輝きを見せる星影。

     物知り顔に煌めいて、                               夏がやって来ると知らせる。

     今、 冷ややかに見返して、                           星々が嘲るのを堪えた。

 

  6  薄幸の運命の長い恨みか、                           闇の中、 耳を澄ますと

     砕け落ちる芍薬(しゃくやく)の音がする。                   私も心(こころ)沈むこの夜半、

     毒ある花の香りに酔って、                            消えて人霊(ひとだま)となってしまおうか。

 

  7  この様な静寂の一方で、                             利かん気な子供の叫び声がする、

     感傷に浸る私に・・・・。                               弱い我が身は、性愛に耽(ふけ)る

     君の胸に飛び込み、                                涙が涸れるまで泣いていたい。  

 

  8  ああ、 恨みに思う春の夜、                           恋心に情熱を傾けた

     炎をなぜ消すのか、木立に身を                        隠しながら急ぐ佐保姫が、

     旅路を儚む出来事に、                              ため息を吐(つ)く血汐である。 

     

           泣菫「暮春の賦」と『みだれ髪』との対比 

 

 10年も前に書いた自著本ですが、・・・・もう一度「暮春の賦」の四章を読み直してみて、 自分でもなんかスゴイコト書いてるなって感心しました。

 晶子は駆け落ちを遂行する為に鉄幹と京都で待ち合わせをするのですが、一泊した後、鉄幹に「あなたは日にちを置いて後から来なさい。」と言われ、一人残されます。 それから放浪の旅が始まるのですが、その日の出来事を「暮春の賦」に一字一句漏らさず踏んで歌を詠んでゆきます。 この事件があってこそ『みだれ髪』が完成した、と言える程ですから、この詩が『みだれ髪』にいかに重要な位置を占めているかが窺えます。

 晶子は、堺の実家から駆け落ちをする為に出立します。

       「50  狂ひの子われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅」        (訳)恋に狂った私は、情熱に燃えた翅は軽く、東京までの百三十里の道程を慌しく出発します。       (百三十里は、堺~大阪の十里と大阪~東京の百二十里の合計530km)

       「149  うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君」           (訳)藤の花が咲く朝、(母が私の)項(うなじ)に手を触れ(後れ毛を身繕いしてくれながら)「(駆け落ちするのは)およしなさい、 この子は・・・・、 あなたが行くのは訳の分からない人ですよ」 と心配そうに囁きました。            「藤」は、大樹の陰‐藤原良房の「藤」でもありますから、母の庇護の下という意図があるかも知れません。

       「127 泣かで急げや手にはばき解くゑにしゑにし持つ子の夕を待たむ」    「ゑにし」は「えにし」の誤り。  手に着けるのは脚絆(きゃはん)、 脚に着けるのが脛巾(はばき)。           (訳)泣かないで(手に脚絆を着け)急ぎましょう。家族との縁を解き、手に着けた脚絆を解いてくれる縁を求め、(その人との縁ができる)夕方を待ちましょう。

 そして京都に到着し、夕方鉄幹と落ち合います。 次の日、鉄幹は一人東京に帰り、晶子は駆け落ちの京都に置いてきぼりをされます。その日が、丁度今の季節、旧暦の4月20日・明治34年6月6日だったと思われます。

       「83 その涙のごふゑにしは持たざりきさびしの水に見し二十日月(はつかづき)」      (訳)私は、その涙(駆け落ちの京都に一人残されたこと)を拭(ぬぐ)う縁は持っていません。 水に映る二十日月(旧暦明治34年4月20日の月)を淋しく眺めています。 

 さらに東京に到着したとされているのが6月14日ですから、 実に一週間以上も掛けて放浪の旅をしたことになります。 その東京までの道筋の歌を当時の天気と絡めて『関西文学 49号』(2005年4月)に解説させて頂きましたが、又いずれ歌だけでもお話ししましょう。  

 ここでは、一人置いてきぼりにされた6月6日頃の出来事を紹介します。 泣菫詩「暮春の賦」にピッタリ一致したのでしょう。 晶子はこの詩を一字一句漏らさず踏むことにより、 自身を慰めていたにちがいありません。

 

  一

     冷(つめ)たき土窟(むろ)に醸(か毛)されて/若紫(わかむらさき)の色深(いろふか)く/泡(あは)さく酒(さけ)の盃(さかづき)を/吾唇(わがくちびる)に含(ふく)ませよ

      ―「367 その酒の濃きあちはひを歌ふべき身なり春のおもひ子」       「あちはひ」=「あぢはひ」の誤植。   (訳)その「若紫(わかむらさき)の色深(いろふか)く/泡(あは)さく」酒の味わいを噛み締めている私-春を求める私です。

 「その酒」は、上記を踏んで、佐保姫が酔う「冷(つめ)たき土窟(むろ)に醸(か毛)されて/若紫(わかむらさき)の色深(いろふか)く/泡(あは)さく酒」とし、対象を晶子自身としました。 (もっと簡素なものだと思い、著作本とは変更しました。)

 

     暮(く)れ行(ゆ)く春(はる)を顫(わなヽ)きて/細(ほそ)き腕(かひな)の冷(ひ)ゆる哉(かな)             

       ―「320 いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春」         (訳)せめて(恋の炎よ)燃えるがままに、燃え尽きよ。 この様に惨めな終わり行く恋を。

 (320)は上記を踏み、 「斯くぞ覚ゆる」は、駆け落ちの京都に一人残された恨み、この時を忘れない、という気持ちが込められていると思います。   

 二

     心周章(こヽろあは)つる佐保姫(さほひめ)が/旅(たび)の日(ひ)急(せ)くか、この夕(ゆふべ)/人(ひと)は夕飯(ゆふげ)に耽(ふけ)る間(ま)を/花(はな)、そここゝに散(ち)りこぼれ/痛(いた)ましい哉(かな)、春(はる)の日(ひ)の/快楽(けらく)も土(つち)にかへりけり

       ―「88 恋か血か牡丹に尽きし春のおもひとのゐの宵のひとり歌なき」          (訳)(表訳)か家族か(行くか帰るか)、恋という人生の華に尽きる青春の想い(の為ここまで来ましたが・・・・)、宵の宿屋で一人打ちひしがれています。    (裏訳)愛を勝ち取るか、刃傷沙汰もしくは自殺か、牡丹(の赤)に尽きる青春の想い、一人寝の宵に睦みはありません。

 上記を踏んでいますから、二重詠みの歌と解しました。  「恋か血か」=鉄幹との恋か家族との血縁か? このまま駆け落ちを遂行して行くべきか、それとも家族の元に帰るべきか? の選択。  裏歌の「恋か血か」=激しい恋か、血を見る刃傷沙汰もしくは自殺か、という苦境の選択です。  「牡丹に尽きし春のおもひ」=恋という人生の華に尽きる青春の想い、この想いによって駆け落ちを遂行して来たこと。  「とのゐ・宿直」=京都まで駆け落ちをして来て、鉄幹に置いてきぼりされた宿屋での一人寝。 「歌」=言葉・気持ちと、恋の睦み、との意図と解しました。

 

 三

     垂(た)る ゝ若葉(わかば)の下(した)がくれ/乱(みだ)れて細(ほそ)き燈火(と毛しび)に/瞳(ひとみ)凝(こ)らして見入(みい)るれば

       ―「82 おりたちてうつつなき身の牡丹見ぬそぞろや夜(よる)を蝶のねにこし」        (訳)(表訳)空ろな私は、(庭に)降り立って牡丹の花を見ました。 「そぞろや?」夜に蝶が眠りに来ています。   (裏訳)思い立って、空ろな我が身の牡丹を見ました。この虚しい夜を蝶の恋人よ、睦みに来て下さい。

 「おりたちて」=降り立つ、と思い立っての掛詞。  「牡丹」=牡丹の花、と女性性器の掛詞。  「そぞろや」=?(逸見久美『新みだれ髪全釈』では、「すずろ」と同じであって、「意外・思いがけない」と訳されていました。)が、解からないので、ここは保留とさせて頂きます。  もう一方は、気が落ち着かない、そわそわするの意味で、「虚しい」を当てました。  「ねにこし」=寝に来る・寝にやって来たの意、と寝に来られたし・寝にいらっしゃい、の掛詞。

 

     花(はな)なき今(いま)も香(か)を吹(ふ)いて/残(のこ)れる春(はる)を焼(や)かんとす

       ―「255 夜の神のあともとめよるしら綾の髪の香朝の春雨の宿」      (訳)夜の恋人(鉄幹)の後を追い求める私の白綾に染み付いた鬢の香りが、朝の春雨が降る宿に漂っています。

 (255)は上記の部分を踏んでいますから、「鬢の香」は直接的には女性性器の匂いであって、二重詠みとも言える歌です。   「もとめよる」=求め寄る、ではなく、「求める+~しよる」という方言。 「し」はdoです。 自分の意思に反して身体が自然と「鬢の香」を放つことを示しています。

 

 四

     足(あし)にさはりて和(やは)らかき/名(な)もなき草(くさ)の花(はな)ふみて/思(お毛)ふは弱(よわ)き人(ひと)の春(はる)

        泣菫『暮笛集』「村娘」―神よ情(じやう)ある人の子に、/盲目をゆるせ、 ゆく春の/長きうれひを眺めては、/か弱き胸の堪へざるに。

       ―「217 神ここに力をわびぬとき紅(べに)のにほひ興(きよう)がるめしひの少女(をとめ)」      (訳)神様は、ここに非力を詫びて下さっているでしょう。私は、危険な恋を面白がっている恋に盲目の少女です。 

 「暮春の賦」‐思ふは弱き人の春は、「村娘」‐か弱き胸の堪へざるに、という意図によって、「村娘」を踏んで成立しています。  「とき紅(べに)のにほひ興(きよう)がる」→危険な恋を面白がる。  鉄幹歌話は参考にせず、常に歌に忠実になる方が良いと思います。

 

     蹠(あなうら)粗(あら)き運命(うんめい)に/恋(こひ)の常花(とこばな)ふみさかれ/ 憂(う)しや、 逝(ゆ)く日(ひ)の無(な)くてかは

     泣菫『暮笛集』「巌頭にたちて」―耳をすませば、岩(いは)がくれ/薄き命の響きして、/風にわなゝく蘆(あし)の葉の/波間に沈む一ふしよ。

       ―「250 二十(はた)とせのうすきいのちのひびきありと浪華の夏の歌に泣きし君」      (訳)(表訳)二十年の幸せ薄い命の響きがあると、 (去年の)大阪での夏の歌に泣いて下さったあなたでしたのに・・・・。   (裏訳)二十年の幸せ薄い命の響きがあると(去年の)大阪での夏の睦みに(結婚すると)約束して下さったあなたでしたのに・・・・。

 直接的には「巌頭にたちて」を踏んでいますが、暗々裏には、「恋(こひ)の常花(とこばな)ふみさかれ/ 憂(う)しや、 逝(ゆ)く日(ひ)の無(な)くてかは」を踏み、

       「253 君ゆくとその夕ぐれに二人して柱にそめし白萩の歌」      (訳)登美子が帰って後、その夕暮に二人で睦んだ、私の愛。 → この時、既に晶子は鉄幹と結婚する約束をしていたのでしょう。 鉄幹はそんなつもりは毛頭なかったにしろ・・・・。

この歌を念頭に置いて詠まれています。

 

 五

     暗(やみ)まだ薄(す)き彼方(かなた)より/常若(とこわか)に笑(ゑ)む星(ほし)の影(かげ)/知恵(ちゑ)ある風(ふり)にきらめきて/夏来(なつく)と知(し)らす顔付(かほつき)よ

       ―「1 夜の帳(ちやう)にささめき尽きし星の今を下界(げかい)の人の鬢(びん)のほつれよ」       「長恨歌」を参照して下さい。

 

     知恵(ちゑ)ある風(ふり)にきらめきて/夏来(なつく)と知(し)らす顔付(かほつき)よ

       ―「135 春はただ盃にこそ注(つ)ぐべけれ知恵あり顔の木蓮や花」      (訳)知恵あり顔をしている木蓮の花よ、春はただ、盃に酒を注ぐべきだ。

 「夏来(なつく)と知(し)らす顔付(かほつき)よ」 を暗々裏に踏み → 「春来と知らす顔付よ」 → そんなに落ち込んでいないで、いずれ恋が成就しますよ、と言う「知恵あり顔の木蓮の花」に、苛(いら)ついての一言。 「恋は、一途なものですよ。」 が、「春はただ盃にこそ注(つ)ぐべけれ」。

 

     今(いま)冷(ひや)やかに見(み)かへして/吾(われ)、 嘲(あざ)けるを江堪(た)へじな 

        ―「266 そのわかき羊は誰に似たるぞの瞳(ひとみ)の御色(みいろ)野は夕なりし」       (訳)その若い羊は、誰に似ているでしょう? と思える程の瞳の野の夕焼けの色です。  (彷徨える羊である私の瞳も、この夕焼けの野のようです。)

 「吾(われ)、 嘲(あざ)けるを江堪(た)へじな」を踏み、 晶子が自分自身を嘲笑っています。 涙で真っ赤になった瞳の色、 その色が梅雨の合間の夕焼け空に染まった野の色と一緒だったのでしょう。

 

  六

     耳(みヽ)をすませば薄命(はくめい)の/長(なが)き恨(うらみ)か、 暗(やみ)の夜(よ)を

       ―「264 行く春の一弦(ひとを)一柱(ひとぢ)におもひありさいへ火(ほ)かげのわが髪ながき」       (訳)春が過ぎ行き、駆け落ちの一つ一つに思い出があります。とは云うものの、燈火の影の私の髪は(あなたを恨んで)長く伸びています。

「行く春」=過ぎ行く季節と、過ぎ行く青春と、駆け落ちの道程。 「一弦(ひとを)一柱(ひとぢ)に」=琴を弾いている訳ではなく、一つ一つの出来事の譬え。 「さいへ(さ云へ)」=とは言うものの。 「B-わが髪ながき」=A さ云へ「B」 → A の逆説が「B」 、つまり 「B-わが髪ながき」は、「A-行く春の一弦一柱におもひあり」 の肯定文に対しての逆説であり、 否定的文章-悪い意味で「髪が長い」となり、 「長(なが)き恨(うらみ)か、 暗(やみ)の夜(よ)を」 を踏んだものが、「火(ほ)かげのわが髪ながき」です。

 

      くだけて落(お)つる芍薬(しやくやく)や/吾(われ)も沈(しづ)める 此(この)夜半(よは)を/毒(どく)ある花(はな)の香(か)に酔(ゑ)ひて/消(き)江て人霊(すだま)と化(か)せん哉(かな)。

        ―「262 とどめあへぬそぞろ心は人しらむくづれし牡丹さぎぬに紅き」       (訳)抑えることが出来ない空虚感をあなたにはお解かりにならないでしょう。 裂かないのに崩れてしまった牡丹が咲ききらないで紅く(散っています)。

 「くだけて落(お)つる芍薬(しやくやく)や」を「くづれし牡丹」、「吾(われ)も沈(しづ)める 此(この)夜半(よは)を」を「とどめあへぬそぞろ心」とし、「毒(どく)ある花(はな)の香(か)に酔(ゑ)ひて/消(き)江て人霊(すだま)と化(か)せん哉(かな)」を暗々裏に踏んでいます。

 (262)五句を〔新潮〕では「袂に紅き」、〔改造〕では「大地に紅し」と変更していますから、どうも五句の「さぎぬ」の語彙がしっくりいかなかったのでしょう。 「さぎぬ」=着物ではなくて、「裂ぎぬ(さぎぬ)と咲きぬ(さきぬ)」の掛詞。 「さきぬ」とすれば、「咲きぬ」の意味に特化されてしまう為、「裂きぬ」の意図が飛んでしまうからです。 晶子としては鉄幹との駆け落ちが、自分の意思ではないこと(裂かないのに)を強調したかったのだと思います。

  

  七

      かゝる静寂(しヾま)をことならば/心(こヽろ)ある子(こ)がものすざび

        ―「126 春の川のりあひ舟のわかき子が昨夜(よべ)の泊(とまり)の唄(うた)ねたましき」       (訳)春の川の乗合い舟に乗り合わせた子供が、昨夜の宿で唄って(騒いで)いたのが妬ましかったです。

 「春の川のりあい舟のわかき子が」=嵐山遊覧(保津川下り)の舟に乗り合わせた子供が。 「かゝる静寂(しヾま)をことならば」-晶子が鉄幹に置いてきぼりをされ、沈んでいる一方で。 「心(こヽろ)ある子(こ)がものすざび」-躾の悪い子が騒ぐ。 

 

      顫(わな)なく絃(いと)にふれもせば/弱(よわ)き我身(わがみ)はくだけても/琴(こと)ひく君(きみ)が胸(むね)の上(へ)に/涙(なみだ)のかぎりかけましを

        ―「260 くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」        (訳)(私の)黒髪の千筋の乱れ髪が、(恋によって)さらに思い乱れ、乱れています。

 初出は『みだれ髪』ですが、「暮春の賦」を一字一句踏みたいという意図により、編纂時に挿入されたのでしょう。 晶子の言葉の遣い方でスゴイと思うのは、「かつ」の語彙を挿入したことです。 「尚且つ(なおかつ)」の「かつ」ですが、畳み掛ける用法としても、音としてのアクセントとしても区(句)切れにも効果を演出しています。

 

  八

      あゝ恨(うら)みある春(はる)の夜(よ)の/ほそきあらしに熱情(ねつじよう)の

        ―「83 その涙のごふゑにしは持たざりきさびしの水に見し二十日月(はつかづき)」       (訳)上記を参照して下さい。

 登美子「その涙のごひやらむとのたまひしとばかりまでは語りうべきも」 (訳)「その涙を拭ってあげるわ」と言うばかりまでは、語り合えるのですが・・・・。  この登美子の歌を引用し、 登美子なら、鉄幹は一緒に東京に連れて行ったでしょう、という思いが根底にあります。 「その涙のごふゑにしは持たざりき」は、結婚の約束をしたけれど、まだ妻ではないし・・・・、を意図します。

  

      焔(ほのほ)な消(け)しぞ、木(こ)がくれに/のがれて急ぐ佐保姫(さほひめ)が

        ―「129 小川われ村のはづれの柳かげに消えぬ姿を泣く子朝見(あさみ)し」      (訳)小川よ、あなたは村の外れの柳陰に泣きながら消えていった私の姿を朝、見ましたよね。

 「のがれて急ぐ佐保姫(さほひめ)が」ですから、晶子が逃れて急いで消えていきます。 「われ」=私ですが、呼びかけの二人称「あなた」を意図し、「小川われ」=小川に呼びかけた「小川よ、あなたは」の意。 歌全体が小川に呼びかけた文章。 「消えぬ」=消える(反語)。 「小川われ/村のはづれの柳かげに/泣く子/消えぬ姿を/朝/見(あさみ)し」 の置換です。

 

      旅路(たびぢ)を咀(のろ)ふ蠱術(まじ毛の)の/息吹(いぶき)とはかん血汐(ちしほ)なり

      泣菫『暮笛集』「村娘」― 和肌に/指をさはれば此は憂しや、潮に似たる胸の気の浪とゆらぐを今ぞ知る

      泣菫『暮笛集』「尼が紅」― 乳房さはりて吾胸の/力ある血の気は立ちぬ

        ―「392 誰に似むのおもひ問はれし春ひねもすやは肌もゆる血のけに泣きぬ」     (訳)誰に似ているか? と自問してみる程の、春の一日中(私の)柔肌を燃やす血の気に泣いています。

 直接的には泣菫の「村娘」と「尼が紅」を踏んでいますが、佐保姫が自身のことを「息吹(いぶき)とはかん血汐(ちしほ)なり」と述べていますので、 晶子自身のことを言っています。  「誰に似むのおもひ問はれし」=誰のような生き方をしたいかと問われた、のではなく、 「誰に似むの」思いを問い掛ける程の、意であって、「やは肌もゆる血のけに泣きぬ」に掛かります。

 


『伊勢物語』

2012-06-18 10:11:42 | 古典

 

            『伊勢物語』と『みだれ髪』の対比          ― 新日本古典文学大系17  岩波書店(1997年)より―

 一段

     むかし、お(を)とこ、うゐかうぶりして、平城(なら)の京(きやう)、春日(かすが)の里(さと)にしるよしして、狩(かり)に往(い)にけり。 その里(さと)に、いとなまめいたる女はらから住みけり。 このお(を)とこ、 かいまみてけり。 おもほえず、古里(ふるさと)にいとはしたなくてありければ、心地(こヽち)まどひにけり。    (下略)  

        (概要)昔、男が元服をして、平城京の春日の里に領地を所有している縁で、鷹狩に行く。 嘗ての旧都に大層美しい姉妹が住んでいるのを思いがけなく覗き見をして、心が惑う。 

 

     このお(を)とこ、 かいまみてけり。 おもほえず、古里(ふるさと)にいとはしたなくてありければ、心地(こヽち)まどひにけり。

       ―「110 ほの見しは奈良のはづれの若葉宿(わかばやど)うすまゆずみのなつかしかりし」        (訳)仄かに見たのは、奈良の郊外の若葉が美しい宿でした。 その人の薄い眉が(鉄幹を想い)懐かしく思えます。

 (110)は、「このおとこ」を晶子にすることで、「かいまみてけり。 おもほえず、古里(ふるさと)にいとはしたなくてありければ、心地(こヽち)まどひにけり。」を踏んでいます。  駆け落ちの京都に残された晶子は、鉄幹に置いてきぼりにされ、一人京都から奈良に向かいます。 その奈良の郊外の若葉が美しい宿で垣間見た薄眉の男に、鉄幹を想い、思わず私を連れに帰って来てくれたのではないか? と一瞬思う訳です。 しかし、やはり鉄幹とは違っていました。 「いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり」を『伊勢物語 一段』を踏んで詠んだのです。

 

 九段

     むかし、お(を)とこありけり。 そのお(を)とこ、身をえうなき物に思(おもひ)なして、京にはあらじ、あづまの方に住(す)むべき国(くに)求(もと)めにとて行(ゆ)きけり。 もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。 道(みち)知(し)れる人もなくて、まどひいきけり。 三河(みかは)の国(くに)、八橋(やつはし)といふ所にいたりぬ。 そこを八橋(やつはし)といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手(くもで)なれば、橋(はし)を八(や)つわたせるによりてなむ、 八橋(やつはし)といひける。 その沢(さは)のほとりの木のかげに下(お)りゐて、乾飯(かれい)食(く)ひけり。 その沢(さは)にかきつばたいとおもしろく咲(さ)きたり。 それを見て、ある人のいはく、 「かきつばたといふ五文字(いつもじ)を句(く)の上(かみ)にすへ(ゑ)て、 旅(たび)の心をよめ」 といひければ、 よめる。

     10 唐衣(からころも)きつゝなれにしつましあればはる ゞ きぬる旅(たび)をしぞ思(おもふ)

とよめりければ、 皆(みな)人、 乾飯(かれいひ)のうへに涙(なみだ)落(おと)してほとびにけり。   (下略)

     (概要) 昔、京にいる男が 自身を要のない者の様に思って、東の方に住まうべき国を求めて友と二人で行く。 三河の国の八橋という所に来て、乾飯を食べていると、その沢に杜若(かきつばた)が素晴らしく咲いている。 それを見て、ある人が「かきつばたという五文字を句の上に置いて、旅の心を詠め」と言ったので、詠む。

     【校注本による唐衣の歌の訳】 唐衣を着馴らすように馴れ親しんできた妻が都に残っているので、 こうしてはるばるとやって来た旅のつらさが身にしみて感ぜられる。

 

      唐衣(からころも)きつゝなれにしつましあればはる ゞ きぬる旅(たび)をしぞ思(おもふ)      折句:【か】らころも【き】つゝなれにし【つ】ましあれ(ば)【は】る ゞ きぬる【た】びをしぞ思(おもふ)。 【かきつばた 杜若】

        ―「289 庭下駄に水をあやぶむ花あやめ鋏(はさみ)にたらぬ力をわびぬ」             (訳) 表訳: 花菖蒲(あやめ)を鋏で切るのに、水辺に濡れた庭下駄の足元を心配して力が入らなく、中途半端に切ってしまったのを詫びました。    裏訳: 逃げた身を病むな逢わぬを詫びぬ。(ご両親様 駆け落ちをしてしまった私を心配しないで下さい。 お逢いしないことをお許し下さい。)

 (289)は九段、唐衣の歌の意味-唐衣を着馴らすように馴れ親しんできた両親が堺に残っているので、 こうしてはるばるとやって来た旅のつらさが身にしみて感ぜられます。-を踏み、 折句の代わりに、裏訳を持つように作詠しました。

     【に】 わ【げた】に/【み】ず【を】あ【や】ぶ【む】/は【な】【あ】やめ/【は】さみにたら【ぬ】/ちから【をわびぬ】 ― 【にげたみをやむな あはぬをわびぬ】― 逃げた身を病むな 逢わぬを詫びぬ。

 東京に行った頃のもので、当初は 新詩社の人々にも受け入られなかったようです。 堺の両親のことを想い、駆け落ちして帰るに帰れない心境を詠んでいます。 「鋏に足らぬ力」 とは、鉄幹が完全に前妻・滝野と手を切った訳でもなく、晶子が与謝野の姓になった訳でもなく、同棲しているという中途半端な状態を意味しています。

 

 十二段

     むかし、お(を)とこ有(あり)けり。人のむすめをぬすみて、武蔵野(むさしの)へ率(ゐ)て行(ゆ)くほどに、ぬす人なりければ、国(くに)の守(かみ)にからめられにけり。 女をば草(くさ)むらのなかにを(お)きて、逃(に)げにけり。 道来(みちく)る人(ひと)、「この野(の)はぬす人あなり」とて、火つけむとす。 女、 わびて、

      武蔵野(むさしの)は今日(けふ)はな焼(や)きそ若草(わかくさ)のつまもこもれり我(われ)もこもれり

とよみけるを聞(きゝ)て、 女をばとりて、 ともに率(ゐ)ていにけり。

     (概要) 昔、娘を盗んで、武蔵野へ連れて行った男が国司の追っ手に追われ、女を草むらの中に置いて逃げる。 追手の者は、「この野には、盗人がいるだろう」と、火を点けようとするが、 草むらに隠れていた女は詫びて、「武蔵野は今日は野焼きをしないで下さい。夫も私も隠れているのですから」と詠んだのを聞いて、男と共に捕らえて帰る。

     【校注本によるつまもこもれりの歌の訳】 武蔵野は、今日は野焼しないでください。 私の夫も隠れているし、 また私も隠れているのだから。   

    【著者注】 ともに率(ゐ)ていにけり=「いにけり」の「いぬ(往ぬ)」は、去る・帰る、の意。 共に率いて、帰った。→ (女と男を)共に(捕らえて、国司の追手が二人を)率いて帰った。

 

     ぬす人なりければ、国(くに)の守(かみ)にからめられにけり。 女をば草(くさ)むらのなかにを(お)きて、逃(に)げにけり。

       ―「12 まゐる酒に灯(ひ)あかき宵を歌たまへ女はらから牡丹に名なき」     (訳) 酔ってしまった酒に、酒屋の灯が明るく照らす宵、(良い)返事を下さいね。 女の私は、心から妻という名には拘(こだわ)らないないから・・・・、(唯愛されたいだけです)。 

 泣菫「古鏡賦」の 「心地(みだりごヽち)の堪(た)へざるに/泡咲(あはさ)く酒(さけ)の雫(しづく)だに/渇(かは)ける舌(した)にふくませよ」 を踏み、それが「妻覓(めまぎ)と見るか。 物狂(ものぐるひ)」 の情況を生み出しています。 また、「名(な)に恋(こひ)しれど」→妻という名に焦がれる、 が、 (12)「牡丹に名なき」→恋に妻という文字はない、 と述べています。   (以下、泣菫「古鏡賦」を参照して下さい。)

 (12)は泣菫「古鏡賦」を踏んでいますが、 「人のむすめをぬすみて、京都へ率(ゐ)て行(ゆ)くほどに」 →京都まで駆け落ちをして来て。  「ぬす人なりければ」 →鉄幹が晶子をかどわかした盗人。 「女をば草(くさ)むらのなかにを(お)きて、逃(に)げにけり」 →鉄幹は晶子を置いて、一人東京に帰ってしまった。  「今日(けふ)はな焼(や)きそ若草(わかくさ)の・・・・我(われ)もこもれり」 →晶子が京都に一人籠もっている「灯(ひ)あかき宵」。   と、『伊勢物語』十二段は、晶子が駆け落ちをして来て、京都にいる情況と同じです。  晶子にとっての一人残された酒場での「灯(ひ)あかき宵」とは、草むらの中に置かれた女の、武蔵野の野焼きの火の赤だったに違いありません。 その証拠に、・・・・『みだれ髪』には歌番は元々付けられていませんが、 『伊勢物語』十二段を意識して『みだれ髪』(12)番目の歌が散在しています。

 

 二十七段

     昔、お(を)とこ、女のもとに一夜いきて、又も行(い)かずなりにければ、女の、手洗(あら)ふ所に、貫簀(ぬきす)をうち遣(や)りて、たらひのかげに見えけるを、みづから、

     59 我許(ばかり)物思(おもふ)人もあらじと思(おも)へば水の下(した)にも有(あり)けり

とよむを、来(こ)ざりけるお(を)とこ立(た)ち聞(き)きて、

     60 水口(みなくち)に我や見ゆらんかはづさへ水の下(した)にて諸声(もろごゑ)になく  

    (概要)昔、男が女の元に一夜行って、また行かなくなってしまった。 女が手を洗う所の盥(たらい)の簾(すだれ)を退(ど)かすと、 盥の中に女自身の姿が水鏡として映る。 そして女の歌、と男の歌。   

     【校注本による我許の歌の訳】 この私ほど物思いに悩む人はほかにいなかろうと思っていると、水の底にもそういう人がいたではないか。  

     【校注本による水口にの歌の訳】 水口には私の顔が映って見えたのでしょう。 あの蛙でさえ、水の底で声を合わせて鳴いていますが、私もあなたと一緒に泣いているのですから。

     【著者の疑問】 うち遣りて=「ふと払いのけて」と校注本にありましたが、「ふと?」というのは疑問です。 「退(ど)かす」という意味ではないでしょうか?

 

      我許(ばかり)物思(おもふ)人もあらじと思(おも)へば水の下(した)にも有(あり)けり

       ―「227 わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄雲(きぐも)のちぎれ」       (訳)思い描く私の姿を、あなたは春の夕暮れの黄色い千切れ雲に見るでしょう。 

 (227)は、二十七段の「お(を)とこ、女のもとに一夜いきて、又も行(い)かずなりにければ」を踏んでいるのではないでしょうか? つまり、この一節を言いたい許(ばかり)に、 逆に二十七段を踏んだような気がします・・・・。 晶子のもとに一夜いて、又も行かなくなってしまった鉄幹・・・・。 「220 君さらば巫山(ふざ-誤植ふざん)の春のひと夜(よ)妻(づま)またの世までは忘れゐたまへ」  そう、 粟田山に一夜(実際は二夜)いて、 駆け落ちの約束をして、 お互い東京と堺に帰った二人。 その間の・・・・歌に違いありません。  つまり「黄雲のちぎれ」は、 堺の実家を離れて、 鉄幹の元に行きたい晶子自身です。   

 そして二十七という数詞・・・・、確か慈光寺の二十七段の歌がありましたよね・・・・。  これって、階段の二十七段でもあり、 『伊勢物語』の二十七段を踏んでいる、 という暗示なのでは?・・・・やっと理解出来ました。        

       ―「343 春の宵をちひさく衝(つ)きて鐘を下りぬ二十七段(だん)堂のきざはし」         (訳)春の宵に、寺の鐘を(桝江を気遣って)小さく衝き、 (鉄幹と結婚する)願いを祈って、 二十七段の堂の階段を下りました。

 『長恨歌』のところでは-  〔343 春の宵を〕は、河井酔茗を想ってのことです。 この鐘は堺市中之町の慈光寺の鐘で、晶子の五歳上の友・楠桝江がいた寺とされています。-  と述べましたが、 (343)の歌は、河井酔茗宛て晶子書簡(明治34年3月19日)に初出されたものであり、 酔茗に・・・・鉄幹との恋(駆け落ちをするという決断)を秘めて、 晶子が嘗て愛した酔茗に手紙を出したかったのではないでしょうか?  「ちひさく衝(つ)きて」とは、 桝江がいる寺なので、 寺を継ぐ運命にあり、恋とは縁のない存在の桝江に気遣ってのことでしょう。

        ―「240 みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ緋鯉のせなに梅の花ちる」                (訳)水底にくすぶって映っている黒髪の人は誰でしょう? (それは、私・晶子です。) 緋鯉の背中に梅の花びらが散っています。

 (240)は『伊勢物語』 二十七段そのままであり、 こちらの方は粟田山で鉄幹と共にいる時、二人で池の中を覗いているのではないでしょうか? ですから、 男の方の歌 「水口(みなくち)に我や見ゆらんかはづさへ水の下(した)にて諸声(もろごゑ)になく」 を踏んでいます。 「かはづさへ水の下(した)にて諸声(もろごゑ)になく」 が「緋鯉のせなに梅の花ちる」でしょう。   以上(227)と(240)(343)は、『伊勢物語』二十七段を介した三対の歌ということになります。

 

 八十一段

     むかし、左の大臣(おほいまうちぎみ)いまそがりけり。賀茂(かも)河のほとりに、六条わたりに家をいとおもしろく造(つく)りて住み給(たま)ひけり。 神無(な)月のつもごりがた、菊の花うつろひざかりなるに、紅葉(もみぢ)の千草(ちぐさ)に見ゆるお(を)り、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜ひと夜(よ)酒飲(さけの)みし遊(あそ)びて、夜(よ)あけもてゆくほどに、この殿(とのヽ)おもしろきをほむる歌(うた)よむ。 そこにありけるかたゐを(お)きな、板敷(いたじき)の下(した)にはひありきて、人にみなよませはててよめる。

      144 塩釜(しほがま)にいつか来(き)にけむ朝(あさ)なぎに釣(つり)する舟(ふね)はこゝに寄(よ)らなん

となむよみけるは。 みちの国(くに)にいきたりけるに 、 あやしくおもしろき所 〃 (ところどころ)多かりけり。 わがみかど六十余国(よこく)の中に、 塩釜(しほがま)といふ所に似(に)たるところなかりけり。 さればなむ、 かの翁(おきな)さらにこゝをめでて、 塩釜(しほがま)にいつか来(き)にけむとよめりける。

     (概要)昔、左大臣の源融(とおる)が賀茂川の畔に家を陸奥の国の塩釜の風景に似せて造った。 旧暦六月の菊の花が色褪せ、木の葉も紅葉になる美しい季節に、親王達を招いて一夜酒を飲みあかし、面白い歌を詠んだ人を褒めようということになった。 そこにいた業平が他の人に詠ませた後で詠んだ歌が・・・・・(以下は下記に続く)

      【校注本による注釈】 左の大臣(おほいまうちぎみ)=左大臣源融(とおる) -大邸宅の庭は、陸奥の国の塩釜の景を模して難波から海水を運ばせ、魚介を放ち塩焼く煙を立ちのぼらせたという。河原院として有名であった。         

      【校注本による塩釜の歌の訳?】- あの塩釜の浦に私はいったい、いつのまに来てしまったのだろう。 朝の波静かな時に釣をする舟は、この私のいるところに寄って来てほしい。

 

     塩釜(しほがま)にいつか来(き)にけむ朝(あさ)なぎに釣(つり)する舟(ふね)はこゝに寄(よ)らなん

       ―「81 このおもひ何とならむのまどひもちしその昨日(きのふ)すらさびしかりし我れ」             (訳)この想い、何としようと戸惑っていたその昨日でさえ寂しかった私(なのに、今はさらに寂しさが募ります)。

 (81)は、鉄幹と東京で暮らし始め、その受け入られない晶子の寂しい立場の今を詠んだものですが、昨日の寂しさとは、 駆け落ちの京都に独り残されたことを指しています。 さて、この歌を『伊勢物語』の八十一段、塩釜の歌を踏んでいると見た訳ですが、以下の理由によるものです。・・・・・・・・著者は、明治期の『みだれ髪』については少し自身があるですが・・・・、古典については、素人の言うことですので・・・・以下は聞き流して下さい。   ・・・・八十一段の主旨は、面白き歌を詠み合うというもので、その最後に業平が詠んだ歌が最も面白い歌でなくてはなりません。 ところが【校注訳】では、その面白さが全然なく、 普通ですよね。 ということは、この訳は違っているということです。 晶子が寂しく、更に寂しい歌だとした歌なのですから・・・・。では、どの様に訳せば良いのでしょう?

    【著者訳】 「塩釜にいつか来たい。朝凪に釣する舟はここに寄りません。」 とこう詠んだのは・・・・。 未知の国に行きたいから、 不思議で面白い所々が多いでしょう。 我が帝の(治める)六十余国の中に、塩釜という所に似た所はありません。 それだから、例の翁さらにここを慈しんで、塩釜にいつか来たい、と詠みました。     

    【著者注】「来にけむ」‐来たい。 としたのは、屋敷の庭が塩釜に模して造られているから・・・・、 既に模擬の塩釜に「来て」いるからです。 面白い歌というのは、いつか来たいと言いながら、波の立たない朝凪に舟が寄らなければ、いったい何時寄るの? という理屈ではないでしょうか? 晶子もそれを寂しく、さらに寂しい歌としてこれを踏み、八十一段に合う歌を考え出したのです。

 

 百一段

    むかし、左兵衛督(さひやうゑのかみ)なりける在原の行平(ゆきひら)といふありけり。 その人の家によき酒(さけ)ありと聞(きヽ)て、うへにありける左中弁藤原(ふぢはら)の良近(まさちか)といふをなむ、まらうどざねにて、 その日はあるじまうけしたりける。 なさけある人にて、瓶(かめ)に花をさせり。 その花のなかに、 あやしき藤(ふぢ)の花ありけり。 花のしなひ、三尺六寸ばかりなむありける。 それを題(だい)にてよむ。 よみはてがたに、 あるじのはらからなる、 あるじしたまふと聞(きヽ)て来(き)たりければ、 とらへてよませける。 もとより歌(うた)のことは知(し)らざりければ、すまひけれど、 しゐ(ひ)てよませければ、かくなん。 

      177 咲(さ)く花のしたに隠(かく)るゝ人を多(おほ)みありしにまさる藤(ふぢ)のかげかも

「などかくしもよむ」といひければ、「おほきおとゞの栄(ゑい)花の盛(さか)りにみまそがりて、藤氏のことに栄(さか)ゆるを思(おも)ひてよめる」となんいひける。 みな人(ひと)、そしらずなりにけり。 

      (概要)昔、左兵衛督の在原行平という人がいた。その家に良い酒があると聞いた殿上人の左中弁の藤原良近を接待する。 主(あるじ)は風流人で、甕に挿した藤の花房は1メートルばかりあった。 それを題にして歌を詠み、 最後に詠んだ主の弟の業平は、「咲く花の下に隠れる人の多いこと。なんとまあ、思った以上の藤の蔭だこと。」と詠み、「太政大臣藤原良房の栄華の盛りに倣って、藤原氏の栄えることを思って詠んだ。」とこう言ったので、そこにいる皆は知らん顔をした。

 

     【校注本による注釈】 おほきおとゞの栄(ゑい)花の盛(さか)り=太政大臣藤原良房の栄華の絶頂。      

     【校注本による藤の歌の訳?】 みごとに咲いている花の下に隠れている人が多いので、以前にも増してりっぱな藤の木蔭であることよ。    

     【著者注】 「すまひけれど=固辞したのだが」の意ではなく、 反語の否定であり、「もとより・・・・」から続く文章。 もとより歌(うた)のことは知(し)らざりければ、すまひけれど= 元より歌のことは知らないことは、しまいけれど。→ 元来、歌のことは知らないことはないけれど、の意。 

     【著者の疑問】 歌「ありしにまさる」=「以前にも増してりっぱな」と訳されていましたが、ある以上、つまり「思った以上の・予想以上の」の意だと思いますが・・・・??

    

      瓶(かめ)に花をさせり。 その花のなかに、 あやしき藤(ふぢ)の花ありけり。 花のしなひ、三尺六寸ばかりなむありける。 それを題(だい)にてよむ。      「咲(さ)く花のしたに隠(かく)るゝ人を多(おほ)みありしにまさる藤(ふぢ)のかげかも」

       北村透谷「古藤庵に遠寄す」『文学界3号』(明治26年)「一輪花咲けかしと、願ふ心は君の為め/薄雲月を蓋(おほ)ふなと、祈るこゝろは君の為め/吉野の山の奥深く、よろづの花に言伝(ことづて)て/君を待ちつゝ且つ咲かせむ。

      子規「瓶にさす藤の花房短かければ畳の上にとどかざりけり」(明治31年頃の日本新聞)

        ―「101 御袖ならず御髪(みぐし)のたけときこえたり七尺いづれしら藤の花」      (訳)袖の長さではなく、髪の丈の長さだと噂に聞きました。やがて七尺にもなる白藤の花房でしょうか。

 (101)の「いづれ」は、「どれ・どちら」の意ではなく、「やがて・何時か」の意。 七尺は「御髪のたけ」に掛かるのではなく、「七尺いづれしら藤の花」の「藤の花」に掛かる。 「しら藤の花」の「しら」は「白 ・ ~かしら?」 の掛詞。

 (101)は以前、北村透谷「古藤庵に遠寄す」に於いて述べましたが、「君を待ちつゝ且つ咲かせむ」を踏んで」います。  また「花房の長さ」から来る藤原良房の「寄らば、大樹の蔭あり」発想は、子規も晶子も、この『伊勢物語 百一段』から得ています。  子規は、命の短さとそれによる「大樹の蔭」になってやれないことを、「藤の花房短かければ畳の上にとどかざりけり」と詠みました・・・・。 しかしながら、・・・・現在の写生歌的俳句の躍進はいうまでもないでしょう。  晶子は子規の歌に対して、子規派に対抗する鉄幹派の気持ちをも込めています。 ・・・・多分、 晶子の真の歌の凄さ -動画のような動きのある歌や絵画の印象派のような歌-は理解されなかったでしょう。 昔も今も・・・・。


  注: 【校注本による注釈】は、全て『新日本古典文学大系17  岩波書店(1997年)』より出展しました。  岩波書店に電話して、許可を頂きました。